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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
259/534

8月25日・独軍、右旋回を決す

☆25日の仏シャロン軍


 不平不満と厭戦気分に蝕まれた仏軍は、この日も一部が僅かな行軍距離を稼ぐだけに終わります。


 ルテル在の「左翼集団」(第5軍団、第12軍団、ボヌマン騎兵師団)の内、第5軍団のみがアマーニュ(ルテルの東10キロ)へ東進し、残りはこの日一日、ルテルにて物資の補充を続けていました。

 シャロン軍本営(=仏大本営)もこの日はルテルを動かず、ナポレオン3世も本営から出ることはありませんでした。

 

 仏第1軍団は前日停止したジュニビル(ルテルの南12.5キロ)からアティニー(ジュニビルの北東16.5キロ)まで進み、エーヌ河畔のこの要地で、ようやく数日分の糧食を手に入れることが出来ました。

 第7軍団はコントウーヴから前日の目標だったヴージエに至ります。軍団騎兵師団から驃騎兵第4連隊が選ばれて南東に騎行し、グランプレの隘路(ヴージエの南東14キロ)まで進み、独軍がベルダンからアルゴンヌ山地を抜けて北上する場合を警戒し、監視体制を敷いたのです。

 マルグリット騎兵師団はモントワから北進してル・シェーヌ(ヴージエの北北東13.5キロ)に到着し、アルゴンヌ山地の林道に斥候を派出したのでした。

 

 こうして仏シャロン軍主力部隊はエーヌ川に沿ってルテルからヴージエの間に展開しますが、その最右翼となった第7軍団はまともな補給を受けられずにいたためこの日も糧食が足りず、兵士の不満が爆発寸前となります。この窮状を知ったヴージエの市長は周辺部を駆け回り、夕暮れ時に辛うじて幾分かの糧秣を軍に提供することが出来たのです。


☆25日の独マース軍及び第三軍


○騎兵第5師団


 24日午後、モルトケ参謀総長の訓令により「ロンギュヨンを経てティオンビルへ至るアルデンヌ鉄道の破壊」を命じられたマース軍本営は、騎兵第5師団に対し、「1個連隊をデュン(=シュル=ムーズ。ベルダンの北北西29キロ)を経て北方に送り、モンメディの西方において鉄道を破壊せよ」と命じたのです。

 この任務は驃騎兵第17連隊に任ぜられ、25日、デュンを経てムゼ(デュンの北北東9キロ)に至ると、夜になってからラムイイ(ムゼの北7キロ)付近のシェール支流に架かる木造鉄道橋に火を点けて炎上させ落としたのです。

 この日、他の騎兵第5師団諸連隊はアルゴンヌの森を抜けた中心地サント=ムヌーへ入り、前哨部隊をドマルタン=ス=アンス(サント=ムヌーの北西9キロ)へ派出するのでした。


○騎兵第12師団


 ザクセン騎兵師団は、騎兵第5師団の後方から同じシャロンへ至る大街道を進んでクレルモン(=アン=アルゴンヌ。サント=ムヌーの東13キロ)に至り、前哨をヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ。クレルモンの北14キロ)付近に派出したのです。

 この日、ザクセンの騎兵たちは付近のアルゴンヌ山地に斥候を出しましたが、このヴァレンヌから北西17キロのグランプレに、仏第7軍団の驃騎兵第4連隊がいることに気付くことはありませんでした。


○騎兵第6師団


 前日に前衛がサント=ムヌーの南でアント河畔に達したこの師団は、フーコークール(=シュル=タバス)より北上してアント川上流へ向かい、正午には本隊がル・ヴィエイユ=ダンピエール(サント=ムヌーの南12キロ)付近で家屋を接収し宿営の準備をします。この時、騎兵第14旅団の前衛中隊より「エポンス(ダンピエールの西4キロ)の西に敵の護国軍1個大隊を発見」との急報が入るのです。


 この仏護国軍の大隊は、ヴィトリー(=ル=フランソワ)よりサント=ムヌーへ向かい、サント=ムヌーから鉄道でパリへ輸送される予定だった「マルヌ県護国軍第4大隊」でした。彼らはこの時点でもなおサント=ムヌーが仏軍支配下にあるものと信じていたのです。

 普騎兵第14旅団長の伯爵カール・ヘルマン・フォン・デア・グレーベン大佐(去る16日の会戦最後の騎兵突撃で負傷したディーペンブロイック=グリューター少将に代わって昇進)は、麾下の胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊と槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊を率いるとエポンスを経て北方のブロー(=サン=レミ。エポンスの北北東6キロ)へと向かい、敵の先回りをしようと試みます。師団の騎砲兵中隊はダンピエールとエポンスの中間で急遽砲列を敷き、仏護国軍の行軍列に対し砲撃を加えるのでした。

 「敵歩兵現る」の報は師団本営にも伝えられ、騎兵第15旅団もシヴリー=アント(ダンピエールの北北西2.5キロ)へ集合し旅団長のグスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐(16日の会戦終了後フォン・シュミット大佐と交代)は突撃準備の完了した諸中隊を率いて敵を追いました。


 こうして突然砲撃を浴び動揺した仏護国軍大隊は、直後に普軍槍騎兵の挟撃を喰らい、抵抗もままならず瞬く間に蹂躙され負傷者と捕虜を出し、生き残りも四散してしまいました。そして逃げた多くの兵士も、ブロー付近で先回りした普軍胸甲騎兵連隊により捕虜となりました。

 仏護国軍マルヌ県第4大隊はこの砲撃と襲撃により、士官4名・下士官兵18名が負傷、士官27名・下士官兵およそ千名の捕虜を出すのです。

 普軍騎兵は胸甲騎兵第6連隊長の男爵フォン・フリーゼン少佐が大腿部大動脈に銃弾を受け瀕死の重傷を負い(翌日死去)、他に戦死2名・負傷3名を出すのでした。


 この後騎兵第6師団諸隊は午後1時30分ダンピエールに引き上げ、西方のドマルタン=ヴァリモン(ダンピエールの西7.5キロ)付近まで前哨を派出しました。

 仏護国軍の捕虜約千名は護送兵により後送されますが、この日午後遅くパッサヴァン(=アン=アルゴンヌ。サント=ムヌーの南東11キロ)付近で一部が逃走を試み、それが全体に波及して大騒動となります。

 慌てた護送兵の射撃により多くが負傷する中、一部は逃走に成功しますが、この頃付近に到着した普近衛軍団の一部が護送兵に協力して逃亡した捕虜を狩り、護国軍兵士の多くがこの地で殺傷されてしまうのでした。


 この事件は、独側では「ほとんど民間人で訓練不足の護国軍兵士が無茶な逃亡を図ったために生じた悲劇」、として片付けられましたが、当然ながら仏側では「残虐な独軍がパッサヴァンで無抵抗の民間人多数を虐殺」という尾ヒレが付いて広まり、これが熱し易いパリ市民の耳に届くや、例の「憎悪と復讐の連鎖」の一部となって仏人の胸に深く刻まれたのです。

挿絵(By みてみん)

パッサヴァンの虐殺(仏のプロパガンダ画)


*他のマース軍部隊


○近衛騎兵師団

 ル・シュマン(パッサヴァンの南西3キロ)で野営

○近衛軍団

 トリオークール(現ソイユ=ダルゴンヌ東側。パッサヴァンの南東6.5キロ)周辺で宿営 

○第12軍団

・第23師団 ドンバル=アン=アルゴンヌ付近で宿営

・第24師団 ジュヴェクール(ドンバルの南8キロ)付近で宿営

・第48旅団 ベルダン要塞監視で残留したこの旅団はこの日、ムーズを渡河して西岸に至り、要塞を西側から監視しました。

○第4軍団

・本隊 ラエエークール(バール=ル=デュクの北西16.5キロ)周辺で宿営

・前衛 ソメイユ(ラエエークールの西5キロ)付近


 この日、マース軍本営はフルリー(現ニュベクール。パッサンヴァンの東南東12.5キロ)に前進しました。


挿絵(By みてみん)

 普軍の野営


 第三軍はこの25日、右翼北側をマース軍に連絡しつつ概ね北西方向へ進撃し続けます。


○騎兵第4師団


 本隊はこの日午後にはヴィトリー(=ル=フランソワ)郊外に到着します。

 先述通りパッサンヴァンで悲劇的結末を迎え、街の中心地にある城塞や市街周辺を守備していたマルヌ県護国軍第4大隊は午前中に市街を去り、城塞の守備隊としては300名の護国軍兵士が残留していました。

 師団長メクレンブルク=シュヴェリーン親王中将は開城を求めて城塞に軍使を送り、「開城を拒絶すれば直ちに要塞を攻撃する」と脅すと、城塞は白旗を掲げたのです。

 城塞には旧式小銃400挺と火門に大釘を打ち込まれて使用不能とされた旧式の大型青銅要塞砲が2門あるのみでした。

 騎兵本隊は市街を抜けると街道をシャロンに向かい、この日夕刻までにラ・ショセ=シュル=マルヌ(ヴィトリーの北北西13キロ)とその北西約4キロのポニーに至りました。


 フォン・クロッケ少佐の指揮する師団前衛、「ライン」竜騎兵の2個中隊はこの日も師団の遙か遠方で行動し、前日捜索したシャロン演習場のムールムロン地区に警戒の1個小隊を残留するとランス目指して進みます。少佐はランスの郊外南東6キロのサン=レオナールに到達すると付近に野営しました。


*騎兵第4師団以外の第三軍前衛部隊


○W騎兵旅団

 サン=マルタン(シャロン市街の東12キロ)に到達し宿営

○B槍騎兵旅団

 ル・フレンヌ(シャロン市街の東南東21.5キロ)に到達し野営

○騎兵第2師団

 シャヴァンジュ(ヴィトリーの南24キロ)に到達し野営


*第三軍第一線部隊


○B第2軍団

・本隊 シャルモン(ヴィトリーの北東26キロ)付近で宿営

・前衛 ポセエス(シャルモンの北西5キロ)

○第5軍団

・本隊 エイツ=ル=モリュプト(ヴィトリーの東北東18キロ)及びエイツ=レヴック(ヴィトリーの東北東13キロ)周辺で宿営

・前衛 ドゥセ(ヴィトリーの北東14.5キロ)

○第11軍団

・本隊 ペルト(サン=ディジエの西9キロ)及びティエブルモン=ファレモン(サン=ディジエの西北西16.5キロ)周辺で宿営

・前衛 夕刻にヴィトリー市街へ入城し、騎兵第4師団後衛と交代して市街を占領

○第6軍団

・本隊 ヴァッシー(サン=ディジエの南15キロ)周辺で宿営

・前衛 モンティエ=アン=デ(ヴァッシーの西13キロ)


*第三軍第二線部隊


○W師団

 セルメーズ=レ=バン(サン=ディジエの北16.5キロ)に到達し宿営

○B第1軍団

 バール=ル=デュクで宿営


 この25日、第三軍本営はリニー=アン=バロワに留まり、大本営もバール=ル=デュクに在り続けました。


 8月25日夕刻における独仏両軍の位置関係を見れば、西へ向かって急進する独軍に対し、その右翼北側およそ2日の行軍距離(40キロ前後)に北東へ進む仏軍、という「奇妙なすれ違い」の状況にありました。この北東へ緩慢に動いて行く仏シャロン軍の行動は、この25日夕刻の段階までは独軍側には察知出来ていません。


 「ヴルトの戦い」で敗れたマクマオン軍が逃げ足早くシャロンまで退却し、その間独第三軍は敵との接触に失敗、ここまで会敵することはありませんでした。

 普大本営にとって、好き勝手に書き立てる外国特派員による新聞記事やパリ発の新聞により敵の動きを読むことが当時最高のインテリジェンスと言え、これらの報道から「マクマオン将軍はシャロンに至り新軍を創設」との情報を得た後、23日には「マクマオン軍はシャロンを退去した」との報道を騎兵の偵察で追認するのです。

 先述通り独軍本営の大多数の将星や幕僚が信じたマクマオン将軍率いるシャロン軍の行き先は「パリ」であり、実際に前日24日の午後普大本営に届いた情報では、「敵はランスに向かって後退した」とのことで、「メッスのバゼーヌ軍と合流する」などとパリの新聞が騒ぐ軍事的に非常識な報道とは真逆の「西へ」進んでいることが分かり、大本営と第三軍のお歴々は「現在のマース軍と第三軍の西進を変更する理由はない」として24日夕刻、第三軍麾下部隊に対し「26日の到達予定を25日に達成」するよう命じるのですが、大本営は同時にバール=ル=デュクにおいて次のような命令を起草するのです。


「第三・マースの両軍は、28日にシュイップ(シャロン市街の北東23キロ)~シャロン~クーリュ(シャロン市街の南3.5キロ)の線に達し、その後ランス方面(北西)へ進むか、パリ(真西)へ直進するかは状況に応じて決定する。但しマース軍騎兵は右翼側を重点として偵察し、更にアルデンヌ鉄道沿線の諸要塞、ベルギー国境とルテル、ランス方面をも監視対象とせよ」


 しかし、この命令(第三軍とマース軍をランス正面に集中するという主旨)が麾下諸軍団に達することはありませんでした。

 24日の深夜11時までに大本営に集まった情報の検討によって、次第に「変化」が現れたからでした。


 まずは騎兵第4師団からの23日付報告の検討により、「仏軍はシャロンを発した」ことを再確認、24日に押収したパリ発の新聞等諸報道により「マクマオン将軍が15万を率いてランスにいる」が判明し、これはまた24日の夕刻、ベルリンから急報されたパリ発ロンドン経由の情報で裏付けられました。

 この急報では「マクマオン軍はランス付近に集合し、軍中にはナポレオン3世皇帝と皇子もあり。マクマオンはバゼーヌとの合同を画するものなり」とあったのです。


 この「マクマオンはバゼーヌとの合同を画する」とは、確かに各種報道が書き立てていたものですが、メッス攻囲軍のカール王子が手に入れた仏高級士官の書簡にも「バゼーヌを救いにマクマオンが来る」と断言的に書かれていたこともあって、頻繁に「マクマオンとバゼーヌの合流」を耳にしたモルトケを始めとする普大本営の首脳もこの夜、「そんなばかなことあるわけがない」から「まさかそんなことが」となり、次第に「もしかしたら」の疑惑となっていったのです。


 これは24日日中、リニー=アン=バロワで開催された大本営と第三軍の首脳会議で独りフォン・ポドビールスキー参謀次長がその危険性を警告していたものですが、モルトケの目から見れば、仏軍のランスよりメッスへの直進はマース軍やメッス攻囲軍との正面衝突となり既に不可能、ベルギー国境付近・アルデンヌ鉄道沿いへの移動も南側から攻撃される危険性が大きく、やはり軍事的には冒険に過ぎるのです。

 とは言え、仏の政治事情を勘案すればポドビールスキー将軍の「洞察」もまたあり得るのでは、とモルトケも考えを改めます。

 これにより普大本営は、「万が一、敵がこの冒険(ベルギー国境方面への移動)に出た場合を憂慮し、これに対応するため、一時パリに直進する行軍を中断する」ことに決するのでした。


 しかし、鬱蒼としたアルゴンヌの山中を横断し、全く計画の範囲外にあったアルデンヌ地方へ軍を進めることは、その兵站計画を始めから練り直す必要を生じ、地図を始めとする情報と行軍計画も大至急用意しなくてはならないことも意味したのです。

 既にパリへ向かう計画によって、25万の兵員や馬匹の行軍を保障する兵站物資は「西」へ向かっており、物資の流れを西から北へ変えることはまた、後方連絡線の大混乱を予測させるのです。


 これに対しモルトケの決断は実に素早く潔いものでした。

 モルトケは、軍の方向転換に伴う数々の困難と不利を僅かな時間で検討した末に、「正確な敵の情報を手に入れた後に本格的な行動に移行出来るよう」まずは「ランスに対面するため軍の行軍方向を北西に転向し、同時に軍右翼北側の情報を最大限得るための計画」を一晩で立案して見せたのでした。


 モルトケによる、メッス攻囲と同時にシャロンへ向かうため軍を二分した8月18日深夜の決断と作戦立案も実に素早く、「大会戦直後の僅か数時間で一大作戦案を作り上げるとは」と各国の秀才参謀たちを驚愕させましたが、この「シャロンにおける北への90度大旋回」もまた軍事史に残る偉業と称えられることとなるのです。


 翌25日午前11時(即ち大本営の方針変更から僅か半日後)、在バール=ル=デュクの普大本営はモルトケの名で次の命令を発するのでした。


「諸情報によれば敵はシャロンを退去しランスに至ったことはもはや確実である。ザクセン王太子の軍(マース軍)は明日(26日)、第12軍団を以てヴィエンヌ=ル=シャトー(サント=ムヌーの北11キロ)に進み、その前衛はオートリー(ヴィエンヌの北北西9キロ)及びセルヴォン(=メルジクール。ヴィエンヌの北西4.5キロ)に前進せよ。同じく近衛軍団はサント=ムヌーへ進み、その前衛はヴィエンヌ=ラ=ヴィル(サント=ムヌーの北北西8.5キロ)及びベルジュー(サント=ムヌーの北西10.5キロ)に前進せよ。同じく第4軍団はヴィレ=アン=アルゴンヌ(サント=ムヌーの南南東8.5キロ)へ進み、その前衛はドマルタン=ヴァリモン(ヴィレの西南西12キロ)に前進せよ。軍麾下の騎兵は軍正面(西)及び右翼(北)の捜索のため、遠距離まで進出し、その目標としてヴージエ(サント=ムヌーの北北西37キロ)及びビュザンシー(サント=ムヌーの北北東37キロ)まで到達せよ」

「皇太子の第三軍は明日(26日)、その諸軍団先頭をジブリ=アン=アルゴンヌ(サント=ムヌーの南15.5キロ)からシャンジー(ヴィトリーの北東8.5キロ。シャンジー~ジブリ間は25キロ)の線上に到達せよ。なお、左翼中央部隊によりヴィトリーの城塞を監視すること(注・この命令直後に前述通り城塞は陥落)」

「状況に大いなる変化がない場合は27日を以て軍の休養日とする。休養日が得られた場合はこの日に輜重縦列を各軍団まで招致し、糧秣を補充して今後困難なくシャンパーニュの荒野を通過出来るように備えよ」

「大本営は明日(26日)サント=ムヌーに前進する。但し明日午前11時までの報告はバール=ル=デュクまで送付せよ」


 こうして翌26日を期して独軍は少々右翼側に転移し、その方向において翌日27日、十分な休養と補給を試みようとしました。

 この行軍を円滑に行うための補足命令が各部隊個々に送付され、特に第三軍の右翼部隊(B第2、B第1軍団)の行軍がマース軍左翼(普第4軍団)と交錯しないための綿密な行軍予定が発送されるのでした。モルトケが特に強調したマース軍の騎兵4個師団に対しては別途直接に命令が下り、騎兵たちはアルゴンヌの深い森に挑むため、25日中に勇躍先行したのです。

 大本営はこの命令を送致した後、詳細な敵の行軍状況を得るまで、じっと「待ち」の態勢となります。


 25日夕刻。在バール=ル=デュクの大本営に待望の情報が続々と到着します。

 これによると「仏シャロン軍はヴージエに向かい行軍中」とのことであり、多くの新聞の内、ベルギーの一新聞記事には、「仏軍の将官は同僚の苦境を座視して待つことなし」とあり、「但しこれは国民からの憎悪を避けるためである」と皮肉を交えマクマオン将軍の苦悩を伝えていたのです。

 また、別のパリ市内発行の新聞では、下院における議員の演説を紹介し、そのどれもが「メッスのバゼーヌを助けぬことは仏人民の屈辱となる」と異口同音に熱弁を奮っていました。

 決定的だったのはロンドン発の電報で、8月23日発行のパリ発行紙面を転載したものでした。

「マクマオンは、軍がパリへの行軍を放棄すればそれは仏国の安寧を害するものであるにも係らず、突如バゼーヌを救援することに決した」「シャロン軍は全てランスを発したが、モンメディからの情報によれば、未だ仏軍は同地に到着していない(注・モンメディに達していないのはバゼーヌ軍のこと)」


 これらは全て無責任に書き捨てる真相不明の新聞記事に過ぎませんが、ポドビールスキー将軍が主張したように仏人民の力を思えば、政治が軍事常識を「捻じ曲げる」ことも大いにあり得たのです。


 モルトケとポドビールスキーはここに意見を一致、25日の夜更け、ヴィルヘルム国王に面会を求めると「現状を考察すればマース軍とバイエルン軍を右翼側へ転向すべきと考える」と奏上し、作戦実施の許可を得たのでした。

 普参謀本部は25日深夜、この作戦実施のための準備と計画作成に奔走、もしヴージエ及びビュザンシーに向かった騎兵斥候により仏軍がメッスの方向へ移動中であることが判明した場合、26日にも5個(第12、近衛、第4、B第2、B第1)軍団を北進させるべく、作業を急いだのでした。


 この「計画の大変更」により最も大きな影響を被るのはマース軍となります。

 モルトケは自身が手に入れた情報と、その情報から為した判断を全てアルベルト王子の本営へ通報しました。アルベルト王子は自軍の騎兵4個師団による情報が手に入り次第、直ちにモルトケが命じる「ダンヴィエ行」を実行出来るよう、本営の幕僚に実施計画の作成を急がせるのでした。


 25日午後11時。モルトケの名で次の大本営命令が発せられます。


「只今手に入れた情報によれば、マクマオンはメッス籠城中のバゼーヌ軍を救援すべく決心したことが確定的となった。マクマオン軍は本月23日以来ランスを発して行軍中であり、その先頭は本日(25日)ヴージエに到着したものと思われる」

「ザクセン王太子のマース軍は右翼側に集合し、第12軍団は直接ヴァレンヌに向かい、近衛軍団と第4軍団はヴェルダン~ヴァレンヌ街道に達することを要する」

「B第1及び第2軍団はこのマース軍の行軍に随伴すること。但し両軍団の発進はザクセン王太子が手に入れる騎兵の報告如何によるが、直ちに出発の準備をするように」

「近衛軍団と第4軍団については、本日(午前11時に)与えた命令通り明日出立する前に炊事を為し、その出発は新たな命令を待って行うよう、直接に命令する」


 つまり、B軍2個軍団と近衛、第4の2個軍団は大本営より直接の命令により動くこととされたのです。

 この命令の写しは大本営により第三軍本営にも送付され、また第三軍に対しては「B軍以外の軍団は午前11時に命じた通りの行軍を実施せよ」と重ねて命じ、追って「サント=ムヌーの方向に全軍団が進むこともある」ので注意するよう訓示するのでした。


 ヴィルヘルム国王は今後の行軍を決定付ける情報を待つため、大本営を26日の午後1時までバール=ル=デュクに留めるよう命じるのでした。


挿絵(By みてみん)

 普軍の太鼓手


☆モルトケ参謀総長の仏軍迎撃計画


 マクマオン将軍が23日にランスを発し、25日にヴージエ付近でエーヌ川に達しているとすれば(正にその通りでしたが)、その後仏軍が順調に行軍してしまうと独軍はムーズ川西岸側でこれを迎え撃つには少々時間的余裕が無くなります。

 しかし、先回りしてムーズ東岸で迎え撃つようにすれば、およそ3日間の「無理のない行軍」で独軍は「5個軍団」の規模で仏軍の「4個軍団」と会戦を行うことが出来るのです。

 つまりは現在(25日)、マース軍で最も遠い左翼側(第4軍団)からムーズ川の東側にある要衝ダンヴィエ(ベルダンの北20キロ)までは、ヴージエからダンヴィエの距離とほぼ同じ程度(50キロ前後)であり、片や仏軍はアルゴンヌの山地を越えねばならないのに比べ、独マース軍は整った街道をムーズに沿って北上すれば良いのでこの「レース」は独軍有利と言えるのです。


 モルトケは25日の午後、この行軍を基本として独軍の一部を右へ旋回させる計画をマース軍の3個(第12、近衛、第4)軍団と第三軍右翼の2個(B第1、B第2)軍団、そしてメッス攻囲軍から西部予備の2個(第3、第9)軍団を使用して短時間で策定するのです。


 この計画通りに進行すれば、独軍は15万の歩兵を8月28日までにダンヴィエ周辺に集中させることが出来、マクマオン軍と同程度の戦力がダンヴィエに到着すれば、仏軍がその時点でムーズ川付近に居れば正面を塞ぎ、ロンギュヨン(ダンヴィエの北東18キロ)への突破に成功していてもその側面を攻撃可能となるのです。

 更に最も敵に近い左翼(北西)を行くザクセン軍団がムーズ川の西岸で仏軍を拘束することが出来たなら、他の第三軍諸軍団が追って戦場に駆け付け、マクマオン軍の完全な撃破も夢ではなくなり、メッス攻囲軍から参加する第3、第9両軍団の手を借りるまでもなくなるのです。

 この計画は、独軍のこの先数日間における行軍の基礎計画となりました。


挿絵(By みてみん)

 モルトケの北進作戦原案


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