8月24日・ベルダン要塞を越えて
☆8月24日の独マース軍及び第三軍
マース軍は24日、大本営から命じられていたベルダン要塞に対する奇襲を企てます。
去る18日以来、ベルダン要塞は手柄を上げたい独軍騎兵斥候格好の「目標」となっており、「どれだけ要塞の門に近付けたのか」を競うかのような子供じみた状況にもありました。
彼ら命知らずの「冒険者」たちの報告によれば、要塞は「希少な守備兵により保護されているが、要塞自体は非常に堅牢」であり「攻城部隊なしで突撃し肉薄するのは困難」、と目されるのです。
なんとザクセン王国の親王でヨハン国王の三男(次男は既に死去)ゲオルグ王子(第12軍団長に任じられたばかりです)も23日午後に要塞間近まで進み出て観察し、斥候達と同様の結論を得ました。ゲオルグ王子は同時に要塞攻撃に必須となる砲兵陣地はベルリュプト(=アン=ヴェルデュノワ。ベルダンの南東4.5キロ)西側の高地(1キロ北西)が最適であるとの結論も得たのです。
24日午前10時。ベルダン要塞を迂回し、歩兵部隊に先駆けてムーズを渡河した騎兵2個師団のうち、騎兵第5師団はエスヌ(=アン=アルゴンヌ。ベルダン北西13.5キロ)で、騎兵第12師団はニキエヴィル(=ブレルクール。ベルダン南西9.5キロ)で、それぞれベルダンとシャンパーニュ地方を結ぶ街道を封鎖しました。更にヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ。エスヌの西北西13キロ)方面やクレルモン(=アン=アルゴンヌ。ニキエヴィルの西15キロ)方面に前哨を置いて念を入れます。
同時に第12「ザクセン王国」軍団本隊も要塞へ接近し、第23「ザクセン第1」師団はエイから、第24「ザクセン第2」師団と軍団砲兵はオディオモンからそれぞれ要塞に向けて前進、第24師団前衛はベルリュプトを越えてムーズ河畔へ接近したのです。
第23師団の前衛(フュージリア第108連隊、ライター騎兵第1連隊の1個中隊、第23師団砲兵隊)は男爵クレメンス・ハインリッヒ・ロタール・フォン・ハウゼン大佐が率いて午前10時にエイからベルダン北方近郊の森林縁まで前進し、その先鋒となったフォン・レーオンハルディ中佐率いる第108連隊第1大隊はベルダン要塞北の市街地まで侵入しましたが敵影を見ず、中佐は大胆にも要塞の城壁に突進し、するとここで要塞の守備兵も気付いて猛烈な銃撃戦となるのです。後方から同連隊の第2大隊も駆け付けて、こちらは要塞の東側から援護射撃を行いました。前衛の残りは要塞の東側高地上に展開し、師団砲兵の4個(軽砲第1,2、重砲第1,2)中隊は砲列を敷き、攻撃命令を待ちます。
また、ライター騎兵第1連隊の残り3個中隊から1個中隊が派出され、ブラ(=シュル=ムーズ)からムーズ川を渡り要塞をムーズ西岸の北側から監視し始めました。師団前衛を出した第46旅団の残余部隊はハウゼン支隊の東側で、それ以外の師団配下部隊はエイ付近でそれぞれ待機しました。
同時刻、第24師団と軍団砲兵隊はオディオモンからベルリュプト高地へ前進し、師団砲兵のうち重砲2個(第3,4)中隊と軍団砲兵隊(騎砲兵第2、軽砲第5,6、重砲第5,6,7,8の計7個中隊)は午前10時、ベルリュプト高地より要塞に砲撃を開始しました。前夜から近郊の森に布陣してベルリュプト高地に砲兵陣地を準備した師団前衛は、高地とムーズ河畔の間に布陣して要塞からの攻撃に備えます。
要塞の仏軍はザクセン砲兵に対し激しく応戦・応射しますが、要塞から釣られて出ることはありません。要塞から僅か1,200m強まで接近していた第23師団前衛に対しても銃砲火が激しく降り注ぎましたが、いずれも損害は大きくありませんでした。
午前11時直前、第12軍団長のゲオルグ王子は、近衛ライター騎兵連隊から本営副官として出向している高名なザクセン軍人貴族家の末子、フォン・シンプ中尉を軍使として要塞に送り出します。
シンプ中尉は独り白旗を掲げ要塞正門へ堂々と歩いて行きましたが、興奮した要塞の門兵から銃撃を浴びてしまいました。幸いにも中尉に弾は当たらず、怯まずに要塞へ「軍使である。開門願う」と呼び掛け続け、漸く城門が開いて中尉は要塞内へ招き入れられました。
シンプ中尉は仏軍の要塞司令に面会を求め、許されて司令に対面した中尉は即刻降伏するよう勧告しますが、司令は即座に拒否、開城を断固拒絶する回答を認め中尉に渡すのでした。
それ以前、要塞司令とシンプ中尉の面談中にも係わらず要塞からの銃撃が突如再開され、ザクセン軍団側もこれに応射しました。しかし、ゲオルグ王子はシンプ中尉が帰還すると砲撃を中止させ、第23師団前衛に対しても、城壁から離れ撤退するように命じるのでした。
元より、行軍の途中で本格要塞を「行き掛けの駄賃」のように略取することに対し「乗り気」でなかったと思われる王子は、「ベルダン要塞は堅牢で司令も開城を断固拒絶した」ので、野戦軍だけで攻略することなど不可能と断じ、大本営が「おまけ」のように命じていた「義務」は果たした、とするのでした。
こうして第12軍団本営は「ベルダン要塞の側方を迂回して通過し西へ向かう」よう麾下に命じ、正午、要塞を攻撃した諸隊は守備隊からの猛烈な銃砲撃下を撤退し、西への行軍を再開しました。
○第23師団
ブラでムーズを渡河し、対岸のシャルニー(=シュル=ムーズ)周辺で野営しました。
○第24師団
ベルダン要塞の監視を続行するため、第48旅団にライター騎兵第2連隊と軽砲第3中隊を付け、これを将軍に昇進した直後の第48旅団長ユリウス・カール・アドルフ・フォン・シュルツ少将に預けてベルリュプト高地に残留し、その他師団の残りは軍団砲兵隊と共にムーズの上流(南)デュー(=シュル=ムーズ)まで進むとムーズを渡河し、その対岸(マース軍本営周辺。後述)で野営しました。
○騎兵第12師団
ニキエヴィル(=ブレルクール)で停止し、西方を警戒したまま野営します。
○騎兵第5師団
要塞攻撃が失敗に終わったことを告げられた後、午後になってからエスヌより前進を再開し、夕刻にはドンバル(=アン=アルゴンヌ。ベルダンの西14キロ)に到達し野営に入りました。
この日ベルダン要塞攻撃において第12軍団は、士官1名・下士官兵19名・馬匹5頭を失います(仏軍の損害は不詳)。シュルツ支隊は数日間要塞を監視した後、後備部隊に監視を引き継ぎ本隊に復帰しています。
ベルダン要塞をザクセン軍団が砲撃していた頃、マース軍の他の部隊は定められた行程通り前進を開始しました。
○騎兵第6師団
フーコークール(=シュル=タバス。サント=ムヌーの南東18キロ)へ進み、その前哨は長駆アルゴンヌの森南部を越えてアント河畔(アルゴンヌの森西側を流れるエーヌ川支流)にまで達します。
○近衛騎兵師団
騎兵第6師団の南側、ヴォブクール(フーコークールの南7キロ)とシャルドーニュ(バール=ル=デュクの北北西6キロ)の間に進みました。
○近衛軍団
近衛騎兵師団の東側、ピエルフィット(=シュル=エール。サン=ミエルの西15.5キロ)とその北ショーモン=シュル=エール(サン=ミエルの西北西21キロ)でエール河畔に到達します。
○第4軍団
ロヌ(現・ライヴァル。ピエルフィットの南西5.5キロ)に達し、前衛は更にジェニクール・ス・コンデ(ライヴァルの西8キロ)でシェ川(オルネン川支流)河畔へ進み、その周辺で野営しました。
この日、アルベルト・ザクセン王太子のマース軍本営はデュー=シュル=ムーズのムーズ対(西)岸、レ・モントエロンの城館(デューの南西1キロ)に置かれました。
独第三軍の騎兵たちは24日、命令通り仏シャロン軍を探すため更に西へ進んでマルヌ川流域周辺を偵察します。
騎兵部隊の東側では第三軍の第一線部隊が続行して西へ進み、大本営が命じた26日までに到達すべき目標線に少しでも早く到達しようと努めました。
○騎兵第4師団
サン=ディジエの西17~24キロ、ラルジクール及びノロワ付近でマルヌを渡河し、本隊はアルジリエール=ヌーヴィル(ヴィトリーの南9キロ)、前衛はシャトルロー=サン=ルヴァン(ヴィトリーの南南西6キロ)、右翼(北)を行く別動支隊はマルヌ東岸を先行してポニー(シャロン南東14キロ)に達しました。
※この師団に属し、独軍の最先鋒を自他共に認める竜騎兵第5連隊の前衛は早朝、フォン・クロッケ少佐が率いてクルティゾル(シャロンの東11.5キロ)を発ち、午前中シャロン市内に侵入し、更に半個中隊からなる斥候隊は一気にシャロン演習場に対し強行偵察を試みたのです。
しかし、演習場(ムールムロン地区)では仏兵を見ず、既に野営地はもぬけの殻となっていたのでした。
シャロン演習場の大倉庫群は、シャロン軍の後衛が独軍接近を前にして大部分を破壊し焼却し去っていましたが、勇敢な「ライン」竜騎兵たちはそれでも、大量の糧秣、天幕類1,000張、重砲の砲身若干、その他大量の資材を発見するのでした。
こうして仏シャロン軍が全てシャロン地方から去ったことが、独軍に知られることとなるのです。
普軍の竜騎兵
○B第2軍団
・本隊 バール=ル=デュク及びランモン(バール=ル=デュクの北西11キロ)
・槍騎兵旅団 ルヴィニー(=シュル=オルネン。ランモンの西4キロ)の北側
※この第三軍最右翼(北側)となった軍団は、常にマース軍配下の普第4軍団と連絡を取りつつ西進しています。
○第5軍団とW師団
ソー川に沿ってその下流(北西側)へ進みます。
・第5軍団 ロベール=エスパーニュ(サン=ディジエの北北東13.5キロ)及びクヴォンジュ(ロベールの北3キロ)
・W師団 ソドリュプト(サン=ディジエの北東11キロ)
・W騎兵旅団 シュミノン(サン=ディジエの北北西11.5キロ)
○第11軍団
・本隊 サン=ディジエ市街及びアンセルヴィル(サン=ディジエの東5キロ)
・前衛 アリニクール(サン=ディジエの西6キロ)
○B第1軍団
リニー(=アン=バロワ)からトロンヴィル(=アン=バロワ。リニーの北西5キロ)へ移動しました。
○第6軍団
トゥール要塞攻撃のゴルドン中将支隊以外はジョインヴィレ(サン=ディジエの南南東26キロ)に進みました。
○騎兵第2師団
ヴァッシー及びドゥルヴァン(=ル=シャトー。ヴァッシーの南南西14キロ)に達します。
なお、この日(24日)今後仏全土で発生する悲劇の「鳴動」とも言える事件が発生しています。
普第11軍団に属する驃騎兵第14連隊の一中隊がヴァッシーよりエクラロン(=ブロークール=サント=リヴィエール。サン=ディジエの南西8キロ)目指し前進中、ポン・ヴァラン(ヴァッシーの北西郊外)の小部落において仏護国軍兵士に銃撃され、若干の死傷者を出します。これに怒った中隊長が付近に潜む護国軍兵士を駆り出して数名を射殺、数名を捕虜として連行しました。
この手の「事件」は開戦以来、これまでにもありましたが、この8月中旬以降、戦場周辺や占領地域で連鎖的に広がって行くのです。
独軍に捕らえられる仏護国軍兵士
仏の護国軍(ギャルド・ナシオナール・モビール。直訳すれば「機動国家衛兵」で、現フランス共和国・第4の軍隊「国家憲兵隊」内の「機動憲兵隊」にその伝承が見られるそうです)は殆ど訓練らしい訓練を受けていない「郷土民兵」で、徴兵の一次検査ではねられた人間がほとんどでした(フランスの軍備・一を参照)。
彼らは68年のニール元帥による軍制改革で誕生した組織で、18世紀の革命時代にパリ市民の熱狂から生まれたと言ってもよい「国民衛兵(ラ・ギャルド・ナシオナール)」の第二帝政版でしたが、実態は「旧式銃を持った民間人」に過ぎません。
独の公式戦史は「第三軍が通過しようとしていたマルヌ県では、住民が独軍に対し甚だしい敵意を抱いており、これは仏政府がミニエー銃(傑作前装式ライフル銃で1850年代の仏軍正式小銃)やタバティエール銃(前装式ライフル銃を改造し後装式としたもの)を配布し、護国軍兵士ばかりでなく民間人も独正規軍に対し公然と抵抗するように仕向けたためであり、独軍は武器を押収するため度々武力を用いなければならなかった」「このような感情に訴える施策は、双方の憎悪を高めるばかりで戦争に付き物の惨劇を増加するに過ぎず、独軍の整然たる作戦には何ら影響を与えることはなかった」と吐き捨てるような物言いをしています。
実際この後、後世の「レジスタンス運動」を連想させるかのような(護国軍兵士を含む)民間人による独軍への攻撃が試みられ、対する独軍は次第に情け容赦のない多くの「暴力」を民間人に対して執行するようになって行くのです。
近代戦争が生み出した最も醜い「憎悪と殺戮の連鎖」の原点がここにあり、これは恐るべき20世紀の大戦への布石(国家間の憎悪)のひとつともなるのでした。
1870年の仏護国軍兵士
8月24日午前。在リニー=アン=バロワの第三軍本営は、前衛の騎兵第4師団諸部隊が得た情報により、仏シャロン軍がシャロン大演習場から退去し、ランス方面へと後退したことを知りました。
既に前日の23日、在コメルシーの普大本営では、ナポレオン3世はシャロンにいた仏軍を直率してランスに至った、との情報を得ていました。
また、第二軍カール王子の本営からも、押収したメッスに包囲された仏軍のある高級指揮官の書簡が送られ、それによれば、「遠からずシャロン軍によりライン軍(メッスのバゼーヌ軍)は救援されるだろう」とのことだったのです。
同23日、モルトケ参謀総長はこれらの情報をマース軍本営に送付し、「ランスを監視するだけでなく、ランスよりロンギュヨンを経てティオンヴィルに至る鉄道も重要であるので、これを数ヶ所で破壊することは有意義となる」との書簡を付託するのでした。モルトケは同時に第三軍本営に対しても、「騎兵を活用して敵の現況を正確に探知すべきこと」や「後方第二線となっている第6軍団を左翼(南)側第一線に進める」ことを訓示するのです。
翌24日。普大本営はコメルシーからバール=ル=デュクへ移動します。その途上のリニー=アン=バロワにおいて同地在の第三軍本営に立ち寄った大本営の首脳陣は、皇太子ら第三軍の首脳陣と目下の状況を検討するための会議を催しました。
この席上、参謀本部次長のフォン・ポドビールスキー中将は、「ランスのナポレオン3世直率軍が、バゼーヌ軍を救援するためランスより前進する等ということは軍事常識から考えても信じられない愚策と言えるが、仏国の政治事情を考慮すればこの愚策を強行することもまた大いに考えられる」として「ナポレオン3世がどちらの策を取るか計りかねるとは言え、バゼーヌ救援を計った場合に備えるため、第三軍は大きく右(北)へ転向することを考えるべきだ」と発言しました。
これに対し大本営や第三軍から「現在得ることが出来る情報は、ランスの敵は直接に首都を援護するか、その側面陣地に向かい間接的に首都防衛の任に就く可能性を示唆するものばかりであるので、現在の方針である西進を維持しつつ更に行軍速度を上げてパリ近郊へ進むことが大事ではないのか」との反論が相次いだのでした。
これには国王も皇太子も、そしてモルトケも異論はなく、結論として「26日に第三軍が到達すべきとされたヴィトリー~サン=マール=シュル=モンの線に明日25日を以て到達すること」として24日夕刻、第三軍麾下部隊に通告されたのでした。
騎兵第4師団長、王弟のアルブレヒト王子は24日午後遅く、前哨がシャロンで押収したパリの新聞を甥の率いる第三軍本営へ送致します。
一面に踊る23日パリ発の記事は「マクマオン将軍は15万を率いてランスに駐屯する」との内容で、騎兵たちが午前中に得た情報を裏付けたのでした。しかし、そのシャロン軍が「メッスのバゼーヌ軍を救援に向かう」という部分は、「名将マクマオンが軍事常識を無視する訳がないだろう」と考える第三軍本営により完全に黙殺されてしまったのです。
☆8月24日の仏シャロン軍
シャロン軍はこの日、第12と第5の両軍団にボヌマン騎兵師団とで「左翼集団」とし、この諸隊は同日夜までにルテル周辺へ到着しました。ナポレオン3世皇帝とマクマオン将軍ら仏大本営も同日中にルテルへ入ります。
「飢え掛けて」いた諸隊は急ぎルテルの倉庫群に駆け付けると、堆く集積してあった糧食を運び出して必要量を満たし、更に数日分の糧食及び物資を受け取って輜重車両に積み込みました。
一方、第1軍団はその後方のジュニビル(ルテルの南12.5キロ)で停止、第7軍団はヴージエを目指したものの、そのずっと手前のコントウーヴ(ヴージエの西南西7キロ)周辺で夜を迎え宿営しました。
彼らはこの日もモントワに留まったマルグリット騎兵師団と共に軍の「右翼集団」として、東や南から迫り来るはずの独軍を警戒する任務を与えられますが、彼らもルテルに至った部隊と等しく物資糧食が不足しており、その「不公平」に対し兵士の不満は高まるばかりでした。
飢えた兵士や動こうとしない馬匹を前に、指揮官たちは周辺地区からの糧食や物資の徴発を許しますが、この地域は住民の数が少なく、しかも軍隊の通過を全く予期していなかったため、目立つ物資や食料などは総てルテルに運び去られており、住民もまた「皇帝がマクマオン軍を率いてルテルにやって来る」との派手な「宣伝」に浮かれて総出でルテルへ見物に出かけてしまい、部落という部落は無人の有様となっていました。
兵士たちは不満を口々に吐き捨てながら、無人の家屋や農場のドアを「打ち破って」家捜しし、残されていた僅かな物資や隠されていた食料などを略奪の状況で持ち出し、飢えを凌いだのです。
仏軍の歩兵士官




