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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
257/534

8月23日・独仏両軍、行軍の再開

 8月20日午前。ポンタ=ムッソンにあった普大本営は様々な情報を集約した結果、仏軍がシャロン(=アン=シャンパーニュ)に新たな軍を創設したことが確実であることを認識しました。

 しかし同時に、「ベルダン要塞付近に纏まった数の仏兵が存在する」との根強い噂があることも確認しています。

 この噂を確かめるべく、この日早朝、長距離挺身偵察に出た槍騎兵第17「ザクセン第1」連隊のフォン・ノスティッツ大尉は、ベルダン市街に潜入した後無事に帰還しますが、「多方面から要塞を観察して見たが、要塞内には僅かな数の後備兵や護国軍部隊がいるだけのようだ」と報告しています。しかしこれだけでは噂を完全に払拭出来ない状況ではありました。


 普大本営は最新の情報から敵情を掴んだと確信した後の21日午前11時、第三軍とマース軍に対し「一致協力してシャロンへ向かう」よう命令しています。


 この命令では、「左翼となる第三軍は右翼・マース軍より行軍一日分を先行」し、「敵と遭遇した場合、敵の正面と右翼(南)側を同時に攻撃するように」して「敵を北方へ追いやり、パリから遮断すること」を軍の目標としています。

 両軍は8月23日に行動を開始し、26日、第三軍の前衛はヴィトリー(=ル=フランソワ)~サン=マール=シュル=ル=モン(ヴィトリーの北東29キロ)、マース軍の前衛はジヴリ=アン=アルゴンヌ(サント=ムヌーの南15.5キロ)~サント=ムヌーのそれぞれの線まで到達することとされました。またマース軍には「ベルダンに対して奇襲攻撃を試み、開城不可能な場合これを南に迂回して西へ進む」よう命令が出されます。


 マース軍と第三軍は命令通り8月23日早朝に行軍を開始し、普大本営もこの日ポンタ=ムッソンよりムーズ河畔のコメルシーに前進しました。


 以降、簡単に両軍の行軍状況を見て行きます。


☆8月23日の独マース軍及び第三軍


*マース軍の23日到達地


○騎兵第5師団

 ベルダン要塞の北、ブラ(=シュル=ムーズ。ベルダンの北5.5キロ)とヌーヴィル(現・シャンヌヴィル。ブラの北西4.5キロ)付近


○騎兵第12「ザクセン王国」師団

 ・本隊 デュー(=シュル=ムーズ。ベルダンの南10キロ)付近

 ・前衛 スノンクール(=レ=モジュイ。デューの西6.5キロ)


○騎兵第6師団

 ・本隊 ジェニクール(=シュル=ムーズ。ベルダンの南14.5キロ)付近

 ・前衛 スイイ(デューの西南西11キロ)とモンドルクール(スイイの南5キロ)


○近衛騎兵師団

 ・本隊 フレンヌ=オー=モン(サン=ミエルの西7.5キロ)

 ・前衛 ロヌ(現・ライヴァル。サン=ミエルの西20キロ)とヌーヴィル=アン=ヴェルデュノワ(サン=ミエルの西北西19キロ)


○第4軍団

 ・本隊 ヴァドンヴィル(サン=ミエルの南9.5キロ)

 ・前衛 クザンス=レ=トリコンヴィル(コメルシーの西13.5キロ)及びラヴァレ(サン=ミエル南西17キロ)


○近衛軍団 サン=ミエル及びその北郊外周辺


○第12「ザクセン王国」軍団 

 ・本営 フレンヌ=アン=ヴォエヴル(ベルダンの東南東19キロ)

 ・本隊 オディオモン(ベルダンの東南東13.5キロ)とエイ(Eix。ベルダンの東8.5キロ)

 ・第24師団前衛(第105「ザクセン第6」連隊、猟兵第12「ザクセン第1」大隊、ライター騎兵第2連隊の1個中隊、軽砲1個中隊)

 要塞の南東4キロ余りのフォンテーヌの森(現・オダンヴィル付近)※翌日のベルダン要塞攻撃準備のため。


 ポンタ=ムッソンよりコメルシーへの移動途上、「仏軍がシャロンの大演習場より既に撤退している」との「噂」や「報道」が数多くあるとの報告を受けたモルトケ参謀総長は、第三軍のブルーメンタール参謀長に宛てて「敵の行軍方向を可能な限り速やかに探知することが貴軍緊急の課題である」との書状を送ります。これを受け取ったブルーメンタール中将は直ちにフリードリヒ皇太子と話し合い、騎兵第4師団に対して「ヴィトリーの南方においてマルヌを渡河し、その左岸(南側)に沿ってシャロン、ヴェルテュ(シャロンの西南西27キロ)、エペルネーへと向かい捜索せよ」と命じ、ヴュルテンベルク王国騎兵旅団に対しては普軍騎兵の対岸(右岸北側)を同一方向に向かうよう命じるのでした。


*第三軍の23日到達地


○騎兵第4師団 

 ・本隊 サン=ディジエ

 ・前衛支隊 ペルト(サン=ディジエの西9キロ)

 ・南支隊 エクラロン=ブロークール=サント=リヴィエール(サン=ディジエの南西8キロ)

 ・北支隊 セルメーズ=レ=バン(サン=ディジエの北北西16.5キロ)

 ※常に師団の前哨となっていた竜騎兵第5「ライン」連隊第3,4中隊はこの日も前衛より遙か前方に進み出て、ヴィトリーからシャロン市東郊外に達しています。既にシャロン近郊からは仏軍の姿は消えており、マルヌ川に沿ってシャロン市街に進入した一斥候は、「市街に仏兵を見ず」とし、また「住民によれば、シャロン演習場には護国軍部隊のみ残留しているとのこと」とモルトケが聞き及んだ例の「噂」を裏付ける重大な報告を成したのです。


○騎兵第2師団 

 ゴンドルクール(=ル=シャトー)の南西郊外

 ※師団の前哨斥候がシルフォンテーヌ(=アン=オルノワ。ゴンドルクールの南西11キロ)で得た情報では「およそ6千名の護国軍兵士が若干の砲兵と共にラングル(ゴンドルクールの南73キロ)付近に集合中」とのことでしたが、第三軍本営から「今後数日間の内にヴァシー(サン=ディジエの南15キロ)を経由しアルシ=シュル=オーブ(ヴィトリーの南西39キロ)へ前進し、トロア(アルシの南26.5キロ)及びメリ=シュル=セーヌ(アルシの西19キロ)付近で鉄道を破壊せよ」との命令を受けたため、南方は一時そのまま放置して西行の準備に取りかかりました。


○B(バイエルン王国)第2軍団

 ・本隊 リニー=アン=バロワ(サン=ディジエの東28キロ)北西郊外

 ・槍騎兵旅団 バール=ル=デュク(サン=ディジエの北東22キロ)とミュシー(現ヴァル=ドルネン。バール=ル=デュク北西7キロ)


○第5軍団

 ・本隊 スタンヴィル周辺(サン=ディジエの東17キロ)

 ・前衛 アイロンヴィル(スタンヴィル北西8キロ)及びソムロンヌ(アイロンヴィル南西4キロ)


○W(ヴュルテンベルク王国)師団

 メニル(=シュル=ソ。スタンヴィルの南東3.5キロ)

 ※騎兵旅団は前述の命令に従うため先行の準備中


○第11軍団

 ・本隊 モンティエ(=シュル=ソ。スタンヴィルの南東15キロ)

 ・前衛 フォンテーヌ(=シュル=マルヌ。モンティエの西12キロ)


○B第1軍団

 サン=トーバン=シュル=エール(リニー=アン=バロワの東9キロ)


○第6軍団

 ゴンドルクール(=ル=シャトー)


 この日第三軍本営はヴォクラールからリニー=アン=バロワに移動しました。


挿絵(By みてみん)

 独第三軍の本営首脳

左/ブルーメンタール参謀長 中/フリードリヒ皇太子 右奥/ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン・レオポルト候(スペイン王に推挙され辞退した親王です)


 この23日には独軍都合三回目となるトゥール要塞攻撃も行われました。

 

 独第三軍本営においては、目障りなトゥール要塞を何とかしようとの思いが強く、16日に行われ失敗した普第4軍団による攻撃の教訓(攻城砲なくしては要塞を落とせない)を「無視」し、「新たに得た情報と偵察とによって」野砲でも集中し砲撃を続ければ要塞は陥落する、との奇妙な「確信」を持って、攻城砲の到着を待ち切れずに攻撃を計画するのです。


 この任務に振り向けられるのは普第6軍団の軍団砲兵隊と歩兵3個大隊で、モーゼル川東岸より砲撃を加えるため移動を開始しました。

 8月19日より要塞を包囲監視していたフォン・ティールエック少将麾下のB軍(B第7旅団主幹)は西岸に移動し、普軍部隊の隷下となるよう命令されるのです。


 攻囲隊の指揮官は、普墺戦争ではフランセキー師団長の下で第14旅団を率い活躍した普第11師団長のヘルムート・フォン・ゴルドン中将でした。

 中将は第38フュージリア「シュレジエン」連隊に軍団砲兵隊(野戦砲兵第6「シュレジエン」連隊の騎砲兵第1,2、軽砲第3,4、重砲第3,4の計6個中隊36門)、そして軍団工兵第2中隊、工兵器具縦列(攻城材料があります)と弾薬縦列それぞれ1個を従え、22日の早朝、野営地のパニー=ラ=ブランシュ=コート(ヴォクラールの南南東8キロ)を発して現地に急行、正午頃トゥール要塞南5キロのビックレに到着したのです。

 ゴルドン将軍はここで隊を分け、B軍が架橋したピエール=ラ=トレッシュ(ビックレの北東2.5キロ)の橋を使用してモーゼル東岸に渡り、第38連隊第3大隊をトゥール南部でモーゼル川が90度折れ曲がる地点のショデネー(=シュル=モセル)に、同第2大隊をドマルタンの森(トゥールの東モーゼル東河畔の森)に、同第1大隊をゴンドルヴィル(トゥールの東北東5.5キロ)に、前哨をドマルタン=レ=トゥール(トゥールの東1キロ)にそれぞれ配しました。


挿絵(By みてみん)

 ゴルドン


 記憶の良い読者の方は覚えていらっしゃると思いますが、ゴルドン将軍の部隊と軍団砲兵部長のフォン・ラム大佐が要塞を攻撃するのはこの戦争2回目、1回目は僅か一週間前の12日から14日に掛けて、場所はファルスブール要塞でした(独第三軍ナンシーへ・後編参照)。その時も軍団砲兵は集中砲撃を加えたものの要塞は降伏に至りませんでした。

 将軍は今度こそ要塞を落として見せると慎重に作戦を開始するのです。


 歩兵により防備を固めた将軍は夕暮れ時、工兵をショデネー北東側にある高地へ送ります。この要塞を見下ろす高地に即製の砲台を作らせようと言うのでした。

 この間、B軍ティールエック隊はモーゼル西岸でトゥール要塞の南側に陣地を構え、その砲兵2個中隊は要塞北側のサン=ミシェル山に登って撃ち下ろす形となり要塞を狙うのでした。


 夜を徹した作業によりショデネー高地の砲台は完成し、普第6軍団の砲兵は続々と高地に進出し、砲撃準備が整います。

 ゴルドン将軍は砲撃準備完了の報告を得た後に要塞へ軍使を送り、降伏を勧告するのでした。

 しかし、護国兵大隊に仏第63連隊の「マルシェ」大隊を中核とした守備隊2,300名を率いる少佐は勧告を拒否、午前8時45分に独軍は砲撃を開始しました。


 普軍とB軍砲兵は競うように要塞の両面から猛砲撃を加え、次々に落下する砲弾によってトゥール市内至る所に火災が発生しました。砲撃後3時間にして火炎は城壁を舐め、火勢は衰えることを知らず、消火活動も空しくトゥールは灰燼に帰す運命に見えます。

 

 頃合いと見たゴルドン将軍は再び軍使を送りました。

 この交渉は延々4時間に及び、粘り強く交渉を続ける普軍士官を前に煮え切らない態度の仏軍司令官という構図でしたが、これは仏軍の策略だったのです。午後4時過ぎ、軍使が空しく降伏拒絶の返事を持ち帰る間もなく、激しい砲声が要塞から巻き起こり、要塞砲の榴弾が高地の独軍砲兵や部落の歩兵に降り注いだのでした。

 仏軍は交渉中の休戦を利用し、砲撃で損傷した要塞を応急修理し、以前に増して激しく闘志を燃やして砲撃を開始したのでした。

 しかし、この砲撃も予備や後備の砲兵が行ったもので狙いが拙く、独軍に僅かな損害しか与えることが出来ませんでした(この攻撃の損害は普B軍合わせ8名のみです)。


 ゴルドン中将は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべつつ、夜陰の中で火炎に照らされる要塞を睨んでいましたが、「野砲では本格要塞に効果はなく、一要塞攻撃のため独軍全体の戦略に支障を及ぼすのも拙い」と断じ、午後6時30分、砲撃を中止させて砲兵を山や高地から下ろすのでした。

 この夜、軍団砲兵はビックレ付近まで後退して野営、第38連隊はゴンドルヴィル付近に集合・野営に入ると前哨を出して要塞を監視するに止めたのでした。


 こうしてトゥール要塞三回目の攻略戦も終わりを告げます。ゴルドン中将の支隊は翌24日早朝、本隊を追って西へ進みました。B軍のティールエック少将の隊も同日西へ去りますが、将軍はB歩兵第9連隊に騎兵、砲兵各1個中隊を付け、これを第9連隊長のフォン・ヘーグ大佐に任せてトゥール要塞監視に残留させるのです。

 ヘーグ支隊は8月25日、命令により後備歩兵3個大隊を率いるアレクサンダー・ゲオルグ・フォン・ヒッペル大佐の隊と交代することとなります。ヒッペル大佐はマルサル要塞で鹵獲した仏の重砲24ポンド要塞砲25門(独第三軍ナンシーへ・後編参照)を要塞の東方へ運び込み、トゥール要塞四回目の攻撃を行うよう大本営から命令されたのでした。


☆8月23日の仏シャロン軍


 仏シャロン軍は23日、前日夜の「モンメディへの行軍」計画に従いランスからシュイップ川(エーヌ支流。シュイップ付近を源流にランスの北20キロのギニクール付近でエーヌに合流)方面への行軍を開始します。


 マクマオン大将はモンメディへの行軍に当たって行軍二日目にエーヌ河畔へ到着し、以降は敵の動き次第で臨機にバゼーヌ軍と行動を共にしようと考えていました。

 ところがこの行軍一日目の23日、早くもシャロン軍の不甲斐なさが露呈し、マクマオン将軍の計画は頓挫してしまいます。


 ここ数日の悪天候により「白亜の大地」シャンパーニュ平原は泥濘が酷くなっており、鍛えられた部隊でも行軍の遅れが気になる所でした。この23日もシャンパーニュは朝から雨天で、シャロン軍はその予想以上に行軍が遅々として捗らず、覇気もなくだらしのない行軍列の歩調は乱れ、たちまちに遅れて後続部隊の列と交錯し、輜重部隊の馬車は泥濘に沈んでいうことを聞かず歩兵行軍の妨げとなり、焦り怒る士官の叱咤も空しく、行軍予定はますます遅れて行きます。


 特に仏第1軍団と同第5軍団の行軍列は士気の低下が甚だしく、どんなに気を付けていても兵士の逃亡が相次いで発生、中には部隊単位で装備糧食ごと消え失せてしまうという事件も発生するほど惨い有様でした。

 騎乗のマクマオン大将が雨中、とぼとぼと歩いて行く麾下歩兵の列の横を通り過ぎる時、無視をされて敬礼さえ受けず、行軍列からはあからさまな悪口や「共和国万歳」の呟き声すら聞かれたのでした。


 惨めな行軍列は夜になりようやく予定地のシュイップ河畔に到着します。


 この日軍の右翼となった仏第7軍団はドントリアン(シャロン市街の北32キロ)付近へ進み、シャロン演習場に迫っていると思われる独皇太子軍警戒のため1個師団をプロヌ(シャロン市街の北北西26キロ)へ派出しました。

 仏第1軍団は第7軍団と接してベテニヴィル(ドントリアンの北北西6.5キロ)に、仏第5軍団はその西に接してポンファヴェルジェ(=モロンヴィリエ。ベテニヴィルの西4キロ)に、仏第12軍団は更に西のサン=マム(ポンファヴェルジェの西北西4キロ)に、それぞれ至りました。

 この日シャロン軍本営は ポンファヴェルジェに進みます。

 

 ボヌマン騎兵師団はこの数日オーブリーヴ(シャロン演習場の北10キロ)で待機していましたが、この日ナポレオン3世皇帝の下に呼び寄せられてポンファヴェルジェ周辺で野営し、マルグリット騎兵師団は独マース軍警戒のため東へ向かい、アルゴンヌ山地北西のモントワ(ポンファヴェルジェの東28キロ)に達しました。


 一方パリでは23日昼、パリカオ内閣によって「皇帝自らがマクマオン軍を率いてシャロンを発った」との発表がなされ、これに諸外国からの「信憑性の高い」報道が加わり、首都はお祭り騒ぎとなっていました。


 パリ市民は延々と続く敗戦報道に辟易しており、巷では革命の声すら聞こえ始めていただけに「勇者マクマオンがバゼーヌを救いにメッスへ進撃する」という報道は、パリカオ伯の目論見通り「皇帝万歳」の声を上げさせる効果は十分にあったのです。

 市街には勇ましい愛国精神発露の意見が躍る新聞が貼り出され、人々は口々に「プロシアを倒せ」「ヴィルヘルムを、ビスマルクを倒せ」「いざベルリンへ」と叫ぶのでした。


 しかし当のシャロン軍は前述通り、そんな庶民の信じる「勇者率いる精鋭」の姿とは真逆の状態にあったのです。


 この日の行軍が夜間に及んだため、シャロン軍の諸隊では糧食や消耗品の補充作業が即日に出来ず、補給は翌日以降に延期となってしまいました。

 只でさえ兵站補給事情が悪く、馬匹は細り衰え、兵士も腹を空かす状態が長く続いており、これを憂えたマクマオン将軍は夕刻、兵站部に対して物資糧食の保有状況を確認すると、信じられないことに補充出来ない場合「翌日以降の糧食事情は大いに憂慮すべき状況となっている」と聞かされたのです。

 「ランスにて4日分の糧食を携行せよと命じた」のにも係わらず「大いに憂慮すべき状況」とは何事か、と怒った将軍は次にオーギュスト・アレクサンドル・デュクロ(第1軍団)、バルテルミー・ルイ・ジョセフ・ルブロン(第12軍団)両将軍を召還して問い質すと、共に「軍団は翌日の糧食にも事欠いている」と恐る恐る報告するのでした。


 当時はモンメディに向かう街道はどれも細く山地を抜ける悪路であり、元から大量の物資を運ぶのに適していませんでした。こうなってしまうと、明日の食料にもありつけない13万の「不平不満を抱える」軍を率い、アルゴンヌの山地を無事に突破することなど不可能に近いものがあり、逃亡する兵士が相次ぐなど士気の面でも疑問視される軍のこと、強行すれば軍崩壊の危険すらありました。

 マクマオン将軍は状況を直視すると、ぐっと堪えてアルゴンヌ山地へ直行することを諦め、まずは兵站事情を改善すべき、とシャンパーニュ北部の物資集積地であるエーヌ河畔のルテル(ポンファヴェルジェの北23.5キロ)へ本隊を北上させることに変更するのでした。

 この、ルテルにシャロン軍が向かうという「進路変更」には悪い点ばかりでなく利点もあります。交通の要衝でもあるルテルにはランス~(シャルルヴィル=)メジエール鉄道が走っており、これを使ってセダン経由でモンメディに物資や兵員を送ることもまた期待出来るのです。


 こうしてマクマオン将軍は翌24日の行軍目標としてルテル及びヴージエ(ランスの北東51キロ)を指定、困難な行軍を再開することとなりました。


挿絵(By みてみん)

 シャロン野営で寛ぐティライヤール兵

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