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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
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8月中旬の仏シャロン軍事情(後)付・シャンパーニュの地勢

 仏シャロン軍司令官マクマオン大将の真意は「パリ行き」にあります。それでも政府(その背後の民意)に押され、軍事的には勝算のない「メッス行き」を強いられるのでした。


 8月21日早朝、シャロン軍は前日パリカオ伯が指示した「北東」方向でなく、「西」のランス(シャロン市街の北西)を目的地に進発します。遅れていた第7軍団は別動し本隊を追ってシルリー(ランスの南東10キロ)へ、その西隣前方を第1軍団がコルモントライユ(ランスの南南東4キロ)付近へ、第5軍団がシャンフルリ(ランスの南6.5キロ)付近及びオルム(ランスの西南西6キロ)へ、最北には第12軍団がラ=ヌヴィレット(ランス北4キロ。現郊外墓地)周辺へと、ランス市街を取り囲むように野営しました。シャロン演習場に残留した後衛は、広大な野営地に残された軍需物資を保護し、独軍が接近したならば焼却した後脱出するように命じられたのです。


 この日、ナポレオン3世とマクマオン将軍の本営は、ランス西郊外のサン=ブリス=クールセル(ランス西北西3.5キロ)に置かれました。

 シャロン軍がランス郊外に落ち着いた午後遅く、パリより内閣の使者ウジェーヌ・ルエルが到着し、皇帝を交えて本営にて指揮官会議が開催されます。


 会議の冒頭、皇帝の親政時代「最後の宰相」で現在は元老院(上院)議長を務めるルエルは、政府閣議と摂政ウジェニー皇后の決定として、「シャロン軍はバゼーヌ軍を救済するため断固としてメッスへ向かい、皇帝はパリへの帰還を諦めシャロン軍と同行する」よう要求したのです。

 ルエルは皇后とパリカオ伯ら内閣の総意として、

「バゼーヌを見捨ててはなりません。もし見捨てたとパリ市民が知ったならば極めて由々しき事態に陥るに相違ありません。シャロン軍のメッス進撃は国民の希望であり政府の利益に叶うものとなり、それがパリを(否、帝政を、か)救済することにも繋がるでしょう」と力説しました。


 これに対し我慢の限度を越えたマクマオン大将が立ち上がります。

 パリはマクマオンと同様、バゼーヌが今後どのように敵と相対するのか見当もつかず、また、その軍の内実も一切不明なまま、頭に血が上ったパリ市民(仏では当時「国民全体」と同義になります)の熱意に負け、軍事的には全く意味のないシャロン軍の東進を強要している。マクマオンはそう感じていたのです。


 マクマオンはアルジェリアの勇猛な植民地兵さえも震え上がらせた声音で宣言しました。

「本官は23日(2日後)までにバゼーヌ将軍からの命令を受けない限り、同日を以てシャロン軍をパリに向かって進発させるつもりである」

 将軍は手元にある届いたばかりの戦闘詳報を拳で叩きながら続けます。

「この情報によれば、バゼーヌ軍は20万に及ぶ普軍に包囲され、ザクセン王太子は8万の兵を率いメッス・ベルダン間にあるという。そして普国皇太子は15万の兵を率いてヴィトリーまで進み来た。この状況でシャロン軍を東進させるというのは自ら窮地に陥るようなものではないのか」

 重ねて将軍はパリへの後退を説きます。

「貴重なシャロン軍を倍する敵に当たらせるのでなく、パリに向かって行軍させ得れば、今は13万少々のシャロン軍も日時を稼ぐことで後備の兵が集合し、20万、30万と増えよう。これにパリの強固な防衛網が加われば、強敵を打破することもまた可能となるだろう」


 猛将マクマオンの正論と気迫に押されたルエルは沈黙してしまいます。

 長らく皇帝の忠実な僕だったルエルは主の顔を仰ぎ見て、無言のまま裁定を促しましたが、皇帝は疲れ切ったように目を閉じたまま無言を貫き、それはマクマオンにより「すべてを任せる」との意思表示と受け取られたのでした。

 仕方がない、とばかりにルエルは「シャロン軍が退却する理由を仏国民に説明する勅諭」を起草し、これに皇帝の御名を戴くと深夜、パリへと帰って行ったのです。


挿絵(By みてみん)

 ルエル


 パリではパリカオ始め政府首脳がルエルの帰りを待っていました。到着早々「任務の失敗」を告げたルエルに閣僚たちは失望を口にし、パリカオ首相は顔を真っ赤にして怒りを露わとします。

 パリカオ伯は内閣の総意による閣議決定として、翌22日午前1時過ぎ、皇帝とマクマオンに対し以下の「殆ど命令」とも言える電文を送信するのでした。


「内閣は一致して陛下にお願い申し上げます。ルエルにお答えになった決定はこれを破棄しなくてはなりません。また、あらゆる書面も公表してはなりません。今後の処置に関しましては使者をランスに送りますので、お待ち下さい。バゼーヌ将軍を救済しないという決定は、パリにおいて最も避けなくてはならない結果を招くこととなります。そうなってはパリを守ることなど不可能となります。摂政内閣と陛下との間に不協和音があってはなりません。パリは普皇太子の軍と戦う覚悟は出来ており、防御工事と新軍編成は急速に達成するでしょう。陛下におかれましてはご決断願います」


 つまりパリカオは「皇帝がパリに戻れば敵前逃亡と受け取られて革命動乱となり、そうなれば戦争どころでなく敵を目前に内戦となってしまう。仏(そして帝政)を救うには何が何でもメッスのバゼーヌ軍を救済しなくてはならないし、摂政政府と皇帝(そして軍)が一致していなければ政敵に足下を掬われてしまう」と言っているのでした。


挿絵(By みてみん)

 パリカオ伯爵


 この電信が届こうが届くまいが、既にマクマオンは「独断」を決意していました。


 22日早朝。マクマオン将軍は幕僚に北進する場合に必要となる手配を命じ、シャロン軍を一旦北へ進ませた後、「首都へ」転進する命令を発しようと準備するのです。

 ところがその発令直前。バゼーヌ大将から19日発の電信がクールセル在のマクマオンの下に届いたのです。


 「ライン軍は終日サン=プリヴァとロゼリユの陣地において敵と交戦し、よくこれを守り通した。しかし、第6と第4軍団は昨夜(18日)9時、右翼(北)正面から転換し、メッス方向へ後退した。これは敵が夜を利して迂回包囲を為さんとしたための対抗策である」

「本官は今朝方(19日朝)第2、第3の2個軍団により守られていたラ=フォリからロゼリユの陣地を放棄させ、両軍団は新たにモーゼル河畔ロンジュヴィル(=レ=メッス)からサンソネ(現ドゥヴァン=レ=ポン。ロンジュヴィルの北2キロ付近)間に展開し、ル・バン=サン=マルタン(ロンジュヴィル対岸)からサン=カンタンとプラップヴィル両分派堡塁間まで陣地を構築させている」

「しかしライン軍は、連続した戦闘のために寝食の間もなく、今や大いに疲弊しているので2、3日の休息を必要としている。偵察情報によれば、普王とモルトケは今朝方ルゾンヴィルにあると言う。幾多の兆候を見れば普軍はメッス要塞を攻撃する様子である」

「本官は依然としてなお北方に進軍する意図を持ち、敵がもしサント=ムヌー(ベルダンの西37キロ)からシャロンへの街道を遮断していなければ、モンメディ(ベルダンの北40キロ)を経由して迂回し、サント=ムヌーからシャロンに退却しようと考える。敵がこの街道をも遮断する場合、本官はシャロンに到達するため遥かに迂回し、セダンか更にシャルルヴィル=メジエールまでも(北西へ)進むつもりである」


挿絵(By みてみん)

 仏帝国軍歩兵たち


 この電信は同時にパリの摂政内閣にも発信されており、こちらはやや早く午前9時に受領しています。

 この時(22日昼前)、発信から丸三日が経過しようとしており、バゼーヌ大将は「2、3日の休息を」行ったにしても、既にモンメディへの行軍途上にあるかも知れず、優勢な独軍に追撃されているのかも知れないのでした。


 バゼーヌが軍を引き連れて「シャロン軍と合流するため西へ行軍」しているのなら、マクマオン将軍はそれに背を向ける訳には行かない(下手をすれば反逆罪)のです。明確に命令こそ出していませんが、「シャロンへ退却」とバゼーヌが言う以上、「部下」であるマクマオン将軍もまた「迎えに」出ることを「期待」されている筈なのです。

 ここに深夜発信された皇帝宛てのパリカオ伯からの電信が届き、マクマオン将軍は午前11時30分、皇帝に代わって「バゼーヌの意向に従う」と返信するのです。

 また、バゼーヌにも(現在どこに居るのか分かりませんが、とりあえずメッスへ宛てて)「シャロン軍はモンメディに向けて行軍する」と返信しました。


 こうしてマクマオン将軍は22日の夕刻、シャロン軍に対し明23日、一旦北へ迂回路を取りつつモンメディに向け行軍すると命令するのでした。


挿絵(By みてみん)

 マジェンタのマクマオン


 同じ頃、皇帝はパリカオ伯に対し「明日シャロン軍と共にモンメディへの行軍を開始」するので、敵を欺くために、「皇帝は15万の軍を連れてシャロンからサン=ディジエ(モンメディとは正反対方向)に進撃した」と欺瞞の声明を発表するように、と返信をするのです。


 この決定により、世界戦史上特筆すべき大敗を喫することとなる仏軍ですが、両軍の行軍と戦闘を記す前に、このシャロン(マルヌ県)からムーズ県、そしてベルギー国境付近アルデンヌ県に至る、いわゆる「シャンパーニュ地方」の地形・地理を俯瞰しておきます。(どうか手頃なWeb地図等をご参照下さい)




 上ライン地方の西に聳えるヴォージュ山脈の南端、山脈西側面に沿って南西へ延びるフォシル山地(ナンシーの南側エピナル周辺から、ソーヌ川に至る運河に沿ってラングル付近まで続く高地)と、それに続くラングル高原(ショーモンとディジョン間にある高原)に端を発し、北及び北西方面へなだらかに傾斜しつつ続く高原地帯は、モーゼル川とムーズ川(オート=マルヌ県ラングル近郊を水源にベルギーを経てオランダで北海に注ぐ。仏以外の呼称マース川)に刻まれてその先は広大なムーズの丘陵地帯となります。この丘陵地帯は所々深い森林で覆われ、いくつもの小河川が渓谷を作っていました。


 この北方、トゥールからヴォア=ヴァコンへ続くライン=マルヌ運河(実際の西側終点は遥かマルヌ川のヴィトリー)が作られる東西に延びる谷の以北が北部ロレーヌ(独名ロートリンゲン)地方で、この地は西や南に比して起伏が少ない高原地帯となります。

 この高原地帯はムーズ川で断ち切られ、この東岸には低い丘陵尾根がデュン(=シュル=ムーズ。ベルダンの北北西29キロ)付近まで幅6~12キロ余りで続きます。この丘陵は鬱蒼とした森に覆われた部分が多く、丘陵の北端はアルゴンヌ山地の最東端に繋がっていました。


 この丘陵尾根の東側は緩やかな起伏が続くロレーヌの高原地帯で、マルス=ラ=トゥールとグラヴロットの戦場は、この高原の東半分に相当します。


 ライン=マルヌ運河が走る谷はムーズ川の西で折れ、ヴォア=ヴァコンからゴンドルクール=ル=シャトーに向かい、ここでオルネン川が作る渓谷と繋がって北西方向へ進みます。

 このオルネン川下流域(バール=ル=デュクからマルヌ川まで)は森林があるかと思えば緩やかな丘陵に耕作地が広がり、縦横に流れる渓流が谷を作ってそこに運河が走り等々、変化に富んだ土地でした。

 この変化に富んだ地域は西のトロアまで広がっており、その線の北側が「樹木に乏しく住民も希少なチョーク(白亜)土壌の大平原」シャンパーニュ平原でした。


 このシャンパーニュ平原は西端を石灰岩質の高原で遮られています。

 この高原(エーヌ県南部に当たります)の東端はかなりはっきりとした斜面の線(およそ100mの段差)を作っており、この段差はセーヌ河畔のグエクス(パリの南東81キロ)に始まると北東へ延びてセザンヌ(シャロンの南西54キロ)、エペルネー(シャロンの西北西31キロ)を経てランスで西側郊外を半巡し、コルブニー(ランスの北北西27キロ)、ラン(ランスの北西45キロ)を経てラ・フェール(ランの北西21キロ)でオアーズ川(ベルギー南西部を水源にパリ北西郊外でセーヌ川に注ぐ支流)に至ります。


 対するシャンパーニュ平原の東側境界は、西側ほどの段差ではありませんがやはり平原の端で区切ることが可能です。この高地線は西とは逆に東へ下る急な段差となっており、その南側起点はヴィトリー(=ル=フランソワ)北郊外となります。ここからエーヌ川(アルゴンヌ山地南部を水源にコンピエーニュでオワーズ川に注ぐ)源流に向かって北東に延びる高地際はほぼ直線状で、ヴァノー=ル=シャテル(ヴィトリーの北東18キロ)、コントー(同26キロ)を経てヴァルミー(ヴィトリーの北北東42キロ)に至ると、ここからエーヌ川を西へ7~12キロ隔てて並行し、湾曲しながら北へ走ります。最北はルテル(ランスの北東37キロ)付近で、この地でエーヌ川にようやく達した高地はこのエーヌ渓谷に沿って更に西へ続き、シャンパーニュ地方の北端(アルデンヌ県)の高原となるのです。


 このエーヌ川上流と東側にほぼ並行するムーズ川との間には、東西幅12~24キロのアルゴンヌ山地があります。その北西側にバール川(セダンの西でムーズ川に注ぐ支流)の渓谷があり、この谷にはマースとエーヌを繋ぐアルデンヌ運河があります。


 アルゴンヌ山地は最高地点も海抜350m程度の低い山地ですが、水量の豊富な渓流が幾筋も流れ、これが深い渓谷となって断崖絶壁を各所に作り、また森林自体も深く広く、降雨時には石炭粒が混じる粘土質の土が深い泥濘を作り、限られた林道は起伏が大きく行軍が至難等々、軍にとっては難所として古くから知られる場所です。

 特にサント=ムヌー(シャロンの東北東41キロ)、オートリー(サント=ムヌーの北20キロ)、スニュック(サント=ムヌーの北25キロ)までのエーヌ川上流と、クレルモン(=アン=アルゴンヌ。サント=ムヌーの東13キロ)、ヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ。サント=ムヌーの北東18キロ)、グランプレ(サント=ムヌーの北28キロ)を経てスニュックでエーヌに合流する支流エール川との中間地点に広がる深い森は、踏破困難な自然の「防塞」でした。


 「防塞」と言えば、仏とベルギー国境に並行して走る、目立つ深い谷があります。


 これはほぼシエール川(ルクセンブルク南部を水源にスダン南でムーズ川に注ぐ支流)が作り出したもので、仏/ルクセンブルク/ベルギー三ヶ国の国境が交わるロンウィー近郊に始まり、蛇行しながら西へ進んで最後はシャルルヴィル=メジエールでムーズ川の深い渓谷に変化するのです。

 仏とベルギー国境は、このシエールの渓谷に沿って、一部は国境そのもの(ヴローヌ付近)となり、多くは北側10から15キロ程度の距離にあり、シャルルヴィル=メジエールの北では、北へ向きを変えたムーズ川に沿って仏領がベルギー領に幅7キロ、奥行20キロ余り突出しています。

 この突出部は一種の要塞地帯で、最北のジヴェには要塞があり、その郊外にあるシャルルモン分派堡塁と共に突出部北端を押さえ、メジエール要塞がこの突出部南側を管制するのでした。

 また、このメジエールには南から注ぐムーズの支流ヴォンス川があり、この川に沿って重要な街道と鉄道が遥か南のランスまで続いていました。


 ところでこの「シエールの谷」は幅広いところでも2キロを超えず、ベルギー方面からの侵入に備えた重要な国防線となり、ムーズ川はシエール川との合流点以南において、過去(ブルボン王朝)も未来(第一次大戦)も仏国防上の重要な防衛線となっています。

 この谷南側にある高地には断崖が至る所にある深い森が連続しており、更に南部はアルゴンヌ山地に続くという防衛適地でした。


 このシエールの谷北側、ベルギー南部を覆う有名な「アルデンヌの森」は正に天然の要塞で、その南縁は国境を越えて仏領に入り、前述来のシエールの谷付近まで迫ります。この森林線はシャルルヴィル=メジエールを越え、イルソン付近に及ぶ長大なものでした。


 ここまで説明したシャンパーニュの地に、独軍はロレーヌの高原とその南オート=マルヌから侵入を図ろうとしています。

 しかし、このようにシャンパーニュの土地は多数の森林と縦横に走る渓谷が無尽にあり、防御側にとっては最高の土地と言えるのです。


 シャンパーニュ北東部のアルゴンヌ山地を西へ通過するには、クレルモン=アン=アルゴンヌからサント=ムヌーへ抜けるメッス~シャロン街道(現国道D603~D3号線。D603号線のベルダン東側部分が前章まで「北ルート」と呼んでいた街道です)を利用するのが最短です。しかしそれには途中レ・ズィズレット部落西郊外の「隘路部」(クレルモンの西6キロ付近)を通らねばならず、この「隘路」を抑えるものは長く敵の進撃を止めることが可能となるのです。

 この北のルートを行くにしても、途中似たような要害の地があり、グランプレ付近のエーヌ川両岸や、バール川とアルデンヌ運河沿いの街道も、細い谷を行く待ち伏せを覚悟せねばならない狭隘な地域だったのです。


 但しアルゴンヌ山地以南の街道筋は、概ね高原や山地そして川や運河に沿って作られており、その方向は南東から北西に進む形が多数で、これはフリードリヒ皇太子率いる独第三軍の進撃方向に沿う形であって独側が有利となるものでした。


 しかし、これら大街道筋には未だトゥールにベルダン、そしてティオンヴィルとメッスの大要塞が陥落せずに残っており、また、これら要塞にはパリより主要鉄道が通じているため、独軍はこれら要塞以西に鉄道を運行出来ずにいました。

 独軍が迂回し監視するに留める要塞は、戦争が長引くに連れて兵站上の大きな障害となることは必至で、普参謀本部が抱える主要な問題のひとつだったのです。


挿絵(By みてみん)

 仏軍の大尉


シャンパーニュ要図


挿絵(By みてみん)

copywrite Wikimedia Commons


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