8月中旬の仏シャロン軍事情(前)
仏第6軍団の主力がフランソワ・セルテーヌ・カンロベル大将に率いられてメッスに向かって以降(8月4日)、シャロン(=アン=シャンパーニュ)北郊外にある広大な仏軍大演習場(シャロン市街の北15キロ)*には続々と部隊が集合していました。
*注・キャンプ・シャロンは1857年8月にナポレオン3世により開設された広大な演習場で、現在も12,500ヘクタールの広大な「キャンプ・ムールムロン」として仏軍管理下にあります。
キャンプ・シャロン
正式には「シャロン軍」、俗称として「マクマオン軍」と呼ばれたこの一軍は、「ヴルトの戦い」で敗れた仏第1軍団、「スピシュラン」「ヴルト」どちらにも進めず、結果ビッチュから遁走した第5軍団、一部がヴルトで戦い、本隊は様子見の後に上ライン地方から撤退した第7軍団、第6軍団や海軍陸戦隊が中心となりこの地シャロンで新設された第12軍団、そしてボヌマン、マルグリットの両騎兵師団により編成されます。その指揮官に任ぜられたのは、猛将として世界に名高いパトリス・モーリス・ドゥ・マクマオン大将でした。
「マクマオン伯爵」及び「マジェンタ公爵」の称号を併せ持つマリー・エドム・パトリス・モーリス・ドゥ・マクマオン仏陸軍大将はこの時62歳。18世紀中頃に祖先がアイルランドのリムリックから移住し、後に祖父がルイ15世により爵位を授けられた貴族末裔でした。
将軍はサン=シール陸軍士官学校を卒業後、本営副官などを勤め、1830年にアルジェリア遠征に参加、そのまま54年までアフリカ新植民地で反乱討伐や植民地軍の育成に従事します。その間35歳で外人部隊指揮官となり、52年には44歳で少将昇任と早い出世でした。クリミア戦争が勃発すると外人部隊を率いて出征し、最激戦区のセバストポリ・マラコフ堡塁の戦いに参戦、外人部隊と共に目覚ましい活躍を見せ、連合国側戦勝の立役者となって一躍世界に名を轟かせます。
この人が他の野心家と「一味」違うのはここからで、この際、仏国民の熱烈な支持とナポレオン3世ら帝政中枢から推されて「元帥」位と国軍最高司令官の地位が約束されるも謝絶し、自らが第二の故郷とするアルジェリアの「我が子に等しい」現地民を中心とする植民地軍の下に只の「将軍」(仏軍の将軍位は「任務制」で職務に付随するので「元帥」「大将」も本来は単なる「将軍(師団指揮官)」です)として帰ったのです。ただし56年には上院議員となっており、国政に全く興味がない訳ではなさそうです。
続く59年のイタリア統一戦争では第2軍団指揮官として参戦し、「マジェンタの戦い」でオーストリアに勝利を収め、皇帝から「マジェンタ公爵」位を授けられ名誉官職「フランス元帥」(因みにル・ブーフ、バゼーヌ、カンロベルら現「大将」も全てフランス元帥職です)位を与えられました。64年にアルジェリア総督となって植民地を経営し、普仏戦争勃発で自ら植民地軍を中核とした「最強」第1軍団を率いたのでした。
マクマオン(1870年)
当時のマクマオン将軍は、どこか「陰」のあるバゼーヌ(二等兵から叩き上げ、アルジェリアやクリミアでは信頼の置ける部下でした)とは好対照の「光輝ある」将軍であり、その存在は仏軍にあっては絶大なもの(普軍にとってはもっとも恐るべきもの)があったのです。
そんなマクマオン大将が率いた第1軍団でしたが、仏人が失望したことに「ヴァイセンブルク」「ヴルト」の2会戦において、大将に盲従する勇猛な植民地兵やクリミア以来のベテランたち、そしてアベル・ドゥエーとラウール両将軍にコルスン参謀長など優秀な指揮官の多くを失って敗れ去り、残った将兵はシャロンへ到着する頃にはすっかり戦意が衰えてしまっていました。
更に酷いのはファイー将軍の仏第5、F・ドゥエー将軍の仏第7両軍団で、開戦以来その一部が戦闘に従事するだけだったにも係わらず、敗退行軍の連続と酷い食糧給水事情を始めとする兵站の不備欠陥などにより士気はガタ落ち、兵は不満と怠惰に瀕し、脱走や反抗が絶えず発生して軍紀は崩壊の危機を迎えていたのです。
これと鮮やかな対比を見せていたのは、当初ルイ・ジュール・トロシュ中将が率いることとなっていた第12軍団でした。
この新設軍団は既述(シャロン軍の結成の項参照)通り、第6軍団でメッスへ移動出来なかった諸隊と北海やバルト方面作戦用に待機していた海軍の歩兵部隊(以降海軍陸戦隊とします)を中核として、首都防衛隊の一部にスペイン国境警備に当てられていた師団などを集成した混成軍団です。彼らはまだ見ぬ普・独軍に対し敗れ去った諸兵の仇を討たんと張り切っており、特にその第3師団は海軍陸戦隊の4個連隊で、その信頼度と訓練の完成度・精鋭ぶりは、陸軍の精鋭と目される近衛部隊や植民地軍ズアーブとティライヤール諸連隊をも凌ぐものがありました。
第1、第5、そして第7軍団に関しては、これまでに生じた損害(逃亡・処罰・行方不明も損害の内です)補填を「補充大隊」から行い、また、部隊として後方各地から「マルシェ」大隊*を集成した混成連隊などを配属させることで定員充足することを得たのでした。損耗した大砲や遺棄した諸兵站物資なども各地からかき集め、広大なシャロン演習場にて補充を行ったのです。
但しモルスブロンヌ(=レ=バン。ヴルトの戦い参照)へ突撃し壊滅的打撃を受けたミシェル胸甲騎兵旅団だけは、集成しても僅かに1個連隊にしかなりませんでした。
*注 仏軍の「補充大隊」とは欠員補充のために連隊に付属する数百名規模の部隊のことで、「マルシェ」(直接的な意味としては「市場」。独では「行軍(マーチ)」と呼びます)大隊とは、動員時に通常の連隊から抽出して内国警備や予備として後置していた第「4」大隊のことです。
8月17日。マクマオン大将はショーモンから、ナポレオン3世皇帝はグラヴロットから、それぞれの幕僚と共に相次いでシャロン野営地に到着します。
この頃のナポレオン3世は、連戦連敗の心労が重なり持病の膀胱炎(膀胱に石がありました)が悪化、排尿も苦痛でままならない重病人の有様で、出来る限り揺れを防ぎつつ進む御用馬車の中で、14歳の皇太子を側に置きながら伏せる状態でした。
近衛猟騎兵の護衛も物々しくベルダン要塞に至った皇帝は、ベルダンに留まらず直ぐに列車に乗り換えるとシャロンに向かい、16日深夜、シャロンに到着していました。
明けて17日夕刻、シャロン野営地で御前会議が始まります。
顔が土気色の皇帝を前にするのはマクマオン、トロシュ、トロシュの参謀長イシドロ・ピエール・シュミッツ、パリ防衛隊のジャン・オーギュスト・ベルトーの各将軍とその副官たちで、トロシュら3名の将軍はそれぞれ集合命令を受けた部隊を引き連れ前日パリから到着していたのです。
マクマオンら軍人は皇帝に対し口を揃え、防御施設を伴わない「シャロン演習地」は決戦の場としてはいささか危ういので、直ぐにでも攻防適地へと移動すべきだ、と建議しますが、その移動先については諸将・幕僚の意見が様々に割れ、バゼーヌが「19日メッスより西のブリエ方面へ突破を試みる」(16日深夜発のバゼーヌから皇帝へ宛てた電信)と言うからには、これを救うために東進せよ、と説く者や、パリへ退却し首都防衛に専念すべき、とする者、実に様々だったのです。
マクマオン将軍は「混成し速成したシャロン軍では戦慣れして数も倍する独軍を正面から受け止められず、ここはまずパリに退き、防衛戦を仕掛けるのが最善」との意見を述べ、この意見には20歳は老けたように見える皇帝も賛成するのです。
結果「総軍は依然バゼーヌ大将の指揮下にあるものの」、バゼーヌはシャロンから遙か離れたメッス周辺にあるため、「シャロン軍」の指揮を「一時」マクマオン大将に預けることに決し、「シャロン軍はパリに向かい首都の軍勢と共に独軍の進撃を待ち受ける」ため、第12軍団の新加入部隊を率いてパリから来たトロシュ将軍を「パリ軍司令官」に任命するのでした。
当年55歳のトロシュ将軍はマクマオンに較べれば「リベラル」な将軍で、当初開戦に異議を唱えたほどの人物です。彼は、前線で次々と敗報が舞い込み、猛将だ智将だと人気のあった将軍たちが次々に敗れ、軍は民衆からの期待を裏切り信頼が失墜する中、今や皇帝を疑問視し始めた政界と、民衆からの「風」を読み始めた現首相、「パリカオ」伯爵シャルル・ギヨーム・マリー・アポリネール・アントワーヌ・クーザン=モントーバン将軍からも信頼を受ける身でした。
当然ながら敗戦に次ぐ敗戦で自身の地位が危ういと怯える皇帝は、「手ぶら」で首都に舞い戻れないこと(摂政となっていたウジェニー皇后も猛反対しています)を知り、人気のあるトロシュをパリ軍司令官とし引き連れ首都帰還を謀る魂胆でした。
トロシュ
ところが、この内容で宵の口に摂政皇后宛に送った電信は午後10時25分、首相パリカオ伯からの素早く率直な返信となって投げ返されるのです。
「皇帝陛下が皇后陛下に宛てたシャロン軍と共に首都へご帰還、との電信を拝読いたしました。本官は陛下にご決断を変えて頂くようお願いするしかありません。万が一陛下がシャロン軍とご帰還あそばされますと、バゼーヌの20万の兵とメッスは見限られたこととなり、これではシャロン・ライン両軍がベルダンで合流し普軍と決戦との大方針が崩れます。シャロン軍はまもなく到着する第7軍団を除いても8万5千となるのですから、連戦と行軍で疲弊している独軍を西側より牽制することが可能です。摂政皇后陛下も本官に賛同されておられますので、どうかお考え直し下さい」
パリは「メッス近郊の会戦」の結果を知り、正に怒り心頭となっていました。
「コロンベイの戦い」の結果すら届いていない14日、パリでは早くも「革命」未遂事件が発生しており、これに衝撃を受けた皇帝派を始めとする保守派は、これ以上敗戦の報が続けば帝政は持たない、とはっきり意識し始めます。
そこへ自国の安全保障・情報秘匿など全く考えず、ただ民衆に「真実を伝える」ために「軍の現在地」入りの号外を刷り続ける内国の新聞各社や、刺激的かつどこよりも早くニュースを伝えようと競い合い前線近くにて取材合戦を繰り広げる外国特派員が発する報道(特にイギリスの「タイムズ」紙は的確かつ素早い報道で人気を勝ち取り、仏の新聞社はこぞって記事を転載しました)が連日仏軍の敗退を報じたことにより、仏国民はどん底の悲哀と押さえ切れぬ怒りで身を震わせていたのでした。
ウジェニー皇后を戴く帝政摂政政府は、パリが既に「革命前夜」の不穏な空気に満たされており、帝政が「風前の灯火」となっていることを強く感じていました。
皇帝帰還に反対するパリカオの返信は、前線と首都両方から離れたシャロンと言う名の「偽りの安全地帯」にいる皇帝より、遙かに危機を間近とする老将軍の諌言だったのです。
この返信に衝撃を受けた皇帝の命により、シャロン軍は出来た端から再び分割され、護国軍から馳せ参じた(つまりは野戦に不向きな)18個大隊を「パリ軍司令官」トロシュ将軍が率いて皇帝と共に首都へ帰り、軍紀に「問題あり」とはいえ正規軍の残りを「シャロン軍」としてマクマオン将軍が率いて、機会を見てメッスへ進軍することとなったのでした。トロシュが去るにあたり、皇帝侍従武官のバルテルミー・ルイ・ジョセフ・ルブラン将軍が第12軍団を率いることも決定します。
皇帝は是が非でも政情不安なパリに帰り、己の運命を賭けてもなお政権を維持したい、と考えていたと思われますが、民衆と政府の「間に立つ」頑固なパリカオ将軍は、この結果の電信にも「ノン」を突きつけるのです。その電文に曰く「現在のパリは敗軍の皇帝を迎えるほど悠長ではない」とのことで、これによりついに皇帝も「今は」パリ帰還を諦め、18日早朝、トロシュ将軍は1万5千を多少超えた程度の「軍」を率い、皇帝を後に残してシャロンから首都へ向かいました。
シャロンの野営
多難な前途を暗示するかのようなパリとのやり取りを経て「シャロン軍」は起動しましたが、厄介な皇帝をパリカオ政権(と言うよりパリ自体)から押し付けられた形の上、バゼーヌの「ライン軍」との合流も困難であり、第一その動向すらマクマオン将軍は掴んではいませんでした。
これによりマクマオン将軍は途方に暮れることとなるのです。
パリと政府は「バゼーヌとメッスを救え」「合流せよ」と繰り返します。
しかしマクマオンは「パリに退く」ことにこそ活路がある、と信じていたのです。
つまり軍事的にみれば、パリを目指して西進する独軍に打撃を与えるための単純かつ確実な方法とは、「パリ近郊までシャロン軍全体で後退し、パリの周囲に点在する堡塁・砲台・要塞と、パリ自体が持つ物的・人的資源をバックボーンに、補給連絡線の延び切った敵に対し決戦を挑む」ことだったのです。
パリを背景にして戦えば、決戦に敗退したとしても市街へ退却すれば独軍の追撃をかわすことが出来ます。また、独軍がパリを包囲し交通を遮断しようにも、既に10万を超える歩兵が集合する首都に対しシャロン軍10万を加えるとなれば、相当の困難と損害を覚悟しなくては攻囲出来ないこととなります。
しかし、「パリに退く」ことは「メッスとバゼーヌ軍を見捨てる」ことに他なりません。
この18日の午後、独軍はまだムーズ川を越えていないことは確かで、マクマオン将軍はシャロンに駐留することで独軍の作戦行動を見極め、「行くか退くか」を判断する機会を待つのです。
マクマオン将軍は戦争の勝利という「国家の大目的」達成のため、自身が指揮する10万余の戦力を無駄にしたり「遊軍化」したりしてはならない、と考えていました。
普皇太子の軍(独第三軍)が南方より次第にシャロンへ迫っているだろうことは、内外新聞報道や住民の流言などから漠然ながら(当時のインテリジェンスなどその程度です)分かっています。シャロン軍右翼側が時間経過と共に危険になるのは確実で、バゼーヌ大将が15万の戦力でメッスから依然動かないとなれば、手遅れになる前に首都パリへと後退することは軍事常識的にも妥当な行動でした。
とは言え、皇帝が明確に「総軍の指揮官はバゼーヌ大将」と告げるからには、マクマオン将軍は何事もバゼーヌ将軍に相談なく独断で行動するわけには行きません。ここが仏軍最大の悲劇で、独側と正反対の「指揮命令権絶対遵守」はマクマオンを苦しめるのでした。
この18日夕刻、バゼーヌ大将からマクマオン大将宛てにメッスより電信が届きました。
「本官は今朝以来、普軍と激戦を繰り広げてライン軍は死傷者を続出するものの見事に前線を死守した。しかし、これにより弾薬糧食は欠乏し部隊は補充整理を要するため、西方へ行軍するに当たっては、一時若干の後退を必要とするに至った。今後は敵の出方をにらみつつ恐らくは最北の行軍路(ベルギー国境沿いのロンウィー方面のルートか)を選んで(パリへ?)退却すべきと考える」
これはバゼーヌが16日の「マルス=ラートゥールの戦い」の結果を発信したもので、この日(18日)の会戦(グラヴロットの戦い)を知らせて来たものではありません。バゼーヌも未だ「メッスへ籠城」とは公言せずにおり、バゼーヌ軍は「西への後退路を絶たれたもののまだ迂回は可能で、ベルギー沿いに機動してシャロンかパリを目指し」て行軍するつもりだろう、とマクマオンは考えるのです。
取り敢えずマクマオン将軍はバゼーヌへの返信として、「軍勢と共に出来る限り早期にシャロンを発ち、貴官の指揮下に入ろうと思う」とします。
しかし、マクマオンとしては、未だ編成が終了せず不平不満を抱え厭戦気分を漂わせる兵士を多数含む雑多なシャロン軍を、強敵の待ち構えるメッスに対し直接向かわせるということに強い抵抗感を感じており、しかも万が一、バゼーヌ軍がメッス周辺から西へ進むことが出来ずにいたままシャロン軍が東へ向かえば、その南側を西へ進んでいるはずの独第三軍はシャロン軍の右翼を「すり抜けて」パリ郊外へ突進してしまうだろう、との危機感を覚えるのです。
ところが翌19日、陸軍大臣を兼務する首相パリカオ伯より再び電信が届き、至急メッスに向かって発進するようマクマオンを督促するに及びました。
これに対しマクマオン将軍は、まずメッスのバゼーヌ将軍宛に電信を発し、「貴官がもし本官が信じている状況(敵に西側を押さえられて)により西方へ退却出来ないのであれば、貴官と本官は遠く隔絶していることもあり、本官はパリを援護せずに貴官を救援することは出来ない。この判断に異議があれば反駁して貰いたい」と、はっきり「メッスへ向かうことは出来ない」との意見を示します。
続けてパリカオ伯への返信には「本官はバゼーヌを救援したくないのではありません。しかし現状においてはメッス方面の状況がはっきりとせず、敵がどの街道を押さえてしまっているのかも分かりません。シャロン軍が只今直ぐにも行動するにしても、バゼーヌがどの退路を以て西へ向かうのか知らないことには合同は不可能です。バゼーヌ軍は北へ向かうのか、または南へ向かうのか、これがはっきりするまで現在地にて留まりたいのです」と苛立ちを覗かせ答えるのでした。
翌20日午前9時前、マクマオンはパリに対し「バゼーヌ軍の状況を詳しく知らせる」ように要請を出します。
これに対する陸軍省からの返電は午後4時前で、「バゼーヌ軍の18日夜間における位置はアマンヴィエとジュシー線上」との回答でした。
同時にパリカオ伯の「シャロン軍は直ちに進発し、明日21日にはシュイップ(シャロンの北西22キロ。演習場の北東角付近)、ソムピー=タウール(シュイップの北14キロ)、ベテニヴィル(ソムピー=タウールの西北西14.5キロ)の線に至れ云々」との「命令」が届けられ、窮地に陥ったマクマオン将軍は曖昧な返信をしてお茶を濁し、未だ軍の出発を躊躇しました。
その直後、更なる「悪い報告」が届くのです。
この日から南東方面より続々と到着しているファイー将軍の第5軍団諸兵らが報告し、「普皇太子の第三軍はメッス方面の戦いに一切関与せず、ただひたすらにパリを目指し西へ進んでいる模様」ということで、「その先行する騎兵部隊は既にヴィトリー(=ル=フランソワ。シャロン演習場の南南東44キロ)付近に達している」とのことだったのです。
この情報はヴィトリー方面の電信局が送った「敵来たり」との至急電(以降この電信局は沈黙)でも確認されました。
こうして敵第三軍に行軍2日以内にまで迫られたマクマオン将軍は、「平地のシャロン演習場にて敵を待つのは愚策」と決め付け、また、「メッスからサン=ミエル、ベルダン、ブリエそれぞれに向かう街道も敵に押さえられた模様」なので「バゼーヌ軍を援助するためには北上した後、ベルギー国境付近を東進するしかない」と考えますが、バゼーヌ軍との合同に勝機を見い出せないマクマオン将軍は「折衷案」に賭けることとするのです。
即ち、「メッスへ向かうのもパリに向かうのも」可能とするため、まずは普皇太子の軍を忌避し北西方向に進み、適宜に迂回路を使用しつつ概ね北上し、戦況によってパリかメッスかどちらにも駆け付けることが出来る位置を探る、ということでした。
この、「アフリカとクリミアの勇将」が軍で最も嫌われる「どっちつかず」の方針を選ぶしかない様は、正に仏帝政軍の末期でした。
いずれにせよ、マクマオン将軍はこの方針で遂にシャロン軍を機動させることとなるのです。
キャンプ・シャロンのズアーブ兵




