8月16~22日・独第三軍ムーズ川への前進
※これから後、聞き慣れない仏本土の地名が続出しますので、どうぞ別窓で地図を参照ください。記載地名の日本表記は Google Mapに準拠しています。
北方メッス近郊で第一軍と第二軍が仏バゼーヌ大将率いる「ライン軍」と激闘を繰り広げていた頃、普王国フリードリヒ「皇太子」(実際この時点では「王太子」ですが皇太子で通します)率いる独第三軍は、8月15から16日にかけてムルト川(ナンシー北フルアール付近でモーゼル川に合流する支流)に達し、その前衛はモーゼル川上流部に到達しました。
この時リュネヴィル(ナンシー南東25キロ)に在った第三軍本営は、「ヴルトの戦い」後に西へ逃走したパトリス・モーリス・ドゥ・マクマオン大将の第1軍団とピエール・ルイ・シャルル・ドゥ・ファイー中将の第5軍団、そしてライン川上流地域から消えたフェリクス・ドゥエー中将の第7軍団(実際は17日から移動)を追求していました。
マクマオン大将率いる仏第1軍団の所在は、特派員たちが競って取材し報道する諸外国の新聞や、報道規制が全くと言っていいほど行われていない仏国の新聞報道(帝政であってもさすが自由平等の国と言うべきなのでしょうか)などでシャロン(=アン=シャンパーニュ。ナンシーの西北西136キロ)北西郊外の仏軍一大演習地であることは分かって来ましたが、「迷走」する仏第5軍団や「消えた」第7軍団に付いては皆目分からなかったのです。
とは言え、第三軍本営はこの仏第5や第7軍団についても、遅れ馳せながらも結果シャロンに向かうことはほぼ間違いない、と考え、この日(15日コロンベイの戦いの結果)敗退しモーゼルを渡河したらしい仏バゼーヌ軍も、マクマオン軍と合流するのは確実だろう、と考えていたのです。
このため、第三軍もこのまま西進すれば数日以内に敵と接触することは間違いのないところで、軍の正面と広大に敵地が広がる左翼(南)に注意を向け偵察を強化する事が必要でした。
また、ナンシーの西に構えるトゥール要塞も、今後軍が敵地奥へ侵攻するための連絡線上にある障害物となるため、いずれは無力化を図らねばなりませんでした。
フリードリヒ皇太子と第三軍参謀長ブルーメンタール中将は、これらの状況から軍の第一線をバイエルン王国(以下B)第2軍団、普第5軍団(付属としてヴュルテンベルク王国師団)、普第11軍団の三縦隊に仕立てて西進し、まずはサン=ディジエ(ナンシーの西90キロ)~ジョインヴィレ(サン=ディジエ南南東26キロ)間でマルヌ川到達を目指すことに決します。
更に西、行軍1、2日ほどの距離まで騎兵第4師団を先行させ、同じく南側に騎兵第2師団を放って偵察・警戒を成しました。
軍の第二線はB第1軍団と普第6軍団となり、先行軍団より1日程度の遅れで続行しました。
皇太子は麾下二十数万が「集中」して行軍し、その行動正面も30キロを切る距離で在れば、敵と遭遇しても時期を逸せずに全戦力を決勝点に集中出来ると確信していたのです。
この方針に基付き、フリードリヒ皇太子は16日、8月20日までの行軍予定を発令しました。
それによると第三軍の第一線は、「20日までにトレヴェレ(ナンシーの西58キロ)からゴンドルクール=ル=シャトー(トレヴェレ南東13キロ)の範囲でオルネン川(ゴンドルクール付近からマルヌ県エトルピー付近でソー川と合流するマルヌ支流)の線に到達すること」となっていました。皇太子は続けて「各軍団は行軍の間互いに連携を保ちつつ、前衛は部落に宿営せず必ず野営して前哨を出し、本隊は狭い範囲で宿営または野営すること」「敵との衝突が発生する場合、前衛は後方から本隊が駆け付けるまで時間を稼ぐため必ず守勢を保って防戦に努めること」等訓令するのでした。
この行軍は翌8月17日早朝から開始されます。
騎兵第4師団は17日、ヴォクラール(コメルシーの南19キロ)まで前進し、前衛をムーズ~オルネン川間に進めました。前衛中、驃騎兵第2「親衛第2」連隊の半個中隊はコメルシーまで北上し、独第二軍の先遣前哨としてサン=ミエルまで前進していた普近衛騎兵第2(槍騎兵)旅団と連絡するのでした。
このコメルシーにおいて、この驃騎兵たちは殊勲を上げます。普軍の素早い西進により逃げ遅れた1台の馬車を鹵獲した騎兵たちは、荷物の中から仏郵政省の郵袋を発見したのです。
この中には多数の軍用郵便が混じっており、これにより仏軍の置かれた状況が独側に知られることとなったのでした。
これら郵便物の中には内国の政情不安などの情報の他にも直接的な軍事情報も多数あり、「仏第6軍団の騎兵師団はメッスに前進せずシャロンに在る」こと、「パリ市は急ぎ防衛工事を開始した」こと、「摂政政府は25歳から35歳に至る身体健康な男子を全て軍に召集することに決した」こと、「新設として第12、第13軍団が発足し、ルイ・ジュール・トロシュ将軍とジョセフ・ヴィノワ将軍が軍団長に指名された」ことの他、仏第1と第5軍団の退却行についても新たな情報を得ることが出来たのです。
また、普第11軍団から出された斥候の驃騎兵1個中隊はラルーフ(ナンシーの南南西29キロ)まで進むとこの地で住民を尋問し、その結果「敵の大軍が去る14日、ヴォーデモン(ナンシーの南南西32キロ)からヌシャトー(ナンシーの南西52キロ)に向かって西進した」と伝えて来ました。
騎兵第2師団は17日ジェルベヴィエ(リュネヴィルの南11キロ)へ、その前衛騎兵第5旅団はヴェンヌゼ(ジェルベヴィエの南南西6.4キロ)まで進みます。
左翼南側警戒のため派出され、ガラス工芸で有名なバカラ(リュネヴィルの南東24.5キロ)を越えて進んだ驃騎兵第4「シュレジエン第1」連隊第4中隊は、その前哨小隊をランベルヴィレ(バカラの南西14キロ)まで南下させ、ここで尋問した住民から「仏軍1万2千から1万5千名が8月11日、ランベルヴィレから西へ進んだ」ことを聞き出し、またその目的地は「シャロン演習場」とのことでした。
この報告を聞いた第三軍本営は、この敵は「ヴルトの戦い」以降にライン上流沿岸(コルマール周辺)から去ったフェリクス・ドゥエー将軍の仏第7軍団に違いない、と判断しますが、この軍団に関する情報は今のところこれだけであり裏付ける情報が一切ないため、果たしてドゥエー将軍は情報通りシャロンに向かったのか、または南下したのか、独側では確かめることは出来なかったのです。実際はこの「敵」は仏第5軍団で、ここでも独第三軍が翻弄された様子が窺えます。
騎兵の前進と共に軍団本隊も前進を続けます。
8月17日、普第5軍団の2個(第9、10)師団はポン=サン=ヴァンサン(ナンシーの南南西11.5キロ)とフロロワ(ヴァンサンの南南東5キロ)付近に、第11軍団の2個(第21、22)師団はヴェズリーズ(ヴァンサンの南13キロ)とタントンヴィル(ヴェズリーズの南東4キロ)付近においてマドン川に達しました。第5軍団と行動を共にしていたヴュルテンベルク王国(以下W)師団は、その東方モーゼル河畔のフラヴィニー=シュル=モセル(ナンシーの南14キロ)まで前進し、B第1軍団はムルト河畔サン=ニコラ=ド=ポール(ナンシーの南東11キロ)に達し、B第2軍団はナンシーに留まりました。この日、フリードリヒ皇太子は本営と共にリュネヴィルを発ち、ナンシーに入城しています。
普第6軍団は第12師団をアラクール(ナンシーの東26キロ)から、残余の部隊をブラモン(リュネヴィルの東26キロ)からそれぞれ行軍し、軍本営の去ったリュネヴィル近郊に集合しました。
但し第11師団は、ファルスブール(ストラスブールの北西40キロ)要塞監視のため残った支隊(第51「ニーダーシュレジエン第4」連隊第1,2大隊と竜騎兵第8「シュレジエン第2」連隊第3中隊)と、遙か後方のアグノー(ストラスブールの北26キロ)近郊に留まった架橋縦列、そしてこの日リュネヴィルに在った軍の兵站本部の護衛となっていた第18「ポーゼン第1」連隊の2個中隊を「欠」としています。
翌8月18日、メッスの西で第1第2軍が仏バゼーヌ軍と雌雄を決していた頃。
騎兵第4師団の本隊はドマンジュ=オゥ=オー(コメルシーの南南西22キロ)付近でオルネン川に到達しました。既に17日先遣した驃騎兵の前哨たちは師団本隊の左右前方にあり、この日はソー(La Saulx。オートマルヌ県ジェルメ付近からヴィトリー付近でマルヌに注ぐ支流)川沿いのメニル(=シュル=ソ。サン=ディジエの東19キロ)とモンティエ(=シュル=ソ。サン=ディジエの東南東26キロ)まで到着しており、ここからマルヌ河畔まで斥候を出して偵察と敵の捜索を行っています。
斥候たちはこの日も大活躍で、メニルとシュヴィヨン(マルヌ河畔の要地サン=ディジエの南東18キロ)で郵便配達を捕らえて郵便を押収し、メニルでは8月9日の政変で誕生したパリカオ内閣の内務大臣、ジュリアン・テオフィール・アンリ・シュヴローからムーズ県知事に宛てた電報を入手するのです。この電報によれば、「ナポレオン3世皇帝は17日夕刻時にシャロン演習場にご到着あそばされ」「シャロン演習場では一大兵団が集合中」とのことでした。
これは他の騎兵斥候が入手した情報とも一致しており、それによれば「マクマオン大将麾下の軍は鉄道輸送によりヌシャトーからシャロンに送られ、大将自身もヌシャトーから同地に向けて出発した」とのことだったのです。
また、この地方の仏民間人の噂では、「マクマオン麾下の軍隊以外の仏軍部隊は、ムーズ沿岸地方の護国軍部隊と合流しベルダン要塞に集合した」とのことでした。
この裏付けもない怪しげな噂を以てしてもファイー将軍率いる仏第5軍団の行方ははっきりとせず、独第三軍の最左翼(南)を担当する騎兵第2師団は、ファルスブールから南方へ去ったはずのファイー軍団の情報を求めてこの日も南行し、本隊はシャルム(リュエヴィルの南西28キロ)に、前衛となった騎兵第5旅団はモーゼル河畔のヴァンセ(シャルムの南東4.5キロ)まで進みます。
この前衛から驃騎兵第6「シュレジエン第2」連隊第2中隊が更に南へ派出され、彼らはタオン(=レ=ヴォージュ。シャルムの南南東16キロ)まで達すると、そのすぐ南にある要衝エピナル(タオンの南8キロ)周辺を偵察し、結果「仏軍がこの数日間、モーゼル川を遡上しエピナルへ進んだ形跡は皆無である」との報告をするのでした。
他の斥候が持ち帰った情報とも併せて独第三軍本営はこの日、ファイー軍団の残党も西側へ退却し、ショーモン(ナンシーの南西100キロ)付近からシャロン演習場へ通じるマルヌ鉄道によって輸送されたのであろう、と信じたのでした。
この18日、軍の右翼側ではB第2軍団が第一線に進み出て、トゥール要塞の南側、ピエール=ラ=トレッシュ(トゥールの南東4.6キロ)付近に架橋した軍橋によりモーゼルを渡河し、要塞の西側、そして南側の小部落に入りました。B軍の槍騎兵旅団はムーズ川へ向けて西進し、パニー=シュル=ムーズ(トゥールの西13キロ)に到着します。B槍騎兵の斥候はムーズ川に沿って前進しヴォワ=ヴァコンとコメルシー付近で普第4軍団の前衛部隊と接触しました(既述)。
普第5と普第11の両軍団もこの日西進し、第5軍団の前衛はブレノッド(=レ=トゥール。トゥールの南南西9.5キロ)に、第11軍団はコロンベ=レ=ベル(トゥールの南16キロ)とアラン(コロンベの北北東2.5キロ)との間に進みました。
この両軍団の後方ではW師団が追従し、こちらはオシェエ(アランの北東4.5キロ)まで達するのです。
更にこの後方ではB第1軍団がナンシー南のポン=サン=ヴァンサンとメジエール(ポン=サン=ヴァンサンの南西3.6キロ)間に、普第6軍団がバイヨン(ナンシーの南南東26キロ)まで進み、これで第三軍ほぼ全ての部隊がモーゼル川の線より西に至ったこととなりました。
メニル周辺のソー河畔で殊勲を上げた騎兵第4師団の驃騎兵前哨は、18日夕刻にはアンセルヴィル(サン=ディジエの東5.5キロ)近郊まで進み出ると、ここで初めて仏軍騎兵斥候に遭遇します。しかし双方共に素早く引き上げ戦闘には至りませんでした。
翌8月19日。
アンセルヴィル郊外で野営していた驃騎兵前哨部隊はこの早朝、仏軍歩兵の縦列がサン=ディジエの市街からこちらへやって来るのを発見するのです。普軍驃騎兵たちは直ちに反転し、最終的にスタンヴィル(アンセルヴィルの東北東14キロ)まで後退しました。
この仏軍部隊はアンセルヴィルを通過して東へ進み続け、ラ・ウペット(アンセルヴィルの東4.5キロ)を越え、オルノワ=アン=ペルトワ(ラ・ウペットの東4キロ)とラヴァンクール(ラ・ウペットの東北東5.5キロ)まで進んだ後にようやく止まりました。普軍驃騎兵前哨はスタンヴィル周辺に潜むと、この仏軍やサン=ディジエ方面を監視し続けたのです。
一方この日、普騎兵第4師団の本隊はオルテン川を下流に向かって進み、ムノークール(サン=ディジエの東30キロ)に達しました。その前衛はソー川まで進んでメニル(=シュル=ソ)に到着し、本隊から派出した右翼側の一隊はリニー=アン=バロア(ムノークールの南南東5キロ)からバール=ル=デュク(リニーの北西15キロ)へ進み、左翼側の一隊はモンティエ(=シュル=ソ)からシュヴィヨン(サン=ディジエの南東18キロ)に向かいました。
ところが、シュヴィヨン部落には前日来仏軍前哨歩兵部隊が駐屯しており、激しい銃撃を浴びた驃騎兵の左翼側前衛支隊はダマリー(=シュル=ソ。サン=ディジエの北東11キロ)まで引き返したのです。
仏軍は19日朝にマルヌ鉄道による部隊輸送を完了し、この輸送を援護するためにソー川からマルヌ川にかけて散開していた後衛の諸隊も19日の午後には撤退を始め、この日の夕刻には要衝サン=ディジエからも仏兵は姿を消しました。
シュヴィヨンやラヴァンクールなどで普軍驃騎兵を追い払った仏軍の後衛たちは、撤退の仕上げとばかりにサン=ディジエの東郊外でマルヌ鉄道の線路を破壊した後、シャロンへと去って行ったのでした。
つまり19日、独第三軍の最前衛はヴォージュ山脈に入って以降初めて敵を確認し接触を回復したものの、直ぐにその接触を断たれることとなったのです。
独第三軍の主力部隊はこの19日も西へ進み続けます。
B第2軍団は軍司令官フリードリヒ皇太子の直接命令により、一支隊を編成(B第7旅団・軽騎兵第2「タキシス」連隊*・砲兵2個中隊)し、これをB第7旅団長伯爵ハインリッヒ・バラン・フォン・ティールエック少将に任せ、トゥール要塞周辺に残置しました。ティールエック少将は早朝より部隊を展開して要塞を完全に包囲します。
*注 バイエルン軍の騎兵部隊は「シュフォーレゼー騎兵」ですが、「軽騎兵」と表記しています(ヴァイセンブルクの戦い参照)。
軍団の他部隊は西進し、本隊はレイ=サン=レミ(トゥールの西9.5キロ)まで、前衛旅団はヴォワ=ヴァコンまで進みます。B槍騎兵旅団は軽騎兵第5「オットー王子」連隊をB第4師団傘下に派出した後に先を急ぎ、この日はメニル=ラ=オルニュ(ヴォワ=ヴァコンの西北西7キロ)に至りました。
バイエルン軍歩兵の軍装
その他の第一線部隊ですが、普第5軍団はヴォクラール(ヴォワ=ヴァコンの南10キロ)に至り、W師団はその左翼セプヴィニー(ヴォクラールの南5キロ)に進み、普第11軍団はエピル(=シュル=ムーズ。セプヴィニーの西南西3.5キロ)とソヴィニー(セプヴィニーの南南東7キロ)の間、ムーズ川を挟んで展開しました。
第二線部隊のうち、B第1軍団は前日第11軍団のいたコロンベ=レ=ベルへ、普第6軍団はヴェズリーズ(ナンシーの南24キロ)へそれぞれ到着し、騎兵第2師団は仏第5軍団の退却方向が「西」と判明した後に方向転換し、19日夕方には本隊がヴォーデモンへ、別働する騎兵第5旅団はその北フォルセル=サン=ゴルゴン(ヴェズリーズの南3.5キロ)へ、それぞれ到着し、軍の最左翼(即ち独軍の最南端)を行く驃騎兵第6連隊の第2中隊は、ファイー軍団の行軍方向を見極めたタオン(=レ=ヴォージュ)からミルクール(ヴォーデモンの南南東14キロ)へ進みました。この驃騎兵中隊はこの地でもファイー軍団の行動を掴み、それによると「仏第5軍団は12日から13日に掛けてミルクール周辺に野営した」とのことでした。
独第三軍の兵站本部はこの日、リュネヴィルからナンシーへ進みます。
この19日夕刻、在ナンシーの第三軍本営にポンタ=ムッソンの大本営より電信が届き、それは「グラヴロット会戦」の結果に関する第一報で、皇太子ら第三軍の首脳は初めて大会戦の結末を知ったのでした。
8月20日。
早朝、騎兵第4師団は前哨の驃騎兵部隊から「敵はサン=ディジエ付近からヴィトリー(=ル=フランソワ。サン=ディジエの西北西28キロ)に向けて退却した」との報告を受けます。
師団長の王弟フリードリヒ・ハインリヒ・アルブレヒト親王騎兵大将は直ちに前哨をサン=ディジエに向けて進発させ、本隊も追って前哨が一夜を明かしたスタンヴィルへ向かいました。左翼側の一隊はバザンクール(=シュル=ソ。スタンヴィルの北西4キロ)へ、右翼側の一隊はサヴォニエール(=ドゥヴァン=バール。スタンヴィルの北15.5キロ)へ先行します。
竜騎兵第5「ライン」連隊の一斥候小隊は敵後衛を追ってサン=ディジエを越え、マルヌ鉄道沿いに北西方向に進み、ブレーム(サン=ディジエの北西16キロ)を越えファヴルッス(ブレームの西3キロ)に達するとここで鉄道線路を破壊し、この日は付近に隠れ野営すると、翌21日、ヴィトリーの街に接近するのでした。
独第三軍の第一線部隊はこの日、オルネン川に到達します。
まず、B第2軍団は前衛旅団がリニー=アン=バロワ(ヴォワ=ヴァコンの西22キロ)へ進み、本隊は槍騎兵旅団のいたメニル=ラ=オルニュに達します。その槍騎兵旅団は騎兵第4師団の右翼側、バール=ル=デュクに進みました。また軍団はその右翼側(コメルシーやムーズ川西岸)において、隣接する普第4軍団や普近衛騎兵の前哨らと連絡を取り続けるのです。
普第5軍団はトレヴェレ(リニー=アン=バロワの南南東11キロ)からドマンジュ=オゥ=オーに掛けてのオルネン河畔に至り、この日新たに編成された前衛支隊(第18旅団・竜騎兵第4連隊・砲兵第5連隊重砲第1,2中隊、工兵第5大隊第1中隊と軽架橋縦列、衛生隊)はエヴィリエ(トレヴェレの西5キロ)付近へ進みました。
W師団は第5軍団の左翼に並び、ウドレンクール(ドマンジュの南南東4キロ)付近に、普第11軍団はその南ゴンドルクール(=ル=シャトー)からデンヴィル=ベルトレヴィル(ゴンドルクールの南8キロ)間に進み、その前衛はマンドル=アン=バロワ(ゴンドルクールの西9キロ)まで進みます。
バイエルン軍猟兵の軍装
その後方第二線はこの日ムーズ河畔に到達し、一部は渡河して先に進みました。
北から、B第1軍団はヴォワ=ヴァコンに、普第6軍団はパニー=ラ=ブランシュ=コート(ヴォクラールの南南東8キロ)とマクセ=シュル=ヴェーズ付近(ヴォクラールの南7キロ)に、騎兵第2師団はマルティニー(=レ=ジェルボンヴォー。ヌシャトーの北東12.5キロ)からヌシャトー北東郊外間に、それぞれ前進しています。
この騎兵第2師団の前哨がヌシャトー市街に侵入して偵察し報告するには、「敵の大軍は当地(ヌシャトー)よりシャロンへ鉄道により輸送されたことを確認した」とのことでした。
また、エピネルから南の地方を一巡した斥候によれば、「エピネル周辺では仏軍兵士は居ないものの、武器を携帯し制服を着用した多くの護国軍兵士の姿が目撃された」のでした。
この8月20日、フリードリヒ皇太子の第三軍本営はナンシーからヴォクラールへ移動します。
ヴォクラールに到着直後、皇太子と第三軍本営は19日午前11時発令の普大本営命令を受領しました。この命令は例の「新編成」命令で、「新設マース軍と協働し最終的にはパリへ進撃」することを明確に命令しています。しかし、第三軍には「メッスから進撃するマース軍が貴軍と一線に並ぶまで現在位置に留まる」ことを命じており、ただ「騎兵師団のみは連日遠距離まで斥候偵察を出し、軍の正面及び左翼(南)を捜索すること」「軍先頭にある騎兵第4師団は出来る限り敵地の鉄道停車場並びに鉄路を破壊し鉄路を搬出し去ること」などを命じており、大本営は第三軍に対し「なるべく敵との接触を回復すること」を期待していたのです。
この命令を受けた独第三軍諸隊は、翌21日と翌々22日、20日に到達し野営・宿営した諸地点に駐留しました。この期間にマンドル=アン=バロワにいた第11軍団の前衛支隊は新たに編成した前衛支隊(第43旅団・驃騎兵第13連隊・砲兵第11連隊重砲第3,4中隊、工兵第11大隊第3中隊)と交代しました。
騎兵第4師団はこの「大休止」期間も活動を続けます。
21日、師団の最先頭でヴィトリーに向かっていた竜騎兵第5連隊の一斥候小隊は、市郊外で仏第5軍団の第1師団(フランシス・オーギュスト・ゴーズ少将指揮)所属の兵士を捕らえました。
当時ヴィトリーの中心街は四面型の要塞でしたが、普竜騎兵の斥候小隊が市街地に侵入してみれば要塞に守備兵を見ず、周辺の住民を尋問すれば「仏軍の最後尾部隊は昨晩シャロンに向かって撤退して行った」とのことだったのです。竜騎兵小隊はヴィトリー要塞を占領しようとしましたが、この時周辺の市街地より散発的な銃撃を受け、「ライン」竜騎兵たちはこの正体不明の敵により騎兵の小隊ではこれ以上は難しいと考え、一旦郊外まで引き上げるのでした。
槍騎兵第6連隊はこの21日師団前衛に加わります。これにより元より前衛の任にあった竜騎兵第5連隊の第3,4中隊は「敵を捜索し発見して接触を保つ」ことを命じられてヴィトリーに向かい、翌22日、ウルトポン(ヴィトリーの北東8.5キロ)に達してここで斥候小隊を回収し軍使を街に送り込みました。
この軍使は門外より開城を迫りましたが、仏兵より銃撃を受け敢え無く引き返します。
普軍ウーランの偵察斥候
独第三軍の左翼を任される騎兵第2師団は22日、オートマルヌ県の首邑ショーモン(サン=ディジエの南60キロ)からラマルシュ(ショーモンの東49キロ)、マルティニー=レ=バン(ショーモンの東51.5キロ)、ダルネ(ショーモンの東68キロ)に至る広範囲に偵察隊を派出しました。
この22日には普第11軍団から極めて重要な情報が軍本営にもたらされます。
第11軍団は軍の命令に則って20日午後遅くより鉄道の破壊、長距離の偵察行、野営・宿営地周辺部での食糧・物資の徴発などを行っていましたが21日早朝、驃騎兵第14連隊の半連隊(第3,4中隊)に工兵小隊を付随し、これを伯爵フォン・シュトラハヴィッツ少佐が率いてジョインヴィレ(サン=ディジエの南東26キロ)に向かい、少佐は22日になって同地より以下の報告をするのです。
「仏軍の一支隊は去る8月16日、ショーモンよりジョインヴィレに北上した。この目的は、約2万名の仏第5軍団が同地を通過する際の護衛にあった。仏第5軍団は徒歩行軍あるいは鉄路により同地を通過して行った。ジョインヴィレ停車場に保管してあった運行記録によれば、敵は18、19の両日、合計20編成の列車を同地よりシャロンへ運行している。但し、ゴーズ及びジョセフ・フローラン・エルネスト・ギョット・ドゥ・レスパール将軍麾下の両師団歩兵はサン=ディジエ並びにヴィトリーまで鉄道輸送された後、徒歩行軍に移り、ブラオー将軍の騎兵師団は直接シャロンに向けて騎行した模様である。敵は最終的に19日深夜、ジョインヴィレ停車場より撤退し、街には現在仏軍は存在しない」
この報告によってファイー将軍率いる仏第5軍団は現在、ヴィトリー方面からシャロン大演習場に行軍していることが確認されたのでした。
こうして8月22日夕刻において、独軍でシャロン(そしてその先パリ)に向けて行軍する第三軍とマース軍が50キロ程度の一線上に並ぶこととなります。
ザクセン王太子率いるマース軍は騎兵4個師団を前衛としてムーズ川沿いに並び、その最左翼(南)はコメルシー周辺に位置する普第4軍団で、最前線(ムーズ川西岸ベルダンの南)には近衛騎兵師団の前衛2個支隊が突出していました。
独第三軍は普第4軍団の直ぐ左翼(南)にB第1軍団、その左翼に普第6軍団が並び、最左翼となった騎兵第2師団は遠くヌシャトーの南側まで捜索していました。
第三軍主力はその西側、オルネン川の線に並び、バール=ル=デュクの街に入ったB第2軍団前衛のB槍騎兵旅団を右翼に、B第2、第5、第11軍団が一線状に並びます。
王族アルブレヒト親王率いる騎兵第4師団は、その前衛を西方遠くヴィトリー(=ル=フランソワ)まで派出し、マルヌ沿岸を偵察中でした。
この後、シャロンを目指す独軍の行軍は、仏軍が決戦を挑んで前進しない限り広いマルヌ川一帯の平原と高地正面に横一線となって前進可能となり、多くの街道を使用することで前進速度を上げることが出来ます。
マース軍がシャロンに向うと言うことは、仏シャロン軍にとってメッスのバゼーヌ軍と合流するための前進を行うにあたり、これと真っ向から衝突することとなり、また、マクマオン将軍が直接メッスへ向かう行動を採ると、南側、即ち仏シャロン軍の右翼側を独第三軍に晒すこととなるのです。
いずれにせよ、独軍はこの後数日以内に仏シャロン軍と決戦することを覚悟することとなったのでした。




