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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
253/534

8月19~22日・マース軍編成とメッス包囲の開始

 8.21-22メッス西のマース軍布陣


挿絵(By みてみん)


 「グラヴロット/サン=プリヴァの戦い」の翌日、8月19日は普仏戦争でも重大な一日となります。


 この日黎明時より偵察に発った騎兵斥候たちの報告は、全て仏バゼーヌ軍がメッス要塞の周辺に退却し、その要塞砲の庇護下に入ったことを示していました。

 この結果、ルゾンヴィルにあった普大本営は午前11時、モルトケ参謀総長の名で第一軍と第二軍本営およびその司令官に対し以下の命令を下します。


「貴軍は前日会戦の勝利により、早急に麾下諸隊に対し十分な休息と人員及び物資の補充を行うことが必要である。その後各軍はパリに向かい一斉に行軍し、目下シャロン(=アン=シャンパーニュ)にて集合編成中である敵新軍に対し十分な戦力を準備することが肝要となる。

また、メッス方面に退却した仏軍は未だ西方に脱出する可能性があることを以て、次のような編成を行う。

6個軍団をモーゼル西岸に配し、昨日占領した高地尾根に布陣して仏軍の西方脱出を阻止し、1個軍団と予備師団をモーゼル東岸に留めるが、東岸包囲の部隊は優勢な仏軍が要塞から出撃し攻撃を受ける場合は速やかに退避せよ。

国王陛下はメッス要塞包囲のため、第一軍及び予備第3師団の他、第2、第3、第9、第10の諸軍団を指名しこれに当たらせることとした。

この包囲軍総司令官としてはフリードリヒ・カール親王騎兵大将が任ぜられる。

西へ進む近衛、第4並びに第12の3個軍団と第5騎兵、第6騎兵の両師団は本来の戦闘序列(独第二軍所属)に復帰することが可能となるまで、ザクセン王国王太子アルベルト殿下の指揮に服することを命ずる。殿下の本営は直ちに編成作業に入る。

メッス包囲軍のモーゼル西岸部隊が布陣する現在占領中の高地尾根には陣地線を築き、諸隊はその後方のオルヌ川までの間に宿営し、第二軍より分離された3個(近衛・4・12)軍団はオルヌ及びイロン川の河畔に宿営せよ。

皇太子殿下の第三軍は一時マース(ムーズ)河畔で停止する。

大本営は暫くポンタ=ムッソンに留まる。第2軍団は歩兵1個大隊を護衛として大本営に残留させよ。

フォン・モルトケ」


 第一軍のシュタインメッツ大将はこの命令に従い19日、全軍団諸隊を現在地に留めます。同時に第7軍団のツァストロウ大将に命じて、フランセキー大将の第2軍団が開始している陣地構築工事と連携し、ヴォー森の東方とジュシー付近の高地上に陣地を構築するため準備を始めさせ、その東方にいる仏軍の動向を探らせます。

 この日、プラップヴィル方面の仏軍は新たな散兵陣地線を築き始め、2、3個大隊をジュシー東方のシャテル渓谷に派出させました。また、その北ムーラン(=レ=メッス)方面では砂塵が激しく巻き上がっており、これは大軍がモーゼル川を渡河して東岸へ移ったことを示していたのです。

 

 会戦後も独軍占領地に留まり、仏軍捕虜の負傷者を治療していた仏軍の一軍医は、多数の負傷兵のため薬品の備蓄をメッス要塞から取り寄せて欲しいと懇願しました。これを承知した普大本営は一人の参謀を軍使に仕立て、軍使は白旗を掲げて前線を越えようとしましたが、会戦直後で気が立っていたのか仏軍前哨から猛烈な銃撃を受けてしまい、同行したラッパ手が負傷してしまいます。このため、軍使は目的を果たせず引き返したのでした。


 カール王子は19日昼前にルゾンヴィル大本営にて自らモルトケの編成命令を受領すると、午後1時30分、新設マース軍に属する軍団と騎兵師団に対し、新たな部署に基づき行動し、現在の陣地を防衛に任ぜられた他部隊に譲るよう命じたのです。

 この命令により、第10軍団はサン=プリヴァ周辺からモーゼル川下流(北)渓谷に至るまでの地域を担当することが決したため、ザクセン(第12)軍団と交代するために行動を開始し、第12軍団はジャルニー(ドンクール北西3.5キロ)及びコンフラン(=アン=ジャルニジー。ドンクール北西6.3キロ)へ、騎兵第5師団はブリエへ、騎兵第6師団(驃騎兵第3連隊除く)はヴィル=シュル=イロン(マルス=ラ=トゥール北北西2.7キロ)へ、それぞれ向かって移動を開始しました。近衛軍団はアノンヴィル(=シュゼモン。マルス=ラ=トゥール西4キロ)方面へ向かうよう命じられていましたが、この19日はサン=プリヴァ西方の地に留まります(後述)。

 また、シュタインメッツ大将に預けられていた第2軍団は、モスクワ農場からサン=プリヴァ南郊外までを守備範囲として布陣することとなって北上し、モスクワ農場から南側は第8、第7両軍団が担当することとなります。

 モーゼル東岸は第1軍団が包囲網南側、予備第3師団が包囲網北側を担当し、シュタインメッツ将軍はマントイフェル大将とクンマー中将に対する同日夕刻の一般命令で「騎兵を適宜使用してメッス要塞と外部との連絡を阻止せよ」と命じています。


 「メッス攻囲軍」司令官となったカール王子は翌20日午前8時、第一軍シュタインメッツ大将、第2軍団長フランセキー大将、第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将、第9軍団長マンシュタイン大将、第10軍団長フォークツ=レッツ大将、騎兵第1師団長ハルトマン中将をヴェルネヴィル近郊に召集し、メッス包囲に関する詳細な命令を直接伝達しました。


 モーゼル東岸に展開する第1軍団、騎兵第3師団、予備第3師団は以下の命令を受けます。


◯前哨線を設けてメッスと外部との連絡を遮断、騎兵を重用すること。

◯敵がモーゼル沿岸を北上してティオンヴィル方面へ突破を試みる場合を想定し、戦力の大部分を即座に陣地線に展開可能なように宿営を定めること。この行動を容易にするため、モーゼル上流オーコンクール(モーゼル西岸・メッス北11キロ)付近に架橋し、橋頭堡を設けてこの渡河点を守備せよ。この架橋と防御施設の施工は第10軍団の担当とする。

◯現在、レミリー(クールセル=シュル=ニエ南東8.5キロ)の鉄道停車場が総軍の補給端末駅であり、この地には補給物資備蓄の大倉庫群が建設予定となっているため、この停車場を防衛する陣地構築と警戒任務を第1軍団が担うこと。なお、この停車場が攻撃を受けた場合は、隣接する軍団(第7と第10)より援助を受けることとする。

◯敵がもしモーゼル東岸において想定外の本格的攻撃を開始した場合、東岸の諸部隊はこれとの衝突を避けて退却し、優勢な敵に対する犠牲的な攻撃を慎むこと。


 この命令を見ても分かる通り、カール王子、更には大本営のモルトケの構想では、モーゼル東岸においては単に仏軍の連絡線を寸断するに留め、重要な拠点のみ警護して、強力な敵の攻撃に対しては受けて立たずに後退することとなっています。これは、バゼーヌ軍が「モーゼル川東方」へ動く可能性を低く見積もって、ただ独軍の連絡線のみを切断されないようにすることだけに重きを置いていた、とも言えるのです。


 逆に、モーゼル西岸では「形勢の如何を問わず」仏軍の突破を許さず、この目的を達成するために強力な防御線を構築するようにするのでした。


 モーゼル西岸では、最右翼(南側)アルの北でモーゼル川を挟み第7軍団を置き、その左(北)に第8軍団が連携してモスクワ農場までを守り、第2軍団はモスクワ農場からサン=プリヴァまで、第10軍団はサン=プリヴァからモーゼル渓谷までを守るのです。

 このモーゼル西岸に展開する諸隊は以下の命令を受けます。


◯敵が万が一モーゼル西岸からティオンヴィル方面への突破を図った場合、第10軍団が準備する陣地と衝突するように整備せよ。この陣地帯は同時にモーゼル架橋の軍橋を守り、場合によっては北上する敵の左翼側を突くための橋頭堡となり、東岸北部の友軍を援助するための基盤ともなる重要な拠点となるよう心得よ。

◯敵が万が一真西へ向かい突破を図った場合、まずは第一線にある諸隊は散兵線壕と野戦堡塁を備える防衛線によりこれに抵抗せよ。後方部隊は直ちに前線を援護せよ。

◯敵が万が一南へ向かいポンタ=ムッソンへの攻撃、または突破を図った場合、これを阻止するのは第7軍団とする。このため同軍団はモーゼル川のメッスより上流の地区にてその両岸に跨って陣地を構築し、同時に軍仮設橋・既製橋梁によって相互交通を確実とし、左右両岸の近接軍団よりの応援が来るまで抵抗を続けること。


 この第一線となった4個軍団に対しては、防衛線上に強力な部隊を備え、また、早期に防衛陣地帯を整備するために、連日工兵のみならず一部の兵士を工事に投入させることが命じられます。工事から外れた諸隊には、この陣地帯から適当な距離に補給廠や宿営を設営するのでした。


 包囲陣地帯後方の予備に指定された第3軍団はコル農場の付近、第9軍団はサン=アイルとサント=マリー近郊に設営するよう命令されました。第3軍団が包囲線右翼、第9軍団が左翼の予備となります。

 第一軍に対してはティオンヴィル要塞もモーゼル両岸から包囲下に置くため、騎兵2個連隊を同地へ送るよう附則命令が下ります。


 命令には後方業務についての指示もあり、一時ドンクール部落に本営を置くカール王子の下まで各軍団本営から電信線を敷設することや、前述通りルミリーやポンタ=ムッソンに補給倉庫を設営すること、軍団後背の地方に徴発区域を設け、徴発の範囲も拡大することなども命じられました。


 フォン・シュタインメッツ大将はこれらの命令により、麾下諸隊に対し以下の配置を命じました。


○モーゼル川東岸地区諸部隊(第7軍団除く)

 司令官 フォン・マントイフェル大将

防衛区域 モーゼル川下流域(ティオンヴィル含む)とオルニー(メッス南南東12キロ)~コルニー(=シュル=モセル。同南西12.5キロ)~フレスカティ(同南西5.5キロ)~メッス線上

○第7軍団

 フォン・ツァストロウ大将

防衛区域 フレスカティ(東岸)~ジュシー(西岸)

 川の両岸に防御陣地を設営し、第8軍団と連絡しつつ敵の南下に備える。第8軍団の架橋縦列を併合してメッス要塞の上流(南流域)に出来るだけ多数の仮橋を設営する。

○第8軍団

 フォン・ゲーベン大将

防衛区域 ロゼリユ付近ヴォー森~モスクワ農場


 カール王子は各司令官の命令受領時に口頭で「包囲線の陣地工事に当たっては、簡単な盛り土による堤ばかりでなく、長期に渡る使用に耐える強固な工事も行う」よう特に命じるのでした。

 シュタインメッツ将軍も麾下軍団長や工兵部隊に対し「急ぎ強固な包囲線を成すため、各軍団は全力を尽くしあらゆる方法を試して実施」するよう命じたのです。


 この命令に従い、各軍団や師団は19日午後から行動を開始しました。


 モーゼル東岸のマントイフェル「兵団」は、それまでの命令により南下する行軍を準備していましたがそれを中止し、包囲線の構築を開始します。

 第10軍団は19日午後一杯に掛けてサン=プリヴァとロンクール間に展開し、第12軍団との任地引継を完了しました。

 第12軍団は19日夜間から徹夜で行軍し、20日朝に本営により定められたコンフラン周辺の宿営地に到着しています。

 騎兵第5師団は同じく夜間行軍で20日朝ブリエに到着、周辺で野営を始めました。

 騎兵第6師団は19日午後ドンクールを発しヴィル=シュル=イロンへ行軍します。但し、驃騎兵第3「ブランデンブルク」連隊は一時メッス前面に留まることとなり、歩兵第14師団の騎兵部隊だった驃騎兵第15「ハノーファー」連隊がこれに代わって騎兵第15旅団に転属し行動を共にしました。


 近衛軍団はアルベルト・ザクセン王太子の指揮下になると、軍団長アウグスト・ヴュルテンベルク王子はアルベルト王子に懇願して許可を得た上で、19日一杯その激戦地に留まり、戦死者を埋葬しおびただしい負傷者の処置を行いました。そして夜が明けるとアノンヴィル、スポンヴィル、マルス=ラ=トゥール方面へ行軍を開始し、20日夕刻までに同地方で一部は野営、一部は家屋を接収して宿営し、激戦の疲れを少しでも癒そうとするのでした。

 近衛軍団が出発するまで、従前の野営地で損耗した部隊の再編成や補給作業に従事していた第2と第9の両軍団は20日午前、静かに近衛軍団が戦場から去って行くのを見送った後、急ぎ包囲分担地まで移動して、周辺で野営を始めました。


 「マルス=ラ=トゥール」と「グラヴロット」両会戦に参加しなかった唯一の第二軍配下軍団、グスタフ(G)・フォン・アルヴェンスレーヴェン歩兵大将率いる普第4軍団は、8月17日に本隊をメニル(=ラ=トゥール。ポンタ=ムッソン南西20キロ)に、前衛をブック(同南西27キロ)まで進めていました。18日早朝、G・アルヴェンスレーヴェン軍団長はムーズ河畔のコメルシー(ブック西12キロ)に向かって出立しようとしますが、寸前で情報報告のため第二軍本営に向かった連絡士官が帰着し、カール王子による「第4軍団は一時現在地に駐留し、トゥール要塞も監視せよ」との命令を差し出しました。

 このため、第7師団はブーヴロン(メニルの南南東3キロ)からフランシェヴィル(ブーヴロンの東3.8キロ)まで広がって展開し、前衛はブックから南西方向へ進み、ムーズ川を渡って西岸にまで偵察を出し、ヴォワ=ヴァコン(コメルシーの南8キロ)でフリードリヒ皇太子の第三軍(バイエルン第1軍団でした)と連絡を通し、第8師団はアンディリー(メニルの東1キロ)からサンゼ(同北北西2キロ)の間にあってムーズ沿岸のサン=ミエル(コメルシーの北北西15キロ)付近まで斥候を出しました。

 この日、軍団本営はロワイヨーメ(メニル北1.5キロ)に置かれます。


 G・アルヴェンスレーヴェン大将がグラヴロット会戦の詳細を知ったのは19日午後のことで、夕方に至り、ムーズ沿岸サン=ミエル付近まで前進していた近衛槍騎兵旅団からの通報により、メッスからベルダンに至る諸街道には敵が存在しないことも知りました。

 また、トゥール要塞監視のため第7師団より前哨として送られた騎兵斥候からは、「トゥール要塞は既にバイエルン軍が包囲しており、独第三軍の主力部隊は既にムーズ川沿岸まで進出している」との報告も届いたのです。

 この状況を知った将軍は、前日に中止した「ムーズ川」への前進を再開することにして翌20日早朝に野営地を出立し、この日夕刻までに前衛をコメルシーまで進め、軍団諸隊をその北東1.5キロのヴィニョ部落まで前進させ、その部落周辺で野営させるのでした。

 第二軍本営より軍団を探して西へ進んだ連絡参謀はこの夕暮れ時、コメルシーでG・アルヴェンスレーヴェン将軍と出会い、将軍は自身の軍団がザクセン王太子の指揮下となったことを知るのでした。


 以下に8月20日夜における第一軍と「旧」第二軍に属する諸隊の位置を記しましょう。


☆大本営 ルゾンヴィル(~18日)/ポンタ=ムッソン(19日~)

☆メッス包囲軍

・本営 ドンクール


○マントイフェル兵団

・兵団本営 プイイ(メッス南7.5キロ)

・予備第3師団 ファイイ及びルトンフェ付近

・第1軍団第1師団 ジュリー、フロンティニー及びシニー(ジュリー南南西2キロ)付近

・第1軍団第2師団 クールセル=シュル=ニエ、ラクネイー及びオニー(メッス南南西7.5キロ)付近

・第1軍団砲兵隊 メクルーヴ付近

・騎兵第3師団 コアン=レ=キュヴリー付近

○第7軍団

・軍団本営 アル(=シュル=モセル)

・第13・第14師団 フロンティニー近郊~モーゼル川~ジュリー西側高地まで

○第8軍団

・軍団本営 グラヴロット

・第15・第16師団 「ジュールの家(ポン=デュ=ジュール)」東方高地尾根一帯(北はモスクワ農場まで)

○騎兵第1師団 ルゾンヴィル周辺

○第一軍本営 アル(=シュル=モセル)


○第2軍団

・第3・第4師団 モスクワ農場北からサン=プリヴァ南郊外まで

○第10軍団

・歩兵第17連隊F大隊 ブロンヴォー

・歩兵第92連隊第2大隊 マランジュ(=シルヴァンジュ)

※この2個大隊はモーゼル下流渓谷で仏軍によるメッスからの北進を監視

・残部隊(第19・第20師団) ロンクール東側からサン=プリヴァ南東側までのジョーモン森林地帯

○第3軍団(第5・第6師団) ヴェルネヴィル周辺

○第9軍団(第18・第25師団) サン=アイル及びサント=マリー周辺


 なお、第12「ザクセン王国」軍団と普近衛軍団の架橋縦列と所属工兵大隊は、下記の軽架橋縦列1個と2個中隊を除き、カール王子の手元に残留し、包囲網の防衛線工事やモーゼル川での架橋に従事することとなります。特にザクセン軍団の架橋縦列はモーゼル下流(北)第10軍団の戦区において活躍するのでした。  

 ※ザクセン工兵大隊第3中隊と、普近衛野戦工兵大隊第1中隊に付属の野戦軽架橋縦列は所属軍団に残留し、マース軍と共に西進することになります。


☆マース軍(独第四軍)

・本営 ジャルニー

○第12軍団

・本営 ジャルニー

・第23師団 アトリズ(ジャルニー北4.8キロ)付近

・第24師団 コンフラン(=アン=ジャルニジー)付近

・騎兵第12師団 ジャンデリズ(ジャルニー西6.5キロ)付近

・軍団砲兵隊 ジローモン(ジャルニー北東3キロ)付近

○近衛軍団

・本営 アノンヴィル(=シュゼモン)

・近衛第1師団 スポンヴィル(シュゼモン南3キロ)付近

・近衛第2師団 ラテュール=アン=ヴォエヴル(シュゼモン西南2キロ)付近

・近衛騎兵師団 スポンヴィル及びピュクス(ジャンデリズ南近郊)付近

・軍団砲兵隊 アノンヴィル(=シュゼモン)付近

○第4軍団(第7・第8師団) コメルシー及びヴィニョ付近

○騎兵第5師団 ブリエ付近

○騎兵第6師団 ヴィル=シュル=イロン付近


 このザクセン王太子アルベルト大将率いる「マース軍」の特徴は、騎兵師団が4個も所属することで、参謀本部のモルトケ大将はフリードリヒ皇太子率いる独第三軍との連携において、素早い機動と敵情偵察のため、シャロンに向かうマース軍を機動性重視で仕立てたことが分かります。

 普墺戦争以前から軍事的才能を評価され、「サン=プリヴァ」でも会戦の勝敗を決するモントワ=ラ=モンターニュへの迂回機動を独断で行ったアルベルト王子は、このマース軍司令官に任命され張り切っていました。


 アルベルト王子は早速21日の夜明けと共に、マース軍の騎兵を活用する策に出ました。モルトケも期待した通り、騎兵4個師団全てを行軍の前面に押し出したのです。


挿絵(By みてみん)

 普軍のウーラン(槍騎兵)


 この日騎兵第5師団はエテン(ブリエから西へ直線距離で23キロ)に、騎兵第6師団はフレンヌ(=アン=ヴォエヴル。イロンから西へ直線距離で17キロ)まで一気に前進し、騎兵第12「ザクセン」師団はその後方アンヌモン(ジャンデリズの西南西9.5キロ)まで進みます。

 一番西まで進んでいた近衛騎兵師団は南西の方向サン=モーリス=ス=レ=コート(スポンヴィルの西南西13キロ)まで進み、ムーズ(マース)川の西岸、ヌーヴィル=アン=ヴェルデュノワ(サン=ミエル西北西18.5キロ)とヴィヨット=シュル=エール(サン=ミエル西南西14.5キロ)まで広範囲かつ長距離に斥候を派出しました。

 第12軍団は21日ジャンデリズまで進み、近衛軍団はヴォエル(アノンヴィル=シュゼモン南西10.5キロ)及びアノンヴィル=ス=レ=コート(アノンヴィル=シュゼモン西南西14.5キロ)まで前進しました。

 第4軍団はこの日はコメルシー付近で駐留し、22日早朝に前衛のみムーズ西岸のションヴィル=マロモン(コメルシーの西6.5キロ)まで進んでいます。


 8月22日、マース軍はほとんどが前日の位置に留まり、アルベルト王子はジャルニーからジャンデリズに進んで、この地でマース軍本営を正式に発足しました。

 マース軍は参謀長に前ヘッセン騎兵旅団長の普軍人男爵カール・ルートヴィヒ・フォン・シュロトハイム少将を受け入れます。興味深いことにシュロトハイム将軍は普墺戦争時ヘルワルト・フォン・ビッテッンフェルト大将率いるエルベ軍の参謀長を務めており、「ケーニヒグレーツの戦い」ではプロブレス=プリムの高地を廻る攻防戦でアルベルト王子率いるザクセン軍と戦っているのです。

 また、アルベルト王子に代わって第12軍団長には弟の親王ゲオルグ・ザクセン中将が昇格し、第23師団長は第46旅団長だったアルバン・フォン・モンベ大佐が少将に昇進しゲオルグ王子の代理となるのでした。

挿絵(By みてみん)

 シュロトハイム

挿絵(By みてみん)

 モンベ




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