8月中旬のメッス近郊三会戦とは何だったのか
1870年8月14日の「コロンベイ/ヌイイの戦い」から、同16日「ルゾンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」を経て、18日の「グラヴロット/サン=プリヴァの戦い」までの三つの会戦は、その規模といい重要度といい、正に普仏戦争の行く末を決定付けた戦いと言えます。
また、この三つの会戦は連続した「一つの流れ」で起きた事象であり、一つの大きな戦い、とも呼べる代物でした。
仏バゼーヌ大将の「ライン軍」はこの三会戦によってメッスに封じ込まれ、独軍は東側のバゼーヌ軍を監視・包囲しつつ、西側のマクマオン大将率いる「シャロン軍」との決戦を期すため、軍を分割する羽目となりました。
独帝国軍参謀本部編纂の公式戦史はこの三会戦を称してこう言います。
「独軍は三会戦の結末を予測出来た訳ではなく、その戦闘勃発時、その後に起こる一連の出来事を洞察出来た訳でもない。独軍では敵の意図を読み違えたために多くの過誤が生じたが、その場その場で現状を迅速かつ上手に利用し、その度に敵を出し抜き勝利を収めた」(筆者意訳)
このフランスにとって最悪の状況に貶めた責任は、ナポレオン3世皇帝自身とル・ブーフ大将、そしてバゼーヌ大将にあったことは既述通りです。そして彼らが優柔不断(メッスに籠もるのかベルダンへ退くのか決められない)に陥ったことで、そもそも仏軍に内在していた最大の弱点である「硬直した上下関係」「徹底し過ぎた命令服従」が独軍を大いに助けることとなった、と結論出来るでしょう。
ナポレオン3世皇帝とその参謀長だったル・ブーフ大将に悩まされたとは言え、この「グラヴロットの戦い」では皇帝は西へ去り、ル・ブーフは(腹に一物あったにせよ)部下となり、バゼーヌは初めて己の責任において自由に采配を振るえたはずでした。
しかし、その采配は常に「メッスから離れず防御」に徹しており、メッスと自軍との間に敵が入り込むのではないか、と常に「怯えて」いる様子が窺えるものでした。
多くの戦史家が言うには、サン=カンタン山を中心に南北に構えている仏軍とメッス要塞との間に「割って入る」等と言うことは、モルトケ始め独軍の誰一人考えていなかった、とのことです。
確かに戦線中央には未完成とは言え、サン=カンタンとプラップヴィルの堡塁があり、モーゼル川もあり、森林と深い渓谷が走る起伏の激しい山地もありで、ここへ大軍を突入させる等と言うことは常識では考えられません。また、この時点での独軍にとってメッス要塞とは、パリに至る途上にある「厄介な場所」程度であり、どうしても確保しなくてはならないものではありません。そこにバゼーヌ軍が居座れば、その後の展開のように「攻囲軍」を置かねばならないのですが、仏軍は中途半端に西側に飛び出していたので、既にモルトケの頭でメッスとは「予備」第3師団の2万名だけで対処出来る存在だったのです。
また、バゼーヌは「南側から割って入ろうとする独の予備軍」を恐れる余り、戦線の弱点であり西方突破する場合の起点でもある北部サン=プリヴァ方面を「軽視」してしまうのです。もし、ここに工兵上がりで防御戦の権威でもあるフロッサール将軍と仏第2軍団を置いていたとすれば、普近衛軍団は本当に全滅してしまったのかも知れません。
しかし普軍側にも危険な状況があり、上(大本営と第一・第二軍)も下(各軍団)も「バゼーヌ軍の西方逃走を許してはならない」との「目的」を堅持していたため、バゼーヌのムーズ川突破を防ごうと躍起になり、その結果16日の「過誤」と18日の「過誤」が生じたのでした。
16日の「過誤」とは、仏軍本隊を「後衛」と信じ込み僅か2個(第3と第10)軍団で倍する敵に立ち向かったことで、18日の「過誤」とは、仏軍が西へ突破中との思い込みが大きかったため、敵の大軍の直ぐ真横を「横腹」を晒したまま行軍したことです。
この二つの「過誤」は仏軍にとっての「大いなる機会到来」でしたが、バゼーヌ大将はこの敵の誤りも利用せず、ただメッスから引き離されてはならない、と意固地になったかのように守勢一辺倒で状況を推移させてしまい、仏軍にとって「大逆転」の機会は永遠に失われたのでした。
特に18日の「過誤」は、十数万の敵が大砲の射程内(およそ3.5キロ)にいるというのに気付けなかった、という普軍の恐ろしいほどの過ちで、ある戦史家が「平時の机上研究ならば最低点の落第」と呼ぶほどのお粗末さなのです。
しかし、見方によっては18日の独軍一斉北上は、モルトケの「誘い」となっていたのかも知れず、仏軍が地形や部落を上手に利用した重厚な散兵線を「捨て」て平坦な荒れ野へと飛び出せば、普軍に返り討ちに遭った可能性もまた無視出来ない確率だったと思います。
モルトケが14日の思わぬ戦闘から仏軍の「硬直した」有様を推察していた、と考えれば、この無謀とも言える「敵を捜索するための一斉北上」もまたモルトケ流の「賭」だった、とは言えないでしょうか?
このモルトケの「自信」の裏には、モルトケら普軍統帥部が腐心して取り組み、普軍将兵に叩き込んだ「委任命令」遵守の精神がありました。
遡れば普参謀本部の「父」、シャルンホルストの改革を促進した彼の「ペテロ」、グナイゼナウの革新的構想に辿り着く「委任命令」は、既に独軍全体のドクトリンにまで発展し、高等指揮官の示す「目的」を遵守すれば「独断専行」も可とする方針は、硬直した命令遵守の精神を叩き込まれていた仏軍人から見れば軍法会議ものの行動を独軍に頻発させるのです。
「独軍の高等指揮官はその作戦の意図を下級指揮官に示すとき、ただ、概要だけを説明していた。そのため、下級指揮官たちは作戦全体を承知することは十分に出来ず、指導部が意図する行動を採らずに突き進むこともあったが、その一方で、現場にて己の判断において正しいと信じたことは、自己の責任を以て、これを躊躇わずに実行した」
「この独立独歩の精神を発揮した結果、独軍は敵の思いがけない行動に対しても臨機応変に事態に対応し、言い換えれば戦争目的に利するものとなったのである」
(独公式戦史・筆者意訳)
この「独立独歩の精神」を仏軍側も持っていたならば、この「三会戦」は全て仏軍勝利に終わった可能性がありました。勿論、仏軍側でも独断はありましたが、それは全て限定的で、誰か一人の指揮官がそれを行っても、周辺の同僚たちはそれを効果的に拡大することはせず、やがて独軍側の「独断」による反撃が周囲をも「独断の連鎖」に巻き込んで拡大することで、仏軍の独断攻撃も初期の効果を失っていったのでした。
しかしそれでも敵である仏帝国軍は長い伝統と勝利の華々しい遺伝子を持つ強力な軍隊であり、これを敗退させるためには独軍をして最大限の努力と死を恐れぬ鉄の規律を要したのです。
また、この「独断専行」を許す独軍の気風は、裏返せば功名心と利己的な行動となりやすい欠点も生み出します。
この三会戦でも、上はシュタインメッツ大将から下は名も無き軍曹に至るまで、ほぼ全ての「独断専行」は功名心が垣間見えるというもので、特に「グラヴロットの戦い」における第9軍団長フォン・マンシュタイン将軍の「ヴェルネヴィルの砲声」や、それを聞き及んで突進した第8軍団長フォン・ゲーベン将軍とシュタインメッツ将軍ら第一軍の将星は、カール王子の第二軍を楽にするための「助攻」というより、ただ単に自軍が勝利するため、栄誉を我がものとするために部下を進ませたように見えるのです。
これは近衛軍団やザクセン軍団が大きな犠牲を出した原因の一つであり、フォン・パーペ近衛第1師団長が諭したにも関わらず兵を死地に進めたアウグスト・ヴュルテンベルク近衛軍団長の態度(正に一将功成りて万骨枯る)にそれが象徴されています。
しかし、この「欠点」が数々の勝利を生み出したのは紛れもない事実で、これは彼らドイツ民族の「白黒はっきりとさせる」ことを好み「何事も徹底的にやる」性格と相まって、「終わりよければ全てよし」の成功となるのでした。
サン=プリヴァの戦い
とは言え、この三会戦の凄惨な実状と唖然とするほどの大きな犠牲は、独統帥部の予想を遙かに上回るものがありました。
グラヴロットの戦いで、サン=テュベールからジュールの家に掛けて一斉に仏軍が逆襲した時に我先と逃走した兵士の姿、そして独軍人の死傷者およそ1万(普近衛が8千、ザクセンが2千)が、夕闇迫るサン=プリヴァの西側荒野に累々と転がっている悪夢のような光景は、普軍とモルトケら首脳陣の脳裏に深く刻まれます。
グラヴロットの東部で発生した背筋も凍る普軍戦線の「崩壊」は、猛訓練と万全の教育を施し、恐ろしげなピッケルハウベを被り泣く子も黙ると謳われた勇猛な普軍兵士が、負傷もしていないのに戦線を離脱し雪崩を打って遁走したもので、それもキラ星揃う大本営と第一軍本営の目前で発生し、馬上の将軍たちが恐怖に駆られた兵卒の「波」に晒されて茫然自失する姿は正に戦場の狂気そのものでした。
狂気と言えば、サン=プリヴァ西側緩斜面を血に染めた普近衛とザクセン軍団の突撃もまた狂気の沙汰で、この地で第一軍と同じような「崩壊」が発生しなかったのは、既に夕闇が濃くなり累々する屍が目立たなかったため、等と言われていますが、それは眉唾ものと言え、これは戦場に漲る血のにおいにアドレナリンが沸き立つ「個々人の蛮勇」、近衛・ザクセンの「高いプライド」、そして堂々と先頭に立ち最初に倒れて行く中堅士官たちの姿などが渾然一体となった、「表裏薄皮一枚」で「崩壊」に至る「狂気の戦場心理」なのでしょう。
読者のみなさんはこの姿にきっと「旅順」や「ソンム」などの地名を思い起していることでしょう。人間は戦争については学習能力が著しく劣るという一例です。
グラヴロットの墓地
いずれにせよ、この「狂気」を目の当たりにした後、一兵卒から将軍まで、更に大本営と参謀本部までもが何となく剛胆な言動を慎むようになりました。
会戦の後始末を終えた後、モルトケはヴィルヘルム1世の名を借りて訓令でこう述べます。
「いかなる攻撃も周到な準備なくしては行ってはならない。最初に砲兵を用いて敵を叩き、その後散兵線を前進させる事が大事である。散兵は大いに地形を利用して遮蔽を進み、その際の隊列形態にも留意すべきだ」と。
これ以降の戦闘は、石橋を叩いて渡る式の慎重な戦術に依ることとなるでしょう。
その、「石橋を叩く」式は既にこの三会戦で萌芽の時を迎えていました。
それは正にモルトケが告げている砲兵の使用方法で、それまでの「歩兵の前進後、その後方から援護射撃する砲兵の姿」はこの三会戦中に変容し、まずは十分な射程を得る適地に進んだ砲兵が、連続する榴弾砲撃で敵陣を叩き、その後歩兵が突進するという方式が採用され始めるのです。
現在では当たり前のこの戦術は、正に苦肉の策でした。
それは、仏軍の持つシャスポー銃の性能が独側主要小銃のドライゼ銃を凌駕していたのが原因で、歩兵の突進を文字通りシャスポーの集中射撃で「なぎ払われた」独軍が、敵の主要大砲であるライット式野砲を凌駕する鋼鉄クルップ社製野砲を前面に押し出すことで対抗したために生まれた戦術でした。
この三会戦では歩兵より前に進んだ砲兵が、長射程のシャスポー小銃の狙撃で倒されたり、歩兵に肉薄されて全滅状態になったりと散々な目に遭いましたが、これも後に、歩兵の十分な護衛・援護と敵から十分に離れた陣地に展開することで解決を図って行きます。つまりは、臨機に行っていた砲兵の展開と砲撃を、当初から作戦に組み込んで十分に検討した後、計画的に実行することになる訳で、砲兵士官の地位や作戦を練る参謀の重要性は必然高まることにもなったのでした。
1058高地の第9軍団砲兵
また、劣るとはいえ独軍が長年親しんで我がものとするドライゼ小銃も、敵味方の距離500mを切れば鍛えられた独軍兵士の技量により命中度はシャスポーに負けず劣らず、要は「引き付けて撃てば互角」、その使い様でした。
普軍統帥部は、やむを得ず防御する仏軍に突進する場合は、各隊縦列で進み部隊を連ねて横隊となる「縦列横隊」の隊形を用いるよう命じていました。これは当時の普軍の教範にある「縦長の隊形により戦闘にあたれ」との原則を忠実に守り、戦闘正面を狭くして急速に敵陣へ迫る(前が倒れても後続が直ぐに代われる)方策です。しかし、縦列を持続することは流動的な戦場では中々に難しいことで、突撃は横へ広がり易く、時間経過と共に部隊は錯綜し生き残った兵士らが臨機に合流し敵と戦う場面が多く見られます。しかし、防御戦闘とは概ね近距離で発生するもの(敵陣を突破、占領するには砲兵力だけでは無理で、最後は歩兵の突進を要します)なので、十分な戦力を計画的に用意し、砲撃による敵の衰退後に集中した突撃を行えば、犠牲は自ずと減って行くはずでした。
この「劣る小銃と勝る大砲」の組み合わせと、「蛮勇を以て無闇に突進した果ての大損害」という結果が、この後の独軍の戦闘を「石橋を叩く」式にするのでした。
「砲兵やザクセンの輩如きに頼らずとも」とプライドを賭して突進し戦場の露と消えた多くの普近衛将兵の姿は、その後の独軍将兵に対する大きな「反面教師」となるはずでした。
サン=プリヴァ墓地への突入
この独軍統帥部の慎重な行動は直ぐに現れました。
仏第6と第4軍団は会戦後に夜を徹してメッス方面へ後退し、プラップヴィルからモーゼル河畔までに弱々しい防御線を敷きましたが、その秩序は乱れ戦意は無きに等しかったにも関わらず独軍は追撃せず、独軍統帥部はただザクセンの1個旅団をモーゼル渓谷に送り込み、ティオンヴィルとメッス間の連絡を絶つのみで満足したことです。
もし、この時にメッスを北側モーゼル渓谷から強襲していれば、2、3日でメッス要塞は陥落しただろうに、と責める戦史家もいるほどです。
しかし、これはどう考えても独軍に酷な判定で、犠牲と疲弊を回復する時間は必要であり、また、新たな局面(西へ進んでマクマオンと戦う、というような)を部下に与えて「グラヴロットの悪夢」を払拭し人心を一新させたモルトケは「流石に名将」と思わせるものがあるのです。
とは言うものの、こと「グラヴロットの戦い」そのものについては、モルトケや統帥部を褒め称えることは難しいことでしょう。
この会戦後、その口火を切った第9軍団長、フォン・マンシュタイン将軍を批難する声が独第二軍本営を筆頭に溢れます。曰く「敵の右翼端を読み間違えて窮地に陥り、第二軍の行動を妨げると共に第一軍に誤った行動(早めの開戦)を執らせた」と言うものですが、これは一部の戦史家が擁護するように、マンシュタイン将軍に酷過ぎると言うものです。
敵の右翼端を読み間違えたのはマンシュタイン将軍ばかりでなく、モルトケ参謀総長やカール親王も同罪であり、逆にマンシュタイン将軍は敵を砲撃により「突いた」ことで、敵右翼の全貌が露わになったのですから、賞賛されてもよかったはずなのです。
このことを含めても、「委任命令」により独断で攻撃を行う普軍諸部隊は計画的でなく、正しく遭遇戦の連続で犠牲を増やすものですから、軍の統帥は一体どうなっているのか?との疑問が湧くのです。
「マルス=ラ=トゥールの騎兵と同じくサン=プリヴァの近衛という名が名誉の標語として喧伝させられているが、不名誉なる統帥をカモフラージュするに過ぎない」とは、ある戦史家の感想ですが、全く同意するしかありません。
サン=プリヴァへ突入する普近衛兵
最後に、「グラヴロット/サン=プリヴァの戦い」の双方戦力と人的損害を記します。
☆戦 力
◯仏 軍
歩兵183個大隊
騎兵104個中隊
各種砲520門
戦闘員総計112,800名
◯普 軍
歩兵201個大隊
騎兵124個中隊
各種砲726門
戦闘員総計178,818名
☆損 害
◯仏 軍
戦死1,146名
負傷6,709名
捕虜4,420名
総計12,275名
◯普 軍
戦死5,237名
負傷14,429名
行方不明493名
総計20,159名
サント=マリーの野戦病院
普軍のみ、詳細(馬匹含む)を以下に記します。
(戦死・負傷・行方不明の総計)
○第7軍団
*第13師団
士官17名 下士官兵468名 馬匹25頭
*第14師団
士官14名 下士官兵278名 馬匹58頭
*軍団砲兵隊
士官8名 下士官兵72名 馬匹130頭
*他諸隊(衛生隊など)
下士官兵3名
軍団合計
士官39名 下士官兵821名 馬匹213頭
○第8軍団
*第15師団
士官122名 下士官兵2,206名 馬匹47頭
*第16師団
士官53名 下士官兵841名 馬匹50頭
*軍団砲兵隊
下士官兵30名 馬匹50頭
*他諸隊(軍団本営、衛生隊など)
士官3名 下士官兵3名
軍団合計
士官178名 下士官兵3,080名 馬匹147頭
○騎兵第1師団
士官7名 下士官兵88名 馬匹177頭
○近衛軍団
*近衛第1師団
士官160名 下士官兵4,177名 馬匹180頭
*近衛第2師団
士官140名 下士官兵3,672名 馬匹136頭
*軍団砲兵隊
士官5名 下士官兵60名 馬匹104頭
*他諸隊(軍団本営、工兵隊など)
士官2名 下士官兵13名
軍団合計
士官307名 下士官兵7,922名 馬匹420頭
○第2軍団
*第3師団
士官39名 下士官兵877名 馬匹30頭
*第4師団
士官12名 下士官兵311名 馬匹10頭
*軍団砲兵隊
下士官兵2名 馬匹1頭
*他諸隊(軍団本営、衛生隊など)
士官3名 下士官兵3名
軍団合計
士官54名 下士官兵1,193名 馬匹41頭
○第3軍団
*軍団砲兵隊(師団砲兵含む)
士官2名 下士官兵50名 馬匹59頭
○第9軍団
*第18師団
士官102名 下士官兵2,123名 馬匹248頭
*第25師団
士官79名 下士官兵1,596名 馬匹98頭
*軍団砲兵隊
士官16名 下士官兵169名 馬匹301頭
*他諸隊(軍団本営など)
士官2名
軍団合計
士官199名 下士官兵3,888名 馬匹647頭
○第10軍団
*第19師団
下士官兵1名 馬匹3頭
*第20師団
士官2名 下士官兵80名 馬匹13頭
*軍団砲兵隊
士官4名 下士官兵18名 馬匹29頭
軍団合計
士官6名 下士官兵99名 馬匹45頭
○第12軍団
*第23師団
士官35名 下士官兵781名 馬匹42頭
*第24師団
士官66名 下士官兵1,306名 馬匹35頭
*騎兵第12師団
士官2名 下士官兵6名 馬匹20頭
*軍団砲兵隊
士官2名 下士官兵20名 馬匹31頭
*他諸隊(弾薬縦列など)
士官1名
軍団合計
士官106名 下士官兵2,113名 馬匹128頭
普軍の戦時編制は下士官兵40名に士官1名の割合ですが、「グラヴロットの戦い」では下士官兵23名につき士官1名が戦死しています。
グラヴロットとサン=プリヴァの緩斜面は正に「士官の墓場」だったのです。
サン=プリヴァ 8月19日
グラヴロット会戦直後、宿舎前のヴィルヘルム国王とビスマルク




