グラヴロットの戦い/会戦後の夜間と翌19日の状況(前)
8月18日午前中の行軍機動から、正午頃の開戦より8時間余の激戦を経て、独側呼称「グラヴロットの戦い」・仏側呼称「サン=プリヴァの戦い」は終結しました。
この18日午後9時の戦線は、最南端がモーゼル川西河畔のジュシー部落郊外に始まり、ヴォー森の東縁からサン=テュベールを経由し、ジェミヴォー森林中マンス渓谷東岸に沿って北上、シャントレンヌ農場及びシャンペノワ農場を過ぎて、アマンヴィエ西郊外からサン=プリヴァ東郊外のジョーモン森西縁からロンクールの採石場を経て、マランクール部落まで総延長17キロ余りとなり夜を迎えます。
独側の前線諸部隊は大損害と長時間の戦闘で殆ど戦闘能力を喪失していましたが、16日の「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」で奮戦した第3及び第10軍団を始めとする予備部隊を前線後方まで前進させており、もし仏軍の逆襲があっても反撃は可能な状態にありました。
一方の仏軍にあっても、その右翼側第6軍団は撃破され、主力がメッス北郊外のモーゼル渓谷まで撤退したとはいえ、その南隣の第4軍団は、損害を受けつつもアマンヴィエ部落を確保したままでそれ以上独軍の前進を許さず、同じくラ=フォリの家からライプツィヒ農場、そしてモスクワ農場に掛けては仏第3軍団が、またその左翼側ジュールの家付近では仏第2軍団が、それぞれ地形を有利に使って散兵線を死守していました。
このため、独仏共にこの戦争最大の会戦となったこの日の戦闘を終えてもなお、前線はほとんど動かず、仏軍はモーゼル西岸を北上し北西ベルギーとの国境方面へ脱出する可能性を確保していたのです。
サン=プリヴァ/戦いの後
普大本営はこの「実際18日午前中の状況と何も変わっていない」現状を憂慮し、夜間と明日も続くはずの戦闘のため、急ぎ作業を開始したのでした。
午後8時30分、独第二軍本営は以下の麾下全軍宛命令を発します。
「諸軍団はそれぞれ戦闘終結の際に占領していた地点に野営し、歩兵の前哨を配置せよ。但し、各前哨は隣接軍団との連絡を密にし、敵の逆襲による散兵戦闘に陥る危険性と、今夜急遽行われる可能性が否定出来ない敵陣突破戦闘を覚悟しなくてはならない。各軍団参謀長は明朝5時、コル農場(フェルム・ドゥ・コル。ヴェルネヴィル南西3.3キロの北ルート沿道)に集合し、各軍団の状況と配備を報告せよ。この際参謀長は今後の行動に関する命令を受領すること。軍本営は今宵ドンクール(=レ=コンフラン)に在り」
同時に第二軍本営は第12「ザクセン王国」軍団に対し、「モーゼル渓谷へ突進することが貴軍団に課せられた緊急任務である」との「ダメ押し」とも取れる訓令を下しています。
この命令により、第二軍各軍団はこの夜、以下のような展開を成しました。
◯第12軍団
「モーゼル渓谷への突進」はひとまず保留、サン=プリヴァ~ロンクール~モントワ線上部落郊外に野営し、本営はロンクール部落内で宿営しました。
◯普近衛軍団
第9軍団に貸し出された近衛第3旅団以外はサン=プリヴァとサント=マリー間に野営し、ロンクールとサン=アイル郊外にも数個中隊が残ります。近衛砲兵の大部分はサン=アイル郊外まで、騎砲兵大隊(3個中隊)は騎兵師団のいるバチイイ郊外までそれぞれ後退し再集合しますが、砲兵第1大隊(重砲1,2、軽砲1,2中隊)のみはサン=プリヴァ南郊外の高地上に留まり、敵を警戒しました。
軍団本営は近衛猟兵大隊を護衛にしてサン=プリヴァ~サント=マリー間に野営しました。
◯第10軍団
第20師団はサン=プリヴァ西郊外、第19師団はサン=アイル郊外で再集合し野営となりました。
◯第9軍団
第25「ヘッセン大公国」師団と近衛第3旅団はキュセ森東縁に沿って集合し野営、第18師団はシャントレンヌ農場周辺とヴェルネヴィル郊外で野営しました。
◯第3軍団
ジェミヴォー森西縁沿いに展開して野営します。
◯騎兵第5師団
宵の口に驃騎兵旅団(騎兵第13旅団/3個驃騎兵連隊)をシャンペノワ農場の南西側に放ち、仏軍前線を威力偵察(効果なく何も発見出来ませんでした)後、サン=アイル~サント=マリー間に移動して野営しました。
◯騎兵第6師団
ヴェルネヴィル西郊外に移動して野営。
グラヴロット近郊の高地上で戦況を見守っていた独第一軍総司令官フォン・シュタインメッツ歩兵大将は、ジュールの家方面の戦闘が午後8時前後で自然休戦状態となるとグラヴロット部落へ帰り、ここで初めてフォン・デア・ゴルツ少将率いる第26旅団のジュシー方面における戦闘報告を受けました。
この戦線南部方面にいた普第7軍団の諸隊は、ヴォー森東側の戦闘最終期の前線に留まって警戒しつつ野営に入り、軍団残りの部隊はグラヴロット近郊に戻って再集合し野営しました。
第8軍団はグラヴロット西近郊のベルダン街道両側に野営しますが、第69「ライン第7」連隊の一部はマンス渓谷北部二股部に留まり、夜陰に乗じて東へ数百m進むことに成功しました。
会戦中前進するもサン=テュベールで手痛い打撃を受けて後退したフォン・ハルトマン将軍の騎兵第1師団はルゾンヴィル近郊で野営しています。
しかし、疲労困憊した第一軍諸隊に代わって前線に進出していた猛将フランセキー大将の普第2軍団(とは言え、この軍団も長距離強行軍で疲労していたはずです)だけは夜が更けても闘志を燃やし続けていました。
ほぼ燃え落ちたジュールの家やモスクワ農場に面して展開していたこの第2軍団は、夜が明けるまで絶えず敵の仏第2軍団前哨と小競り合いを続けるのです。
軍団の左翼となったのは第4師団(オットー・ルドルフ・ベーノ・ハン・フォン・ワイヘルン中将指揮)で、そのうち第7旅団(カール・ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・トロッセル少将指揮)はサン=テュベール周辺に展開し、擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊の5個中隊(第2中隊とF大隊)をモスクワ農場南西側のベルダン街道屈折点まで進め、第8旅団(アドルフ・ハインリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・ケットラー少将指揮)は第7旅団の北に接して展開し、その第21「ポンメルン第4」連隊を左翼(北)としてその第2大隊をモスクワ農場前面まで進めました。
軍団右翼の第3師団(マティアス・アンドレアス・エルンスト・フォン・ハルトマン少将)はジュールの家に面して南北に展開し、擲弾兵第2「ポンメルン第1」連隊の第1中隊が先兵としてジュールの家直前に進み、師団の他部隊はその後方でいつでも参戦出来る態勢を執っていました。
この夜は、午後10時頃にそれまで五月雨的に続いていた仏軍からの銃撃とミトライユーズ砲の砲撃が30分ほど止んだのみで、一晩中両軍前哨の間で小競り合いが続き、その内の数回は前哨のみならず後方から増援がやって来るほどの規模となります。この夜間戦闘において第42「ポンメルン第5」連隊第2大隊長のフォン・エグロフ少佐は負傷してしまいました。
しかし頑固に前線を維持していた仏第2軍団と同第3軍団も、遂に黎明を迎える前に撤退を開始しました。
仏軍の撤退は午前3時前後にモスクワ農場から始まりますが、仏軍の後衛は朝日が覗くまで銃撃を止めず、普擲弾兵第9連隊の前哨と第61「ポンメルン第8」連隊第2大隊はジュールの家の傍らで、午前5時から30分ほど最後の激しい銃撃戦を行ったのです。
この後散兵線の仏軍が撤退したことを確認した普第4師団は、ジュールの家後方高地の直前まで仏軍がいた散兵線を占拠し、その第7旅団はモスクワ農場からジュールの家との間に、第8旅団はジュールの家より南側のベルダン街道から最右翼をヴォー森最北端まで、それぞれ前進します。師団砲兵の内2個中隊は、夜間待機していたアル渓谷の西岸より前進し、ジュールの家付近に急造された掩蔽壕に入りました。しかし、これに対しプラップヴィル分派堡塁から要塞砲が発砲して来たため、普軍砲兵は一時後退するのでした。
師団騎兵の竜騎兵第11「ポンメルン」連隊は第1,2の2個中隊を退却する仏軍の追跡に出します。その第1中隊は仏兵が退去したロゼリユ部落へ侵入して捜索し、その一部はシャテル=サン=ジェルマンまで進んで、まだ退却していなかった仏軍後衛から銃撃を浴びました。第2中隊はジェミヴォー森からライプツィヒ農場、そしてラ=フォリまでを捜索し、両中隊共に逃げ遅れた若干名の捕虜を獲得し帰還したのです。
一方、独第二軍の前線は、宵の口の砲撃戦が終了した後は比較的静穏な夜となりました。
戦線の最左翼(北)では仏第6軍団が完全に撤退したため、普近衛とS軍団は仏軍との接触を失います。右翼側ではアマンヴィエ部落が未だ仏軍により確保されているものの、その実部落は負傷兵で溢れ、残存する兵士も疲弊していたため、前哨のヘッセン・ライター騎兵第1連隊第2中隊から出た斥候は部落に易々と侵入し、無気力となっていた多くの兵士を捕虜として意気揚々と帰還するのでした。
この中隊を率いていたフォン・ラベル大尉は翌朝午前5時、明け染めの荒野を引き返してアマンヴィエとモンティニー=ラ=グランジ間の高地上に見えた仏軍幕営に対しおよそ400m前後まで大胆に接近しましたが、周辺に隠蔽された散兵線より一斉射撃を受けて撃退されてしまいました。以降、ラベル中隊は遠く離れて監視を行い、少数の斥候を放つだけで満足したのでした。
ラベル中隊以外でも夜明けと共に騎兵たちが活動を始めます。
ヘッセン・ライター騎兵第2連隊から発したある斥候隊は、午前6時、サン=プリヴァの東側からメッスへの街道に乗り、ソルニー方面へ騎行しましたが敵を見ず、その十数分過ぎに発した同連隊の前哨中隊から派遣された数個の斥候隊は帰還すると、「敵はモンティニー=ラ=グランジ周辺の野営を撤去して南東方面へ退却した模様」と報告するのでした。
その南側、ラ=フォリからライプツィヒ農場、そしてジェミヴォー森でも黎明時、若干の後衛部隊を残し仏兵は撤退を開始し、第18師団の騎兵部隊である竜騎兵第6「マグデブルク」連隊より発した斥候がラ=フォリに接近した時には、すべての仏兵はその陣地線から去っていたのです。
普第18師団長、フォン・ウランゲル中将はこれら斥候の報告を受けるや、竜騎兵第6連隊のフェルディナント・アルブレヒト・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・トレスコウ少佐の中隊に対し、「退却する敵を追撃せよ」と命じました。
フォン・トレスコウ少佐は即座にヴェルネヴィルを発すると、シャントレンヌからライプツィヒ、モスクワの各農場を経てシャテル=サン=ジェルマンまで進みました。途中、ラ=フォリを通過して進んだ1個小隊と共にシャテル渓谷東岸の森林高地までを広範囲に捜索した中隊は、渓谷両岸に仏兵を見なかったものの、東側サン=カンタン山麓には未だに多くの仏軍が守備しているのを発見、この散兵線から猛銃撃を受けると踵を返し帰還したのでした。
これら騎兵が活躍し始めた頃(午前5時)、前日午後8時30分に発令された独第二軍の参謀長会議がコル農場で開かれました。会議参加者は以下の通りです。
・第二軍本営
参謀長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・グスタフ・フォン・スティール少将
参謀次長 フリードリヒ・アドルフ・カール・テオドール・フォン・ヘルツベルク大佐
・近衛軍団
参謀長 ヴィルヘルム・フェルディナント・フランツ・カール・フォン・ダンネンベルク少将
主席参謀 アルブレヒト・ヨハネス・ヴァルディマー・フォン・ローン少佐
・第3軍団
参謀長 ユリウス・フィリップ・ヴェマー・フォン・フォークツ=レッツ大佐
・第9軍団
参謀長 ヴァルター・フランツ・ゲオルグ・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ少佐
・第10軍団
参謀長 ゲオルグ・レオ・フォン・カプリヴィー中佐
・第12軍団
参謀長 フリードリヒ・フォン・ツェシュヴィッツ中佐
レオ・フォン・カプリヴィー(帝国宰相1890.3-94.10)
ヴァルター・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ(軍事相1893.10–96.8)
将来の宰相や軍事大臣(陸海軍相)を含む軍中枢のエリート「頭脳」を集めたこの興味深い会議の席上、フォン・スティール軍参謀長はカール王子の意図を酌んだ今後の作戦計画を説明し、これを要約すれば、「我が軍はメッス要塞近辺に押し込んだ敵を完全包囲下に置き、外部との連絡を遮断することを目下の急務とする」としました。この「目的」達成のため、「軍の両翼を前進させ、今は隙間が見られる包囲網を引き締めて隙間を無くし、包囲網完成の折に独軍拠点とすべき地点で、大要塞と分派堡塁から要塞砲の射程圏外にあるものを速やかに奪取しなくてはならない」と檄を飛ばしたのでした。
このための各軍団に対する具体的な命令は、
◯第9軍団並びに近衛軍団
近衛軍団は順次右(南)へ旋回し、第9軍団と協働して先ずはアマンヴィエとその後背地を攻略する。
◯第12軍団
第23師団は当初の命令通りヴォワピーを目標に前進し、モーゼル西岸上のティオンヴィル(独名デーデェンホーフェン)へ通じる街道と鉄道、電信線などの連絡線を遮断する。第24師団はその右翼後方でジョーモン森を占領する。
◯第3軍団
第二軍中央後方で予備となる。
◯第10軍団
第二軍左翼後方で予備となる。
第二軍司令官カール王子は、今後の方針をスティール参謀長を通じて麾下に伝えた後、本営を構えたドンクールを発し、ヴェルネヴィルを通過してキュセ森へ向かい、午前7時30分、キュセ森で第9軍団長フォン・マンシュタイン大将と合流しました。
この時、スティール参謀長始め本営の幕僚たちは仏第4軍団の構える戦線を観察しようと、シャントレンヌ農場からアマンヴィエ西郊外の最前線を騎行してカール王子の下に到着しています。
カール王子はマンシュタイン将軍から直接早朝の仏軍の様子を聴取し、午前8時30分、追加の命令を近衛軍団に発します。
それを要約すると、「近衛軍団は一支隊によりアマンヴィエ並びにモンティニー=ラ=グランジを占領、軍団残りの部隊は第9軍団によるメッス要塞包囲へ向かう右旋回運動に続行せよ」と言うことです。
この命令を下した後にカール王子は幕僚を引き連れ、在ルゾンヴィルの大本営まで騎行するのでした。
第二軍麾下の各軍団は19日午前9時過ぎ、カール王子の命令を開始します。
第18師団の第35旅団(フォン・ブルーメンタール少将)は、前日死闘を繰り広げても占領することが出来なかったラ=フォリとライプツィヒ農場へ進撃して占領し、第25師団はヘッセン歩兵第4連隊第2大隊をアマンヴィエ部落に進駐させ、部落郊外に野営させました。
近衛軍団は、第9軍団に貸し出されていた近衛第3旅団をアマンヴィエ近郊から呼び戻して復帰させます。軍団自体、昨日の損害が余りにも大きかったため再編成作業に入っていました(大隊長と中隊長の死傷者が非常に多かったため、近衛猟兵大隊と近衛工兵大隊から大尉を全員引き抜き、欠員となってしまった戦闘部隊の大隊長や中隊長に任命しました)が、午前9時、前述のカール王子の追加命令が下ると、近衛槍騎兵第2連隊と近衛擲弾兵第3連隊、近衛猟兵大隊に近衛重砲第6中隊を支隊として槍騎兵第2連隊長のヘッセン大公国親王ハインリッヒ・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アーダルベルト・ヴァルデマー・アレクサンダー(・フォン・ヘッセン・ウント・ベイ・ライン。第25師団長の弟君)大佐に預け、モンティニー=ラ=グランジに向かい出発させます。
この槍騎兵連隊は午前11時にモンティニー城館に到着してこれを接収、支隊の残りは正午に現地へ入りました。
この時、近衛猟兵の1個中隊は支隊左翼側の援護として別動し、シャテル=サン=ジェルマンへ通じる街道を南下しましたが、未だに街道東の森林中に潜んでいた仏軍後衛と暫しの間戦闘となっています。
ハインリッヒ親王大佐は部隊をモンティニー=ラ=グランジとラ=フォリ間に展開し、前哨は両翼で第9軍団の前哨と連絡し合い、アマンヴィエ~モンティニー=ラ=グランジ~ラ=フォリの高地線を確保するのでした。
この前哨線はこの19日全日、東側のプラップヴィルとサン=カンタンの山麓森林内に潜む仏軍前哨と散発的な銃撃戦を繰り広げましたが、本格的な衝突にまでは至ることはありませんでした。
このため、サン=プリヴァから右旋回してアマンヴィエ郊外で待機していた近衛軍団の主力は、ハインリッヒ親王支隊を残して全て元の野営地へ引き上げるのでした。
ハインリッヒ・ヘッセン親王
普第3軍団と同第10軍団、そして第10軍団隷下の騎兵第5師団は19日一日、前日夜の位置から動くことはありませんでした。
騎兵第6師団はヴェルネヴィル近郊から午前10時頃に移動を開始、ドンクール近郊まで後退しました。これは、ヴェルネヴィル付近では1個騎兵師団を賄う飲料水が確保出来なかったためです。
一方、第12軍団は前日来第二軍本営から催促されていた命令を実行するため、予備となっていたフォン・モンベ大佐の第46旅団にライター騎兵第1連隊の1個中隊と工兵若干を付して、午前8時、メジエール(=レ=メッス。モーゼル西岸のメッス北10キロ)を最終目標として出発させました。
この行軍も既述した通りマランジュ(=シルヴァンジュ)に至るまで、仏軍後衛が側道に至る各所でバリケードにより道を塞いでいたため困難を極めて著しく遅れますが、その先鋒は途中仏兵を見ないまま正午にメジエールの西郊外に到達するのです。
メジエールの街には仏軍守備隊が存在しなかったため、モンベ大佐は工兵を前進させて鉄道を破壊させ、工兵が作業を終了させた後にマランジュ部落まで退きました。この部落を中心に左右両翼へ弧状に前哨を配置し、騎兵斥候をメジエール近郊に配してメッス方面を監視させるのでした。
モンベ旅団の同僚、第24師団はこの日早朝マランクール部落周辺まで進んで野営し、騎兵師団(当時ライター騎兵2個連隊と騎砲兵1個中隊のみ)はオブエまで下がって野営しました。軍団残りの諸隊は前日の夜間野営地に留まります。
ところで、ザクセン軍団の参謀長フリードリヒ・フォン・ツェシュヴィッツ中佐ですが、夜が明ける前コル農場の参謀会議に出席するため野営地を出ましたが、途中で乗馬が障害物に躓いて乗馬諸共転倒し重傷を負う、というハプニングに見舞われてしまいます。
それでもツェシュヴィッツ中佐は怪我を押して参謀会議に出席し、前述の命令を受領しましたが、負傷のため馬を早駆けさせることが出来ず、士官1名を先行させてロンクールの軍団本営に向かわせましたが、この連絡士官が到着した時には午前8時となってしまいました。
この間、ザクセン軍団長アルベルト王子は独自に得た情報で、普近衛軍団が夜間野営地周辺で留まっており、カール王子が命じた軍の「右旋回運動」は未だ実行されていないことを知ります。このため、王子は独断で以下の命令を麾下軍団に発令したのです。
「第23師団(第45旅団主体)はジョーモン採石場まで前進し、マランジュに進出した第46旅団と連絡せよ。軍団砲兵隊はロンクール郊外に集合し、第24師団はサン=プリヴァ東郊外に集合、ソルニー方面へ偵察斥候隊を派遣せよ。オブエに集合した騎兵師団(半分)はマランジュを経由してメジエールへ進出し、モーゼル渓谷の監視を行え」
大本営もこのアルベルト王子の判断を支持し、追認するのでした。




