さすらいのハノーファー軍
チューリンゲン地方(1880年)
☆ ハノーファー軍「迷走」す
盲目の国王を交え、ゲッティンゲンで3日間も続いたハノーファー軍の軍議は20日午前、南下し諸侯軍(連邦第8軍団)と合流することに決しますがその行軍ルートは決まらず、ウィッツェンハウゼン(ゲッティンゲンの南22キロ)でヘッセン大公国に入領すると大公国を縦断してフルダ(同南110キロ)経由でフランクフルト(・アム・マイン。ゲッティンゲンからは南西へ180キロ)へ向かうか、アイゼナハ(同南南東67キロ。当時はザクセン=ワイマール=アイゼナハ大公国領で同国は名目上中立・実際は普寄りです)経由で同地を目指すかは未だ結論が出ないままでした。
その後議論を経て、丘陵と高原が続くヘッセン大公国へ向かうより一旦普王国領に入るものの比較的平坦で行軍が楽、戦い易い地形が続くアイゼナハ方面へ向かうこととなり、同日午後、ハノーファー軍(以下「Hv軍」とします)は翌21日にハイリゲンシュタット(ゲッティンゲンの南東22キロ)へ向け出立、同地より二手に分かれて一方はミュールハウゼン(ハイリゲンシュタットの南東29キロ)、他方はヴァンフリート(同南22キロ)経由でアイゼナハを目指すことになりました。
この際にノルトハイム(ゲッティンゲンの北19.5キロ)にあって北方ハノーファー本国方面を警戒していた前哨はそのまま21日日没まで同地に留まり、その後ゲッティンゲンへ下がって後衛となることが命じられます。また、ミュンデンの石橋監視やアイネ河畔に送られていた前哨も全てゲッティンゲンへ下がりノルトハイム監視隊に合流してルートヴィヒ・エバーハルト・フォン・デア・デッケン大佐*率いる後衛支隊となるのでした。
カール・アレクサンダー(ザクセン=ワイマール=アイゼナハ大公1855)
翌朝、Hv軍は前日の行軍計画に従って普領に侵入しハイリゲンシュタットへ向かい、この時後衛はゲッティンゲンで集合を終えた後に南下してヘッセン大公国国境のガイスマル(ヴァンフリートの北5.5キロ)を目標に進み、当該地に進んだ後にヴァンフリートを守る形で展開するよう命じられます。また、前衛となったビューロー旅団の先鋒はこの日夜までにヘルムスドルフ(同南東17.5キロ)まで至るよう命じられました。
こうしてHv軍は22日早朝、2個梯団に分かれてミュールハウゼンとヴァンフリートを目標に行軍しようとします。ところが、ヴァンフリートの西わずか8キロのエッシュヴェーゲに向かって西方より急進する普軍縦隊がある、との諜報報告が上がりアレンツシルト将軍は急遽ヴァンフリートに進む予定の梯団をアイゲンリーデン(ヴァンフリートの東11キロ)に進むよう目的地を変更するのでした。
※6月22日夜におけるハノーファー軍の位置
〇前衛旅団/ビューロー(第3)旅団本隊
ゼーバッハ(ミュールハウゼンの南東6キロ)
*先鋒に騎砲兵第2中隊を加入してヘロルディスハウゼン(ゼーバッハの南3キロ)で宿営。歩兵1個大隊に竜騎兵1個中隊を付けて前哨隊としてグローセン=ゴターン(同南東4キロ)へ派出。
〇クネゼベック(第1)旅団
ミュールハウゼンで宿営し歩兵1個大隊に驃騎兵1個中隊を付けて前哨隊としてフェルヒタ(ミュールハウゼンの南西2キロ)に置く
〇ボートマー(第4)旅団
アイゲンリーデンに宿営し警戒隊を当初予定のヴァンフリートに置く
〇ド・ヴォー(第2)旅団
シュトルート(アイゲンリーデンの北西2キロ)で宿営
〇予備騎兵隊
ヘンゲタ(ミュールハウゼンの南東4キロ)とその周辺で宿・野営
〇国王本営と予備砲兵隊
ミュールハウゼン
〇後衛隊
ディンゲルシュテット(ミュールハウゼンの北西15キロ)
ミュールハウゼン(20世紀初頭)
この日、Hv野戦軍は行軍中の後衛支隊がホーエンガンダーン(ハイリゲンシュタットの西13キロ)近郊を通過中に普バイヤー師団所属の斥候騎兵(驃騎兵第9「ライン第2」連隊兵と思われます)を望見しますが戦闘はなく、殆どの部隊は未だ普軍を見ていません。ただ、この日の午後ビューロー旅団の前衛から「規模不明の普軍の一隊がラングラ(ミュールハウゼンの南南西7キロ)にいたというが、短時間で撤退した」との報告がありました。
この夜(22日深夜)、Hv軍は軍議で今後の行動方針を定めますが、席上「敵はおそらく隘路が多い前面のハイニヒ山地(ミュールハウゼンの西6キロ付近から南13キロ付近まで広がる森林丘陵地帯)にはいないと思えるが、物資が乏しい今、補給が難しい山林地帯に我々が停留するのは得策と言えない」との意見が出て、行軍計画を一新し、国王の認可で「全軍ランゲンザルツァ(ミュールハウゼンの南東17キロ)に向かい集合する」こととなるのです。
明けて6月23日。Hv軍は昨夜の計画に従って行軍を起こし、前衛となっていたビューロー旅団は先鋒をザクセン=コーブルク=ゴータ領のグロス=ベーリンゲン(ミュールハウゼンの南21キロ)を目標に、予備騎兵隊を後方に従えて行軍すると、この日はオスト=ベーリンゲン(グロス=ベーリンゲン東隣1キロの双子部落)へ進み、予備騎兵は旅団所属のエンゲルス大尉率いる6ポンド前装施条砲中隊と共にテュンゲダ(オスト=ベーリンゲンの東4キロ)に進み、その西郊外で野営に入ると前哨をゴータ(この地より南東に13キロ)方面に派出し南方を警戒しました。
クネゼベック旅団は東進して来たド・ヴォー旅団と合流し、偵察により敵が見えなかったランゲンザルツァ(ミュールハウゼンの南東17キロ)に進んで宿・野営に入り、ゴータ及びエアフルト方面の前哨警戒としてヘニングスレーベン(ランゲンザルツァの南4.5キロ)から弧を描いてマーックレーベン(同北東2キロ)までの間に前哨線を敷きました。本営と予備砲兵隊はランゲンザルツァに入り、ボートマー旅団はグローセンゴターン(同北西7キロ)で宿営に入ります。昨晩の方針変更により後衛は東進しミュールハウゼン付近までに至りました。
この日ミュールハウゼンからの本隊出立前にフェルヒタで警戒中のクネゼベック旅団前哨支隊が、昨日敵の姿があったというミュールハウゼン南方のラングラ経由でその南西側に広がるハイニヒ森林丘陵に向かって進み道中一帯を捜索しましたが、敵の存在又は痕跡は確認されず、この偵察支隊は23日深夜にランゲンザルツァへ進み本隊と合流しました。
ランゲンザルツァ周辺図(19世紀末)
☆ ハノーファーとカッセル占領後普軍の動き
普「西軍」を率いるフォン・ファルケンシュタイン将軍は麾下がハノーファー市とカッセル市を占領すると、「消えた」Hv軍を追って麾下を南下させようとしました。
この6月19日の時点でファルケンシュタイン将軍が掌握していたのは、ただHv軍がゲッティンゲン地方に集中しているとの情報だけで、将軍はHv軍がバイエルン軍または連邦第8軍団との合同を目指しているのは間違いない、と判断し麾下諸隊にHv軍を追撃するよう手配しようとしたのです。
しかしファルケンシュタイン将軍もその幕僚たちもこの時点ではバイエルン軍や連邦第8軍団が未だ編成最中であり、バイエルン軍に至っては墺本国軍との共同作戦を渋り、また独立して普軍と戦う意思も見せていないことなど知る由もありませんでした。
いずれにせよファルケンシュタイン将軍は自軍を手近に集合させ敵状に従い軍を臨機に動かそうと考えたのです。そのための第一段階としてHv軍を追撃し連邦諸侯軍と合同させぬことが先決としたのでした。
この19日には前日深夜にハノーファー市を発ったフォン・ゲーベン将軍率いる普第13師団がライネ河畔のノルドシュテンメン(ハノーファーの南24キロ)からヒルデスハイム(同南南東29キロ)の線まで進み、同師団はそのまま20日にアールフェルト(ヒルデスハイムの南南西21キロ)、21日にはアインベック(アールフェルトの南19キロ)とガンダースハイム(同南東19キロ)まで到達、前衛先鋒部隊はインメンセン(アインベックの南南東4,5キロ)とライネ川を挟んでカーレフェルト(ガンダースハイムの南8キロ)を結ぶ線まで到達したのです。
翌22日、ゲーベン将軍は休息日を設けず再び師団に行軍を開始させますが、道中「Hv軍は既にゲッティンゲンを後にした」との情報が入り、この日の前衛旅団となり24時間前にHv軍後衛が去ったばかりのノルトハイムに先着していたヴランゲル少将旅団に驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊を付け、少将に「直ちにゲッティンゲンを占領せよ」と命じたのです。
ヴランゲル将軍は麾下と共に同日正午ゲッティンゲンに入城し、師団残りの将兵も夕方までにはゲッティンゲン周辺に到着したのでした。
一方、第13師団に続いてハノーファー市に到着していたマントイフェル将軍とその混成師団は、Hv軍や官吏が破壊していた市街から南方に続く鉄道路線を修理し、21日までにゼーセン(ハノーファーの南南東61キロ/ノルトハイムの北北東24キロ)で集合しました。マントイフェル師団は22日にノルトハイムまで進み、ゲーベン師団と連絡を付けたのでした。
この22日にはハノーファー王国北部地方に普後備軍の後備第17連隊の3個大隊が後備驃騎兵第10連隊と共に進駐し、占領軍として統治を始めています。
ファルケンシュタイン将軍の本営はこの日マントイフェル師団と共にノルトハイムへ入ると翌日にはゲッティンゲンに入城しました。
23日にファルケンシュタイン将軍は15日の開戦以来休みがなかった麾下諸隊に一日休養を取らせようとしました。ところが、普領に侵入していたHv軍が「ミュールハウゼン付近で普軍後備部隊と交戦し敗走、ハイゲリンシュタットまで下がった」との情報が届いたため、前衛のヴランゲル旅団を急ぎハイゲリンシュタットへ送りますが、いるはずのHv軍を見ることなく、空しく引き返し24日にはゲッティンゲンに戻りました。
フォン・バイヤー少将率いる混成師団は、20日に師団全体がカッセルに到着後、ファルケンシュタイン将軍から「続行しヴェラ川*に至り沿岸の渡渉場を監視若しくは占拠しHv軍がヘッセン=カッセルとチューリンゲン地方との間を抜けてフランクフルト方面へ脱出する事がないようにせよ」との命令が届きました。
しかしこの命令はバイヤー師団をヘッセン=カッセル領内に留め、ゲーベン、マントイフェルの両師団よりHv軍が集合していたゲッティンゲンにより近くにいたというのにこれをみすみす逃すことにもなり、結果Hv軍のランゲンザルツァへの脱出を助けたこととなってしまいました。
※ヴェラ川;エアフルトの50キロほど南方を水源にチューリンゲンとバイエルン境界を西へ流れ、ヒトブルクハウゼン~テマール~マイニンゲン~ザルツンゲン~ヘーリンゲン~ラウターバッハ~ヴァンフリート~バート・ゾーデン=アレンドルフ~ヴィッツェンハウゼンと流れハノーファーシュ・ミュンデンでフルダ川と合流、ヴェーザー川と名を変える中級河川。
20日午後。バイヤー師団のフォン・グリュマー少将率いる旅団の前衛支隊はカッセルを出てヘルザ(カッセルの南東14キロ)に向かい、この日の夜半までに同地に到着し、旅団本隊も続行して翌21日にはエッシュヴェーゲ(同東南東41キロ)に進みました。先の支隊は本隊とは別動してヴェラ川下流へと進み、この21日夜間にはアレンドルフ(現バート・ゾーデン=アレンドルフのヴェラ川右岸地区。エッシュヴェーゲの北北西11キロ)に達しています。
フォン・シャハトマイヤー少将は、率いる第32旅団から第70「ライン第8」連隊の歩兵1個大隊、師団砲兵から2個小隊4門、同じく師団騎兵の驃騎兵1個中隊を強行偵察隊として自ら率いて出陣し、Hv軍が進んだと思われたミュンデン(カッセルからは北東へ16キロ)へ向かいましたが、Hv軍の守備隊は既に去っており、この21日夜半にヴェラとフルダ両河川が合流しヴェーザー川となるこの重要な街を占領しました。しかし先述の石橋や鉄道線路はHv軍が完全に破壊していたのでした。
バイヤー師団は先述の諸隊以外、21日はまだカッセルに留まったままでした。
ところが。
先述の通り22日、ゲーベン師団と行動を共にしていたファルケンシュタイン将軍はHv軍のゲッティンゲン出立を知り、大将は急ぎバイヤー師団長に対し「貴師団全力でエートマンスハウゼン(エッシュヴェーゲの南西8キロ)を目標に行軍せよ」と命じました。バイヤー将軍は慌てて麾下に目標変更と急行軍を命じましたが、既に師団各団隊は別方向に行軍中で、命令は受けたものの混乱を避けたいグリューマー将軍は一旦行軍を保留し、北方に離れた前衛支隊に急使を送って旅団本隊に合流させエッシュヴェーゲで集合しました。
同じく命令を受けたシャハトマイヤー将軍旅団から派出した部隊も行軍方向を変え、この22日にはミュンデンからドランスフェルト(ゲッティンゲンの西南西12.5キロ)に進みました。
バイヤー将軍はファルケンシュタイン将軍からの伝令が到着する前の22日早朝、シャハトマイヤー旅団の残部を暫定指揮する第30連隊長のフォン・ゼルヒョー大佐に「2個大隊をカッセル守備隊として残し、旅団主力を率いてシャハトマイヤー将軍を追って合流する」よう命じており、ゼルヒョー大佐は第70連隊の2個大隊をカッセル守備隊に指定し自身の連隊を率いて命令通りミュンデンに進みますが、ここで再び伝令から単独アイゼナハへ向かうよう変更命令を受け、カッセルに引き返します。
師団の残部はバイヤー将軍が率いてカッセルの宿営を出て、この日夜間に戻って来たゼルヒョー連隊と共にカッセル東郭外部落のべッテンハウゼンで野営しています。
翌23日早朝にゼルヒョー大佐は休息も僅かでアイゼナハに向け出立します。バイヤー将軍も遅れて出立すると大佐の隊(第30「ライン第4」連隊)を追って東進しゼルヒョー連隊と合流、師団主力はこの日グリューマー旅団と入れ替わる形でエッシュヴェーゲとヴェーレタール(エッシュヴェーゲの南西5.5キロ。エートマンスハウゼンの北東2キロ)で宿・野営しました。
そのグリューマー旅団は早朝ヴェラ川を渡河せず川に沿った街道(現・国道27号線)を北上しゲッティンゲンを目指します。これはゲッティンゲンから南下していると思われるHv軍を一部でも補足しようとの考えからの行動でしたが、フリートラントに達した所で伝令からこの日はヴェラ河畔のヴィッツェンハウゼン(エッシュヴェーゲの北西22キロ)まで下がって宿営するよう命令を受けたのでした。一方、先に進むシャハトマイヤー隊はグリューマー隊を右に見てすれ違う形で南下し、この日は前日Hv軍後衛がいたホーエンガンダーンまで進んでいます。
バイヤー将軍の本隊でもこの23日、先述の「Hv軍がハイゲリンシュタットまで敗走した」との「偽情報」によりオットー・フォン・ヘニング・アウフ・シェーンホフ中佐(暫く後に大佐昇進)が自身の連隊(第19「ポーゼン第2」連隊)を率いて師団を離れハイゲリンシュタット(ホーエンガンダーンの東13キロ)を目指しますが、この日はシャハトマイヤー将軍が宿野営していたホーエンガンダーンに達して合流し、翌24日、ヴェラ河畔に進んだ師団本隊まで帰っています。
このようにバイヤー将軍の師団が文字通り右往左往したのは、様々に乱れ飛ぶ噂(中には普軍を混乱させるため敵対住民が吐いた嘘も)や誤認に基付いた報告でファルケンシュタイン将軍の本営が困惑してしまったからで、更に23日にはベルリンから「ヘッセン=カッセルにいる兵力は至急アイゼナハに集合するよう」命令が下ったことで混乱が助長されてしまうのです。また、ヘッセン=カッセル領内やハノーファー領内を走る鉄道路線は各地で寸断されており、その修理に時間が掛かるために容易に命令を実行出来なかったからでもありました。
しかし同時期には戦力が小さなファルケンシュタイン将軍に対する援軍がベルリンからの命令で準備され動員されています。
※6月21から23日までに西・南部連邦諸侯軍対策で動員された普軍諸隊
◇21日にマグデブルクからノルトハウゼンへ送られた増援
指揮官・男爵ヴィルヘルム・アドルフ・フォン・ゼッケンドルフ少将
〇後備第20「ブランデンブルク第3」連隊・2個大隊
〇驃騎兵第10「マグデブルク」連隊・補充中隊
21日夕刻、ブライヒャーオーデ(ミュールハウゼンの北27キロ)へ進出
◇同日エルフルトよりアイゼナハへ向けて行軍開始
〇後備第27「マグデブルク第2」連隊のアッシャースレーベン大隊
〇後備第32「チューリンゲン第2」連隊のトルガウ大隊とナウムブルク大隊
〇後備驃騎兵第12「チューリンゲン」連隊
〇要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊の出撃砲兵中隊(6ポンドカノン砲2門・7ポンド榴弾砲2門)
◇22日駐屯地からゴータへ進出
●後備竜騎兵第7「ライン」連隊の要塞駐屯騎兵中隊
◇23日駐屯地からゴータへ進出
●第71「チューリンゲン第3」連隊・補充大隊
●野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第2中隊
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国は普王国に賛同し連邦に宣戦しますが、当時公国軍は2個大隊で連隊として編成されており、普軍の近衛擲弾兵第1連隊のフュージリア大隊長だったヘルマン・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フランツ・フォン・ファベック大佐が二年前から率いていました。
大佐はゴータへ進出した●印の諸隊も公国軍に加えて指揮を執ることとなります。
コーブルク=ゴータ連隊は21日、ベルリンより電信による指令を受け、アイゼナハへ行軍し南下し始めたと思われるHv軍の逃走路を塞ぐこととなりました。ところが翌日にHv軍はゴータに向かう可能性がある、との報告がファベック大佐に届き、23日朝、連隊は急ぎ列車を調達するとゴータに帰還しています。アイゼナハには同日夕刻、普近衛歩兵第4連隊の2個大隊が列車で到着し代わって防衛任務に就きました。
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国軍
☆ モルトケの密使とハノーファー軍の混乱
普軍がHv軍の行軍先を読めずに混乱する中、6月24日という日はHv軍に残された最後の南方脱出機会でした。
この日、もしHv軍がランゲンザルツァ周辺からアイゼナハに向けて進んでいれば、その先にいるのは精鋭普軍の近衛とはいえ到着間もない2個大隊・1,800名前後の歩兵だけであり、三兵種14,000名以上のHv軍が本気で掛かれば蹴散らすことは可能で、そうなればバイヤー師団の「裏」を抜けてフルダかギーセン経由で三日もすればフランクフルトへ到達することも出来るはずでした。
しかし相も変わらずHv軍内では国王を含めた議論が白熱するだけで決定に時間が掛かり、23日夜に一旦は翌24日ゴータに向けて全軍進むとしましたが、その後各方面からの情報(地方新聞報道や住民のうわさなど)によりアイゼナハの普軍守備隊は小規模との判断が出て、再び軍議を開いたHv軍本営はようやく「明日、アイゼナハに向かいこれを突破する」との決定を行ったのです。
しかしこの時既にHv軍首脳を悩ます問題が生じていたのです。
23日朝のこと。ミュールハウゼンのHv軍本営に突然「ザクセン=コーブルク=ゴータ公国軍所属の大尉」を名乗る士官が現れ、司令官に目通りを求めました。この士官は普軍のフォン・ツィールベルク大尉で、「公国軍司令官ファベック大佐の命を受けて」と前置きすると「貴軍は既に四面楚歌の状態で普軍に囲まれており、直ちに武器を投じて降伏すべきである」と勧告したのです。
このツィールベルク大尉の「白旗を掲げず予告なく独りで敵本営に乗り込む」行為は、休戦や降伏勧告は「白旗の下で軍使としての身分を明らかにして交渉を求める」という軍事の慣習(後にハーグ陸戦協定で明文化)に反しており、大尉は直ちに捕らえられ捕虜として留置されてしまいます。
振り返ってこの23日における普軍の位置を見てみると、ゲーベン師団がゲッティンゲン、マントイフェル師団がノルトハイム、バイヤー師団はアイゼナハに向かおうとしている道中にあって、アイゼナハとゴータの守備隊はいずれも連隊クラスということで、未だにHv軍にとって普軍の3個師団とは1~3日の行軍距離があり南方への障害も薄いままだったのです。
実はツィールベルク大尉は普軍参謀本部より出向しており、この向こう見ずな行為も参謀本部総長モルトケ大将直接の指令だった、との説もあります(筆者は眉唾と考えますが)。そのせいかどうかは不明ですが、交渉自体は願ってもないと考えたハノーファー国王ゲオルグ5世は前陸軍大臣の子息で本営参謀士官のベルンハルト・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヤコビ少佐をこちらは正式な軍使としてゴータに送り、ザクセン=コーブルク=ゴータ公のエルンスト2世公爵(ヴィルヘルム1世とは友人でしたがビスマルクを嫌っていました)に普王国政府との交渉の仲介を頼むのでした。
ヤコビ少佐はゴータでエルンスト公と会見すると、ベルリンの普軍参謀本部総長モルトケ将軍宛に電信を送り、その内容は「我が軍が南進出来るよう一路の行軍路を開けて頂ければ、我が軍は貴国軍との戦闘を相当の間避けるようにする」とのことでした。
ヤコビ少佐はベルリンからの返信を待たずに国王と本営が進んだランゲンザルツァへ帰り、「ゴータには既に公国軍と普軍が集合しており、噂によればゲーベン将軍のヴェストファーレン師団が鉄道によってハノーファー市よりゴータにやって来るという」との報告をしました。
この報告と道中や近隣で収集した風評によりHv軍は再び軍議を開き、結果、ゴータに普軍が到着するなど情勢は不利でありこのまま危険を冒して南進するより、ヤコビ少佐がベルリンに送った電信の回答を待ってから行動を起こすべきではないか、との意見が大勢を占めたため、翌24日にアイゼナハへ進む計画は保留することとなるのです。
ゴータ市街の光景(1850年代)
ところが。
ビューロー旅団に赴いて翌日のアイゼナハ進軍を伝える任務を受けていた本営参謀のフランツ・フリードリヒ・ルドルフ中佐は、ビューロー旅団が宿野営していたオスト=ベーリンゲンに向かいましたが、途中で追って来た伝令に現在地に留まるよう命令変更を伝えられ、これが大いに不服だった中佐はビューロー大佐から騎兵1個中隊を借りるとこれを率いて24日早朝アイゼナハ(グロス=ベーリンゲンからは西南西14キロ)に至り、白旗を掲げると昨夕到着したばかりの普近衛第4連隊長、男爵アルベルト・レオ・オットマー・フォン・デア・オステン=ザッケン大佐に面会し「貴官の部隊はHv軍本隊の進撃路上にいるため、本日午後3時までに自ら街を出るように」と要求するのでした。しかしオステン=ザッケン大佐は「何をか言わんや」とばかりにこの要求を拒絶するのでした。
強気のルドルフ中佐*はアイゼナハ東郊の小部落シュトックハウゼン(街から東北東に4.5キロ)の西側で谷間の隘路となっていた街道(現国道84号線)を占拠・封鎖するのでした。
ルドルフ中佐が送った伝令からアイゼナハが「ごく少数の」普軍により守られていることを知ったビューロー大佐も本営の進撃中止命令を無視することとして、旅団本隊(この時点で歩兵4個大隊・騎兵2個中隊・砲8門)でアイゼナハを占領することを決断し、グローセンルプニッツ(シュトックハウゼンの東1。8キロ。アイゼナハの東北東6キロ)まで隊を進め、アイゼナハへいつでも突入出来る状態にした後に軍本営からの正式な攻撃命令を待つという作戦を立てたのです。
この時ビューロー大佐は大隊長の一人、ゲオルグ・クニッピング中佐*に命じ歩兵1個大隊・騎兵1個中隊・工兵小隊・砲2門を率いて南下させ、クニッピング隊はメヒターシュテット(オスト=ベーリンゲンの南9キロ)でアイゼナハとゴータを結ぶ鉄道線を破壊するとここに居座り、ゴータから援軍がアイゼナハに向かう場合にこれを阻止しようとしました。
ルドルフ中佐はこの24日午前10時30分、アイゼナハ近郊より騎行してランゲンザルツァへ報告に戻り、ここで自身が体験し見聞したアイゼナハ周辺の実情を説明しました。これでゲオルグ5世国王もヤコビ少佐が報告した普軍が南方を抑えているとの報告は実相を現してはいないと信じ、これは敵が仕掛けた時間稼ぎと看破して即座にベルリンとの交渉を中止し、午前11時、アイゼナハを攻撃し占領することを決断するのでした。
ランゲンザルツァからの急報でアイゼナハ進撃の許可が下りたことを知らされたビューロー大佐は直ちに旅団主力と共に行軍し午後3時に騎兵中隊が抑えていたシュトックハウゼンに到着すると白旗の軍使をアイゼナハに送り、オステン=ザッケン大佐に再び退去勧告(30分後に攻撃するという)をしました。
この時(6月24日午後)のビューロー旅団以外のHv軍部隊の位置は以下の通りです。
〇ド・ヴォー(第2)旅団
午前11時30分にランゲンザルツァを発ちライヒェンバッハ~オスト=ベーリンゲンを経てアイゼナハに向かい、急行するため貴重な馬車をかき集めて2個大隊を乗車させ先行させていました。
〇ボートマー(第4)旅団
午後5時にグローセン=ゴターンを発してランゲンザルツァ~ライヒェンバッハを経てグロス=ベーリンゲンに達します。この際、麾下の近衛驃騎兵連隊をクネゼベック旅団に貸しています。またボートマー、クネゼベック両旅団共予備砲兵隊からそれぞれ砲兵中隊1個を増加しています。
〇クネゼベック(第1)旅団
近衛驃騎兵連隊と予備砲兵1個中隊を加えて午後5時にランゲンザルツァを発ち、ヘニングスレーベン(ランゲンザルツァの南4.5キロ)とグルームバッハ(ヘニングスレーベンの西1.5キロ)に陣を敷き、更に南へ前哨を送りゴータから敵が北上する場合に備えました。
〇予備騎兵隊
前日(23日)の位置(オスト=ベーリンゲン東のテュンゲダ)のまま待機
〇後衛
ミュールハウゼンからランゲンザルツァへ行軍中
アイゼナハの光景(1875年)
この24日夕のビューロー旅団と増援のド・ヴォー旅団による攻撃でアイゼナハが占領された後にこの両旅団はフルダかギーセンへの街道を進み、ボートマー旅団はこれに続行し、クネゼベック旅団と予備騎兵は25日払暁まで現在地に留まって南方を警戒した後全軍の後に続くこととされ、ゴータから敵が北上した場合はボートマー旅団が救援に現れるまで現在地を死守することを命じられました(後衛と本営に関しては不詳ですが、クネゼベック旅団かボートマー旅団に同行することにとなっていたと思われます)。
遡り24日の早朝。
夜を徹して断続的に軍議が続いていましたが、ゲオルグ5世は昨日の要求に対する普王国の回答を得るため、ヤコビ少佐に侍従武官のフリードリヒ・ダンマース大佐を同行させて再びゴータのエルンスト2世公の下に送り出しました。
午後2時(既にアイゼナハ攻撃が開始されています)。ダンマース大佐のみゴータから戻り、普国との交渉は破談したと告げます(この際、抑留されているツィールベルク大尉の安全保障としてヤコビ少佐がゴータに居残りました)。失望するゲオルグ5世でしたが、この時、更にHv軍を混乱させるような電信が、ゴータのエルンスト2世を介して居残っていたHv軍の連絡士官に託され、本営に届けられたのです。
それはベルリンの普王国首相ビスマルクからゲオルグ5世宛に発せられた「提案」で、要約すれば、「Hv軍が無事に南方へ脱出したいのであれば、今後1年間は普王国と戦わないとの約束をして欲しい」とのことでした。またこの交渉のため、「普国王ヴィルヘルム1世付武官長のグスタフ・フォン・アルヴェンスレーべン中将が単身アイゼナハに向かうことを許されたい」と続いたのでした。
これに対しゲオルグ5世は次の書状を仲介役となったエルンスト2世に宛て送ったのです。
エルンスト2世(ゴータ=コーブルク公1863年)
「ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世殿下
先刻、殿下より普国宰相ビスマルク氏の電報を我軍大尉フォン・デア・ヴェンゼに付してお送り頂いたこと、まことに感謝申し上げます。この電報の主旨によれば普国王陛下は我侍従武官及びヤコビ少佐により伝えた、我が軍がチューリンゲン地方を通過し退却する、との要求に答えるに、我が軍が今後1年間戦争に関わることなければ要求に応じる、とのことでした。
しかし、余はこのような契約を成すことは出来ず、またこのような交渉のために軍事作戦を遅延させることは出来ません。これは殿下も察して頂けることと存じます。既に昨日殿下の大尉フォン・ツィールベルク大尉が戦規にもとる使者として来営したために、我が軍の作戦が遅延することとなり、今再び遅延することは許されません。ヤコビ少佐につきましても速やかに返還頂きたく存じます。
然るに、普王陛下が仰るところの陛下の侍従武官フォン・アルヴェンスレーベン氏と会見し双方無用の出血と人民の被害を避けるため方策を探ることは余も喜びとするところであります。
1866年6月24日 ランゲンザルツァにて 御璽 ゲオルグ (筆者意訳)」
ゲオルグ5世がこの書状を認めていた頃には先述通りビューロー旅団がアイゼナハ目指して急進しており、クニッピング中佐隊はメヒターシュテットを占領すると線路を破壊し電信線を切断、ゴータからやって来たファベック大佐麾下の公国兵と銃撃戦を開始し、その散兵戦はHv軍有利に展開していました。
ところが。ここで後に大問題となる事態が発生するのです。
午後3時過ぎ、ゴータのフォン・ヤコビ少佐からランゲンザルツァに向け電信が発せられます。
「ハノーファーの要求は普国が承諾す。よって交戦を避けるべし」
このため、ランゲンザルツァの本営から各地に至急伝令が飛び、メヒターシュテットとアイゼナハで戦い始めたビューロー旅団に交戦中止が命じられました。
交戦中止を聞いたビューロー大佐は、この夜間いたずらに部下を緊張で疲れさせないため本営の許可を待たず、敵のオステン=ザッケン大佐に白旗の軍使を送り、午後7時に至って翌朝8時までの地域休戦を提案しオステン=ザッケン大佐もこれを承諾したのでした。
ヤコビ少佐がこの「不確実な」電信を発した背景を探ると、少佐が置かれた状況と心理がよく分かるというものです。
少佐がダンマース大佐と共にランゲンザルツァに帰らなかった理由は表向き「ツィールベルク大尉の安全を保障するため」となっていますが、ヤコビ少佐自身も望んでゴータに居残ったと伝えられます。その主な理由は、軍使としてベルリンからやって来るフォン・アルヴェンスレーベン将軍を待ち一刻も早く交渉を始めようと考えたから、と言われます。しかし、ゲオルグ5世の書状にもあるようにHv軍本営はヤコビ少佐が戻って来るよう希望しており、実際電信により「一切の交渉を中断し直ちに本営まで帰還せよ」との命令が発せられ、これは無事ヤコビ少佐に届けられていたのです。
またこの時、エルンスト2世はヤコビ少佐の身柄を必ず抑えておかねばならない、とは考えておらず、少佐に対しては「アルヴェンスレーベン将軍が到着すれば貴国の要求も承諾するのではないか」などと楽観的な予想を語ったと言います。
ヤコビ少佐は、無益に血が流されるよりは国軍が無傷で脱出した方が良いに決まっている、と考え、戦闘が数時間後に開始されるというこの瞬間、渇望する状況がヴィルヘルム1世の盟友でもあるエルンスト2世の口から語られたことで、まるで渇きに苦しむ者が池に飛び込むように、それを「信じたい」という気持ちが高じて「信じる」との確信に変わってしまい、「何も決まっていないのに決まったかのような」電信を送ってしまったのではないでしょうか。
Hv軍司令官フォン・アレンツシルト中将はこの日の夕刻、アイゼナハ近郊のビューロー大佐の下へ騎行しますが、「既に陥落しているはずの」アイゼナハは未だ普軍の手にあり、また勝手に休戦を結んだと聞き大佐を詰問しますが、大佐はアレンツシルト将軍より早くに届いた本営からの交戦中止命令を伝え、この時点でヤコビ少佐の電信を知らない将軍は困惑してしまったのでした。
アイゼナハ市(1837年)
※6月24日夜におけるハノーファー軍の位置
〇ビューロー(第3)旅団本隊
アイゼナハ郊外のシュトックハウゼン。前哨をアイゼナハ市街目視可能な近郊に置く。
〇クニッピング中佐支隊(ビューロー旅団)
予備騎兵隊と共にメヒターシュテットの近郊で野営
〇ド・ヴォー(第2)旅団
ハイナ(グロス=ベーリンゲンの南3.5キロ)、フリードリヒシュヴァルト(ハイナの東1.5キロ)、ヴォルフスベーリンゲン(グロス=ベーリンゲンの南西2キロ)で宿営
〇ボートマー(第4)旅団
グロス=ベーリンゲンの近郊で野営
〇クネゼベック(第1)旅団
ヘニングスレーベンとグルームバッハ付近で布陣しつつ野営。前哨をテュンゲダとトナ(ランゲンザルツァの東南東6キロ)の間に展開させる。後衛はランゲンザルツァ郊外に布陣しつつ野営。
〇国王本営
グロス=ベーリンゲン(26日早朝までこの地にあり)
明けて6月25日。Hv軍はヤコビ少佐の発したたった一行の電文に縛られ動けず、決断も出来ないまま時が過ぎて行き、貴重な脱出の機会をまたも失うのでした。
※こぼれ話
プロシア軍に参加したハノーファー軍士官の人生いろいろ
*ルートヴィヒ・エバーハルト・フォン・デア・デッケン大佐は当時54歳。普墺戦争後ハノーファー王国が普王国に併合され国軍が普軍に吸収されると大佐の階級のまま採用され第59「ポーゼン第4」連隊付で新たな軍人生活をスタートしました。その後第21「ポンメルン第4」連隊長となり、70年7月の普仏戦争開始で第6旅団長を拝命、この旅団は鬼将軍で名高いフランセキー将軍麾下の先鋒旅団となってグラヴロットの戦いで活躍、そのままメッス攻囲に入りますが8月25日、包囲網を視察中に銃撃を受けて重傷を負い、療養中に少将へ昇進しますが治療の甲斐なく翌71年3月中旬(実質戦争が終わった頃)破傷風により他界してしまいました。享年58歳。
*フランツ・フリードリヒ・ルドルフ中佐は当時41歳で、普墺戦後ハノーファー王国が滅亡し軍は新たに普第10軍団として再建され、旧ハノーファー軍士官の多くが再入隊を誘われる中、彼は任官の誘いを断り、普王国に併合ではなく辛うじて独立を認められていたザクセン王国に移住するとザクセン軍に志願して採用され、第102「ザクセン第3」連隊長として普仏戦争を迎えます。大佐となったルドルフはボーモン、セダン、パリ包囲と転戦し、戦後ザクセン貴族としてフォンが与えられています。その後第48旅団長、第23師団長となり中将で引退しました。同じ普軍でも独立していたザクセン王国軍を選んで意地を見せたルドルフ将軍はハノーファーに帰ることなくドレスデンで亡くなっています。73歳でした。
*ゲオルグ・クニッピング中佐は当時52歳。王国軍が普軍化した後、状況を素直に受け入れまずは第66「マグデブルク第3」連隊で大隊長となり、更に大佐に昇進し第51「ニーダーシュレジエン第4」連隊長となり普仏戦争に参戦、ファルスブールやパリ包囲に参加、戦後少将となりシュレジエン州の第22旅団を指揮、76年に中将で引退するとゲッティンゲンで老後を過ごし72歳で死去しました。
フォン・デア・デッケン




