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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
249/534

グラヴロットの戦い/ジョーモン森の戦いと普軍後方部隊の機動

挿絵(By みてみん)

ベルビギエ少佐の最期(サン=プリヴァ1870年8月18日)

ジャン・バプテスト・エデュアルド・デタイユ 画


※ベルビギエ少佐は仏第6軍団の第4師団(ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将)

第2旅団(アドルフ・ギュスターヴ・ドゥ・シャナレイユ准将)戦列歩兵第70連隊(ベルティエ大佐)の第1大隊長でした。少佐はサン=プリヴァ郊外の散兵線での戦いで重傷を負うものの、自ら突撃ラッパを吹奏し部隊を鼓舞した後、絶命しました。ベルビギエ少佐は仏の音楽家でナポレオン1世の将校として従軍もしているアントニー・ブノワ・トランクィル・ベルビギエの子か親族と思われますが、筆者には確認出来ませんでした。

 サン=プリヴァにS軍団と満身創痍の普近衛軍団が突入した頃。

 戦場の最北端となるロンクール近郊でも同時進行で戦闘が発生していました。


 S軍団の第48旅団がモントワ(=ラ=モンターニュ)からロンクール方面へ前進した時、左翼(東)側のマランクールより銃撃を浴びせられたため、第106「ザクセン第7/ゲオルグ親王」連隊の3個(第9,10,11)中隊は既述通りマランクールへ向かい、5個中隊(第12中隊に第1大隊)はそのままロンクールに向かいました。

 同じ頃、モントワ近郊に達したS軍団第12騎兵師団のライター騎兵2個(近衛と第3)連隊と騎砲兵第1中隊は、師団長の伯爵フランツ・ウント・エドラー・ヘル・ツール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト少将が直率し、ロンクール周辺から退きつつあるとの情報がある仏軍を襲撃するため、進撃する歩兵部隊を襲歩で追い越し南東方向へ進みました。この騎兵集団は午後6時30分頃にロンクール近郊へ達しますが、東側のジョーモン森より激しいシャスポーによる銃撃を受けてしまいました。未だ騎兵の出番ではないと感じたリッペ将軍は直ちに後退を命じ、S軍騎兵たちは踵を返して部落西側の高地後方へ退いたのです。


 騎兵に続行していた第48旅団長のユリウス・カール・アドルフ・フォン・シュルツ大佐は、行軍列の先頭にいた第106連隊の5個中隊に対し、ジョーモン森に潜む仏軍部隊を駆逐せよ、と命じます。

 この時の「敵」は仏ペショ准将旅団で、彼らはロンクールから急ぎジョーモン森西端とその手前に延びる凹状の小路まで後退すると、急ぎ散兵線を敷き、接近するS軍団に銃口を向けたのでした。

 第106連隊第1大隊を中心とする攻撃隊はこのペショ旅団前衛と激しい銃撃戦を行い、第1大隊長フォン・デア・デッケン少佐を銃創の負傷後退で失いますが、銃剣突撃に転じてペショ旅団の散兵線を攻撃します。

 大隊長に代わりこれを率いたのは、第106連隊長のハインリッヒ・フォン・アーベントロート大佐でした。大佐はこの攻撃以前に狙撃されて重傷を負っていましたが後送を拒否して指揮を執り続けていたもので、大佐を助けるべくロンクールから急進して来た第107「ザクセン第8」連隊第3大隊の援護射撃を頼みに、ペショ旅団の主力が潜む凹状の小路を攻撃し、これを占拠したのでした。


 第106連隊の5個中隊と第107連隊第3大隊はこの窪地の道で少時休息と部隊点呼を行った後、再び攻撃に転じます。

 この時には既に敵ペショ旅団はジョーモン森の奥深くに退いており、騎砲兵第1中隊が森に榴散弾を撃ち込む中、部隊は抵抗なく前進してジョーモン森の北西端を占領し、更に敵を追撃してその左翼はジョーモン採石場に突入、ここに陣を構えていた仏兵散兵と短くも激しい白兵戦を行った後、これを敗走させるのでした。中でも第107連隊の第10,12中隊は後ろを振り返らず一目散に逃走する敵を追って深い森に押入り、なんとブロンヴォー部落(ロンクール東3.5キロ)の北郊までに至るのでした。

 

 一方、マランクールに向かった第106連隊第9,10,11中隊は、マランクール部落南郊外にいた仏軍前哨と銃撃戦を行い、これを駆逐すると南東方向へ転進し、ジョーモン採石場での戦闘が終結した頃に同連隊の左翼に復帰しました。

 また、第48旅団長シュルツ大佐は前進に際し予備隊を攻撃第一線に呼んでおり、この命令に従って猟兵第13「ザクセン第2」大隊と第46旅団所属でシュルツ大佐に貸し出されていた第103「ザクセン第4」連隊第3大隊は、同じくジョーモン森の西縁まで前進したのです。


 S軍団ライター騎兵集団は、歩兵がロンクールとジョーモン採石場を占領するまでロンクール西側の高地周辺で待機し、いつでも戦闘に参加出来るよう準備を成しますが、結局戦闘に参加する機会は訪れませんでした。

 ロンクールが占領された後に部落東方に展開し、ジョーモン森のペショ旅団に対して砲撃を行っていた騎砲兵第1中隊と重砲第2中隊は、サン=プリヴァの陥落を知ると更に前進し、友軍砲兵列線と共にマレンゴ南東の仏軍砲兵列線とモーゼル渓谷へ退却する仏軍歩兵に対し砲撃を続行するのでした。


 フュージリア第108「ザクセン」連隊は、既述通りサン=プリヴァ攻撃陣の後方予備となり部落北方に待機していましたが、部落攻撃に加わる機会はありませんでした。この連隊の間近にはS軍団の総予備となっていた第46旅団も到着していましたが、サン=プリヴァ陥落後にジョーモン森方面へ進撃することを命じられ、前述通り第103連隊第3大隊は先行してシュルツ大佐傘下となり、続いて第102連隊第3大隊が進み出て、両大隊は先にサン=プリヴァ北東郊外でジョーモン森に対面していた普第10軍団第20師団の前衛(猟兵第10大隊と第92連隊第1大隊)の散兵線を、更に北へと延伸するのです。

 防備が手薄になったモントワ部落にはS軍団長アルベルト王太子の命令で第24師団から2個大隊が向かうのでした。


 サン=プリヴァの南、アマンヴィエの戦線ではプロシア・ヘッセン混成の第9軍団長、フォン・マンシュタイン歩兵大将が、火災が発生したアマンヴィエ部落を攻略しようと奔走しますが、最終的に市街を占領するまでには至らない状態となっていました。

 これは既に多くの部隊を前線に投入し、その全ての部隊が損害を受けて疲弊していたためで、残された予備隊は近衛擲弾兵第3連隊(近擲3連)第2大隊と、既に銃撃戦を交えた後にキュセ森へ後退していたH歩兵第4「カール王子」連隊(2個大隊制)の残兵だけで、普軍士官のH第4連隊長ツヴェンガー大佐はこの時既に瀕死の重傷を負って後送されていたのです。


 午後7時前、独第二軍司令官、騎兵大将フリードリヒ・カール王子はキュセ森西端まで騎行し、ここで指揮を執っていたフォン・マンシュタイン歩兵大将と会合すると、「アマンヴィエを落さねばならない」と決心し、軍予備の普第3軍団から1個旅団を派出し、マンシュタイン将軍の願いであるアマンヴィエ占領を成そうと考えるのです。


 普第3軍団長、コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将は既に昼前、ヴェルネヴィルを目指し前進中カール王子に対し「軍団の全力を挙げてラ=フォリに向けて前進し、これを占領する」と上申しましたが、王子はこれを許可せず、ヴェルネヴィル西郊外にて待機を命じていました。

 ところが午後7時直前、カール親王からの伝令により「1個旅団を抽出し、アマンヴィエを目標に進撃せよ」と命じられると、直ちに「全歩兵」に前進を命じ、まずは第6師団にキュセ森南の第9軍団砲列とシャンペノア農場との間を突進させ、第5師団に対し「これに続け」と命じました。


 そして、正にその先鋒部隊が前進を始めようとした時。

 突然、右翼方向に激しい銃砲声が巻き起こったのでした。

 同時にシャンペノアとランヴィ農家の間に砲列を敷く同軍団の砲兵隊からも、「砲列の右翼側より敵の銃撃を受けつつあり」との急報が届くのです。

 「独第一軍の危機」・サン=テュベールからグラヴロット、そして第8軍団と第9軍団との「軍団境界」における仏第2、3軍団の逆襲が始まったのでした。


 C・アルヴェンスレーヴェン将軍は第5第6両師団に対しアマンヴィエへの突進を中止させ、仏軍がマンス渓谷を越えジェミヴォー森を突破し、シャントレンヌからマルメゾンまでの第8、9軍団の「境界」が襲われた場合に素早く対応するため、大至急マルメゾン~グラヴロット方面へ南下することを命じたのです。

 この時、軍団の前衛となった第12旅団(第6師団)は全兵士がドライゼ銃に着剣し、突進する仏軍をジェミヴォー森林内で捉え、これを掃討することが命じられました。

 しかし、この処置も仏軍が森林内で突撃を中止して東へと引き返したため、大規模な戦闘には至らずに終わったのでした。


 この頃より、仏軍右翼カンロベル大将の第6軍団がロンクール~サン=プリヴァより後退した影響が各所に及び始めます。

 自軍団右翼が敵砲兵に晒されても、当初は強気に出ていた仏第4軍団のラドミロー中将も、アマンヴィエが遂に炎上し始めたことにより、部落とその周辺から主力を東へ退却させ始めたのでした。これが可能となったのも、普軍とH師団砲兵に決死で突撃した仏軍後衛部隊の功績で、一時は普軍砲列を危機に陥れたものの、多大の損害を受け撃退された彼らの犠牲により、ラドミロー軍団主力は東側の森を越えソルニー方面へと後退することが出来たのでした。


 この、アマンヴィエ部落からの銃撃が衰えたことを感じた普軍最前線(アマンヴィエから6、700m西)の近衛第3旅団(近3旅)と、その傍らに前線を延伸していた第9軍団諸部隊は一斉に前進を開始します。

 キュセ森から前進した近擲3連第2大隊は、第6,7中隊を第一線、第5,8中隊を後衛として同連隊F大隊の左翼(北)側から最前線を越え、一弾も発射しない(即ち装弾動作により邪魔されない急速突撃)でアマンヴィエ西側高地上に達しました。大損害を受けつつも最前線で機会を待っていた旅団の残り部隊もこれに続きます。

 ラドミロー将軍も負けてはいません。これに対して強力な後衛部隊で対抗しました。

 将軍は本会戦の後半から攻防に参戦したロロンセ師団を軍団後衛とし、ロロンセ将軍はアマンヴィエ部落をしっかり保持していました。彼らは頑強な散兵線から猛銃撃を開始して普軍の前進を阻止しようとします。このため、近擲3連第2大隊は大損害を受けてしまうのです。

 しかし、普軍のエリートと自負する近衛擲弾兵は銃剣突撃を止めませんでした。既に後退局面に入っている仏軍は以前より闘争心が薄れていたのか、それとも普近衛の敢闘精神が勝ったものか、近擲3連第2大隊は損害をものともせずに仏軍のアマンヴィエ西郊外散兵線に突入し、その一角を占領することに成功するのです。

 近3旅の右翼となる近擲1連第2大隊は、近擲3連第2大隊の突進と並列してアマンヴィエ郊外に突進、その第7中隊は先頭を切って仏軍散兵線より後退する仏軍の背後に迫ります。しかし、左翼側では近擲3連第2大隊の奮戦に対抗して仏ロロンセ師団の諸兵も踏み止まって激しく抵抗し、幾度も逆襲を仕掛けて普軍の「脚」を止めたのです。


 このようにアマンヴィエ西の戦線では各所で普仏は勝敗を分け合い、仏軍の逆襲で普軍が押し返される場所もあれば、普軍の突撃により仏兵が算を乱して後退する場所もあり、その中で日没を迎えた戦場は急速に夜陰を深くして行ったのでした。


 午後8時を過ぎると照準が付かなくなったH砲兵は砲撃を中止し、続いて第3、9軍団砲兵も砲撃を止めました。仏軍が全面後退に入り、夜陰が深くなるに連れ前線では銃撃戦が止み、普軍の第一線部隊はそのまま最前線を前哨線として夜を迎えるのです。フォン・マンシュタイン将軍も頑固に居座るアマンヴィエの仏軍に対し、不利な夜襲を試みるのを諦め、最期の戦闘で損害を受けた部隊の整理を急ぎつつ夜に備えたのでした。


※午後9時における独第9軍団の前哨線

◯第18師団

  >ジェミヴォー森北西端からランヴィ農家まで

◯近衛第3旅団と近衛シュッツェン大隊

  >シャンペノア農場北東側からアマンヴィエ西側高地

◯第25「ヘッセン大公国」師団

  >アマンヴィエ西、鉄道未成線の踏切付近から近衛軍団砲兵列線右翼端まで


 さて、普大本営と普第二軍はこの日午前中まで、仏軍がムーズ川に向かって西進しベルダンかシャロン(=アン=シャンパーニュ)へ退却するものと考えていましたが、この日午後の会戦によりメッス要塞の西側に強力な防衛線を敷いていたことが判明し、幾分動揺することとなります。


 特にカール王子は自身の想像と全く異とするバゼーヌの采配に振り回された感があり、仏軍が北進する独軍右翼に長大な陣地帯を設けていたことを知ると、慌てて「バゼーヌ軍とパリ方面との連絡を速やかに遮断すること」を軍の方針として掲げ、この目的を達するため、自軍最左翼の第12「S」軍団に対し、当初は「メッス北方の鉄道線と電信線を破壊せよ」とだけ命じていたものを、サン=プリヴァ市街戦突入直前の午後6時45分、「歩兵1個旅団を分離し、これをヴォワピー(メッスの北北西4キロ)まで突進させモーゼル川下流渓谷を占領せよ」と命令を具体的に変更するのでした。


 しかし、S軍団がこの命令を受領した頃にはサン=プリヴァ東郊外とジョーモン森の戦闘は既に夜戦に踏み込んでおり、アルベルト王子はカール王子の命令を「今更」に実行するのは難しい状況にありました。代わりに、という訳ではありませんが、それ以前に命じられていた「メッス北方の鉄道線と電信線の破壊」についてはライター騎兵をその任に充て、既に命令を与えて発進させていたのです。


挿絵(By みてみん)

 ザクセン・ライター

 午後4時、S騎兵「近衛」ライター連隊第1中隊長、ヴィルヘルム・フォン・クレンク大尉と、同じく第3ライター連隊第2中隊長、フリードリヒ・レオポルト・フォン・ポーレンツ大尉は、それぞれ中隊を率いてオブエ近郊を発しモーゼル川下流(メッス北)渓谷に向かいました。

 両中隊共に敵影を見ないまま北東へ進みオルヌ河畔に到達しますが、川沿いの街道はモイウーヴル(=グランド。モントワ北北東4キロ)に至るまでバリケードで幾重にも封鎖されており、行軍は困難を極めました。

 両中隊は川沿いにロンバ(モイウーヴル東3.5キロ)を過ぎ、ヴィトリー(=シュル=オルヌ。ロンバ北2キロ)まで同道しますが、ここで別れてクレンク中隊はリシュモン(メッス北18キロ)、ポーレンツ中隊はウッカンジュ(メッス北21キロ/ティオンヴィル南6キロ)をそれぞれ目標に進みました。


 両中隊共仏軍に遭遇せずモーゼル川西岸の目的地に達し、サン=プリヴァ市街戦と同時刻の午後7時から8時に掛けて破壊活動を行い、停車場で鉄道と電信線を切断し、電柱や枕木を破壊して復旧に手間が掛かるようにし、その後帰路に就きました。

 両中隊は往路でバリケードに悩まされた経験から、帰路は別ルートを選ぶことで申し合わせていました。彼らはアヤンジュ(ティオンヴィル西南西8.5キロ)の遙か南を進み、モイウーヴル森(モイウーヴルの北に広がる一大森林地帯)の北縁を通り、日付が変わった午前1時、ヌフシェフ(モイウーヴル北7キロ)近郊で合流し、アヴリル(ヌフシェフ南西5キロ/ブリエ北5キロ)、ブリエを経由して19日午前7時30分、一人も欠けることなくオブエ近郊に移動していたそれぞれの所属連隊野営地に到着したのでした。


 ライター騎兵2個中隊の遠征中、他方面でもS軍団の後方部隊が活動しています。


 アルベルト王子は午後5時、メッスの西郊が独軍に占領された後に仏軍が移動と補給に活用する筈の、ベルギー・フランス国境に沿って走る幹線アルデンヌ鉄道(ティオンヴィルからロンギュオンを経てセダンからシャルルヴィル=メジエールへ至る)に対しても先手を取って破壊工作を行うよう命じました。

 午後5時30分、S軍団工兵部長で工兵第12大隊長クレンム少佐はS軍団工兵第4中隊から工作隊を編成し、馬車を仕立ててオブエを発します。

 夜半午前2時30分、クレンム少佐はブリエ北西20キロ余りのメルシー=ル=バ(オブエ北西25キロ)付近でアルデンヌ鉄道に到達すると、部落の電信所を破壊し電柱を引き抜き、部落北2キロ郊外を走るアルデンヌ鉄道の線路を200mに渡って外し、これを付近のクルヌ川に投げ入れた後、意気揚々と19日午後1時にロンクールへ帰着したのでした。


 この18日、「グラヴロット/サン=プリヴァ会戦」の主戦場から遙か西に警戒任務としてS軍団槍騎兵2個(第17と18)連隊がいました。

 カール・ハインリッヒ・タシーロ・クルーク・フォン・ニッダ少将に率いられたこの別働隊はこの日、主力をヴィレ=ス=パレド(マルス=ラ=トゥール西北西11キロ)とピュクス(ジャルニー西6.5キロ)に置き、この地よりムーズ川方面(西)に斥候を派出しました。主に3本の街道(南のベルダン街道、中央「北ルート」グラヴロット~ジャルニー~エテン~ベルダン街道、北のブリエ~エテン街道)を西へ向かった中隊規模の偵察隊はブリエとエテン両部落に敵影を見ず、また3本の街道沿いにも全く敵の姿を認めませんでした。

挿絵(By みてみん)

クルーク・フォン・ニッダ


 この日ベルダン街道を最も西へ向かったのは槍騎兵第17連隊の一斥候隊で、すんなりオデュモン(ベルダン街道沿い。ベルダン東南東13キロ)まで進んだ彼らは大要塞周辺をじっくりと観察した後、帰還すると「ベルダン要塞は強力な守備隊に護られている」と報告するのでした。



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