グラヴロットの戦い/サン=プリヴァ攻略戦(前)
※この節より、Saint-Privat-la-Montagneの表記を今までの「サン=プリヴァー」から「サン=プリヴァ」に変更します。
普近衛第1師団からの伝令、フォン・エスベック=プラーテン少尉の要請により、ロンクール近郊から最初にサン=プリヴァへ転進したのは、ロンクール攻撃陣の左翼(北東)側にいた第107「S第8」連隊でした。連隊長のヴォルフ・ゲオルグ・エトムント・フォン・シュヴァイトニツ中佐は、ロンクール攻撃に進んだ第3大隊を残し、第1、2大隊を率いてロンクール~サン=プリヴァへの街道(以下、ロンクール街道)東側を南下、サン=プリヴァの北郊外を狙います。
同じ頃、S軍団第45旅団の右翼、擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊の前線にいた旅団長、フォン・クラウスハアー将軍もロンクール方面をフュージリア第108「Sシュッツェン」連隊のフォン・ハウゼン大佐に任せ、後方に控えていた擲弾兵第101「S第2/プロシア国王ヴィルヘルム」連隊第2、3大隊を直率してロンクールの西方1,100m付近で部隊を右旋回(南東向きとなります)させ、サン=プリヴァの北西隅に突進、部落攻撃中の近1師最左翼の外側に並びました。
クラウスハアー将軍が出発間際に右翼に続くよう命じた第100連隊ですが、命令を受領した時には既にロンクール部落の至近に迫っていたため、ちょうどサン=プリヴァへ南下する第107連隊の行軍列と交錯してしまいます。このため第100連隊は、先にロンクール西郊外へ進んだ諸中隊と、第107連隊行軍列の西側で踏み留まる諸中隊の二つに分裂し、右翼西側の7個(第4,7~12)中隊は連隊長のガルテン大佐が直率しロンクール街道を東に越えて第101と第107両連隊の中間を進み、残りの5個(第1~3,5,6)中隊はフォン・シンプ中佐が率いてロンクール近郊を過ぎると第107連隊の左翼外を南東方面へ進みました。
また、S軍団の右翼(西)端に続いていた近1旅の諸中隊の内、先にロンクールへ進んだ部隊以外の諸中隊(近1連第3,4中隊、近3連第1,4中隊)もクラウスハアー将軍の前進に続いてサン=プリヴァへ進みました。
サン=プリヴァの北方荒野は、その西方の地形に似て、樹木のない開けた傾斜地が緩やかにブリエ東林に向かって下り、その斜面頂上に重層となった土地の境界壁が続くサン=プリヴァの郊外がありました。仏軍はここに防衛の重点を置き、仏第6軍団第3師団(ラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ少将)の戦列歩兵第91連隊と第93連隊を主力に、何層にも渡る散兵線を設けて独軍を迎え撃ち、この散兵線は部落とジョーモン森との間に展開する砲兵によって援助されていました。
当時のサン=プリヴァ部落
第107連隊の第1、2大隊は、ロンクール街道の東側をサン=プリヴァ北部散兵線の仏軍から発見されずに南下し、部落北縁から750m付近まで接近しました。しかし、さすがにここまで迫ると発見され、この先は猛烈な銃砲撃下を進むこととなります。
ところが連隊長フォン・シュヴァイトニツ中佐は一切応射を許さず、1,500名を超えるS軍団将兵は駆け足で仏軍散兵線に向かって銃剣突撃を行いました。この時、第1大隊の先頭に立っていた連隊長中佐はシャスポーの銃弾を浴びて壮絶な戦死を遂げ、同じくサーベルを掲げて突進した大隊長ティールバッハ少佐とフォン・テュルリニ少佐も負傷してしまいました。当然ながら指揮官ばかりでなく大隊も大損害を受けて突撃は自然と速度を緩め止まり掛け、幸運にも生き残った兵士は動揺を来しましたが、下級士官たちの督戦と断固とした態度で辛くも秩序を維持し、再び突進を断行したのです。
第1大隊の左翼(東)を並進した第2大隊は、両翼(第5,8)中隊を第一線に密集隊形で銃剣突撃を行い、こちらも頑強に抵抗するサン=プリヴァ北郊外の仏軍散兵と白兵戦を行うのでした。仏軍は死力を尽くして戦いましたが、西側からフォン・クラウスハアー将軍が直率する第45旅団の将兵が接近するに及び遂に浮き足立ち、生き残った仏兵たちは境界壁の郊外陣地を次々に脱して市街地へ退却するのでした。
こうして第107連隊の兵士たちは仏軍と入れ替わる形で市街地北の仏軍散兵線を占領し、ほんのわずかな時間、負傷者と戦死者が充満する敵の陣地内で、ほぼ400mに及ぶ突撃と白兵戦の疲れを癒すのでした。そして再び立ち上がるや、両大隊は部落市街地北端まで200m強と迫るのです。
サン=プリヴァの戦い(ジュール・デカルト・フェラ)
一方、普近衛の第4連隊は、同僚近1師の3個連隊がほぼ半減してしまったサン=プリヴァ西の戦場を北へ迂回した後にS軍団の右翼前方に展開、S軍団の攻勢とほぼ同時に北西側から部落に迫りました。
連隊は部落北西角からおよそ600m西の窪地で改めて隊形を整え、後方からF大隊を前進させて3個大隊が横一線となり、部落の北から西に掛けての地境界壁を盾に頑強な抵抗を繰り返す仏軍散兵線に対し銃撃を開始したのです。
負傷後送されたフォン・ノイマン連隊長に代わって指揮を執るフーゴ・フォン・ヴォルフラット中佐は、自部隊左翼側から突撃を開始したS軍団の動きを見るや第1、2大隊を率いて突撃を開始しましたが、仏軍は必死で防戦に努め、至近距離からのシャスポー銃による正確な射撃は次々に近衛将兵を倒して行きました。先頭に立った中佐を始めとする士官はことごとく重傷を負って倒されますが、2個大隊は犠牲を厭わず走り続け、遂にサン=プリヴァ北西側の仏軍散兵線に飛び込んだのです。2個の大隊に続いてF大隊も散兵線に到着しますが、銃弾飛び交う前線は既に普近衛兵で溢れており、大隊はそのまま部落北側へ進んでS軍団の第107連隊と合流するのでした。
クラウスハアー将軍の第45旅団諸中隊は、この近4連と第107連隊との間、ロンクール街道の西側を一気に南下しました。
第101連隊の8個中隊は大きく間隔を空けた横列縦隊を形成し、クラウスハアー将軍が直率して近4連の第1、2大隊右翼に接して突撃しました。第100連隊の内、連隊長のガルテン大佐が率いた第3大隊を中核とする7個中隊は第107連隊の後方からクラウスハアー隊と並び、ロンクール街道の東側を進みます。
この第45旅団も犠牲続出の猛銃砲火の下、仏軍散兵線に肉薄し、幾度かの進撃停止の後に部落北部の境界壁散兵線へ到達し、市街地へ後退した仏軍と入れ替わって占領しました。しかし、その犠牲もまた大きく、第100連隊の大隊長シューマン中佐とフォン・ブランデンシュタイン少佐は重傷を負い、第101連隊の大隊長男爵フォン・コッフィッツキー中佐は、乗馬を倒された時にその下敷きとなって重傷を負ってしまいます。両連隊とも中隊長始め士官のほとんどが戦死か負傷後送されてしまい、下士官兵の損害もまた大きかったのでした。
普近衛とS軍団によるサン=プリヴァ北部攻撃は、ここで一時休止となります。
攻める普軍側は更に市街地へ突入するため、激しい戦闘により混交してしまった諸中隊の整理に追われ、護る仏軍側は肉薄する普軍に対抗し、部落内で守備を固めるのに追われたからでした。
※午後7時30分頃の仏第6軍団サン=プリヴァ防衛陣
◯ロンクール南東・ジョーモン森北西端
*第1師団(ティクシエ少将)第1旅団(ペショ准将)
・戦列歩兵第4連隊
・戦列歩兵第10連隊
◯サン=プリヴァ北部
*第3師団(ラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ少将)第1旅団(ベッケ・ドゥ・ソネ准将)
・戦列歩兵第91連隊
*第2旅団(コレン准将)
・戦列歩兵第93連隊
◯サン=プリヴァ西部
*第3師団第2旅団
・戦列歩兵第94連隊
*第4師団(ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将)第1旅団(ドゥ・マルグナ准将)
・戦列歩兵第25連隊
・戦列歩兵第26連隊
◯サン=プリヴァ中央
*第4師団第2旅団(アドルフ・ギュスターヴ・ドゥ・シャナレイユ准将)
・戦列歩兵第28連隊
・戦列歩兵第70連隊
◯サン=プリヴァ南部(ジェルザレム)
*第1師団第2旅団(ラウール・ポール・ウジェーヌ・ル・ロア・ドゥ・ディ准将)
・戦列歩兵第12連隊
・戦列歩兵第100連隊
◯サン=プリヴァ東部(予備部隊)
・戦列歩兵第9連隊(第2師団唯一の部隊)
・戦列歩兵第75連隊(第3師団第1旅団)
この時、ロンクール街道の東側では、普近1連第1大隊長のアウグスト・ユリウス・ハインリッヒ・フォン・オッペル中佐が第3,4中隊を直率し、フォン・シンプ中佐率いるS軍団第100連隊左翼別働隊の5個中隊と連携しながら第107連隊の左翼(東)側でサン=プリヴァ北東郊外を目指し進撃しました。しかしこの7個中隊は、サン=プリヴァとジョーモン森との間で仏軍の強力な後置予備部隊と遭遇し、前進を阻まれてしまいます。
この危機に際し近1連隊長のフォン・ロエーダー大佐も駆け付け、部隊先頭で士気を鼓舞するのでした。
激しい銃撃戦となる中、第100連隊第7中隊が進み出て部落北東郊外の境界壁を遮蔽物に援護射撃を始めると、オッペル中佐の近衛2個中隊が更に南へ突進し、仏軍と混戦状態となりました。薄暮の中、数的に有利な仏軍は幾度も銃剣突撃を敢行します。しかし、普軍側も必死で防戦に努め、現在地を一歩も退かずこれを防ぎ切りました。こうしてオッペルとシンプ両中佐はサン=プリヴァー北方の比較的遮蔽物に恵まれた陣地を獲得し、普軍戦線左翼に強固な拠点を築くのです。しかし拠点確保を見ることなく、近1連隊長のヴィクトル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨセフ・ディートリヒ・フォン・ロエーダー大佐は戦闘開始直後に銃撃を受け戦死していました。
ロエーダー大佐
近3連第1,4中隊もオッペル隊に続いてサン=プリヴァ北郊外へ突進し、第101連隊の前線に加入しますが、こちらも出血の多い進軍となりました。
しかし、この半個大隊を率いた近3連第1大隊長フォン・ゼーゲンベルク少佐は、同所において北方から激しい銃撃音を聞き及び、それは大隊の中央2個(第2,3)中隊が進んだロンクール方向だったため、心配になった少佐は第4中隊の大部分を率いてロンクールへ向います。結局、少佐と第4中隊は、ロンクール部落で東側ジョーモン森西縁に陣取った仏ペショ旅団と戦う同大隊の第2,3中隊と合流しました。余談となりますが、この会戦中常にゼーゲンベルク少佐の傍らにいた副官は、あのパウル・フォン・ヒンデンブルク中尉でした。
ヒンデンブルク中尉
第45旅団の最後尾、第101連隊第1大隊はモントワ南西高地における待機から連隊に復帰しましたが、戦闘の展開は早く親部隊はどんどん先へと進んでしまい、中々本隊に復帰する事が出来ませんでした。仕方がなしにロンクール西の荒野に展開すると、前進した友軍に当たらぬよう気を付けながら銃撃戦を行い、その後ロンクール部落に入ると、ジョーモン森のペショ旅団の反撃からロンクールを防衛するために散兵線を構築するのでした。
こうしてロンクールとサン=プリヴァ北部においてS軍団と近1師諸隊はほぼ独断により仏軍と戦いましたが、この様子をロンクール北西側高地からじっくりと観察する将軍たちがいました。S軍団長のアルベルト・ザクセン王太子とその弟君ゲオルグ王子でした。
両親王は部下たちが独断で血気盛んにサン=プリヴァへ突進するのを見て、直ちに対応策を話し合います。そして直ちに必要な援助を与える事に決すると、アルベルト王子はオブエ東森に沿って展開する軍団砲兵に対し、「中隊毎に前進し砲撃目標をロンクールからサン=プリヴァへと変更、展開次第直ちに砲撃を開始せよ」と命じるのです。
これら11個中隊の砲兵は右翼端をブリエ街道北縁北方200m前後とし、そこから北東ロンクールへ向かって円弧を描いて砲列を敷き、左翼はほとんどロンクールの南郊外に達してサン=プリヴァの西~北西側を包囲する形となりました。第46旅団に追従していた重砲第1中隊は、軍団砲兵の移動を知ると急ぎ前進して砲列右翼に続き、ロンクールの北西側で砲撃を続けていた軽砲1,2中隊も前進して、この一大砲列の隙間に展開するのです。
こうしてS軍団砲兵は、ほぼ全力の14個中隊(各種砲84門)でサン=プリヴァを砲撃し、S軍団歩兵の突撃は、この榴弾射撃がなければ更なる犠牲を強いられていたであろうと思われるのです。
サン=プリヴァ北西隅から北東に掛けてS軍団と普近衛の混成兵力による攻勢が始まると、第二線に控えていたり、一時休止状態にあったりした諸隊もサン=プリヴァへ向けて進撃しました。
ロンクールでは部落近郊に集合したフュージリア第108連隊が南下し始め、その西方ではオブエ東林から第46旅団が南東へ進みました。
近1師団長のパーペ将軍は、予備としてサント=マリーに留めていた近衛フュージリア連隊に対し前進を命じ、サン=アイル付近に到着した第10軍団所属の第20師団は、軍団長フォン・フォークツ=レッツ将軍の命により、そのままサン=プリヴァに向けて前進を継続したのです。
これらの運動は午後7時前後に相次いで行われました。同じ時間帯ではブリエ街道を挟んだS軍砲兵14個と普軍砲兵10個(60門)中隊によるサン=プリヴァへの集中砲撃が行われ、これは仏第6軍団のおよそ1個師団強が立て籠もる部落を大混乱に陥れます。部落の堅牢な家屋や障壁は榴弾により次々と崩壊し、倒壊した多くの家屋から火災が発生すると、部落の十数ヶ所では火焔が高々と舞い上がって最早消火不可能となっていたのです。
最前線では遮蔽物から双方の距離200m前後で30分以上に渡って銃撃戦が途切れずに続き、友軍砲兵陣による猛砲撃で仏軍の減衰が見え始めると、前線間近で状況を見極めるS、近衛両軍団の本営は午後7時30分を廻った頃、砲列に砲撃中止を命じると同時に前線の諸部隊に対しサン=プリヴァ市街への一斉突撃を命じるのでした。
しかし前線で指揮を執る高級士官たちは、軍団本営からの突撃命令を受領する午後7時30分以前に、既に独断によってサン=プリヴァ市街地に向かって突進していたのです。
西欧の夏の一日はすっかり暮れて、まだ夕焼けの濃橙色が空と大地を染める薄暮の中、普軍指揮官たちはラッパ手に命じて突撃ラッパを吹奏させ、ラッパ手を失っていた隊では指揮官自らの号令によって突撃が開始されます。それはまるで事前に時間を合わせたかのようにほぼ同時に開始されるのでした。
突撃の先頭には強固に護られた敵陣に向かいサーベルを振り上げ疾駆する指揮官と、息が続く限りにラッパを吹き続けるラッパ手、そして勇壮な連打を叩き続ける鼓手があり、その傍らには敵銃手から真っ先に狙われる運命を泰然として受け入れ、高々と軍旗を掲げる旗手がありました。この僅か数百mの突撃中、旗手が次々と4、5人代わった大隊も複数に及んだのです。
こうしてS軍団兵は北、普近衛兵は西と南から、ほとんど同時に燃え盛る部落に突入したのでした。
短時間の内にサン=プリヴァ市街とその周辺で多数の激戦が発生します。仲間が次々に倒されても進み続け、遂に部落へ突入した普軍部隊、そして恐るべき敢闘精神と勇気を持って猛砲撃を凌ぎ、その多数が負傷しつつも普軍を迎え撃った仏軍部隊はたちまち混交して壮絶極まる白兵戦となり、その戦闘記録は双方錯綜し、今日に至ってもその全貌と時間軸に従った戦闘の詳細ははっきりとしません。普仏将兵個々人とその縁者が残した手記は多数残るものの、それが正確かどうかは誰にも判断出来なくなっています。
これ以降は、この凄惨な「サン=プリヴァ市街戦」を、普軍側の公式記録に沿って簡素に記して行きましょう。
サン=プリヴァ部落の北部及び北西部に掛けては、普仏両軍共に攻守の要として双方兵力を集中したため、この市街戦では最激戦地区となりました。
S軍団の第45旅団長フォン・クラウスハアー少将は部隊に一斉突撃を命じると、北部戦線に沿って騎行し士気を鼓舞して行きました。その姿はS軍団の将兵からはっきりと見え、猛烈な銃砲火でもすくっと背筋を伸ばした将軍の騎乗姿は自然と将兵の頭を上げさせ、戦場の恐怖を一時忘れさせるのです。
しかし敵味方、彼我の距離が数百mともなれば同じ姿は仏軍の散兵からも見えます。猛烈な銃撃と突進する兵士が巻き起こす硝煙と砂塵が薄れた時、将軍は仏兵格好の「標的」となったのでした。
フォン・クラウスハアー将軍はロンクール街道の路傍にて第101連隊の突撃と共に進んでいた時、シャスポー銃に捉えられます。銃弾を浴びた将軍は乗馬から転げ落ち、間もなく息を引き取りました。
クラウスハアー将軍の死
旅団長の戦死を知ったS軍団将兵は一緒に行動する普近衛の兵士たちと共に「怒りの」銃剣突撃を敢行します。
第101連隊の左翼(東)側では、第100連隊第4中隊が併走していた普近4連第12中隊と共に攻撃集団最左翼となり、部落の北東隅に突入し、この一角を占領しました。
第107連隊の第1大隊と第5,8中隊による半個連隊は、この右翼(西)側に接して突撃、既に中隊長以上の指揮官全てが負傷するか戦死する中、僅かに残った士官の指揮により、部落で最も高い建物であるサン=プリヴァ教会の尖塔目指して部落内に侵入し、教会の敷地目前まで進むことに成功しました。
旅団長戦死の後、サン=プリヴァ北部に殺到した第45旅団ですが、諸中隊が同時に400m余りの部落北正面に達したため大混乱が発生し、同士討ちを恐れた多くの中隊は直ちに目標を左側に転じて、北東側から部落に入ろうとしました。
第12中隊を部落北郊外に予備として留めた後、第100連隊の第3大隊(第9,10,11中隊)は近4連第9中隊を伴って、部落北の境界壁が重層に続く場所にポツンと存在した一軒家に突入し、これを占拠しました。この周辺で息を整えた部隊は、直ちに教会に向けて進撃しようとしますが、周辺の家屋に籠もる仏兵から猛烈な射撃を浴び、普兵たちは銃床を使ってドアや窓を破り、家屋に突入して一軒一軒白兵戦によって仏兵を制圧するのでした。仏兵は必死に抵抗しましたが、ここまでの突撃で多くの戦友を失っても普軍側将兵の戦意は衰えず、凄惨な銃剣同士の戦いは次第に普軍側勝利へと帰結し、生き残った仏兵たちは銃を捨て手を上げるのでした。
第100連隊の第7,8中隊は更にその左翼側を進みましたが、僅かの間に大きな損害を受けて員数を減らしてしまったため、それ以上進むことが叶いませんでした。そこで一部は北郊外の遮蔽物の陰から、一部は部落東郊外に進んで、それぞれ部落から逃げ出した仏兵を狙撃するのでした。
第101連隊第3大隊は、総攻撃開始時以前(午後7時15分頃)にロンクール街道の西側で集合し、近4連第4中隊と併走してサン=プリヴァ北郊外にある境界壁で四角形に囲われた土地を占拠しました。総攻撃時にはここから街道に沿って部落北口に突撃し、目立つ教会の尖塔目指して進みました。しかし混戦となった部落内で二手に分かれてしまい、一部は第101連隊長フォン・ザイドリッツ大佐が率いて家屋の敵と戦い、大部分は東側に逸れて第100連隊第7,8中隊や近4連第12中隊と合流したのです。
第101連隊第2大隊は近4連の7個(第1,2,3,5から8)中隊と共にサン=プリヴァ北部攻撃陣の最右翼となり、混雑する部落の北西隅を回り込み、西側北部から部落へと突撃するのでした。
※午後7時30分頃のS軍団サン=プリヴァ北部攻撃陣(普近衛第4連隊含む)
(左翼・東より)
・擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊第4中隊、普近衛第4連隊第12中隊
・第107「S第8」連隊第1から4,5,8中隊
・第100連隊第7,8中隊
・第100連隊第9,10,11中隊、近4連第9中隊
・擲弾兵第101「S第2/プロシア国王ヴィルヘルム」連隊第9から12中隊
・第101連隊第5から8中隊、近4連第1,2,3,5から8中隊
※他の部隊
・第100連隊第1~3,5,6中隊(フォン・シンプ中佐の隊)
・近1連第3,4中隊
サン=プリヴァ部落北東郊外で南東側の仏軍予備部隊と交戦中
・近3連第1中隊と第4中隊の一部
・第107連隊6,7中隊
・第100連隊第12中隊
サン=プリヴァ部落北郊外で待機
ザクセン軍団のサン=プリヴァ攻撃




