グラヴロットの戦い/ザクセン軍団、ロンクールを攻略す
普近衛軍団のサン=プリヴァー攻撃が始まる直前の午後4時から5時にかけ、普第12「ザクセン王国」軍団はサント=マリー部落の西部から北上し、迂回して北からロンクールを狙う作戦を実行しました。
エルンスト・アドルフ・フォン・クラウスハアー少将率いる第45「ザクセン(以下、S)第1」旅団はオブエ東の森林内を前進した後、午後5時過ぎに擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊を第一線、擲弾兵第101「S第2」連隊を第二線としてオブエ東林の東端へ進みます。旅団の残り、フュージリア第108「Sシュッツェン」連隊は主力の左翼(北側)へ向かい、モントワ(=ラ=モンターニュ)へ続く高地斜面の西端へ進み出、ここでモントワとロンクールの間にある小林を守備していた仏軍の前衛と、ロンクール西の荒野に展開していた仏軍散兵線との間で銃撃戦となったのです。
旅団本隊の内、第100連隊の第1大隊はオブエ東林を南に迂回し、更に東へ進もうとしましたが、林の東に出た途端に激しい銃撃を受けてこれに応戦し、その左翼では同連隊の第3大隊が仏軍の前哨を駆逐して、ロンクール西の仏軍部隊と正対することとなるのです。
第100連隊の後方から旅団の第二線となって進んだ第101連隊の内、クラウスハアー将軍は第1大隊に命じてモントワ部落へ直進させ、大隊は部落守備に残っていた仏軍守備隊と対峙するのでした。
大隊の前衛は短時間部落の敵と銃撃戦を行いますが、その銃撃の様子から敵の数がかなり少ないことに気付きます。第1大隊は大胆に部落へ接近し、完全占領すべく突撃準備をしましたが、ここで後方より伝令が到着し、「急がず後続する部隊を待つように」との命令を受け、第1大隊は待機に入るのでした。
この命令は第45旅団の残り部隊全てに伝達され、以降「後命あるまで現在地を動かず持久戦闘を行う」よう訓令を受けたのです。これは間もなく北西側からユリウス・カール・アドルフ・フォン・シュルツ大佐率いる第48旅団が到着するので、北部の攻略はこの旅団に任せ、クラウスハアー旅団にはロンクールの西をしっかり抑えて貰いたい、というアルベルト王子本営の考えだったのです。
こうしてクラウスハアー将軍がオブエ東林を足掛かりに、モントワからロンクールの西に戦線を構築した午後5時30分過ぎ、第45旅団を援助するため第47「S第3」旅団(クルト・アレクサンダー・フォン・エルターライン大佐指揮)がサント=マリーからオブエ東林に進み出ました。
S軍団諸砲兵もオメクール街道の線から東進を命じられ、目前の渓谷(ロビネ川)を越えておよそ700m弱東へ前進、午後6時過ぎには左翼(北側)をオブエ東森南東端に接し、軍団砲兵隊7個(軽砲第5,6、重砲第5,6,7,8、騎砲兵第2)中隊がロンクールに正対するのです。当初第24師団砲兵隊の4個(軽砲第3,4重砲第3,4)中隊は前進命令を深読みし、第47旅団の前進に続行してしまいますが、これは後に正されて7個中隊の砲列北に延伸されました。
S軍砲兵は展開次第にロンクール部落と周辺の仏軍に対し砲撃を加え、これにより仏第6軍団の右翼側に展開していた仏砲兵は、短時間で砲撃を止めてしまうのでした。
この間もモワーヌヴィルからオブエを経てロンクールを目指す第46「S第2」旅団(フォン・モンベ大佐指揮)は、サント=マリーの遙か西方でブリエ街道を越えて北進を続行し、オブエからオルヌ川の右岸(南)を進む第48「S第4」旅団(フォン・シュルツ大佐指揮)は、オメクールとモントワの中間点で右旋回し、午後6時にはモントワ西の高地に到達しました。
モントワ部落には少し前の騎兵偵察により仏軍守備隊がいることが確認されていましたし、前述通りクラウスハアー旅団の1個大隊も南西側から仏軍守備隊と少時戦闘を交えました。シュルツ大佐はこの1個(第101連隊の第1)大隊と連絡し、部落の北西から西に掛けて部隊を展開し攻略準備をしましたが、この時に放った斥候が戻って報告するには、「部落に敵影なし」とのことで、旅団は直ちにロンクールへ向けて行軍を再開したのです。
旅団の中央を進んだのは第107「S第8」連隊第3大隊(既述ですがS軍団ではF大隊の名称を使用しません)で、大隊はモントワ部落を縦断すると、部落とロンクールの中間にある雑木林(現・ラ・グランド・オーロエ。以下、ロンクール北林とします)に向かい、この林南縁からロンクールを臨み、連隊の第1、2大隊と軽砲第1,2中隊は全てこの北林の西側に展開しました。
ロンクール北林東側で旅団左翼となった第106「S第7」連隊は、第1大隊と第12中隊でロンクールの北東端を狙い、第3大隊残りの3個(第9,10,11)中隊は旅団最左翼として、この時敵の銃弾が飛んで来たマランクール部落(ロンクール北東2.5キロ)方面を警戒するため東へ進むのでした。既述(北部戦線の静寂の項)ですが、この連隊の第2大隊はこの時間、ヴェルネヴィルの西で普第3軍団に臨時参加しています。
後方モントワからは旅団の予備として猟兵第13「S」大隊が前線の至近まで進み、軍団砲兵隊に参加していた重砲第2中隊は、シュルツ旅団に加わる命令を受けて前進すると、ロンクール北林の東側で砲列を敷きました。
シュルツ旅団の後方にはS軍団の騎兵部隊も進んで来ます。
モントワ部落付近には師団騎兵のライター(軽騎兵)第1連隊とライター第2連隊が、その東郊外には騎兵師団所属のライター2個(近衛、第3)連隊があり、更に東に騎砲兵第1中隊があってこちらはマランクール方面の仏前哨部隊に対抗し砲撃を開始するのでした。
こうして準備のなったシュルツ大佐の第48旅団が、ロンクールを北から攻撃し始めたのは午後6時30分でした。
この時の仏軍守備隊の抵抗は弱く直ぐに後退を始めており、シュルツ大佐の攻撃を今か今かと待っていたクラウスハアー将軍麾下の第45旅団は、この敵を追って攻撃を開始、猛烈なドライゼ銃の集中射撃で仏兵は逃げ惑うのでした。
モントワの南西で「お預け」状態にあった第101連隊第1大隊は、第48旅団のロンクール攻撃により待機を解かれ、再び第45旅団の左翼に加わります。同連隊他の2個(第2、3)大隊はオブエ東林の南縁に沿ってロンクールの西側緩斜面に躍り出るのでした。
ところで、このロンクール部落の西には、S軍団の攻撃前に既述通り普近衛第1旅団の一部が進み出ていました。
これは普近衛の第1次サン=プリヴァー攻撃の際、近1旅の第三線となっていた諸隊(近衛歩兵第3連隊第1大隊、同第1連隊の第3,4中隊、近衛工兵第1中隊)計7個中隊で、ロンクール西の起伏ある緩斜面で攻撃機会を待っていたのです。第48旅団に続く第45旅団の攻撃が始まると、近衛兵たちは大地の起伏に沿った薄い遮蔽から立ち上がり、第45旅団の右翼に連なるとロンクールへ向け突進し始めるのでした。
しかしロンクール北から北西側と違って、西から南西側はサン=プリヴァーの北側で戦う仏軍からも射程圏内となり、部落の北と西側から後退した仏軍ペショ旅団も東側に後退しつつ射撃を継続するのでした。
この時、近3連の第1大隊はサント=マリーからモントワとロンクールへ向かう小街道の傍らで応戦し、この左翼(北)に近1連の第3,4中隊と工兵中隊が散兵線を延伸し、工兵は得意の防御工事を行って俄作りの散兵線を強化、その左翼はロンクールを北西側から攻撃中のS軍団第100連隊と連絡するのでした。
※午後6時30分頃の普軍ロンクール攻撃陣
(左翼・東より)
○第一線
・第106「S第7/親王ゲオルグ」連隊第1~4,12中隊
・第107「S第8」連隊第1~3大隊
・擲弾兵第101「S第2/プロシア国王ヴィルヘルム」連隊第1大隊
・フュージリア第108「Sシュッツェン」連隊第1~3大隊
・擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊第1大隊、第5,6中隊
・普近衛の7個中隊
○第二線(第100連隊第1大隊の後方)
・第100連隊第3大隊、第7,8中隊
○第三線(第二線の後方)
・第101連隊第2、3大隊
こうしてロンクールの北東から南西に掛けて半面包囲した独軍ですが、連隊長の男爵クレメンス・ハインリッヒ・ロタール・フォン・ハウゼン大佐率いるフュージリア第108連隊と共に戦場に進出したゲオルグ王子は、ロンクールに未だ1個連隊程度の仏兵がいることを予測し、「部落の占領は生半可にはいかない」と判断、するとこの地にサント=マリー西の高地から急ぎ騎行してアルベルト王太子も登場し、両王子は今後の作戦として、「まずはロンクールを全力で落とし、その後にサン=プリヴァーを攻める」と確認しあうのでした。
グラヴロット会戦中のアルベルト王子とゲオルグ王子
しかしS軍団士官の中には、ロンクールの南西からサン=プリヴァーの西に掛けての普近衛による激戦を見聞し、早く近衛を助けねば、と考える者もいて、一部はロンクールを迂回し直接サン=プリヴァーへ向かう部隊も出るのです。
これによりロンクール西の緩斜面では、部落へ直進する部隊とサン=プリヴァーへ南下する部隊が交錯し、攻撃陣右翼にいた普近1旅の諸中隊もこの動きに幻惑され、その攻撃はロンクール、サン=プリヴァーの二方面へと分かれてしまうのです。
サン=プリヴァーを中心とする戦場は、盛夏の夕暮れ時午後7時となります。この「北部戦線」の現状を簡単にまとめましょう。
北独「混成」第9軍団の右翼はシャントレンヌからラ=フォリを目指して一進一退を繰り返していますが、軍団中央では近3旅と近シュッツェン大隊の増援でアマンヴィエ西郊外までドライゼ銃でも届く距離まで前進しており、その左翼ヘッセン師団は直接普近衛軍団右翼に連絡していました。
普近衛軍団は、右翼(近4旅)の活躍でサン=プリヴァー南西から南側高地を占領し、ブリエ街道付近とその北側では、ほぼ半減した諸隊(近擲弾兵第2、近歩兵第1、2、3連隊)がサン=プリヴァーと正対して現在地を死守していました。この左翼では近1師最後の連隊、近歩兵第4連隊がロンクールの南西側でサン=プリヴァー北の仏軍と戦い、サント=マリー攻略に参加した近F連隊と近猟兵大隊はサント=マリー近郊で予備となっています。
S軍団の2個(第45と48)旅団は北と西からロンクールに襲いかかろうとしており、残りの2個(第46と47)旅団は、オブエ東林の南側で待機していました。
これらの前線は優勢な砲兵でくまなく援助されていました。この砲兵線の後方には予備部隊が控えています。
8月16日の「マルス=ラ=トゥール/ルゾンヴィルの戦い」で大打撃を受けた普第3軍団は、騎兵第6師団と共にヴェルネヴィル付近にありました。こちらは砲兵部隊のみを第9軍団の援助に回し、歩騎兵は北独第二軍の「総予備」として今のところカール王子の隷下となって待機しています。
同じく16日の会戦で打撃を受けた普第10軍団は、カール王子の命令により午後6時頃バチイイからサン=アイルまで前進しますが、その行軍列の前方に進んだ軍団砲兵隊がサン=アイルに先着すると、先行し待っていた戦意衰えない軍団長、フォン・フォークツ=レッツ大将の命により騎砲兵2個中隊が普近衛軍団の砲列線に進みました。この2個中隊は近衛騎砲兵大隊の砲列左翼に隙間を見つけ、サン=プリヴァーへの砲撃に加わったのでした。
その頃サン=アイル西郊には第20師団前衛が到着し、第19師団と騎兵第5師団は第20師団本隊の後方に続行するのでした。
ここで仏軍側の動きも簡単に見てみましょう。
仏軍北部戦線の、ロンクールからサン=プリヴァー南までを受け持っていた仏第6軍団長カンロベル大将は悩んでいました。敵の数が予測より大きかったのです。
元よりバゼーヌ大将から「守勢」の方針を告げられていたカンロベル将軍は、真西から行われた普近衛軍団の攻撃は必死で防いだものの、その敵を駆逐する間も無く、北方より新たな脅威が迫るのを観察していたのです。
このロンクールに迫る敵は1個師団相当であり、完全に部落を包囲する勢いでした。目下、サン=プリヴァー南方からアマンヴィエにおいて仏軍は次第に圧倒されつつあり、この南北からの圧力により、カンロベル将軍は普近衛第1と第2旅団に対する逆襲を行えなかったと思われるのです。
カンロベルは、ペショ准将旅団(戦列歩兵第4、第10連隊)とラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ少将師団のベッケ・ドゥ・ソネ准将率いる旅団所属の戦列歩兵第91連隊により守られているロンクール周辺の自軍団右翼を「整理」する必要に駆られます。バゼーヌからの命令も「サン=プリヴァー死守」であり「場合によっては一部をジョーモン森へ展開してもよい」となっています。カンロベルはサン=プリヴァー部落自体に兵力を集中することとし、ペショ旅団をロンクール東のジョーモン森西縁のジョーモン採石場(現存)付近まで退かせて新たな戦線を作り、この援護によりロンクールとサン=プリヴァー北に展開する散兵線をサン=プリヴァー市街地まで撤退させることとするのでした。
この後退は午後6時過ぎに始まりますが、ロンクールの南からサン=プリヴァー東側にかけての高地尾根により独軍側からは視界が遮られて、この行軍は独側に悟られずに進行するのでした。
不運にもロンクールに残されたわずかな後衛の援護で、ペショ旅団本隊はジョーモン森まで急ぎ撤退し、この行軍をサン=プリヴァーの東側で未だ砲撃を続ける3個砲兵中隊が援護するのでした。
この窮状にバゼーヌ大将も手を拱いていた訳でなく、既に仏近衛軍団長シャルル・ドニ・ソテ・ブルバキ中将に命じてヨセフ・アレクサンドル・ピカール少将の仏近衛第2「擲弾兵」師団と軍予備砲兵隊を直率させ、プラップヴィル分派堡塁付近から進発させていました(既述)。
しかしブルバキらは何故かアマンヴィエへ向かう小街道から右へ逸れて山地に入り込んでしまい、その進軍はアマンヴィエ東側のソルニー部落(アマンヴィエの東南東4.5キロ)西の森林地帯にある渓谷(現・リュイソー・ドゥ・ソルニー/ソルニー渓流)で滞ってしまっていたのです。
プラップヴィル分派堡塁からこの渓谷までは約4.5キロ。ここからアマンヴィエまでは約3キロ、サン=プリヴァーまでも5キロありません。狭い渓谷とはいえ当然激戦地から砲声も聞こえますし、炎上する家屋の煙すら見えたに違いありません。それでもブルバキ将軍が「道に迷い」、一旦戦場から離れる方向へ進んでしまったのは何故だったのでしょうか?その真相は闇の中と言えそうですが、どのような理由があったにせよ、仏軍が誇る東部の要衝メッス大要塞の西側防衛線という場所柄、当然知悉しているべき地理を知らなかったブルバキやピカールら近衛の士官は、怠慢の誹りを受けても仕方がないのです。
援軍が来ないとなれば戦線は次第に「緩み」始めます。
既に前線後方の弾薬縦列や輜重、そして事務や埋葬など雑務を行う部隊では、総退却の命令を即実行出来るよう、密かに準備が始まっていました。この「崩壊の前兆」は次第に前線へと波及するのです。
守る仏軍が部落を捨てる決心をしたロンクールでは、郊外の散兵線で頑張っていた最後の仏兵も部落内へ後退し、部落の塀を遮蔽物に戦う僅かな後衛だけがS軍団と戦うのです。進撃するS兵たちは拍子抜けする程少ない抵抗を受けるのみで易々と部落内に侵入しました。
第107連隊第3大隊長のゲオルグ・フォン・ボッセ少佐は、部隊を率いて後退する仏軍の後衛に続いて部落の北側からロンクールに一番乗りをしました。少佐は数分間銃撃を交えた後に仏軍の後衛を蹴散らし、十数名の捕虜を獲ます。尋問により彼らは第10連隊と第91連隊所属の歩兵と判明しました。少佐は大隊と共に部落を掃討しつつ東へ抜けました。
第101連隊の第1大隊はボッセ大隊とほぼ同時にロンクール西部から侵入し、更に第106連隊の一部も部落を貫通し東郊外まで進出しました。これらの部隊はジョーモン森西縁に新たな散兵線を敷いた仏ペショ旅団相手に直ちに戦闘状態となり、これを援助するため第48旅団に付いて来たS軍砲兵2個(軽砲第1,2)中隊はサン=プリヴァー東郊外から粘り強く砲撃を続ける仏軍砲兵に対し対抗砲撃を開始するのでした。
ジョーモン森で戦いが始まった頃、第108連隊はロンクールの西郊外に進み、普近第3連の第2,3中隊も仏軍の小部隊と戦闘を交えた後、ロンクール部落南東隅に到達し、ここを拠点に部落守備に入ります。同じく部落内には普近工兵第1中隊が進出し、更に普近1連の本隊から外れた2、3の小隊もロンクール部落内に集合するのでした。
こうして仏軍戦線の最右翼となっていたロンクール部落は陥落し、その東側ジョーモン森のペショ旅団と、マランクールにいた前哨もしばらく後に南東側の深い森林へ退却して行きます。
S軍団でロンクール攻略に向かっていた残りの部隊は、サン=プリヴァーの西戦線から駆け付けた近1師の伝令連絡士官、近驃騎兵連隊のフォン・エスベック=プラーテン少尉からサン=プリヴァー西側の戦況を聞き及び、また少尉がフォン・パーペ師団長からの伝言として「可及的速やかな来援を望む」と伝えると次々と南へ転進し、サン=プリヴァーの北西から北側へ向かって行くのでした。
○ロンクールを占領し周辺で戦った諸隊
・第106連隊第1~4,12中隊
・第107連隊第3大隊
・擲弾兵第101連隊第1大隊
・フュージリア第108連隊第1~3大隊
・普近第3連の第2,3中隊
・普近工兵第1中隊
・普近第1連の数個小隊
※第106連隊第9,10,11中隊はマランクールへ




