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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
245/534

グラヴロットの戦い/普近衛第1師団の苦闘

サン=プリヴァー 1900

挿絵(By みてみん)

 フォン・パーペ少将率いる近衛第1師団(以下近1師)は、ブリエ街道南側で近衛第4旅団(同近4旅)が攻撃を開始した後、およそ30分後(午後6時前後)に街道北側で進撃を開始しました。

 しかしこの方面は、ブリエ街道の南側以上に攻撃側が不利となる地形だったのです。


 サント=マリーからサン=プリヴァー、ロンクールにかけては視界が開けた緩斜面が続き、斜面には所々にジャガイモ畑があり、他にはせいぜい数本の樹木が固まって点在しているだけでした。

 この斜面西側の端は、サント=マリーからオメクールまで続く渓谷によって断ち切られ、この渓谷はサント=マリーの北で二筋のはっきりとした窪地の草原帯を作り、これは400mほどの間隔を開けて東側サン=プリヴァーの北へ延びていました。この草原帯の中間ではわずかな弓型をした丘があります。この地形はサント=マリーからロンクールへ向かう場合でもそっくりな風景を見せていました。


 サン=プリヴァー部落は、この斜面の先、最高地点付近にあります。

 件の緩斜面はサン=プリヴァー部落の西方450m付近から少々険しさを増し、ここで地形は階段状となっていました。

 部落の西と北郊外には膝の高さで幾筋もの土地境界線を示す壁が存在し、これを利用した仏軍の塹壕も見られました。この階段状の地から地界の壁群に向かって見下ろす形で緩斜面となっていたため、仏軍は部落の西側に何層もの散兵線を作ることが出来たのです。

 しかもその先東方は高地尾根となり、ここにサン=プリヴァーの部落が広がっていました。部落の頑丈な石造りの家屋群からは四方を見渡すことが出来ます。仏軍は家屋の各部屋窓毎に散兵を置き、屋根裏部屋の明かり取りの窓にも狙撃兵を配置して防衛準備を整えました。部落自体もほぼ全周に渡って隔壁で囲われており、攻めるパーペ将軍が「要塞の如き街」と呼んだのも頷けるというものでした。


 しかし、当初部落の西方に展開していた仏軍砲兵は、ザクセン砲兵により集中砲火を浴びて陣地を放棄し、既に東方へと待避していました。とは言うものの、ライット式12ポンド重砲を主とする砲兵は未だに部落南側で砲列を敷き、これは今でこそ近4旅を攻撃していますが、近1師が攻撃を始めれば必ずや砲撃軸をそちらに向けて来るものと想像出来ました。

 また、サン=プリヴァーとロンクールの間1キロ余りに渡っては、およそ1個師団の兵力が存在し、ブリエ街道北側からのサン=プリヴァー攻撃は、部落西面に陣取る兵力と併せ2個師団程度と戦うこととなり、これらの仏軍散兵線は防御工事を行っていなかったとはいえ、前述通り自然と堅牢な状態で、まずは1個旅団で突撃を敢行しようとしたパーペ将軍(更にアウグスト王子)は、余りにも無謀だったと言われても仕方のないものでしょう。


 また、これまでの対仏戦で常に有利となっていた砲兵の援護も、この午後6時過ぎにおいては、サント=マリー北のザクセン砲兵はロンクールを、南の近衛砲兵はサン=プリヴァー部落自体かその南郊外(ジェルサレム)を、それぞれ主目標に砲撃を展開しており、近1師の攻撃時では直接の援護は薄く、仏軍が充満するサン=プリヴァー部落西の散兵線では砲撃による損害が僅かでしかなかったのです。


 正に死地へと向かった近衛第1旅団(以下、近1旅)は午後5時45分過ぎ、サント=マリー南西郊外の集合地点からサン=プリヴァー目指し出立しました。

 旅団は当初近衛歩兵第3連隊(以下、近3連)を右翼、同第1連隊(近1連)を左翼とし、中隊毎の横列縦隊となり、両連隊は三線状となって進みます。

 行軍序列は両連隊とも全く一緒でした。

 第一線はF大隊の両翼(第9,12)中隊で、そのすぐ後方を中央(第10,11)中隊が進み、少々間隔を開けて第二線を第2大隊が、右翼側から第5,6中隊、第7,8中隊の順に半大隊の集団となり、第三線は第1大隊が、右翼側から第1,2中隊、第3,4中隊の順に半大隊の集団となって進みました。なお、近衛野戦工兵第1中隊も攻撃に参加し、こちらは近1連行軍の最後方に続きました。


 この新たな攻撃集団がサント=マリーの東郊外に進み、ブリエ街道を横切ると、たちまち仏軍散兵線から猛烈な銃砲撃が向けられるのです。

 行軍を指揮する旅団長ベルンハルト・ハインリッヒ・アレクサンダー・フォン・ケッセル少将は、街道の南で進撃中の近衛第4旅団(以下、近4旅)とぶつかることを避けるため、サント=マリー東郊外のブリエ街道南縁を行軍の最右翼端と指定して、街道を完全に渡り切った後にここを軸点として両連隊を左へ45度旋回させ、行軍方向を北に向けました。こうしてしばらく北へ進んだ後、ブリエ街道から北へ450mほど離れた後に、順次部隊を右旋回させてサン=プリヴァー部落に向けて東進を始めたのです。

 新たな行軍序列は、右翼(南)側から近3連F、同第2、近1連Fの各大隊で、その左翼に近1連第1,2,7中隊が並びました。残りの諸隊の内、近3連の第1大隊は横列のままモントワ(=ラ=モンターニュ)へ向かう街道を越えて北進し、近1連の第5,6中隊はこの街道沿いに一時ロンクール方面へ進み、第3,4,8中隊と工兵中隊はモントワ街道を越えて最左翼を更に北進するのでした。


 この動きは、仏軍散兵線からの集中し正確なシャスポー銃の銃撃による影響であり、部落に対する右旋回を行うまでの行軍で、その右翼(東)側は銃撃による損害が続出したため散開しつつ自然に右に向き始め、左翼側はその先へ進もうとしたためにこの形となったのでした。


 攻撃陣で最初に仏軍へ正対した近3連F大隊が攻撃の口火を切り、その両翼中隊はブリエ街道との間隔を450mに保ちつつ進撃、加速度的に犠牲を増やしますが何とかサン=プリヴァーまで700mを切った地点まで前進しました。ところが、この行軍最中に大隊長のフォン・ノッツ少佐は乗馬が撃たれ一緒に倒れた際に榴弾の破片を頭に受けて戦死してしまい、更にその直後、弟がブリエ街道の南側で戦う連隊長ハンス・ヘルムート・フェルディナント・フォン・リンジンゲン大佐も負傷してしまうのです。


 指揮官を失った先鋒の両翼中隊は一時立ち往生してしまいますが、大隊の後続中隊は混乱する第一線を越えてもなお突進し、代わって大隊を率いるヴィルヘルム・ハンス・テオドール・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト大尉は大隊旗手と共にその先頭に立ち、兵力が激減した諸中隊をまとめて前進を図りました。しかしこれも集中砲火を浴びて阻止され、大尉も負傷し倒されて後送されてしまうのです。

 第2大隊長フォン・ホルレーヴェン中佐は、F大隊の左翼で自隊を引率して前線に進出、サン=プリヴァーの西側緩斜面の草原にある二筋の窪地のうち南方にある窪地に入りますが、この地勢はサン=プリヴァーの高台からの遮蔽とするには浅過ぎ、銃弾は次々に近衛兵を傷付けました。フォン・ホルレーヴェン中佐も銃弾を受けて重傷を負った後、後送される多くの将兵の一人となってしまいます。中佐は後にこの傷が元で死去しました。


 こうして近1旅の右翼となった近3連F大隊と第2大隊は、大隊長始め多くの士官を失いますが、数少ない無傷の士官、エルンスト・アレクサンダー・フォン・クラハト少尉は犠牲を厭わずに残兵を率いて前進し、仏軍の最前線となっていた散兵線へ突撃を強行しました。決死の思いで散兵線に達した少壮の少尉率いる、所属部隊も様々な名も無き兵士たちは、この仏軍最前線の敵兵を追い払う事に成功し、その先の仏軍散兵線攻撃への足掛かりとして貴重な拠点を得るのです。


 近1連F大隊は右旋回を終えた後、草原の南北窪地の中間を進み、近3連の前線を更に左(北)へと延伸しました。

 この地点はサン=プリヴァーの仏軍散兵線より450mほどの場所で、ドライゼ銃でも十分に届く射程圏内でした。大隊の第一線は直ちに戦闘を開始し後続も密集して続行しましたが、ここでも仏軍散兵線のシャスポー銃は猛威を振るい、各中隊ではたちまち犠牲が続出して、既に乗馬を失って徒歩で前進していたF大隊長、伯爵アドルフ・エデュアルト・アレクサンダー・ヴィルヘルム・フィンク・フォン・フィンケンシュタイン中佐も左太腿に銃創を負い、その他の士官たちも次々に倒されて、瞬く間に大隊は士官全員が戦闘力を失ってしまいます。

 第一線の左翼となっていた第12中隊はほぼ全滅し、残った僅かな兵士は他の中隊残兵に吸収されました。残りの3個中隊も損害は激しく、薄い散兵線となってなおも敵と銃撃戦を続行しますが、正にこの時左翼側に増援が現れたのです。

 これは近1連の第2大隊で、大隊はブリエ街道を越えた直後に所属4中隊を一線横隊にし、既に戦い始めた3個大隊の後方を進んだ後に右旋回を行いました。その西側では旅団の第三線となった両連隊の第1大隊が進み、サント=マリー北方の微かな窪地を更に北へと前進を継続しようとしていました。


 ここで近1連隊長のヴィクトル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨセフ・ディートリヒ・フォン・ロエーダー大佐は同連隊のF大隊が危機に陥ったのを見て、北へ向かう第1大隊の半分、第1,2中隊に命じて右旋回を行わせ、第2大隊より先にF大隊の左翼(北)側へ進ませたのでした。

 この2個中隊はF大隊と並んで幾度も突撃を敢行し、少しでも東側へ出ようとしましたが効果は薄く、犠牲は大きくなるばかりでした。この6個中隊の残兵は、それでも仏軍本陣地帯から450mまで接近し、銃撃戦を始めますが、次第にその数は少なくなってしまい、多くの兵士は精も根も尽き果てて斜面に伏せるだけとなってしまいました。ただしこの時、F大隊の右翼側第10中隊は仏軍の撤退した最前線の散兵線に辿り着き、ありがたい遮蔽物の陰から銃撃を再開するのでした。


 ロンクールにいた仏ティクシエ師団のペショ准将旅団は、普近1連第2大隊が右に旋回しようとした少し前から、その側面を狙って銃撃を繰り返していましたが、その姿がロンクール前面に向くと、その銃撃は益々激しいものとなったのでした。第2大隊はこれにより隊を分割するに至り、第8中隊はなおも北進する第3,4中隊の左翼に連なり、第5,6中隊は近1旅団長フォン・ケッセル少将の命令で、モントワへ続く街道沿いをロンクール方面へ進んで、この部落の北側面に対し銃撃を加え、第7中隊はサン=プリヴァーへ向かった第1,2中隊を援護するためその左翼に連なりましたが大損害を被り、その先頭に立っていた第2大隊長、ベルンハルト・ハインリッヒ・フェルディナント・フォン・シュテュルプナーゲル中佐は脚を撃たれ、出血多量で程なく戦死してしまいました。しかしこの中隊はサン=プリヴァー直接攻撃陣の最左翼として一歩も退かず、部落の北西角の仏軍と戦い続けたのでした。

挿絵(By みてみん)

普近衛第1旅団1800の運動


 この近1旅の戦闘行軍は僅か30分に過ぎないものでした。午後6時15分となると、ブリエ街道の北の戦線には極端に員数の減った5個大隊半の将兵がサン=プリヴァー西の仏軍と500m内外の距離で対峙するのです。

 このケッセル少将旅団の死闘を見ていたパーペ師団長は、旅団予備として続いていた近2旅の近2連に対し、「近1旅と南方の近4旅の間に生じた空隙を埋めるため、ブリエ街道の北脇を東進せよ」と命じます。

 近2連は前進当初、第1、2大隊を第一線としてサント=マリー部落の南端に沿って進み、部落東方450mで街道を北へ越えると、半大隊4つに分かれた第一線2個大隊は横列縦隊の攻撃隊形となり、F大隊も同じく戦闘隊形で続行し、更に街道に沿って展開しました。

 当然ながら対抗する仏軍散兵線からの銃砲撃も凄まじく、この弾雨の中の前進で部隊の先頭に立っていた近2旅団長、アレクサンダー・フリードリヒ・ハインリッヒ・エーベルハルト・フォン・メーデム少将は頭部を銃弾が掠めて負傷し、近2連隊長の伯爵ルドルフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・カーニッツ大佐は首を撃たれ、第1大隊長のベルンハルト・ハインリッヒ・アドルフ・フォン・プットカマー中佐も右腕と脇腹を撃たれ、それぞれ後送されてしまったのでした。

 近2連第1大隊は隊長を失った後も犠牲が続出し、やがて士官全員が戦闘不能となりましたが、残った兵士は軍曹たちに率いられて敢闘精神を失わず、仏軍最前線と目と鼻の先まで進み出て銃撃を絶やすことはなかったのでした。


 この第1大隊左翼を進んだ第2大隊も状況は同じで、多大の損害を出しつつも数mずつ距離を稼いで進みました。しかし仏軍の銃撃は止むことなく、大隊長フォン・ゲルネ少佐はこれ以上進んでも効なし、と断じてこの地で停止し、散兵線を敷くのでした。

 その反対南側ではF大隊が第1大隊の左翼を進みましたが、猛銃砲火に阻まれてブリエ街道の両脇で銃撃戦となり、その右翼は近4旅の左翼、近擲弾兵第2連隊と連絡を取るのです。


 こうして普近1旅による第一回目のサン=プリヴァー攻撃は、部落手前500m前後で阻止されて失敗に終わりました。

 二千名は下らない死傷者が夕暮れの大地に倒れ伏し、鮮血が夏草を染め赤土には黒々と衣魚を付けていました。しかしこの惨状を目の当りにし指揮官の大多数を失っても、猛訓練の賜か近衛の矜持か、諸兵の志気は衰えることなく、あどけなさの残る少壮の青年士官や、普段は本営に詰める参謀・副官、そして老獪な下士官たちが代わって指揮を執り、数倍の敵が猛烈な射撃を行っている仏軍の散兵線を前に、緩斜面中程の現在地を死守したのです。


 このように近1旅は、直後に近2旅がその右翼側に進み出たとは言うものの危機的状況となりました。

 普軍の攻撃はサン=プリヴァー部落の北西から南西(近4旅の攻撃)まで広範囲に及びましたが、高地の有利と防御の差は大きく、普近衛の損害は一方的に増えるのです。仏軍は最前線こそ損害を出しますが、本陣地に被害は少なく、恐るべき普軍の砲兵も前線援護で忙しく、仏軍本隊までは及びませんでした。

 今こそ仏軍は逆襲の機会を得ており、一個旅団程度の前進で普近衛の2個旅団は壊滅する危機にあったのです。

 ところが実際、そのようなことは起こりませんでした。あくまでも守勢でいるつもりなのか、仏第6軍団は散兵線より一歩も動かず銃砲撃を繰り返すだけでした。

 仏軍の逆襲といえば一度だけ動きがあり、サン=プリヴァーの南東郊外に控えていたドゥ・バライユ少将の騎兵師団から猟騎兵1個連隊が、普近1連の左翼(第1,2,7中隊の散兵線)を狙って突撃を掛けて来ました。しかしこれは散開していた普軍散兵から速射で狙い撃ちにされ、仏猟騎兵は大損害を受けた後に戦果乏しく引き上げていったのでした。仏軍騎兵の登場を知った普近2師所属の騎兵部隊、近衛槍騎兵第2連隊はサント=マリー郊外の待機場所より急発進し、ロンクールの前面まで進み出ましたが、既に追撃すべき敵騎兵の姿はなく、逆にロンクール南の仏軍散兵線より猛射撃を受けて損害を出してしまいます。普近衛自慢のウーランも戦果なく、引き上げるしかありませんでした。


 この間、パーペ将軍は前線を強化すべく大損害を受けた近2連に代わって近2旅の残部を投入する決心をします。


 午後6時15分過ぎ、サント=マリー部落内のブリエ街道上に待機していた近衛歩兵第4連隊(以下、近4連)に「前進し近1旅を援助せよ」の命令が下りました。

 この連隊にはサント=マリー東郊外で観戦していた軍団長アウグスト王子も訪れ、激励と攻撃の詳細な訓示を行います。それによると、連隊は二線をもって部落北から出撃し、オメクールへ向かう窪地を利用して前進し、窪地が二股に分岐する部分で右旋回を行い、サン=プリヴァーの北西角を狙って突進する、とのことでした。


 近4連は命令通りサント=マリー北から進み出て、第一線をF大隊、第二線を第1、2大隊として窪地を行軍し、二股部で右旋回する際に前後を入れ替え、第1、2大隊は大地の溝や灌木など遮蔽物を利用しつつ中隊ごとにサン=プリヴァー北西角を目指して突進するのでした。

 連隊長グスタフ・フォン・ノイマン大佐は猛烈な銃砲火の下でも前線で指揮を執りましたが、たちまち狙撃されて右脇腹を撃たれ後送されてしまいます。しかし連隊は南側の近1旅ほどには損害を受けず、その左翼側に戦線を延伸する事が出来たのでした。


 歩兵の死闘に参与すべく砲兵もまた猛銃砲火の下を前進します。


 この近衛軍団攻撃開始時(午後5時30分頃)、近衛の砲兵全15個中隊中、近衛第3旅団配下となり第9軍団に助太刀した1個(軽砲第5)中隊と、近衛騎兵師団に配された騎砲兵第1,3中隊を除いた12個中隊が歩兵を援助する態勢にありました。この内4個中隊がサント=マリー南東側に、8個中隊がサン=アイル部落南側に展開しています。


 近4旅の攻撃に対しては当初、サント=マリー攻略戦に参加しブリエ街道南側の前線まで前進していた近2師砲兵の3個(軽砲第6、重砲第5,6)と軍団砲兵隊から派出された軽砲第4中隊が援助しました。これらの砲兵は近2師団長フォン・ブドリツキー中将の命令により仏軍の銃砲火の下を前進し、サン=プリヴァー部落の南西750m付近まで進み出て部落に対し砲撃を加えました。

 その後、近1師団長のパーペ少将もまた攻撃には砲兵の援助が必要と、近1旅の攻撃前進と同時に師団砲兵4個(軽砲第1,2、重砲第1,2)中隊に対し前進を命じた後、軍団砲兵隊にも援助を要請しました。

 

 近1師砲兵はサン=アイル南の砲兵列線から前進しますが途上、最左翼を進む重砲第2中隊が近4旅の苦戦を「見兼ねて」旅団左翼の戦いに参加しました。その活躍については前項(普近衛軍団・死闘の始まり)通りです。

 他の3個中隊も近1師の援助を軍団砲兵に任せて重砲第2中隊を追って進み、サン=プリヴァー南西高地の突出部南東側斜面に砲列を敷きました。これら砲兵はアマンヴィエ北方の仏軍に対し砲撃を行って効果を得ますが、仏軍に突出した形の砲兵陣地は仏軍歩兵から攻撃を受けやすいため、元より砲兵援護として砲列北部に付いていた近衛擲弾兵第1連隊の第1,3中隊(第2,4中隊はサン=プリヴァー攻撃に参加)は、この砲列右翼側に進み出て、アマンヴィエ方面からの攻撃に備えるのでした。


 近衛軍団砲兵は、ブドリツキー将軍の命により先行した4個中隊を追う形で進みますが、前進中に軽砲第3中隊が行軍列を離れて重砲第2中隊の前進に続いて近4旅の戦いに臨み、続けて重砲第4中隊も離れて、サン=プリヴァー南西高地の突出部における近衛擲弾兵第4連隊の散兵線右翼側斜面へ進みました。

 これらの砲兵3個(軽砲第3、重砲第2,4)中隊は、南東側から突撃する仏シッセ師団の歩兵に対し決定的な砲撃を行い、繰り返す攻撃を撃退し続けましたが、また犠牲も多く、軽砲第3中隊長のフォン・フリデリチ=シュタインマン大尉が腹部に重傷を負う(後に死亡)など損害を受けています。

 軍団砲兵残りの3個(軽砲第4、重砲第3、騎砲兵第2)中隊は、近2師砲兵等の砲列右翼(南側)、サン=アイルより東に750m付近まで前進して新たに砲列を敷き、バチイイ付近に待機する近衛騎兵師団からは騎砲兵2個(第1,3)中隊が前進し、同じくサン=プリヴァーへの砲撃に参加するのでした。


 午後7時には近衛砲兵のほぼ全て、14個中隊は前述の二つの砲列により、アマンヴィエからサン=プリヴァーまでを目標に砲撃を繰り返しており、その集中砲火は効果絶大で、ジェルザレムは火焔に包まれ、サン=プリヴァーやアマンヴィエもまた所々に火災が発生して、部落に籠る仏兵に打撃を与えたのでした。


挿絵(By みてみん)

サン=プリヴァーに対する最初の近衛軍団の攻撃 カール・レヒリング


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム二世によるサン=プリヴァー攻撃のスケッチ

 ※皇帝は当時は幼すぎて(11歳・それでも近衛歩兵第1連隊の少尉です)戦場行を志願するも連れて行ってもらえず、ずっと無念だったそうで、このスケッチも「想像」の賜ですが、これを基にレヒリングは上記絵画を仕上げました。


普近衛軍団戦闘序列(※騎兵師団除く)


司令官

 親王フリードリヒ・アウグスト・エーベルハルト・フォン・ヴュルテンベルク騎兵大将

参謀長

 ヴィルヘルム・フェルディナント・フランツ・カール・フォン・ダンネンベルク少将

砲兵部長

 親王クラフト・カール・アウグスト・エドゥアルド・フリードリヒ・ツー・ホーヘンローエ=インゲルフィンゲン少将(近衛砲兵旅団長)

工兵部長

 ヴィルヘルム・オスカー・カール・フリードリヒ・ボーグン・フォン・ヴァンゲンハイム中佐(近衛工兵大隊長)


○近衛歩兵第1師団

 師団長 アレクサンダー・アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・パーペ少将

 参謀 ルートヴィヒ・アルベルト・ヘルマン・フォン・ホルレーヴェン大尉


・近衛歩兵第1旅団

 ベルンハルト・ハインリッヒ・アレクサンダー・フォン・ケッセル少将

 *近衛歩兵第1連隊

  ヴィクトル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨセフ・ディートリヒ・フォン・ロエーダー大佐

 *近衛歩兵第3連隊

  ハンス・ヘルムート・フェルディナント・フォン・リンジンゲン大佐

・近衛歩兵第2旅団

 男爵アレクサンダー・フリードリヒ・ハインリッヒ・エーベルハルト・フォン・メーデム少将

 *近衛歩兵第2連隊

  伯爵ルドルフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・カーニッツ大佐

 *近衛歩兵第4連隊

  グスタフ・フォン・ノイマン大佐

 *近衛フュージリア連隊

  ヴィクトール・フォン・エルッケルト大佐

・近衛猟兵大隊

  グスタフ・カール・ハインリッヒ・フェルディナント・エミール・フォン・アルニム少佐

・近衛驃騎兵連隊 フォン・ヒンメン中佐

・近衛野戦砲兵第1大隊 ビッヘルベルク中佐

  軽砲第1,2中隊、重砲第1,2中隊

・近衛野戦工兵第1中隊/野戦軽架橋縦列 フォン・ボック大尉

・近衛第1衛生隊


○近衛歩兵第2師団

 師団長 ルドルフ・オットー・フォン・ブドリツキー中将

 参謀 フォン・ヴァイヘル大尉


・近衛歩兵第3旅団

  オットー・アウグスト・クナッペ・フォン・クナップシュタット大佐

 *近衛擲弾兵第1「露国アレクサンドル皇帝」連隊

   カール・ルートヴィヒ・バルニム・フォン・ツォイナー大佐

 *近衛擲弾兵第3「英国エリザベス女王」連隊

   コンラート・フォン・ツァルスコウスキー大佐

・近衛歩兵第4旅団

   エミール・アレクサンダー・アウグスト・フォン・ベルガー少将

 *近衛擲弾兵第2「墺国フランツ皇帝」連隊 フォン・ベーン中佐

 *近衛擲弾兵第4「アウグスタ王妃」連隊

   伯爵ゲオルグ・エルンスト・フランツ・ハインリッヒ・フォン・ヴァルダーゼー大佐

・近衛歩兵シュッツェン大隊 フーゴ・フォン・ファベック少佐

・近衛槍騎兵第2連隊 ヘッセン大公国親王ハインリッヒ大佐

・近衛野戦砲兵第3大隊 フォン・ラインバーベン中佐

  軽砲第5,6中隊、重砲第5,6中隊

・近衛野戦工兵第2中隊/工兵器具縦列 フォン・スパンケレン大尉

・近衛野戦工兵第3中隊 フォン・クラウゼ大尉

・近衛第2衛生隊


○軍団砲兵隊 ルドルフ・カール・アウグスト・フォン・シャーベニング大佐

・近衛野戦砲兵騎砲兵大隊 男爵フォン・ブッデンブロック少佐

  騎砲兵第1,2,3中隊

・近衛野戦砲兵第2大隊 フォン・クリューガー少佐

  重砲第3,4、軽砲第3,4中隊

・近衛第3衛生隊



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