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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
244/534

こぼれ話・放蕩息子の帰還~フェリクス・ツー・ザルム=ザルムの生涯

  挿絵(By みてみん)

侯爵フェリクス・コンスタンティン・アレクサンダー・ヨハン・ネポムク・プリンツ・ツー・ザルム=ザルム(1828・12・25~1870・8・18)


 かつて神聖ローマ帝国の一小国だったザルム=ザルム侯国※4代目侯爵の末子としてクリスマスの日に生まれたフェリクスは、成長するとベルリンの士官学校に入学し、18歳で少尉心得として普陸軍に入隊、領地に近いミュンスターの驃騎兵第11連隊に配属されます。

 翌1847年11月、貴族の子弟が集う名門部隊、ベルリン在の近衛胸甲騎兵連隊へ異動すると、49年の第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に従軍しました。ところが手柄を上げたい一心のフェリクスは、オーフス(ユトランド半島北東部の町。デンマーク領)付近の戦いで、自身の小隊を無謀にも数倍するデンマーク軍竜騎兵部隊に向けて突進させ、彼自身が負傷し捕虜となってしまいました。


 この行動は普軍首脳陣に「無鉄砲な愚か者」の印象を残し、フェリクスは休戦後、釈放され傷も癒えた後に近衛驃騎兵連隊(集団行動と規律の厳しい胸甲騎兵よりは、幾分向こう見ずの独立心を尊ぶ部隊)に移されました。フェリクスの由緒ある家系の威光は、通常なら「クビ」となるところから彼を救いますが、1854年6月、彼は周囲から白い目で見られ居辛くなったのか普軍から一時離脱し、「上級」少尉の階級でオーストリア軍に移籍しました。


 墺軍名門のウーラン部隊、槍騎兵第1連隊に所属したフェリクスはすぐに中尉へと昇進し、1859年、第1次イタリア独立戦争に参加しました。彼はここでナポレオン3世率いる仏軍と勇敢に戦い名声を得ますが、反面私生活では放蕩散財が激しく巨額の借金を負ってしまいます。父親のザルム=ザルム侯はこの負債を穏便に完済しようとしますが、彼の好ましからぬ行跡はお堅い皇帝にまで聞こえてしまい、墺軍は彼に「士官として相応しい男でない」との烙印を押してしまいました。ザルム=ザルム侯は名門家の名誉を守るためにもフェリクスにアメリカ行きの片道切符を与え、ヨーロッパから追い出すしかありませんでした。


※ザルム=ザルム侯国

「ザルム(salm)」とはベルギー・アルデンヌ地方の「ヴィエルサルム」と、フランス・ボージュ地方北部の「サルム」城(ストラスブール南西45キロ付近)を由来とします。これは元来一つの公国でしたが、分家によりそれぞれ「下サルム」系「上サルム」系に別れました。

 ザルム=ザルム侯国はこの「上サルム」の系統に当たり、主とする領地は現フランス・ボージュ県のスノンヌ周辺にありましたが、これはフランス革命の余波により1793年フランスに併合されます。この後、飛び地だったオランダとの国境付近の旧アンホルト伯領(デュイスブルクの北北西50キロ付近)を主な所在とし1813年からはプロシア王国の一領主となりました。(現在ザルム=ザルム家が所有する美しいアンホルト城が現存します)。


挿絵(By みてみん)

北軍の制服を着たフェリクス


 フェリクスがアメリカに到着した時、正に南北戦争が勃発します。

 彼は直ちに北軍のバイエルン王国出身のドイツ人准将ルイス(ルートヴィヒ)・ブレンカーの下へ出頭し、准将は彼を副官として雇い入れました。1862年の初夏、首都ワシントンにおいて米軍人(リンカーン大統領の従弟)の娘で奔放・野性味溢れるアグネス・エリザベス・ウィノナ・レクラーク・ジョイ(当時22歳。一説には18歳とも)と出会い、一目で恋に落ちたフェリクスは同年8月、彼女と結婚します。

 サーカスで働いていた、またはキューバで女優をしていた、などと怪しげな噂を持っていた赤毛のアグネス(母方の祖母はインディアンでした)はフェリクス同様冒険心の旺盛な女性で、その後夫と常に行動を共にし、医療看護の心得もないまま従軍看護婦として戦場にまで付いて行きました。


挿絵(By みてみん)

 アグネス・ジョイ


 フェリクスは62年の冬、ニューヨーク州の第8義勇兵連隊に所属しますが暫くは戦闘に従事することはありませんでした。63年1月にフェリクスはヴァージニア州の前線へ出頭するよう命令され、妻を帯同して向かいます。この時、この僻地をリンカーン大統領が訪れることとなり、アグネスはひょんなことから「大統領と三度キスする事が出来るか」、という賭けを行う羽目となってしまいました。しかし彼女は見事にそれをやってのけた、というエピソードを残しています。


 64年6月、フェリクスはジェイムズ・ブレア・スティードマン准将の下で大佐の階級を得、ニューヨーク州第68義勇兵連隊の連隊長となり、ジョージア州やテネシー州を転戦します。この時も妻アグネスは同行し、物資を手に入れる手助けをしています。

 65年春に終戦をアトランタで迎えたフェリクスは翌年春、名誉准将となりますが、夫妻はたちまち平時に飽きてしまい、刺激を求めて66年春、墺皇帝の実弟マクシミリアンが皇帝となっている政情不安なメキシコへ渡りました。


挿絵(By みてみん)

メキシコ帝国軍の制服を着たフェリクス


 既に色々な意味で著名人となっていたフェリクスは、ここでマクシミリアン皇帝と意気投合、皇帝の軍事顧問となりメキシコ帝国大佐の階級を得ました。南北戦争後のアメリカでは、特に負けた南軍兵士がメキシコ軍に挙って参加しましたが、フェリクスは北軍兵士でメキシコ軍に参加した珍しい例となります(当時の合衆国は、仏帝国が後ろ盾のマクシミリアンの帝国を嫌い、反皇帝の共和派に公然と肩入れし始めていました)。

 しかし、フランス軍(奇しくもアシル・バゼーヌ将軍が指揮していました)の撤退により反政府共和派が盛り返し、ゲリラ戦から本格的な内戦が勃発、やがて皇帝は追い詰められてケレタロの街で包囲されてしまいます。

 この時、皇帝を救出するためフェリクスは自ら驃騎兵部隊を率いてケレタロを攻撃し、一時は多数の捕虜を得るなど優勢でしたがやがて形勢は逆転して敗退、彼は反乱共和軍の捕虜となってしまいました。

 マクシミリアン皇帝は67年の5月、遂に降伏することとなります。


挿絵(By みてみん)

 マクシミリアン


 新たに共和国となったメキシコの大統領ベニート・フアレスは、個人的には好いていたマクシミリアンに対し死刑を宣告します。フェリクスも懲役12年を宣告されました。

 妻のアグネスは共和国の有力な将軍たちに皇帝と夫の助命嘆願を行い、最後には大統領に直接会ってその足下に跪き、号泣しながら訴えました。この時フアレス大統領が彼女に答えた言葉はメキシコの教科書にも載っている有名なものです。

「マダム。そんなことをされては困ります。どうかお立ちになってください。例え王や女王がそのような振る舞いをしても、私は彼・マクシミリアンを助けることは出来ません。私が彼を殺すのではありません。人民と法が彼を裁き殺すのです」

 彼女は「ならば私の命を代わりに奪って下さい」とまで訴えますが、フアレスは拒絶したのです。


挿絵(By みてみん)

 フアレス


 こうしてマクシミリアン皇帝は処刑されてしまいましたが、フェリクスの方は最終的にアグネスの嘆願などもあって刑期は7年に短縮されました。その後、粘り強い妻の減刑運動(夫を脱獄させるため体を売ったとも陰口を叩かれています)が利いたのか68年初頭、フェリクスは釈放され国外退去となるのです。


挿絵(By みてみん)

 マクシミリアンの最期


 妻と共にヨーロッパに戻ったフェリクスは、もう一度オーストリア=ハンガリー軍に参加しようとしましたが、過去の悪評により許可されず、名門貴族の威光もあって再びプロシア軍に少佐の階級で雇われることとなりました。夫婦はカールスルーエに居を構え、ベルリンの社交界でも好奇心を以て迎えられ人気を博しました。一時はメキシコでの行跡で責められもしましたがうまく切り抜け、68年12月、近衛擲弾兵第4連隊に入隊し、今度は「大人しく」勤務した彼は70年、同連隊のフュージリア大隊長となったのです。


 1870年8月18日夕刻。近衛擲弾兵第4連隊はグラヴロット/サン=プリヴァー会戦に参戦し、フェリクスはフュージリア大隊の先頭に立ち、仏軍が待ち受けるサン=プリヴァー部落を目指しますが進軍直後にシャスポー銃により重傷を負い、後送された包帯所で息を引き取りました。享年41歳。連隊には兄の子(フェリクスにとっては甥)フロロンタン(18歳)も士官候補生として参加していましたが、叔父と相前後して戦死してしまいました。

 彼の愛妻アグネスはこの普仏戦争にも従軍看護婦として参加していましたが、夫の遺体をヴェストファーレンのアンホルト城へ持ち帰っています。


挿絵(By みてみん)

 フロロンタン


 寡婦となったアグネスは戦後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世より「ヴェルディエンストクロイツ・フューア・フラウ・ウント・ユングフラウ」(全ての女性のための功労十字章)を授けられています。

 彼女は72年に回想録を発表し評判となり、76年にイギリスはリンカーンシャーの貴族、チャールズ・ヘニッジと再婚しました。その後赤十字活動にも参加し、アメリカ赤十字の創設にも関わりましたが、夫の実家とは折り合いも悪く(家族の一員と認められませんでした)20年後に離婚、1912年、72歳(一説には68歳)の時、貧困のうちにフェリクスとの想い出の地、カールスルーエで亡くなっています。


挿絵(By みてみん)


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