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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
240/534

グラヴロットの戦い/独第一軍戦線崩壊に瀕す

 普第26旅団を中心とするフォン=デア=ゴルツ少将の支隊によるヴォー並びにジュシーの攻略は、仏軍のバゼーヌ大将に大きな危機感を抱かせます。結果、戦線最南端における1個旅団の攻勢は、この大会戦の行く末に大きな影響を与えました。

 バゼーヌ大将は当初より「南から来る独の予備軍」を警戒しており、注視していた自軍左翼に加えられた新たな攻撃は、将軍の「恐れ」が正しかった証に見えたのです。


 このバゼーヌ将軍をして南側を「心配」させた原因はゴルツ支隊以外にもありました。同時刻、メッス要塞を監視していたモーゼル東岸上の普第1軍団が動き出していたのです。


 既述通り普第1軍団長フォン・マントイフェル騎兵大将は、独第一軍司令シュタインメッツ大将より「軍団の1個旅団でヴォー方面を援護して貰いたい」との訓令を受けていました(グラヴロットの戦い/1870年8月18日午前(前)参照のこと)。

 マントイフェル将軍はこの任務に普第2師団所属の第4旅団(第5、第45連隊が所属)を指名し、旅団長パウル・フォン・ツグリニツキー少将に竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊第3中隊と野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊の軽砲第5並びに重砲第6中隊を与えて「支隊」とし、クールセル=シュル=ニエから進発させたのです。


 午後4時30分、支隊前衛がオニー(アルの南東4キロ)に至るとツグリニツキー将軍は軽砲第5中隊を呼び寄せ、オルリー農家(フェルム・ドゥ・オルリー。アルの東2.8キロ。現存)付近まで進ませて砲列を敷かせ、モーゼル対岸のサント=リュフィール部落を砲撃させたのです。

 ツグリニツキー将軍は数十分前に始まったゴルツ支隊の戦いを望見し、いくらクルップ砲といえど射程ぎりぎり(直線距離で3.8キロ)の対岸に向け、援護の砲撃を行わせたのでした。

 これより以前にモーゼル川の状況を探らせるため派遣した士官は、午後6時30分に将軍の下に至り、対岸の様子を報告します。ツグリニツキー将軍は直ちに擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊F大隊をモーゼル河畔に向かわせました。この様子はサン=カンタン山からも観察され、仏軍要塞砲は対岸に向けて遠距離の砲撃を行いましたが、損害を与えることは出来ませんでした。

 F大隊は鉄道堤に沿ってラ・メゾン・ルージュ(サント=リュフィール東南東1.5キロのモーゼル対岸河畔にあった農場。現国道D157B線のモーゼル架橋東詰)方面へ前進し、先頭の第9中隊は夕闇迫る中、モーゼル川の対岸をムーラン=レ=メッス方面からメッス市街へ退却する仏軍の輜重や補給部隊を狙撃しました。しかし、急速に辺りは暗くなり銃撃も長くは続けることが適いません。このF大隊に続いて第5連隊第1大隊も後方に迫っていましたが、ここで完全に夜となったため行軍を中止し、一足先に転向したF大隊と共に第4旅団本隊が野営するオニーへと引き上げて行ったのでした。


 ロゼリユの北西側、ジュールの家西方の戦闘は、午後5時から6時の間で完全な歩兵の持久戦の形となりました。


 シュタインメッツ大将の独第一軍は、大本営から性急な戦闘加入を戒められていたにも係わらず、次第に戦闘を拡大し仏軍の本陣地に向けて出血の多い進軍を行ってしまいます。

 この行動は仏司令官バゼーヌ大将を大層刺激し、サン=カンタン山に控えていた精鋭の仏近衛第1師団をこの戦線に呼び込むこととなりました。これに力を得た仏第2軍団のバージ師団と第3軍団のエマール師団は午後4時過ぎ、独側の騎兵・砲兵の前進に対抗して逆襲に入ったのです。

 独第一軍は仏軍の反撃により時期尚早に前進した砲兵と騎兵が退却し、新たに前進した第31旅団(第29、69連隊)と第27旅団の第39連隊も前線で膠着状態となってしまいました。しかし、これを知った後もシュタインメッツ大将は最後に残った予備部隊(*以下)を投入しようとはしませんでした。


*午後5時時点で第一軍予備となり後方に控えていた諸部隊

◯フュージリア第73「ハノーファー」連隊(第25旅団/第13師団)

◯第74「ハノーファー第1」連隊(第27旅団/第14師団)

◯第53「ヴェストファーレン第5」連隊F大隊(第28旅団/第14師団)

◯第77「ハノーファー第2」連隊(第28旅団/第14師団)

◯フュージリア第40「ホーレンツォレルン」連隊(第32旅団/第16師団)

◯第72「チューリンゲン第4」連隊(第32旅団/第16師団)


 シュタインメッツ将軍がこれら予備を直ちに戦線へ投入しなかった理由は、大本営のモルトケ参謀総長が示した第一軍が成すべき行動、「第二軍が左翼(北側)で攻撃を本格化させるまで守勢でいる」ことが足枷となっていたからだ、と言われています。シュタインメッツも全力で攻撃するのは崇拝する国王の手前、さすがに控えていたのでしょう。


 この第一軍の戦況を確かめるべく、午後5時ヴィルヘルム国王は普大本営と共にグラヴロット~マルメゾン間まで進出しました。国王はここに第一軍参謀次長の伯爵フォン・ヴァルテンスレーヴェン大佐を呼び出して状況を説明させ、首脳陣は第一軍の現況を初めて詳細に知ったのでした。


 午後5時30分、普大本営は普第2軍団長フォン・フランセキー大将に対し、「貴軍団をシュタインメッツ将軍麾下とするので、グラヴロット近郊まで前進せよ」と命じます。


 フランセキー将軍の普第2軍団は午後4時頃、第3師団がルゾンヴィル近郊に到着し始めており、前衛はルゾンヴィル部落南方に、本隊は部落西方に、また軍団砲兵隊とその護衛は部落の北郊外へ進み出るのでした。

 また、大休憩後にオンヴィルから出発した後続の第4師団は、この5時30分頃、その前衛がルゾンヴィル郊外に到着し始めていました。


*8月18日の普第2軍団行軍序列

☆第3師団(マティーアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン少将)

◯前衛(第6旅団長ルートヴィヒ・エバーハルト・フォン・デア・デッケン大佐指揮)

・猟兵第2「ポンメルン」大隊

・第54「ポンメルン第7」連隊第1,2,F大隊

・野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊軽砲第1中隊

◯本隊(第5旅団長ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将指揮)

・第14「ポンメルン第3」連隊第2大隊

・野戦砲兵第2連隊軽砲第2、重砲第1,2中隊

・第14連隊F大隊

・擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊第1、F大隊

・第42「ポンメルン第5」連隊F,第1,2大隊

・第2軍団野戦工兵第1,2中隊

(※以上ビュシエールより北上)

◯軍団砲兵隊

・野戦砲兵第2連隊軽砲第3,4、重砲第3,4中隊

・野戦砲兵第2連隊騎砲兵第2,3中隊

・第2連隊第2大隊

・竜騎兵第3「ノイマルク」連隊

(※以上ビュシエール~オンヴィル間より北上)

☆第4師団(オットー・ルドルフ・ベーノ・ハン・フォン・ワイヘルン中将)

◯前衛(第7旅団長カール・ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・トロッセル少将指揮)

・竜騎兵第11「ポンメルン」連隊

・擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊F(第3)大隊

・野戦砲兵第2連隊軽砲第5中隊

・擲弾兵第9連隊第1,2大隊

◯本隊(第8旅団長男爵フリードリヒ・カール・フォン・ケットラー少将指揮)

・第49「ポンメルン第6」連隊F,第1,2大隊

・野戦砲兵第2連隊軽砲第6、重砲第5,6中隊

・第21「ポンメルン第4」連隊第1,2,F大隊

・第61「ポンメルン第8」連隊第1,2,F大隊

・第2軍団野戦工兵第3中隊

(※以上オンヴィルより北上)

※この日第3師団の第14連隊第1大隊は、大本営の留守護衛としてポンタ=ムッソンに残留しました。


 フランセキー将軍は前進命令を受けると午後5時45分、第3師団と軍団砲兵をグラヴロットの南郊外へ前進させます。後続の第4師団は休むことなく午後6時30分頃、ルゾンヴィルを経由して第3師団の後方へ追従しました。


 グラヴロット郊外でフランセキー軍団が接近したことを確認したシュタインメッツ将軍は午後6時、自らの予備を投入することに決し、まずはルドルフ・フランツ・クルト・フォン・レックス大佐率いる第32旅団に対し東進する事を命じました。

 しかしこの時既にレックス大佐は上司となる第8軍団長フォン・ゲーベン大将より前進命令を受けており、第72連隊とフュージリア第40連隊第2大隊を直率してマンス渓谷に向かって進発していました。

 残りの第40連隊第1大隊はそれ以前に手薄となった軍団左翼を増強するためマルメゾンへ前進しており、同連隊の第3大隊はジェミヴォー森を本隊に先駆けて越え、激戦が続いたマンス本渓谷と支谷との合流点へ増援として進み出ていました。


 こうしてゲーベン大将はレックス大佐に諸事を命じた後、副官等を引き連れて自ら最前線のサン=テュベールの家まで騎行します。将軍は合計すれば一個師団に近い諸隊が狭い地域に集中していることで、この重要な前進拠点が簡単に敗れることはなかろうと信じてはいましたが、実際に自らの目で確かめないことには以降の作戦は行えない、と痛感していたのでした。

 ゲーベン将軍が最前線に来てみると、部下たちやツァストロウ大将の部下(第7軍団)の諸兵が入り交じってはいたものの、将軍の予想より強固に農場は確保されており、また、周辺の散兵線も維持されてしっかりとした「足場」となっている、と感じるのです。これによりゲーベン将軍は、戦闘中に散乱し親部隊から離れてしまった兵員や、街道・林道の道端や採石場の遮蔽物の陰などに溢れる軽傷者の群など、現時点では役に立たない不要な人員を整理後退させ、折を見て所属部隊に復帰させよと命じた後、本営へと帰ったのでした。


 ゲーベン将軍が大胆にも最前線で視察を行った午後6時過ぎ、独第一軍の東では仏軍砲兵がほとんど沈黙し、あれだけ激しく銃撃を行い、幾度も前線を突破しようと押し寄せていた仏戦列歩兵たちも散兵線に退いて、自然休戦状態に近いものとなっていました。しかし、マルメゾン南の大本営では午後6時少々前、北方から銃砲声が鳴り響き始めたのを聞いており、カール王子の独第二軍が再度攻勢に出たことを知ったのです。北部戦線の様子は既述通り、この会戦中第二軍本営と大本営との連絡士官となり午後5時過ぎに第二軍本営より帰着した参謀本部のフォン・ブランデンシュタイン中佐が報告しており、北部戦線の戦闘は今後も独軍有利に展開するものと期待されていました。


 この時間、夏の長い一日は暮れ掛かっており、萎縮し疲弊し切ったかに思える南部(普軍左翼側)仏軍の戦線にも、夜が訪れる前に攻撃を加える方針が大本営でも確認されるのです。


 これを受けヴィルヘルム1世国王はシュタインメッツ大将に対し、「予備の部隊を投入し全力でジュールの家東側の高地に向け前進せよ」と命じたのでした。


 シュタインメッツ将軍は晴れ晴れとした気持ちだったのでは、と推察します。「縛り」を解かれた将軍は同じく猛将のツァストロウ大将に口頭で「第7軍団で最前線にいない部隊を全て引き連れ、マンス渓谷を越えて前進せよ」と命じました。

 また、これまた戦いたくてムズムズしていた第2軍団長フランセキー大将に対し、「この後に発生する第7軍団の戦闘を援助せよ」と命じました。フランセキー将軍も勇躍グラヴロット南部に接近中の第3師団を、そのままマンス渓谷へ東進させる準備命令を発するのでした。


 ところが。


 午後7時。独第一軍諸隊が攻撃命令を実行しようと準備を急ぐ中、独軍統帥部を震撼とさせる事態が発生するのです。

 独第一軍の機先を制し、仏近衛第1師団の応援を得た仏第2軍団と第3軍団の一部が再び総攻撃を開始したのでした。


 思いも掛けず「死んだ振り」から目覚めたかに見える仏軍戦列歩兵は一気果敢に突撃を開始、砲兵は再度前進し猛砲撃を普軍前線に加えたのです。

 マンス渓谷からジェミヴォー森、そしてヴォー森一帯は白く濃密な硝煙で一気に覆われ、夕暮れも相まって視界が極端に悪くなりました。それにも増して仏軍の銃砲撃はそれまで以上に数多く破壊的威力で普軍前線を襲い、それは全線に渡って途切れがなく、砲弾ばかりか銃弾までもがグラヴロット市街や、なんとマルメゾン南西の普大本営にまで降り注いだのです。


 仏近衛第1(ブリアンクール准将)旅団はバゼーヌ大将の命令により、シャテル=サン=ジェルマンよりエマール師団の戦線後方に進み出ていましたが、一気に前線まで突進し、エマール師団の戦列歩兵と肩を並べて突撃するのでした。

 同じく仏近衛第2(ガルニエ准将)旅団もレシー部落西郊外から仏第2軍団バージ師団の戦線(ジュールの家から北)へ進出、前線の兵士と共に反攻へ転じたのです。


 普軍の前線には次第に恐慌が広がり始めました。

 既に長時間の戦闘で疲弊し尽くし、指揮官を失ってもかろうじて最前線に張り付いていた普第一軍の諸中隊が作る散兵線は、仏軍の精鋭近衛「選抜兵」4個連隊1万名を加えたエマール、バージ、そしてファヴァー=バストゥル師団の猛攻に儚くも崩壊して行きました。


 仏第2軍団の歩兵たちはサン=テュベール南方の採石場や、マンス渓谷からアル渓谷へと名称が変わる辺りの東岸までを重点的に襲撃し、弱体な遮蔽物や浅く掘った散兵壕に頼っていた普軍の各中隊はマンス渓谷内へ追い落とされ、追われてさらに西へと敗走する部隊も続出するのです。

 こうなってしまうと、さすが強兵と謳われる普軍兵士も算を乱して一目散に渓谷の急斜面を滑り落ち、「まるで雪崩のように」西へ西へと逃走するのでした。


 この状況はサン=テュベールの家周辺でも変わらず、仏第3軍団のエマール師団と恐ろしい近衛兵に襲われたモスクワ農場前面の兵士たちは一斉に退却し、敗走する兵士の波はサン=テュベールの家を、まるで川の中洲のような有様とするのです。

 農場の強固な拠点や塀にしがみ付くようにして陣地を護る兵士以外は皆この「敗走者の波」に浚われた格好となり、唯一最前線で踏み留まっていた勇敢なグニュッゲ大尉の軽砲中隊でさえも敗走する兵士に飲まれ、恐慌に襲われた砲兵が扱う数門の砲は、急ぎ前車に繋がれて敗走兵の流れに乗って一目散に後退してしまったのでした。


 ゲーベン将軍の指示によりマンス渓谷内まで後退し、再集合を待っていた軽傷兵や「迷子」の兵士たち数千名も、この敗走する津波のような兵士たちを見て思考停止してしまい、我先に後退を始めてしまいます。それは次第に秩序を失い、怯え後を省みない烏合の衆の潰走へと変わって行きました。

 潰走する兵士たちは留まるところを知らずにグラヴロット部落に殺到し、血相を変えて市街地を突き抜け、更にルゾンヴィルにまで逃げる者までいたのです。


 この恐慌に襲われた兵士の「波」は、正に攻撃へ転じようとしていた第7軍団の予備部隊や、やる気満々のフランセキー将軍率いる普第2軍団諸部隊と衝突してしまいました。

 先へ進もうとする部隊と必死に逃げまどう部隊が、同じ夕暮れ時のベルダン街道沿いと夏草茂る暗い森の中で交錯したのです。


 グラヴロットにいたシュタインメッツ将軍や、その南側で軍団を直率していたツァストロウ将軍とフランセキー将軍、そして異変に気付きマルメゾンの南から駆け付けた参謀本部員と大本営付きの士官たちに混じってモルトケ参謀総長までもが、我を忘れて逃走する兵士を捕まえては叱咤激励し、場合によっては殴り倒してでも正気に戻させては部隊としての秩序を取り戻させようと奔走するのでした。

挿絵(By みてみん)

グラヴロットのモルトケ


 この危機の際、サン=テュベールにいた諸中隊と、攻勢に出る直前だった諸隊は全力で仏軍の「大きな波」を受け止めようとしました。


 前線の危機を知った普第16師団長アルベルト・クリストフ・ゴットリーブ・フォン・バルネコウ中将は、ゲーベン大将の命令で一足先にマンス渓谷へ向かっていたフォン・レックス大佐率いる第32旅団中の4個(第72連隊第1,2,Fと第40連隊第2)大隊の行軍列まで愛馬を疾走させました。そして大佐から指揮を預かり、直ちに部隊に駆け足を命じてベルダン街道へ向かうと、街道を東へ突進しました。この内第72連隊は代理指揮官のアイネッケ少佐が率いて先頭を行き、第40連隊第2大隊がこれに続きました。

 これを見て我に返った付近の諸隊も、突進する「バルネコウ隊」に雪球式に加わり、強力な阻止部隊は街道を西へと押し寄せる仏軍と激突したのです。

挿絵(By みてみん)

 バルネコウ

 これにより、仏エマール師団と仏近衛第1旅団を中心とする攻勢はサン=テュベールの家付近で勢いを殺がれ、やがて仏軍はベルダン街道が南へ90度折れ曲がるモスクワ農場の南側まで撃退されるのです。


 しかし、この街道屈曲点から東側へ向かう普軍の突撃は、その東側高地に散兵線を敷く強力な仏軍からの猛射撃で阻止され、直前の攻撃で腕に負傷しながらもサン=テュベール付近から手勢を率いて「バルネコウ隊」に参加した第69連隊第1大隊長のフォン・ハデルン少佐*は、部隊の先頭で壮絶な戦死を遂げてしまいました。


 一方、国王からシュタインメッツ将軍を通じてジュールの家方面への進撃を命じられたツァストロウ大将は、当座の目標をジュールの家南方、ロゼリユ部落の西に陣を敷くファヴァー=バストゥル師団の散兵線と定めます。

 しかし、「軍団全力で」敵に向かえと命じられた将軍は、「既に日暮れ時であり、大部隊による夜陰の前進は利が薄い」と冷静に判断して部隊を区処、マンス渓谷西岸に待機していた第28旅団長ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将に命じ、旅団所属の第74「ハノーファー第1」連隊と第77「ハノーファー第2」連隊の第2、F大隊を予備としてグラヴロット近郊まで進ませ、まずは第77連隊第1大隊と第25旅団所属のフュージリア第73「ハノーファー」連隊により攻撃を行うこととするのです。


 第25旅団長男爵アルベルト・レオ・オットナー・フォン・デア・オステン=ザッケン少将は第73連隊を直率し、マンス水車場付近でマンス渓谷底に降りると、ここに駐在していた同連隊の第2大隊を吸収しました。更にヴォー森に面するマンス渓谷東岸の木々に覆われた斜面を登ると、この付近に陣取っていた第13連隊の第1,4中隊をも吸収するのでした。

 第77連隊の第1大隊は、この第73連隊の左翼(北)側を前進し、直後に始まった普第2軍団の攻撃と同調してマンス渓谷東岸で共に戦うこととなります。


 オステン=ザッケン将軍は3個大隊半の兵力で、戦災で燃え尽きようとしているジュールの家南西側採石場の更に南側を突進し、ロゼリユ西方のベルダン街道へ向かいますが、既に日は落ち夕闇が濃くなっており、これ以上夜間に強固な仏軍陣地帯へ向かって前進するのは危険過ぎる、として東進を中止するのでした。

 少将の上司、第13師団長ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将は騎行してザッケン将軍の前線に赴くと、ヴォー森の縁に集合する諸隊も含めて全ての前進を中止させ、強大な仏軍を前に、夜間に掛けて現在地を死守するよう檄を飛ばしたのです。


 このヴォー森南部の林縁で、この日午前より仏第2軍団と対峙し続けた第7軍団の5個大隊*は、ほぼ日中に渡って主にファヴァー=バストゥル師団の散兵線と散発的な銃撃戦を続けていましたが、オステン=ザッケン将軍の前進で活気付くと、ザッケン隊の右翼(南)側で前進を開始し、激しい銃撃戦の後、ベルダン街道まで百数十mまで迫ります。しかし、それ以上は全滅を覚悟しなくてはならぬほどの弾幕の中を進まねばならず、突進は阻止されてしまいました。彼らはこの街道西側の線で繰り返される仏軍の突撃を迎え撃ち、暫くはこの線を死守するのでした。

 この夕暮れの戦闘中第13連隊は特に損害を受け、連隊長のヴィルヘルム・オットー・エミール・フォン・フランケンベルク=ルートヴィッヒスドルフ大佐も重傷を負って後送されてしまうのです。


 しかし、夜陰に閉ざされてしまうとこの脆弱な戦線に居残るのは甚だ危険となり、普兵は徐々に元いたヴォー森の縁まで後退しました。ただ、男爵ベルンハルト・フォン・デム・ブスシェ=ハッデンハウゼン中佐率いる第13連隊第2大隊のみはこの地に留まり、夜が更けるまで仏軍散兵線と銃撃戦を続行したのでした。


 こうして、フォン・ツァストロウ大将の普第7軍団は、南はモーゼル西岸ジュシー部落周辺(フォン・デア・ゴルツ少将の第26旅団)からヴォー森の東縁に沿ってジュールの家南西の採石場南(オステン=ザッケン少将の部隊)まで、合計歩兵の14個大隊によりしっかりとした戦線を築いて夜を迎えたのでした。



*午後6時時点でヴォー森縁に戦線を築いていた諸部隊

◯第53「ヴェストファーレン第5」連隊第1、2大隊(フォン・ゲルシュタイン大佐指揮)

◯第13「ヴェストファーレン第1」連隊第2、F大隊(フォン・フランケンベルク大佐指揮)

◯猟兵第7「ヴェストファーレン」連隊(ライニッケ中佐指揮)

*午後7時、フォン・デア・オステン=ザッケン少将の部隊

◯フュージリア第73「ハノーファー」連隊

◯第13連隊第1,4中隊

※第13連隊残りの第2,3中隊はマンス水車場の南側、マンス渓谷内で予備となっています。


挿絵(By みてみん)


"Schlacht bei Gravelotte - Tod des Majaors von Hadeln am 18. August 1870" 


作者 Carl Röchling (1855-1920)

制作年,場所 1897年, ベルリン

詳細 油彩, 67 x 54 cm

所蔵 ベルリン ドイツ歴史博物館


 プロシア・ドイツの戦場画家、カール・レヒリング(1855 -1920)が「グラヴロット会戦~ハデルン少佐の死 1870年8月18日」(1870/71の戦争を描いた絵画の中でも名高いものの1つ)を完成したのは、会戦後四半世紀以上も経た1897年でした。これは当時の若きドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によるドイツ帝国の威信を高める政策に沿ったものと言えそうです。

 この普仏戦争最大の会戦における一コマは、題名に中堅指揮官であり死傷者の多かった大隊指揮官を冠しており、他の普仏戦争を題材にした独画家の戦争絵画同様、戦争の実相を強調しています。


 第16師団の一大隊長、男爵カール・ヴィルヘルム・フォン・ハデルン少佐(絵画中央やや右側の軍旗を掲げる人物)はこの日、グラヴロット東方「サン=テュベールの家」付近での戦闘中左腕を負傷しましたが、「かすり傷」として後退せずに指揮を続け、会戦が佳境を迎えた夕刻午後7時頃、絵画中央に見えるサン=テュベール農場より出撃して、ポプラ並木が美しいベルダン~メッス街道を突進、心臓をシャスポー銃弾に撃ち抜かれ壮絶な戦死を遂げます。

 この絵画の中心はもちろん中央右側で負傷した左腕を吊り大隊旗を振りかざすハデルン少佐で、その後方に夕日を浴びて大勢の部下が続いて行きます。この日第69連隊は士官24名・下士官兵266名の損害を受けました。

 この絵画には、宿敵フランスに勝利しドイツ帝国の成立を見た普仏戦争は、モルトケやカール王子など著名な将軍たちの尽力だけで成し遂げられたものではなく、無名の「ドイツ人」(大隊以下の指揮官や兵士)全体で成された、言い変えれば「統一国家ドイツ帝国の揺るぎない団結」を示すメッセージが込められているのです。


(絵画に添えられたドイツ歴史博物館の説明文を参考に記しました)


挿絵(By みてみん)

 ハデルン少佐(拡大)


 なお、Wikiを始めネットの資料では「von Halden」と間違えて記載されているケースが見られますが正確にはCarl Wilhelm Frhr. Von Hadeln少佐で、所属はこれもWikiでは間違えて歩兵第85「ホルシュタイン」連隊の項目に記載されていますが、85連隊は第9軍団の第18師団所属であり、この会戦ではキュセ森やシャントレンヌ農場南のジェミヴォー森で戦っており、「ハデルン」と言う名の少佐はいません。

 絵画で少佐が掲げる軍旗から見ても正解は第16師団(バルネコウ中将)第31旅団(グナイゼナウ少将)所属、第69「ライン第7」連隊(オスカー・ヴィルヘルム・アルフォンス・モーティマー・バイエル・フォン・カルガー大佐)の第1大隊長です。作者レヒリングは集団で走る兵士たちの右肩章の地の色を、第8軍団所属を意味する「青」、そこに連隊番号を赤文字で「69」と史実通り正確に描き込んでいます。なお、ハデルン少佐の右でいざる兵士は制服が暗緑色で、左肩章は「赤地に黄8」であることからも「猟兵第8大隊」所属であることが分かります。画面右隅で倒れる兵士や「行け!」とばかりに前方を指し示す兵士も同じ第8大隊の猟兵で、この絵画は69連隊の到着以前にサン=テュベールを巡る激闘を続けて大損害を受けた彼らに代わり、第69連隊が突撃する瞬間を描いたものだと分かるのです。


挿絵(By みてみん)

かつてサン=テュベールにあった普第69連隊の顕彰鎮魂碑


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