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普軍のハノーファー王国とヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)侵攻



 1866年6月15日。

 前日のフランクフルト(・アム・マイン。当時は独立自由都市)における独連邦議会で普王国を懲罰するために連邦軍を動員することが議決されると、普王国政府は翌朝、国境を接するザクセン王国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国(クールヘッセン。以降「ヘッセン=カッセル」とします)に対し次の条件で普と同盟関係となるよう要求を突き付け即回答するよう迫ります。


その一 現在動員令により戦時定員となっている貴国軍兵員数を本年3月1日における平時の定員まで下げること。

その二 普王国が「新」ドイツ連邦議会の開設を決定しその議員選挙を行うとき、貴国もこれに賛同しその議員選挙を行うこと

その三 貴国が先二項目を実施した場合、普王国は3月14日「旧」連邦議会に示した連邦改革案に従って貴国の領域並びに君主の権利を擁護する


 普政府(というよりビスマルクですが)は更に三ヶ国政府に対して「もし、この要望を拒絶又は結論先延ばしの回答をした場合「普王国政府はこの三ヶ国を敵と見做し交戦国に認定する」との通告をするのでした。

 しかしビスマルクはこの三ヶ国から明快な回答を得ることはありませんでした。そのため、15日夕刻、普王国はザクセン王国、ハノーファー王国、ヘッセン=カッセルに対し宣戦を布告するのです。

 普王国政府がこの「最大の敵」墺帝国より先に「国境を接する有力国家」に対して宣戦を布告したのは、戦勝後この三ヶ国を併合することを目論んだから、と言われていますが、墺帝国への宣戦布告日(6月21日)までに「先に」墺が普に宣戦を布告し、態度を保留している西部並びに南部諸侯が普墺どちらに立つのか決定を促すのが目的だった、とも言われます。

 普王国は宣戦布告状を三ヶ国に送達すると早くも16日早朝(日付が変わった直後)、軍を三ヶ国に侵攻させるのでした。


 ザクセン王国政府は16日、フランクフルトの連邦議会に対し「普は連邦の条約を破って我が国に侵攻を開始したため、連邦は普の横暴を止めさせるための処置を直ちに行い、特に墺帝国とバイエルン王国には武力を以てこれに対抗して貰いたい」と請願しました。

 この要求は直ちに認められ、墺帝国の代表は「墺は全力でこの横暴を阻止するため挙国の兵を投入し事に当たる」「墺皇帝は、独連邦のために忠誠心を持つ各邦政府が共同し全ドイツの権利自由のために力を合わせて欲しい、と述べられた」と墺帝国が独連邦側で参戦することを宣言したのでした。

 18日にはヘッセン=カッセルも連邦議会に対し救援を求め、続けてハノーファー王国も普軍が国内へ侵攻したとして連邦に援軍を求めたのです。既に16日、連邦議会は14日の連邦軍出動の議決を守るとして、普軍の侵攻を受けた三ヶ国に援軍を送ることを議決しています。


 ザクセン王国にはその国境に展開していた「エルベ軍」が、そしてハノーファーとヘッセン=カッセルにはモルトケが西方諸侯対策として残していた「異色の」三個師団が越境していました。

 この西方諸侯に対抗するおよそ5万、砲78門の「軍」は、フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン大将が率いています。


挿絵(By みてみん)

ファルケンシュタイン(大佐時代)


※1866年6月16日の「普西軍」戦闘序列


 司令官 エドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将

 参謀長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・クラーツ=コシュラウ大佐

 砲兵隊司令 フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・フォン・デッカー大佐

 工兵隊司令 シュルツ大佐(1号)

 工兵隊次席 フォン・スピルネラー大尉


◎第13師団(歩兵12個大隊・騎兵9個中隊・砲兵6個中隊/砲36門)

 師団長 アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン中将

 参謀長 エデュアルト・カール・フォン・イエナ大尉

□第25旅団

 旅団長 ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー少将

+第13「ヴェストファーレン第1」連隊

 連隊長 パウル・フォン・ゲルホルン大佐

+第53「ヴェストファーレン第5」連隊

 連隊長 ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ大佐

□第26旅団

 旅団長 男爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ウランゲル少将

+第15「ヴェストファーレン第2」連隊

 連隊長 男爵アレクサンダー・エデュワルト・クーノ・フォン・デア・ゴルツ大佐

+第55「ヴェストファーレン第6」連隊

 連隊長 ヨハン・クリスチャン・アレクサンダー・ストルツ大佐

□騎兵第13旅団

旅団長 アレクサンダー・ベルンハルト・フォン・トレスコウ少将

+胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊

 連隊長 カール・ヨハン・フォン・シュミット大佐

+驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊

連隊長 ヘルマン・カール・ディートリヒ・フォン・ランツァウ中佐

□師団直属

+工兵第7大隊・第1、第7中隊

〇野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊

・歩砲兵第3大隊(第1~第4中隊)

・騎砲兵第3、第4中隊

・弾薬縦列3個


◎混成師団「マントイフェル」(歩兵12個大隊・騎兵8個中隊・砲兵4個中隊/砲24門)

 師団長 男爵エドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル中将

 参謀長 カール・テオドール・フォン・ストランツ大佐

□集成第1旅団

 旅団長 ヨハン・アレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・フライホルト少将

+第25「ライン第1」連隊

 連隊長 男爵エドムント・ルートヴィヒ・フォン・ハンスタイン大佐

+フュージリア第36「マグデブルク」連隊

 連隊長 ルートヴィヒ・オットー・フーゴ・フォン・ティーレ大佐

□集成第2旅団

 旅団長 マルティン・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・コルト少将

+擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊

 連隊長 カール・アレクサンダー・フォン・ズグリニツキー大佐

+第59「ポーゼン第4」連隊

 連隊長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フランツ・フォン・ケスラー大佐

□集成騎兵旅団

 旅団長 エデュアルト・モーリッツ・フォン・フリース少将

+竜騎兵第5「ライン」連隊

 連隊長 ヘルマン・フォン・ヴェーデル大佐

+竜騎兵第6「マグデブルク」連隊

連隊長 男爵エルンスト・ハインリヒ・フォン・ホウヴァルト少佐

□師団直属

〇野戦砲兵第6「シュレジエン」連隊

・歩砲兵第3大隊(第1~第4中隊)

・弾薬縦列3個


◎混成師団「バイヤー」(歩兵18個大隊・騎兵5個中隊・砲兵3個中隊/砲18門)

 師団長 グスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー少将

 参謀長 カール・ルートヴィヒ・フォン・ツォイナー大佐

□第32旅団

 旅団長 ハンス・フェルディナント・ルドルフ・フォン・シャハトマイヤー少将

+第30「ライン第4」連隊

 連隊長 レオンハルト・ルドルフ・モルディアン・フォン・ゼルヒョー大佐

+第70「ライン第8」連隊

 連隊長 パウル・ペーター・エミール・フォン・ヴォイナ大佐

□歩兵集成旅団

 旅団長 ハインリヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー少将

+第19「ポーゼン第2」連隊

 連隊長 オットー・フォン・ヘニング・アウフ・シェーンホフ大佐

+第20「ブランデンブルク第3」連隊

 連隊長 フリードリヒ・ユリウス・ヨ-ゼフ・フォン・デア・ヴェンセ大佐

□師団直属

+第32「チューリンゲン第2」連隊

 連隊長 クルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン大佐

+フュージリア第39「ニーダーライン」連隊

 連隊長 ベルンハルト・フォン・アルニム中佐

+驃騎兵第9「ライン第2」連隊

 連隊長代理 ベルンハルト・フォン・コーゼル少佐

〇野戦砲兵第8「ライン」連隊

・4ポンド砲1個中隊・12ポンド砲1個中隊

・弾薬縦列3個

〇予備砲兵第1連隊

・12ポンド砲1個中隊


 この普「西軍」は歩兵43,200名、騎兵3,430名、砲兵及び工兵2,980名、砲78門、戦闘員総計およそ49,600名というなかなかの陣容ですが、対する独連邦軍は、


〇ハノーファー「軍団」 約20,000名

〇ヘッセン=カッセル「師団」 約6,000名

〇ナッサウ公国「旅団」 約5,000名

〇連邦第7軍団 約40,000名(バイエルン王国)

〇連邦第8軍団 約50,000名(ヴュルテンベルク王国・ヘッセン大公国・バーデン大公国の連合軍)

 総計約121,000名、普西軍の二倍半近くという「書類上は」圧倒的優位にありました。

 しかし既述の通り、西・南部諸侯は出征準備に時間が掛かり、また嫌々戦う国も多く、しっかりした対普作戦計画も無いまま同床異夢の寄せ集め状態で普軍の先制に遭ってしまったのでした。


挿絵(By みてみん)

ハノーファー王国(1860年頃・ゲッティンゲン地方除く)


☆ 普ファルケンシュタイン軍の侵攻


 6月13日。普国王ヴィルヘルム1世は西軍司令官に任じたファルケンシュタイン将軍に対して以下の命令を下します。


「歩兵大将フォン・ファルケンシュタインに命ず。

明日独連邦議会は墺帝国提出の我が国に対する連邦軍動員を採決するが、もしハノーファー王国が我が国に宣戦することを決すれば、貴官は速やかに同国に侵入し全域占領することを電信にて隷下に命じよ。その際の作戦は貴官に一任する。ハノーファーに対する作戦には主力として第13師団を貴官に与えるのでこれを使い、形勢と貴官の見立てによっては貴官が使用可能な後備兵を第13師団の増援に使用してもよろしい。また、15日に至れば現在アルトナ(現ハンブルクの西郊外)にあるフォン・マントイフェル中将のシュレスヴィヒ州混成師団、三兵種合わせ一万四千名も貴官隷下に置く。マントイフェルには既に貴官指揮下でハノーファーにて行動するよう命じているところである。

諜報によればハノーファー軍は未だに戦時定員まで動員されておらず、戦争準備も整っていない。その数多く見積もっても一万五千に過ぎず、若干がシュターデ(ハンブルクの西34キロ)とリューネブルク(同南東44キロ)に、若干が首府ハノーファー、ブルクドルフ(ハノーファー市の東北東20キロ)、ツェレ(同北東35.5キロ)に集合しているという。墺帝国ホルシュタイン駐屯のカリク将軍旅団四千五百名はハンブルク南方近郊のハノーファー国内にある。その他情勢は貴下が探知すべし。

本作戦では要害の地を奪取することに拘らず、数多く敵の兵器を奪い敵兵を素早く攻撃して敵が籠城戦に入らぬように留意せよ。開戦後万が一普墺間に宣戦布告がなかった場合、貴官は必ずハノーファー在の墺軍司令官(注・ホルシュタイン総督ガブレンツ将軍と思われます)に対しハノーファーと普国は戦争状態にあり墺軍は局外に立つよう申し入れ、墺軍司令官がこれに応じずハノーファー軍と共に戦う場合は国家の宣戦なくともこれを敵と見做すことを許す。

本作戦行動中、貴官が常に念頭に置くべきは、終始麾下を要害の地に留めず軍の運動を軽快にし、別に必要とする作戦があれば直ちに目前の敵から離れ必要とする戦場に転じ赴くことにあり。これ貴官が最も努めるべき事項である。

1866年6月13日 ベルリンにおいて    御璽 ヴィルヘルム     (筆者意訳)」


 この13日にファルケンシュタイン将軍はゲーベン将軍と共に第13師団が集合していたミンデン要塞にあり、16日の黎明前に同師団がハノーファー国境を越えるに当たり次の西軍第一号軍令を発したのでした。


「ハノーファー、ザクセン、クールヘッセン(ヘッセン=カッセル)はこれまで我が国と平和親睦の交流を成して来たが、今や墺国に平伏し我が国に対し兵を構えんと欲している。事ここに至れるとすればその経緯など本官の追求するところではない。我が至高なる陛下においてこれら小国政府に対し宣戦するほか無きは自明の理である。このため我らは本日を以て彼の国を敵国と為しその領域に侵攻する。想像せよ。彼の国の無辜の民は我らが侵入するを見ていかなる心情を現すであろうか。そのため我らも同胞が殺し合うに至ったことを悲しんでいることを彼らに示さねばならない。ああ、ヴェストファーレン軍団の兵士諸君。この心情を以て戦に臨み、1815年(注・ナポレオン戦争の勝利)以来友愛の情で結ばれた国家が戦わねばならないという悲劇を胸に刻み、事に当たらんことを。

 軍団長フォン・ファルケンシュタイン 捺印     (筆者意訳)」


 マントイフェル混成師団はこの命令を受領する前、15日深夜に前衛をアルトナからエルベを渡河してハンブルクの南郊外・当時はハノーファー王国領のハールブルクへ送り抵抗されることなく橋頭堡を確保すると、16日黎明前に南下を開始します。同師団本隊は16日早朝エルベを渡河して前衛に続き、前衛を率いるフリース少将はこの日夕刻までにリューネブルクへ至りここを占領、マントイフェル将軍はハールブルクに本営を構えました。

 同日早朝、ゲーベン将軍の第13師団もミンデンから東へ進んでハノーファー国境を突破、要塞守兵主体のバイヤー混成師団はヴェッツラーからギーセンへ向かって行軍、ヘッセン=カッセルへの侵攻を開始します。


挿絵(By みてみん)

ミンデンにあった第15連隊の普墺戦争従軍記念塔


 この16日夕方。普王国海軍はハールブルクのエルベ河岸で2隻の砲艦にマントイフェル師団の歩兵数個小隊を乗せると河口方向へ進み、シュターデの郊外ブルンスハウゼンにあって既に守備兵が撤収した河岸砲台(カノン重砲8門。現在は原子力発電所となっている河岸の北2キロ付近にありました)を占領しました。

 翌17日午後10時にはマントイフェル師団の第25「ライン第1」連隊第1大隊がハールブルクから海軍の通報艦ローレライ(430t)と砲艦シークロップ(353t)、そして民間徴用機帆船に乗ってエルベを下り翌朝午前1時、ツヴィーレンフレート(シュターデの東5.5キロ)に上陸すると静穏行軍でシュターデ(要塞市街となっていました)に進みます。これは完全にハノーファー兵の不意を突き、普軍は一気に城門を奪取すると市街へなだれ込み、慌てたハノーファー守備隊と短時間銃撃戦を繰り広げますが、守備隊は直ぐに手を挙げ降伏しました。ここを守っていたのは要塞砲兵少数とハノーファー第4連隊補充大隊の未錬成兵たちでした。


 マントイフェル師団本隊は17日早朝から二手に分かれてハノーファー国内を進撃、道中殆ど戦闘らしい戦闘は発生せず、18日には右翼(東)支隊は前衛(左翼支隊)が通過したリューネブルクを再占領、その左翼(西)支隊はヘーバー(リューネブルクの南西41キロ)に達します。

 右翼支隊は19日、リューネブルクで列車を徴発しその日の夜、ハノーファー市内へ入りました。同日左翼のフリース旅団は徒歩行軍でベルゲン(ハノーファーの北北東50キロ)に到達、20日にはツェレまで進みました。

 この間ゲーベン(第13)師団は16日にシュタットハーゲン(ハノーファーの西36キロ。ミンデンからは東へ20キロ)まで進み、翌17日夕刻、ハノーファー市街に一番乗りしますが、既に軍と国王は去った後でした。


 普海軍は19日、モニター(装甲砲塔艦)のアルミニウス(1,210t)と先述の砲艦シークロップにマントイフェル師団の第25連隊兵を乗せ、ヴェーザー河口のブレーマーハーフェンへ上陸させ、要港を護る3つの要塞や堡塁(ヴィルヘルム、ヴェーザー砲台、タワー)を襲撃しますが、既にハノーファー兵の姿はなく、ただ旧港を護るヴィルヘルム要塞の引退した元司令官が「要塞が欲しければ私の死体を越えて行け」と司令官室に閉じこもりましたが、普軍士官に説得され投降、要塞は無事普軍に引き渡されました。

 6月22日に先の二艦は兵士を乗せてブレーマーハーフェンからハノーファー王国北西端・オランダとの国境の要港エムデンへ向かい市街とエムス河岸の砲台を攻撃しますが、ハノーファー軍の砲台司令官フォン・フライターク中佐は彼我の戦力差を知ると戦うことなく降伏しています。


 ここまで普軍はハノーファー王国の野戦軍と遭遇せず、ただ各地に残留していた殆ど未錬成の新兵と後備兵からなる少数の守備隊と戦うだけで、各種大砲34門・前装施条小銃14,000挺を難なく鹵獲しています。

 普海軍は27日にハノーファー王国最北となる東フリージア諸島のノルダーナイ島を占領し、これでハノーファー王国は普軍によって全域を完全占領されたこととなり、普海軍はこの戦争における活動を休止しました。


 ヘッセン=カッセルへ侵攻した普バイヤー混成師団は初日の15日早朝、前進集合拠点の普王国飛び地・ヴェッツラーを進発し、ヘッセン大公国国境の街ギーセン(ヴェッツラーの東12.5キロ)に向かい、翌16日午前2時、ヘッセン大公国国境を突破しました(この時点でヘッセン大公国とも戦争状態になりました)。ここで大公国の北縁を進んでその日のうちにヘッセン=カッセル領に侵入し翌17日にはマールブルク(ギーセンの北25キロ)を陥落させます。

 バイヤー将軍は麾下を急がせ強行軍でカッセル領内を占領しつつ北上し、前衛旅団は19日に首府カッセル(マールブルクからは北東に75キロ)に到着、翌20日にはバイヤー師団全てがカッセル市周辺に到達しています。しかしここまでの行軍中、ヘッセン=カッセルの正規軍には遭遇せず、たまに銃撃を受けるもそれは全て郷土兵(民兵)でした。

 ヘッセン=カッセル軍は連邦の取り決めに従ってこの時既にハーナウ(フランクフルトの東17キロ)及びフルダ(カッセルの南85キロ)に集合しており、ヘッセン=カッセルは殆ど普軍の無血占領とも言える状態となったのです。


挿絵(By みてみん)

ヘッセン選帝侯軍(1866年)


 この地でも普軍は大量の武器弾薬を鹵獲しますが、これはバイヤー師団が前進中カッセル~ベーブラ(カッセルの南東43キロ)間で鉄道路線を切断したためにフランクフルト方面へ動いたヘッセン=カッセル軍が砲や諸材料を運べなかったから、と言われています。バイヤー将軍はこれ以外にも南方/フランクフルト・アム・マインに向かう鉄道線路を数か所で爆破またはレールを外すなどの破壊工作を行い、ヘッセン=カッセルやナッサウの軍隊がフランクフルトへ集合するのを妨害しようと試みています。

 ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はこの間、居城のヴィルヘルムスヘーエ城(カッセルの西郊外丘陵森林地域に現存します)から動かず、普軍がやって来ると親衛兵に形ばかりの抵抗をさせた後に投降、普軍の捕虜となり最初はミンデン要塞へ、次いでポンメルンのシュテティーンへ送られ幽閉されました。


挿絵(By みてみん)

ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルムスヘーエ城(1860年)


☆ ハノーファー軍の事情


 普参謀本部モルトケ総長はボヘミアの地にて20万を号する墺軍主力の「北軍」を第一、第二両軍で合撃、殲滅することで戦争の早期決着を目指していましたが、墺とザクセン以外の西・南諸侯と戦う「普西軍」に対してもその「目的」を明確に命じていました。

 西軍率いるファルケンシュタイン将軍にモルトケが望んでいたのは、「連邦第7、第8軍団を名乗るバイエルン以下西方諸侯軍を、墺軍のいるボヘミア地方に進ませず、素早く撃破する」ということで、先ずは諸侯軍の中でも手強いと思われ、連邦両軍団に合流しようと行動するはずのハノーファー軍団を「出来る限り早期に決戦を仕掛け、完膚なきまでに叩き行動不能として、南部諸侯の軍に合流させないこと」でした。


 親戚筋の英国を後ろ盾として普墺どちらの勢力とも一定の距離を保ち、ドイツ連邦の中でも独立独歩の姿勢を保っていたハノーファー王国は、普墺対立激化の66年前半にあっても中立を貫こうと努めますが、結局野心的で絶対王政を貫こうとする普王国とは相容れず、墺帝国始めドイツ連邦諸侯と共に普と対決する道を選びました。

 6月上旬、ハノーファー軍は夏の大演習と称してフェルデン(アラー河畔。ブレーメンの南東33.5キロ)、ハールブルク(ハンブルク南)、ブルクドルフ(ハノーファー市の東北東19.5キロ)、リーベナウ(同北西50キロ)の四ヶ所で演習野営に入ろうとしていましたが、15日の正午、連邦軍動員についての軍議がハノーファー市の王宮ヘレンハウゼンで開かれ、ハノーファー国王ゲオルク5世は国土を護ることで独り強大な普軍と対戦するより諸侯軍と合流し共にドイツ連邦を護ることで結果王国は護られる、として「要地守備を除く全軍は急ぎ連邦第7、第8軍団に合流せよ」と命じたのです。軍本営は直後電信を発して四ヶ所に散っていた軍に対し、大至急王国南方の「飛び地」ゲッティンゲン(ハノーファー市の南95キロ)近郊に集合するよう命じたのでした。


挿絵(By みてみん)

普仏戦争時のハノーファー軍砲兵と工兵


 ハノーファー軍は素早く野営地を発つと強行軍で18日までにゲッティンゲン周辺へ集合しますが、ゲオルク5世は王太子エルンスト・アウグスト親王(当時21歳)を伴い既に16日早朝ゲッティンゲン市内へ到着し、この地で国軍の戦備を整えようとしました。


 この素早い判断により、ハノーファー王国野戦軍約15,000はゲーベン(西から)、マントイフェル(北から)両師団による「合擊」をすり抜け、侮れない梯団となりフランクフルトを目指すのです。なお、ゲオルク5世は「王国民を見捨てて王室の安寧を図った」と敵に喧伝されぬよう、王后と王女を王宮に残しています。

 ゲオルク5世は総軍の指揮をハノーファー軍でもこの人ありと謳われた還暦直前のアレクサンダー・カール・フリードリヒ・フォン・アレンツシルト中将に託し、アレンツシルト将軍は改めて国軍を4個旅団・予備騎兵1個旅団・予備砲兵隊に区処します。

 この時1個旅団は5個大隊、騎兵1個連隊(4個中隊)、砲兵1個中隊(6門)、衛生兵1個小隊に編成し、予備騎兵旅団は騎兵2個連隊(騎兵8個中隊)、騎砲兵1個中隊(4門)として、予備砲兵隊は3個中隊(野砲16門。野戦軍合計42門)としました。

 ゲッティンゲンでは当初クネゼベック少将の第1旅団とドゥ・ヴォー大佐の第2旅団だけが到着しますが、ビューロー大佐の第3旅団とボートマー少将の第4旅団も順次追い付き貴重な工兵1個中隊も参入するのでした。

 普墺戦争開戦時、ハノーファー軍の戦闘員数は歩兵大隊が平均700名・騎兵連隊が平均350騎と伝わり、野戦軍総数は歩兵15,000名(うち招集2ヶ月以内で未錬成の初年度兵2,000名)・馬匹2,200頭で、他後方部隊として弾薬縦列1個(重馬車40輌)・移動可能な砲兵廠1個といざとなれば野砲として使用可能な予備野砲10門・輜重1個縦列(従事者は軍事未錬成の人夫)が続行しました。


 ハノーファー王ゲオルク5世は国土を離れて連邦軍と合同することに関し、ゲッティンゲンで国民へ以下の「熱い」布告を下しました。


「親愛なる国民に告ぐ


プロシア王は朕に対し宣戦を布告して来た。これは思うに、普が要求した我が国家の自主独立と我が王位の栄誉権利を棄損し親愛なる国民の安寧を損なうような同盟を朕が拒んだからだ。このような要求は容認出来る訳がなく朕の義務において従うものでもない。この要求を飲まなかった故に普王は我が国境に軍を差し向けた。

しかし目下首都の我が守備は敵を迎え撃つに不足し、よって朕は王后と王女を親愛なる首都の民に託し朕は王子と共に目下王国南部に集合する国軍と共に朕の義務を果たそうとしている。

この地より朕は親愛なる国民に告げる。これより諸君は一時普国の統制に従うことになるが、愛国忠心を忘るること無かれ。これより諸君は艱難辛苦の時を過ごすことになるやも知れぬが、よく耐え忍び強き心を持てこれを凌ぐように。諸君の先祖がかつて国家存亡の折に異国の土地にて戦いついに勝利を得たことを思い起こすように。そして永久不滅なる正道の法を護持し、行く末に必ず神の導きがあらんことを信じ、朕と共に神に祈らんことを。

朕は誠心誠意国家のため我が身を挺して軍人と共に立てり。朕は王子と共に諸君ら国民のために安寧を祈願する。朕の願いは神と共にあり。朕の心は諸君ら親愛なる国民と共にあり。

1866年6月17日ゲッチンゲンにて          ゲオルグ・レックス(注・王の名前アレクサンダーの愛称)(筆者意訳)」


挿絵(By みてみん)

ハノーファー王宮(16世紀)


 しかし、ハノーファー軍は想像以上に普軍の攻勢が素早かったために出征準備が間に合わず、数多くの軍需物資を手に入れることが出来ないままでした。特に馬匹の不足は深刻で、補給物資を運ぶ輜重は馬匹の不足で機能不全に近く、歩兵連隊には馬車用の牽引馬匹が一頭も無いという悲惨な状況となります。前述の予備野砲10門を曳く馬匹は王宮馬廠で飼育されていた王族乗馬用の馬匹(乗馬なので馬車の牽引には全く向きません)が辛うじて宛がわれる始末でした。また、主計士官と従軍薬剤師は何とか定員手配が出来たものの、野戦病院は戦争中遂に正規の形で運営することが叶いませんでした。


 6月18日。国王ゲオルグ5世は南方の敵バイヤー師団と北方の敵ゲーベン、マントイフェル師団に対抗するため、ドゥ・ヴォー旅団をノルトハイムへの街道(現・国道3号線)に、遅れて到着しつつあったボートマー旅団とビューロー旅団をそのままミンデンへの街道(現・国道446号線から241号線にかけて)とヴィッツェンハウゼンへの街道(現・国道27号線)に進めて野営させ奇襲を防ぎます。この日、予備騎兵隊はボートマー、ビューロー両旅団の間に展開し斥候を出して敵の接近を警戒しました。また、ミンデン~ブラウンシュヴァイク間の鉄道線路を破壊し、残ったレールや枕木を外すと貨車に積み込み普軍に鹵獲されぬよう全てハンブルク方面へ送り出すのでした。

 この他ハノーファーからライネ川(ゲッティンゲンの南東30キロのライネフェルデからゲッティンゲン~アールフェルト~ノルドシュテンメン~ハノーファーと下ってアラー川に注ぐ支流)に沿ってカッセルに至る鉄道線も18から19日に掛けて運行が停止され封鎖されました。

 アレンツシルト将軍はまたヘッセン=カッセルとの国境の要塞都市ミュンデン(ゲッティンゲンの南西23.5キロ)を流れるヴェラ川右岸に歩兵と騎兵各1個中隊を送って要塞とつながる石橋を守らせ、フリートラント(同南12.5キロ)とキルヒガンダーン(フリートラントの南東5キロ。チューリンゲン地方との境界部分)間に架かるアイネ川二ヶ所の渡渉場にも前衛を置いて沿岸を守らせました。


挿絵(By みてみん)

ゲッティンゲン(1837年)


 ハノーファー軍はこのゲッティンゲンで20日まで動けず、貴重な時間を空費してしまうのです。

 これは軍備を整える時間でもありましたが、会議もまた時間を費やし、席上高官たちある者はゲッティンゲンに留まって敵を迎い撃てと言い、またある者はハルツ山地(ゲッティンゲンからは北東50キロほどにあり東西約90キロに及ぶ森林山地)に籠って敵を行動制限の多い山岳戦に引きずり込む作戦を説き、更にある者は一気に南下し敵より先にフランクフルトかバイエルン領内に到達して連邦軍と合流するよう主張するなど意見はなかなか一致しないまま、いたずらに時だけが過ぎて行ったのでした。


※ハノーファー王国軍戦闘序列(1866年6月夏期演習~緒戦)


司令官 アレクサンダー・カール・フリードリヒ・フォン・アレンツシルト中将

参謀長 エルンスト・ルートヴィヒ・フリードリヒ・コーデマン大佐(戦後辞任)

国王付副官 フリードリヒ・ダンマース大佐(王の親友)

砲兵部長 ヴィルヘルム・フォン・ストルツェンベルク大佐(戦後引退)

工兵部長 ゲオルグ・アウグスト・オッペルマン中佐(普軍に移籍し普仏戦争・パリ包囲で活躍)


☆第1旅団 エルンスト・ユリウス・ゲオルグ・フォン・デア・クネゼベック少将(戦後間もなく引退)

(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門)

〇近衛連隊・第1、第2大隊

〇親衛(ライヴ)連隊・第1、第2大隊

〇近衛猟兵大隊

〇女王ヴィクトリア驃騎兵連隊

〇「マイヤー」12ポンド前装滑腔砲中隊


☆第2旅団 ヴィルヘルム・ド・ヴォー大佐(普併合後議会で活動)

(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門)

〇歩兵第2連隊・第1、第2大隊

〇歩兵第3連隊・第1、第2大隊

〇猟兵第1大隊

〇ケンブリッジ竜騎兵連隊

〇「ラーベス」6ポンド前装施条砲中隊


☆第3旅団 カール・マグヌス・イド・ハラルト・フォン・ビューロー=シュトレ大佐(戦後間もなく引退)

(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門)

〇歩兵第4連隊・第1、第2大隊

〇歩兵第5連隊・第1、第2大隊

〇猟兵第2大隊

〇皇太子竜騎兵連隊

〇「エンゲルス」6ポンド前装施条砲中隊


☆第4旅団 ルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー少将(他の士官が自ら引退・辞任する中、普軍に残り普仏戦争で活躍。普仏終戦時第13師団長)

(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲12門)

〇歩兵第6連隊・第1、第2大隊

〇歩兵第7連隊・第1、第2大隊

〇猟兵第3大隊

〇近衛驃騎兵連隊

〇「ミュラー」6ポンド前装施条砲中隊

〇「メルテンス」騎砲兵中隊


☆予備騎兵隊 フォン・ゲイソ中佐

(騎兵8個中隊・砲4門)

〇親衛騎兵・独立4個中隊

〇近衛胸甲騎兵連隊

〇「レッツィンガー」騎砲兵中隊


☆予備砲兵隊 ハルトマン少佐

(砲12門)

〇「ブルーメンバック」6ポンド前装施条砲中隊

〇「フォン・ハルトマン」24ポンド前装滑腔(榴弾)砲中隊


※ハノーファー王国軍の66年夏における総員数は、

・歩兵20個大隊/15,684名

・騎兵24個中隊/2,388名

・砲52門(要塞砲含まない)/砲兵1,807名

・工兵208名

・衛生輜重兵ほか482名

◇総計20,569名

でした。

このうち、

・歩兵2,294名

・騎兵657名

・砲10門・砲兵751名

以上は要地守備隊として国内に残り、ランゲンザルツァまでの行軍に参加していません。

 ランゲンザルツァ戦を戦ったのは

・歩兵20個大隊/13,390名

・騎兵21個中隊/1,731名

・砲42門/砲兵1,056名

◇総計16,177名

 と墺軍に記録されています。


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