グラヴロットの戦い/「敵の戦略予備軍は南から来る」
運命の8月18日、仏「ライン軍」総司令官フランソア・アシル・バゼーヌ大将の考えは「積極的防御姿勢において独軍と対決する」でした。
その防御の重点は戦線南部のロゼリユ方面にあり、このサン=カンタン山を後背にした防衛適地で独軍の「中央軍」を迎え、決戦を行おうとしたのです。
ですから、モーゼル河畔からモンヴォー川上流、仏第4軍団の左翼が構える「ラ=フォリの家」付近までは死守の構えでおり、攻める独軍の「息切れ」を待って予備の近衛軍団を投入し撃破することを夢見たのでした。
バゼーヌ大将
しかし、バゼーヌ将軍も二次的戦線と見たラ=フォリより北の、第4や第6軍団が担当する自軍右翼を全く無視していた訳ではありません。
この日午前10時、サン=プリヴァー在の仏第6軍団長カンロベル大将に対し、「万が一敵が貴軍団の戦区を包囲攻撃するようなことに至れば、貴官は時期を得て最外右翼を後退させてもよろしい」と命じていました(後述)。
その癖、普近衛軍団とザクセン軍団が南と西から迫った時にカンロベル大将が独断で1個連隊に命じてサント=マリーへ前進させたことを知ると、バゼーヌは余計なことをして戦線を緩めるな、とばかりに叱責の伝令を飛ばしているのです。
元よりバゼーヌ将軍は、独軍がサン=プリヴァー方面まで北上し包囲に掛かるなど考えていなかった節があります。この地は俯瞰して見ても仏軍陣地帯の弱点になり得る地形(丘陵地帯ではあるものの、南部に比して緩斜面であり遮蔽は少ないものの進撃し易い)であるのに、仏第6軍団を置いたことにもそれが現れています。
カンロベル大将率いる第6軍団は既述通り「総軍予備」として召集されました。動員も最も困難な地より行われ、十分な資材や補給物資も後回しとされて来ました。砲兵力も定数の三分の一、騎兵はなく、工兵や土木資材は一切シャロン(=アン=シャンパーニュ。パリの東約150キロ。市街地郊外に仏軍の一大演習場がありました)に置いて来ました。当然、この会戦でも防御工事が疎かとなり、南部で普軍を苦しめた散兵線や砲兵陣地もこの地では、一般の兵士たちが地面を浅く掘っただけだったり防御物を置かないままだったりと、強化されずに終わったのです。
カンロベル大将自身も、バゼーヌに対する反感と仏軍に流れる「絶対服従」の精神からか、独断で行動することは少なく、叱責にも唯諾々と従ってこの後の崩壊を招くのでした。
カンロベル大将
今(この日午後5時時点)では仏軍前線の危機は「南」だけでなく「北」からもやって来ている、とバゼーヌ大将にも分かっています。
将軍は午後3時過ぎ、予備となっていた仏近衛軍団長シャルル・ドニ・ソテ・ブルバキ中将から近衛第1師団を召し上げ、「危険な左翼」である南部戦線へ送り出した後、ブルバキ将軍に命じ軍の総予備として残った近衛第2師団を直率させ、右翼(北部)戦線に向けて送り出しました。
ですが、この時ブルバキ将軍へ与えた命令は「貴官は第6軍団長カンロベル将軍並びに第4軍団長ラドミロー将軍と連絡すべし」という非常にあいまいな命令でした。普軍の将軍ならば、これだけで勇躍猛進し戦場に馳せ参じ、独断で突撃を敢行していたことでしょう。しかし、この命令を受けたのは、あの「コロンベイの戦い」において目前数キロで友軍が死闘を繰り広げていたにも関わらず、「前進命令がなかった」として一歩も動かなかったブルバキ将軍だったのです。
将軍は近衛第2師団と近衛砲兵とを引き連れ、まずはカンロベル大将の第6軍団を援助するために北上を始めます。後を追う様にバゼーヌ将軍は「敵右翼(南西)側に注意し軽率なる参戦を控えよ」と水を差すような訓令を送ったのでした。
ブルバキ
先を急ぎ過ぎましたので、再び17日まで戻ります。
バゼーヌ大将は16日の会戦で消費した弾薬及び糧食を補給し、少しでも戦力を回復するため、メッス要塞の庇護(その分要塞の戦力・備蓄は減るのですが)を当てにしました。この際、将軍が最も気にしていたことは、「独軍の右翼(南側)にある主力部隊がモセル(モーゼルの仏名)川から北上し、マンス渓谷周辺で仏軍を分断、メッス要塞から切り離される」のではないか、という不安だったのです。
この恐れからバゼーヌはまず、自ら選定した「メッス西部防衛線」を「バゼーヌ(ライン)軍」全力で守り抜くことを決し、17日早朝から行動を開始したのでした。
18日早朝。プラップヴィル(分派堡ではなく部落の方)在のバゼーヌ軍本営に、仏第3軍団長にして前ライン軍参謀長ル・ブーフ大将の報告が届きます。ル・ブーフ将軍が告げるには、「我が前線に対面し、敵の大軍が展開し始めていることを察知した」とのことで、バゼーヌは恐れていた独軍の「南部からの総攻撃」が始まる予兆と捉え、午前10時、各軍団に警戒を促し、特に最右翼のカンロベル大将には長文の訓令を発しました。これを要約すると以下のようになります。
「貴官はその陣地帯に出来得る限り強固な防御を施し、左翼に連なる第4軍団右翼部隊との連絡を強化せよ。諸隊は二線を成して緊密な正面戦線を維持し待機せよ。また(敵が背後に回るのを防ぐため)マランジュ=シルヴァンジュ(サン=プリヴァー北東6.5キロ)から貴軍団右翼に通じる街道にも注意し、ここに偵察を派遣することを希望する。ラドミロー将軍にもノロワ=ル=ヴナール(サン=プリヴァー東5キロ)よりアマンヴィエへ通じる街道に偵察隊を派遣することを命じている。敵がもし西方よりサン=プリヴァー方面への包囲展開を謀った場合、貴官は八方手を尽くしサン=プリヴァーを死守せよ。ただし貴軍団右翼が包囲される恐れに至った場合は、必要に応じ後退の機会を得て予め十分に偵察してある後方陣地まで下がることも許可する」
この命令や前後の状況を見ると、果たしてバゼーヌ大将はカンロベル大将が実際に行った前線展開を知っていたのか、と疑いたくもなります。その理由はマランジュやノロワといったサン=プリヴァーの「東側」高地にある街道の部落を気にしているからで、バゼーヌとしては普軍がカンロベルたちの気付かない内に東方へ回り込みはしないか、と心配していた様子が窺えるからです。実際のところカンロベル大将は軍団をバゼーヌの考えたサン=プリヴァー「郊外」より更に北のロンクールまで延伸し、しっかりとした「戦線」を作っていました。
多分、バゼーヌ将軍の考えでは、第6軍団を一極集中させてサン=プリヴァーとその南北郊外、そして後方のジョーモン森高地に置き、独軍のメッスへの北西側からの接近に対しては「機動防御」で防ごうと考えていたと思われるのです。その場合はガラ空きの北方から後方へ回り込まれる危険性と、戦力を集中した場合の利点との損得計算となりますが、バゼーヌは手持ちの軍団でも戦力が劣るこの軍団を集中させることで、局所的な内線作戦を構想したのではないでしょうか。しかし、カンロベル将軍にはその意図が伝わらず、またバゼーヌも「二次的な」北部の戦場を見に行くことなど一切考えなかったのでした。
バゼーヌ大将が独軍の本格的侵攻を知ったのは「ヴェルネヴィルの砲声」から幾分時間の経った午後2時前後だったと推察します。午後3時、戦況が気になり出した将軍は自らサン=カンタン山頂に至り、ここから第2軍団の戦区へ進みました。同じ頃将軍は、プラップヴィル部落の電信局に対し「メッス大聖堂の尖塔にある監視哨との連絡を絶やさぬよう」命じます。これは高塔から眺めるモーゼル上流(南側)河畔の観察報告を気にしていたからだ、と言われています。
仏軍には独軍に関する情報が少なく、その実際の動きに関する偵察も表面的で、情報不足は深刻となっていました。バゼーヌ将軍ら本営の幕僚たちは未だに、独軍予備兵力はモーゼル河畔かその東岸上にあると考えていたのです。
遡ってこの日の正午。シャロンで「シャロン軍」を編成中のマクマオン大将から、プラップヴィル本営のバゼーヌ将軍宛に以下の電文が届きます。
「8月18日午前8時発信。シャロン野営にて。本官の麾下にある諸団隊はシャロン軍と称し明日夕刻までには編成が完了する。(中略)もし、普皇太子の軍(独第三軍)が我が軍に向かって急進すれば、本官はエペルネー(シャロン西北西30キロ)からランス(シャロン北北西40キロ)間に陣地帯を構築してパリを防衛し、貴官の軍と合流するのを耐えて待つか、あるいは状況が不利となればパリに向かって後退することとなろう。マクマオン」
これに対しバゼーヌ将軍は午後2時、以下の返信をマクマオン将軍に宛て発するのです。
「8月18日午後2時発信。プラップヴィルにて。本官の麾下にあるライン軍は、連日の戦闘により弾薬・糧食が欠乏したため、ベルダン方面への行軍を中止した。これによりメッス近郊に留まるを得なくなったところ、敵は本朝、強力な兵力を我が軍西方前面に進め、ブリエの方角へ向かおうとしているようだ。今後敵はカンロベル大将の軍団を攻撃するやもしれない。但し、カンロベル軍団にはサン=プリヴァー死守を命じ、軍団は左翼をラドミロー軍団の右翼とアマンヴィエにて連絡している。そのため我が軍は前面に対峙する敵軍だけでなく、後続する予備軍の進軍方向を見極めるまで、守勢でいようと考えている。この敵予備軍はヴィルヘルムの直接指揮下にあるものと思われ、目下モセル右岸(モーゼル東岸)のパンジュ(メッス東南東14キロ)付近にあるものと思われる。また、ヴィルヘルムの本営はオービニー城(メッス東南東7キロ)にあるとの報告があった。バゼーヌ」
バゼーヌ将軍は、メッス要塞に対峙していたマントイフェル将軍の普第1軍団を幻の「国王直轄予備の大軍」と誤認し恐れていたのでした。仏軍の敵状認識がいかに誤っていたかが分かろうというものです。
「敵の総予備軍が南からモーゼル川を越えて来る」と恐れるバゼーヌ将軍はこの日早朝、プラップヴィルの東方に控える軍の砲兵予備隊から3個中隊を、未完成ながらも戦線南側のバックボーンとなるサン=カンタン分派堡塁へ送り、砲兵のいなかった最右翼モーゼル河畔のラパス旅団へ近衛砲兵から1個中隊を増援として送っています。
また、午後に入ると砲兵が少ない第6軍団にも砲兵予備隊からライット12ポンド重砲2個中隊12門が増援として送られました。
第3軍団のエマール師団はモスクワ農場を中心として普第8軍団と衝突しましたが、バゼーヌ将軍は戦況を確認した午後3時過ぎに、サン=カンタン堡塁周辺に控える「虎の子」近衛軍団より、オーガスティン・アンリ・ブリアンクール准将の旅団(近衛第1師団第1旅団)をシャテル=サン=ジェルマンの北郊外へ、また、イシドロ・テオドール・ガルニエ准将の旅団(近衛第1師団第2旅団)をレシー部落の西(シャテル=サン=ジェルマンの南東)へ送り出します。これは直後に前線で反攻に転じた第3軍団のエマール師団に対する心強い増援となったのでした。
ここからは再び普軍側に目を転じ会戦の後半、午後5時以降の戦闘を見て行きます。
普第7軍団の3個旅団はこの日午前中、グラヴロットとヴォー森へ向けて前進しましたが、残る第26旅団(第15と第55連隊)は軍団長ツァストロウ大将直属となり、メッス要塞への備えとしてモーゼル西河畔アル(=シュル=モセル)部落に残りました。
旅団長の男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将は、自身の旅団に驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊第4中隊と野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊軽砲第5中隊を加えた「ゴルツ支隊」を指揮します。
この内第15「ヴェストファーレン第2/オランダ王国フレデリック親王」連隊第1大隊はヴォー部落と対峙するモーゼル川の目立つ中洲(現・ヴォー島。アルの北東2キロ)付近の河畔まで進み、同第2大隊はアル部落北東近郊の鉄道橋(同じ位置に現存)に、同F大隊はアルの鉄道停車場(同)に、それぞれ進んで守備隊となりました。第55「ヴェストファーレン第6」連隊他残りの部隊は部落の北東に展開し、主に製鉄所(鉄道と街道に挟まれた場所にあります。現存)周辺に野営し、第55連隊第12中隊のみヴォー森と接するブドウ畑(アルの北1.8キロ。ヴォー部落の入り口付近)まで前進したのです。
フォン・デア・ゴルツ第26旅団長
そんな支隊に午後3時から4時の間に前進命令が届きます(前述)。フォン・デア・ゴルツ少将は直ちに第15連隊第1と第2大隊の任を解き、第55連隊第12中隊が守るブドウ畑を通過してヴォー部落へ前進を開始するのでした。更に将軍は部落北で待機していた第55連隊に駆け付け、連隊長のヴィルヘルム・レオポルト・ルドルフ・フォン・バルビー大佐(マルス=ラ=トゥール大騎兵戦の主将アーダルベルト・フォン・バルビー少将の1歳年下の弟です)に対し「F大隊を第15連隊に続行させ、第1大隊と第2大隊(1個4分の3中隊欠)をジュシー部落東郊外に向け前進させよ」と命じたのです。
第15連隊F大隊は予備となり、2個中隊で大切な鉄道橋と停車場を守備し、残り2個中隊は総予備となって部落に留まりました。
ルドルフ・フォン・バルビー
この攻勢に出る5個大隊は午後4時、北方サン=テュベールの家付近で激戦となった同じ頃に攻撃を開始しました。支隊の砲兵、軽砲第5中隊も前進し、アルからムーラン=レ=メッスへ向かう街道(現・国道D6号線)沿いに展開、驃騎兵中隊は部落北東の製鉄所北側で待機となります。
このゴルズ支隊を迎え撃つのは、仏第5軍団に属しながらも緒戦で仏第2軍団に合流し戦い続けるフェルディナン・オーギュスト・ラパス准将の旅団です。
当時ラパス准将は、仏戦列歩兵第84連隊、同第97連隊、そして猟兵第14大隊の1個中隊、近衛軍団からの砲兵1個中隊を率いていました。ほぼゴルズ支隊と互角の兵力と言えるでしょう。准将はロゼリユの南側高地とサント=リュフィーヌ部落との間に強力な散兵線を築き、更に前哨をジュシー、ヴォー両部落の間にあるブドウ畑や林に潜ませ、砲兵をジュシーとサン=リュフィーヌ間に布陣させていました。この他にも仏第2軍団の諸砲兵がロゼリユ北西の高地上に展開しており、サン=カンタン山上の要塞砲兵や砲兵予備隊の重砲も、前進するゴルズ支隊を射程に捉えつつありました。
この辺りは、屈曲しながらロゼリユの南を進みモンヴォー川が作り出すシャテル渓谷に突き当たって再び南へ曲がるベルダン街道を見ても分かる通り、丘と谷とが入り組んだ起伏の激しい複雑な地形となっており、守る仏軍側の前衛は高地の林間やブドウ畑に潜み、歩兵の主力は高地尾根の上にしっかりと築かれた散兵線から普軍の行軍を見下していたのです。
ラパス
普第15連隊の一線部隊は、まずは目標をヴォー部落の教会と定めて前進しましたが、部落南側の谷に達すると向かい側のブドウ畑より猛烈なシャスポー銃の一斉射撃を受けてしまいます。同時にロゼリユ付近の仏軍砲兵やサン=カンタン堡塁からも砲撃を浴びました。しかし、大隊は怯まずに前進し先鋒はヴォー部落に突入、代理大隊長のアルトゥール・ハインリッヒ・フォン・フランケンベルク・ウント・プロシュヴィッツ大尉は、仏軍が部落を守備していないことを確認すると、大隊の主力を率いて仏軍による弾雨の中を更に北上、その先にあった仏軍最前線の散兵線に銃剣突撃を敢行するのでした。
こうして大尉は最前線の仏兵を撃退すると、この散兵線を足場に銃撃戦を行いつつ一歩一歩と前進し、ロゼリユ南西側の高地縁まで進むことに成功するのです。
フランケンベルク
勇敢な大尉の行動と同時に、旅団主力である第55連隊第1、2大隊も目標であるジュシー部落に突進します。しかし、こちらもロゼリユ南西高地から砲撃を受け、西と北からは激しい銃撃を浴び続け出血を強いられる前進となりました。先鋒となった第55連隊第2中隊はジュシー部落へ突入、するとほぼ同時にヴォー部落から本体と別動した第15連隊第1中隊も南東側より部落へと突入するのでした。
第15連隊の第二線となった第2大隊は、奮戦する第1大隊を追ってヴォー部落に突入します。その後、休むことなくジュシーへ向けて進発しますが、前進中その左翼(北西)側より激しく銃撃され、これに対し大隊も猛銃撃でお返しをします。大隊長はここに第5,8の両翼中隊を残して銃撃戦を続行させると、残り第6,7の中央中隊を直率してジュシー部落へ突進するのでした。
第55連隊のF大隊は、ヴォー部落入り口のブドウ畑より第15連隊に引き続いて前進し、第10,11の中央中隊を第一線、第9,12の両翼中隊を第二線としてジュシー部落西側側面を目指すのでした。
一方、フォン・バルビー大佐率いる第55連隊第1、2大隊はアル~ムーラン街道を文字通り「驀進」し、同連隊のF大隊より後方から進発したにも関わらず、F大隊より遙かに前方まで進み出るのでした。
先頭を行く第2中隊と続行する第1中隊はジュシー部落に通じる小街道の入り口まで来ると、ジュシー目指してこの道を急ぎました。続行する第3,4中隊はジュシー部落とサント=リュフィールとの間にあるブドウ畑を目指します。第2大隊はジュシー部落へ続く小街道分岐点で一旦留まりました。
ジュシー部落攻撃はこの第55連隊が戦線に到達した直後に開始されます。
部落自体に守備兵は少なかったものの、周辺のブドウ畑や小林に散兵を多く配置した仏軍は猛烈な銃撃で普軍の部落侵入を阻止しようとしました。特に部落を見下ろすロゼリユ南のベルダン街道筋からの銃撃は凄まじく、攻撃陣を悩ませますが、普軍側は先に到着した第15連隊第1中隊と第55連隊第2中隊が部落入り口に施されたバリケードを乗り越えて部落内へ侵入、次々に死傷者を出しつつも部落を横切り東端まで進みました。
続行する諸隊(第55連隊第1中隊、同F大隊、第15連隊第6,7中隊など)はロゼリユ方面からの猛射撃を浴び、犠牲を出しつつの強襲となりました。結果、普軍はジュシー部落とその周辺のブドウ畑から仏軍散兵を駆逐し、部落は陥落するのでした。
普軍は休む間もなく部落に防御物を構築し始め、部落内とその北東に接する庭園には第55連隊第1,2中隊が、部落西側の小丘には同連隊F大隊がそれぞれ進み出たのです。
このジュシー西高地には普第15連隊長オイゲン・ルートヴィヒ・ハンニバル・フォン・デーリッツ大佐が進出、第2,4,5,8中隊と第3中隊の一部を直率しロゼリユ南面の仏軍散兵線に対し銃撃戦を繰り広げていました。大佐は隙あらばロゼリユまで谷を駆け下りて突撃しようとしましたが、仏軍の銃砲火は衰えることがなく、これ以上進むことは適いませんでした。逆に仏ラパス旅団も幾度か普軍戦線の突破を謀りましたが、これも南と西からの十字砲火で阻止されてしまいます。
この銃撃戦で弾薬が心細くなった「デーリッツ隊」の一部中隊は午後5時半過ぎ、前進して来た第55連隊のF大隊と交代しました。このロゼリユ南面の戦線は午後6時頃、こうして膠着状態となります。
一方、ジュシー攻略戦に参加しなかった第55連隊の諸中隊は、この攻防戦中も前進を続行し、第3中隊はジュシー~サント=リュフィール間のブドウ畑に到着し、この高台に散兵線を築き始めました。続く第4中隊はジュシー東方山麓の果樹園に散兵線を築き、追って第7中隊も加わりました。第8中隊はムーランへ至る街道筋の下水溝を起点にサント=リュフィールへ向かい進撃、部落の南200m前後まで接近して部落の仏軍守備兵と銃撃を交わしました。第5中隊はこの中隊後方まで前進し、予備として控えます。
ゴルツ支隊唯一の砲兵、軽砲第5中隊はジュシー陥落後、ヴォー部落北150m付近のブドウ畑の高台に砲列を敷きますが、ここはロゼリユ南西高地や遠くサン=カンタン山から丸見えであり、予想通り仏軍砲兵が集中して榴弾砲撃を開始しました。しかしクルップ4ポンド砲6門の砲兵たちは猛訓練の賜で、周囲で破裂する砲弾を無視して砲撃を開始、サント=リュフィールとムーラン=レ=メッスを目標に正確な砲撃を繰り返すのでした。
午後6時直前、フォン・デア・ゴルツ少将は全線に渡って攻撃前進を中止させます。
普第7軍団がゴルツ支隊に望むことは「ロゼリユ~ムーランに至る前線より仏軍がアル方面へ突破することを阻止すること」と「第一軍の後方連絡線を維持すること」にあり、「ヴォー森よりジュールの家やロゼリユへ進撃する友軍を援助する」ことである、とゴルツ将軍は信じました。
将軍は、自らが率いるこの程度の兵力では、ロゼリユやサント=リュフィールを攻略し東へ進撃することは適わず、ヴォーやジュシーの部落、そしてサント=リュフィール前面の高台を押さえたことで満足すべきであろう、と考えたのです。更に、今後相当な敵の反撃があったとしても、旅団は耐えることが出来、又、友軍がロゼリユ方面の敵に対し西から突進する時には、その南側面から助攻を行うことが出来る、として一旦矛を収めたのでした。
これは「コロンベイの戦い」を惹起した張本人、見敵必戦を信条とする将軍としては思慮深い一面を見せたものだ、と思います。
こうして普軍が銃砲撃を中止すると、仏軍も又銃火を収めました。戦場はここ最南端でも不気味な一時の休息を挟むのです。




