グラヴロットの戦い/南部戦線の一時停滞
午後4時過ぎ。サン=テュベール周辺に普軍が騎兵と砲兵を送り込もうとしたことにより、仏第3軍団と第2軍団は逆襲に転じました。
燃え盛るジュールの家周辺からは仏バージ師団の前衛たちが挙って攻勢に転じ、それまでとは比較にならない数の歩兵たちが散兵線を出て、マンス渓谷に続く緩斜面の荒野を突進したのです。
既にこれまでの戦闘で多くの犠牲を生じ、隊の形態を成さなくなっていた普第60「ブランデンブルク第7」連隊第1大隊の3個(第1,2,4)中隊はこの攻勢で更に銃撃を加えられ、サン=テュベール南の採石場付近の戦線を維持出来ずに潰走、マンス渓谷東縁の林から渓谷へ降りて行きました。
ジュールの家南西側の採石場にある砂利採取場で仏軍と戦っていた普フュージリア第33「オストプロイセン」連隊の半個連隊(6個中隊)は、第60連隊第1大隊の撤退により左翼後方に仏軍が進出して退路を塞がれてしまいそうになります。危険を察した部隊は逸早く後方マンス渓谷東縁の林縁に、後退した場合の援護射撃陣地を設けるため数個小隊を送ります。しかし、この後も結局普第8軍団の最右翼部隊は度重なる仏軍の突撃を凌ぎ、この砂利採取場から一歩も下がることはなかったのです。
この時の仏軍攻勢は凄まじく、突撃しながら放つ銃撃や再度前進した砲兵による砲撃は猛烈で、普軍の最前線では動ける者は誰も彼もが近くの散兵線に駆けつけ、部隊の違いも関係なく肩を並べて必死に防戦に努めました。
仏兵が放つシャスポー小銃の銃弾は遠くグラヴロット部落周辺にまで達し、第一軍本営で騎乗して観戦する高級将校や副官たちも銃撃を浴び、幕僚や馬匹に死傷するものがありました。第一軍本営に開戦当初から従軍し、この時はグラヴロットの南郊外において第7軍団の砲列を督戦していた砲兵出身で「普海軍の父」、親王ハインリッヒ・ヴィルヘルム・アーダルベルト・フォン・プロイセン海軍大将の乗馬にも銃弾が当たり、愛馬は即死し倒れましたが一緒に転倒した親王は幸いにも無傷だったのです。
この仏軍逆襲は普第30旅団の前線(サン=テュベールの北)にも波及し、モスクワ農場の北から突進した仏エマール師団の攻勢に対し、疲弊し切っていた諸部隊は前線を維持出来ずに後退を始めました。
只でさえ高級指揮官自らの叱咤により辛うじて前線に踏み留まっていた諸兵はすぐに潰走状態へ陥り、部隊の区別も付けられない烏合の衆と化してマンス渓谷からジェミヴォー森内へ雪崩を打って後退したのです。
エマール
このままでは戦線が崩壊し、北部で攻勢に出ようとしている独第二軍の作戦に支障が出るのは確実となってしまいます。切羽詰まった普第一軍は、攻勢のために投入した予備や新参の部隊を防戦に使うこととなるのでした。
ツァストロウ大将の第7軍団で予備となっていた第27旅団はこの危機の際、後にこの旅団長となるペーター・ベルンハルト・グスタフ・フォン・エスケンス大佐率いるフュージリア第39「ニーダーライン」連隊を先頭にアル渓谷へ進みました。
エスケンス連隊長は第1と第2の両大隊を直率し、部隊の先頭で騎乗してアル渓谷へ下って行きます。ベルダン街道で重砲第4中隊が大損害を受けて後退した時に大佐はアル渓谷の北端(この付近から北をマンス渓谷と呼びます)に達しており、這々の体で斜面を下って来る砲兵中隊の収容を同地に布陣していた普第67「マグデブルク第4」連隊第3中隊の小隊に任せ、第60連隊第1大隊が崩壊したため危険な戦線の「穴」となっていた、マンス渓谷西縁の林からサン=テュベール南の採石場までの間に自身の2個大隊を送り出すのでした。
エスケンス大佐は部隊が散兵線に就くのを見届けると、ここから第8中隊と第3中隊を抽出し、サン=テュベール付近のベルダン街道から南側斜面へと下る小道まで前進させてここに新たな散兵線を築かせました。
続いて大佐は第4と第7中隊で第33連隊援護のためにサン=テュベール南の採石場内へ進ませましたが、その上部でがんばっている騎砲兵第3中隊が危機的状況となっているのを見ると、後方に予備として留めていた第3大隊を前線まで呼び寄せるのでした。
この第3大隊の第9,12中隊はマンス渓谷東縁に達すると先行し、第3,8中隊の散兵線まで進んで戦線を延伸し、味方砲兵への狙撃に対抗して銃撃戦を開始するのでした。
当然ながら第39連隊のこの行動は仏軍の逆襲中に行われており、銃砲火はこれら部隊にも等しく襲いかかっていました。特に最前線に進み出た第3,8,9,12の各中隊は犠牲も大きく、前線で指揮していた第1大隊臨時指揮官(連隊はスピシュランでの損害が大きく、未だ回復途上で指揮官が不足していました)ケッペン大尉はこの戦闘で負傷してしまいました。しかしこの俄かな散兵線は集中する攻撃を凌ぎ、この前進拠点を死守したのです。
エスケンス
このエスケンス大佐とその連隊による的確で素早い展開により、サン=テュベールの南側戦線の崩壊は一時食い止められます。
この戦線で戦って疲弊していた普第29旅団の諸兵は、この戦慣れした力強い援軍の周囲に自然と集まって来ました。特に二つに分裂していた第33連隊は、この同じフュージリアの称号を持つ第39連隊の戦線両翼となって左翼(北西)はサン=テュベールの家(第3,4,11中隊)とその街道南の採石場(第9,10,12中隊)に、右翼(南東)はジュールの家南西側の砂利採取場(第2大隊)とその南側ヴォー森に接した採石場(第1,2中隊)に、それぞれ展開し戦線を維持するのでした。
また、部隊としては離散してしまった第60連隊は、第1大隊が第39連隊の戦線後方のマンス渓谷内で集合を始め、F大隊はその北、ベルダン街道南脇の森林内で集合を掛けていたのです。
モスクワ農場周辺からの突撃と銃砲撃を絶えず受け続けたサン=テュベールの家に籠もる諸隊は、それでも農場の壁や様々な遮蔽物のお陰で損害少なく、戦意も未だ旺盛で銃撃を繰り返していました。
しかし、サン=テュベールから敗走した同僚(奇しくも普軍と同じ隊番号の仏第60連隊)の敵討ちとばかりにいきり立つ仏エマール師団の逆襲は、その後方で予備として待機していた普第60連隊第6と第8中隊それぞれ半個中隊(残り半分はサン=テュベールの家とモスクワ農場前面の散兵線で戦っています)を徹底的に粉砕してしまったのです。
同じく、部隊からはぐれサン=テュベールの南側で自然に寄り集まっていた「迷子」の兵士たちも猛射撃を浴びてしまい、遮蔽を求めてサン=テュベールの家やジェミヴォー森に接した採石場へ逃げ込むのでした。そんな中でもハッセ、グニュッゲ両大尉に率いられた2個砲兵中隊は大損害を受けつつも砲撃を止めることはなかったのです。
仏軍逆襲に対抗し、第8軍団から新規に送り込まれたグナイゼナウ将軍の第31旅団も、ベルダン街道とその北側で戦闘を開始していました。
第29「ライン第3」連隊の前衛となっていた第1大隊はベルダン街道上を速歩で進み、サン=テュベールの家西側の採石場横まで到達しましたが、ここには部隊を追い越して進んで来た第7軍団の砲兵隊や槍騎兵第4連隊の騎馬が集中し渋滞しており、これに混入してしまった大隊は進撃速度を落とさざるをえませんでした。
大隊はその先頭となる第1,4の両翼中隊を街道の南側に押し出し、先を急がせました。第1中隊は無事にサン=テュベールに辿り着くと、西側農園守備兵の増援となり、第4中隊は更に先へ進むと、ジュールの家方面に対抗して銃撃を繰り返す東側の散兵線への増援となりました。後方を進んだ第3中隊は、騎兵と砲兵2個(重砲第4と軽砲第4)中隊の後退により開いた街道を突進してサン=テュベールに達し、第2中隊はそのまま街道脇の採石場に入り予備となりました。
続く同連隊F大隊は前方で渋滞が発生するや街道の北側に避け、第9から11中隊の主力を連隊長フォン・ブルームレーダー中佐が直率して、猛訓練で鍛え上げられた兵士でさえ思わず尻込みする銃砲火の中、サン=テュベール北側の森林を抜けるとモスクワ農場方面の敵と対決しました。この遮蔽が少ない林縁の外に散兵線を敷いた中佐は、仏エマール師団の猛攻を凌ぎ、再三に渡って仏軍戦列歩兵の突撃を撃退するのです。
しかし、仏軍もこの時は諦めませんでした。その猛攻により犠牲を増やし続けたF大隊主力は戦闘30分ほどで遂に戦線を維持出来なくなり、北西側へ脱出するとマンス本渓谷と支谷との合流点まで進んで、当時そこに集合していた友軍の集団に合流したのです。
このF大隊の残り(第12中隊など)は連隊長の命により林縁に援護射撃の陣地を築いていましたが、主力が窮地に陥るのを見ると我慢出来なくなったのかモスクワ農場に向け助攻の突撃を敢行しました。しかし続々と繰り出す仏軍歩兵の襲撃でこちらも退却せざるを得なくなり、サン=テュベールの家へ退避すると友軍の散兵線に加わったのでした。
第29連隊第2大隊は連隊後衛として雑然とするベルダン街道をゆっくりと進みましたが、先行するF大隊が街道外に出るとこれに続行します。この内第6と第7中隊は街道北脇をサン=テュベールを越えて突進しました。その先頭を行く第6中隊の2個小隊は中隊長のシュテファン大尉が率いて街道を渡って南側斜面へ降り、燃え盛るジュールの家周辺の仏軍陣地を目指すのでした。
しかしこれは余りにも無謀でした。100名足らずの普兵は十字砲火を浴びつつ突撃しますが耐え切れずに撃退され、それでもシュテファン大尉は挫けず部隊の先頭で部下を鼓舞しつつ反復して突撃を敢行、大尉は壮絶な戦死を遂げ、残兵は四方に散ってしまうのでした。
後方に残った第5中隊は、モスクワ農場を攻撃するF大隊主力に協力して連隊長の指揮下に入り、農場西の仏軍散兵線に対し幾度か突撃を敢行しますが、こちらも逆襲を受けて失敗してしまいます。中隊は残存兵でサン=テュベール北西側に留まって仏軍の襲撃に対抗し、一部はシュテファン大尉戦死後、第6中隊の残存兵と共に街道の南側に布陣しました。大隊残りの第8中隊は壮絶な砲撃を続ける砲兵両中隊の後方でこれを援護するのでした。
壮絶な死闘を始めた第29連隊の北方では、第31旅団の同僚である第69「ライン第7」連隊が広く展開し、既述通りジェミヴォー森を越えてマンス渓谷東縁まで進み出ました。
しかし、この地は第30旅団が苦戦したように、マンス渓谷の斜面と森林の東はモスクワ農場とライプツィヒ農場との間に展開する仏第3軍団の強力な散兵線から狙われており、また、ジェミヴォー森自体も踏破困難な下草で覆われていたため、部隊の行軍列は自然と散逸し広く散乱してしまいます。
このため、集中を欠く銃撃は効果が薄いものとなってしまいました。
この連隊の右翼(南側)は第1大隊が主体となり、大隊長の男爵カール・ヴィルヘルム・フォン・ハデルン少佐は第1中隊を率いると先行し、サン=テュベール北西の採石場からモスクワ農場方面へ突進しますが、これも同じ行動を起こした諸隊と全く同様に激しい銃撃で前進が続かず、損害を出しつつサン=テュベールの家へ飛び込むしかありませんでした。残りの3個中隊も激しい銃撃に晒され、一部は採石場に潜む部隊も様々な残存兵と合同して遮蔽に隠れ、一部は大隊長を追ってサン=テュベールの家へ駆け込んだのです。
第1大隊の北を行く第2大隊は、先行する2個(第7,8)中隊が連隊長命令で左翼側のF大隊に加わり、残った2個(第5,6)中隊は採石場まで進むのでした。
第69連隊左翼のF大隊はその主力3個(第9,11,12)中隊を大隊長のヴィルヘルム・マルシャル・フォン・ズリッキ中佐が直率、例のマンス本渓谷と支谷との分岐付近で戦う諸隊に合流しました。これに遅れて到着した第2大隊の2個(第7,8)中隊は、最初森の中をシャントレンヌ農場方面へ北上しますが、途中で渓谷へ降りて転回し、渓谷東側の森林(ジェミヴォー東森)へ侵入しようと試みました。しかし、ここには仏第3軍団のメトマン師団第2旅団の、普軍と同じ隊番号仏第69連隊が布陣しており、猛烈な反撃を受けた部隊は渓谷分岐まで後退するのでした。
F大隊残りの第10中隊は当初より南下してサン=テュベール北西の採石場北端まで前進し、ここからモスクワ農場に突撃を敢行しますが、これも全く歯が立たず攻撃は挫折して、中隊はジェミヴォー森へと退却するのでした。
F大隊諸隊は激しい銃撃戦の後、ばらばらに散ってしまい連隊の右翼側部隊と混交することとなります。
この第31旅団の諸部隊は、疲弊し切った第30旅団の戦線と混じり合い、これと共同する作戦も計画された攻撃もなく、ただ散漫に全戦線で銃撃戦を繰り返し、思いついたように単独の突撃が方々で行われ、重厚な仏軍散兵線の銃砲火で撃退されるといった事態が続いたのです。
午後5時となると、第69連隊や第29連隊の諸隊も第30旅団(第28と第67連隊)の諸隊と入り混じってしまい、結局新参の部隊もこの戦線を突破することが適わない事態に陥ったのでした。
計画的でない突発的な突撃は多くの士官を倒し、下士官兵に大損害を与えただけに終わります。第29連隊は既に2時間足らずの攻撃で高級指揮官だけでも連隊長フォン・ブルームレーダー中佐が負傷し、ユリウス・アウガスト・アンドレアス・フォン・エラーン少佐、フォン・デューリング少佐が重傷を負って後送される羽目になっていたのでした。
歩兵が死闘を繰り広げる中、普仏双方の砲兵もまた砲撃を続けていました。中でもサン=テュベールへ繰り出した第7軍団砲兵の2個中隊、普野戦砲兵第7連隊の軽砲第3中隊と騎砲兵第3中隊は、負傷者と戦死者が折り重なる凄惨な最前線で戦い続けたのです。
両中隊は犠牲が続出する中、モスクワ農場とジュールの家周辺の仏軍に対しましたが、農園の隔壁に頼って砲列を敷いていた軽砲第3中隊はまだしも、その後方で砲撃を行っていた騎砲兵第3中隊はほとんど遮蔽物の無い場所に砲列を敷いていたため、2時間に渡る戦いにより戦い続けることが可能であった砲手は僅か数名に減り、砲1門を維持するのが精一杯の状態になっていたのです。
しかしこれを指揮するハッセ大尉は負傷しながらも砲列に留まり、その部下も後退することを拒否していたのでした。この戦闘力を失った中隊に対し、軍団砲兵部長のフォン・ツィンマーマン少将は再三後退を促しましたが、ハッセ大尉は「あと少しだけ」と拒み続けました。大尉はツィンマーマン将軍が駆け付け自ら声を荒げて命令した後、ようやく砲列を撤去して撤退を始めるのです。
ほとんどの砲兵が負傷し馬匹が倒れた中、ハッセ大尉の上司である騎砲兵大隊長ケスター少佐は曳き馬を引き連れて現場に急行し、午後5時過ぎ、動かせる砲や重傷者を乗せた弾痕だらけの砲前車から順番に後退させました。
これにより、サン=テュベール付近で戦い続ける砲兵は、グヌッゲ大尉の軽砲第3中隊だけとなるのでした。
このサン=テュベール南方のマンス渓谷東縁における戦いは、一時仏軍の反撃を喰うものの、普第39連隊の加入により戦線は戦力が拮抗し、北方では第31旅団の参戦が本格化した直後の午後5時過ぎに、普仏両軍の戦闘は自然と休止状態となりました。
普軍はその溢れんばかりの闘志で、呆れるほどの犠牲を出しつつもジュールの家やモスクワ農場を目指して突進した後に手詰まりとなって戦闘を休止、わずかの時間ですが戦力の回復を待つことになります。
一方の仏軍は持久戦を行いつつ機会を待ち、普軍が「悪手」の騎兵・砲兵の時期尚早な前進を行ったことにより各所で反撃に転じましたが、所詮これは果敢な現場指揮官が敵の前進に対し反応した行動に過ぎないものでした。結局、この時の逆襲は全軍進撃に至らず、普軍と同じく疲弊していた仏軍は午後5時過ぎに砲火を一旦収めたのでした。
この前後において普第8軍団の左翼側戦線では、ジェミヴォー森からマンス渓谷内で、大隊以下の団隊は隊としての集中が出来ずに兵士たちが混交し、猟兵第8「ライン」大隊の他、軍団所属の6個(第33、60、28、67、29、69)連隊がほぼ中隊毎に散って、サン=テュベール付近(特に西側の採石場)からマンス渓谷北部に点在することとなったのです。
ベルダン街道南方のマンス渓谷南部からジュールの家南西の砂利採取場には、戦い疲れた第7軍団の第29旅団がこちらもバラバラとなって点在し、第27旅団所属第39連隊の前進によりその周辺に集合するのでした。
グラヴロットの南側、オニオン森と部落との間には第27旅団の半分、第74「ハノーファー第1」連隊が前進準備を完了して待機していました。また第25と第28旅団の内、ヴォー森方面には第53「ヴェストファーレン第5」連隊と第13「ヴェストファーレン第1」連隊などが、グラヴロットの南側に展開する第7軍団砲兵の砲列後方には第77「ハノーファー第2」連隊やフュージリア第73「ハノーファー」連隊などが展開していました。
この他、普軍の最右翼でモーゼル川西岸の拠点アル=シュル=モセルを守っていた男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将の第26旅団も、普第7軍団の命令によりヴォー部落へ前進し、ジュシー部落付近に布陣する2日前にルゾンヴィルの南側970高地で奮戦した、フェルディナン・オーギュスト・ラパス准将の旅団と対決することになります(別項で後述します)。
ヴィルヘルム1世国王が親率する普大本営は、この日早朝よりフラヴィニー近郊の丘陵にありました。ここからモルトケ参謀総長の方針に従って昼前に第一、第二両軍へ発した「第二軍左翼は仏軍右翼を攻撃、同右翼と第一軍は第二軍左翼の攻撃まで防御に徹し戦線維持」との命令は、正午に起こった「ヴェルネヴィルの砲声」により曖昧となってしまいます。
状況は混沌とし始めて大本営は情報を集めようと参謀や副官、斥候を各所に送り出しますが、一向に戦場の全体像が見えて来ませんでした。
それでもモルトケたち普参謀本部の俊英たちは限られた情報から「仏軍はメッス要塞西方の地(フラップヴィルなど)に留まっている」と予測し、それが正午過ぎに確実となると同時に、カール王子の第二軍より第9軍団がアマンヴィエを、近衛軍団と第12「ザクセン王国」軍団がサント=マリー=オー=シェンヌを目標に進むことを通告されたのです。
この仏軍右翼(北側)戦線がどこまで延伸しているか、については、結局普大本営は午後も陽が傾く頃、参謀本部第3課長のカール・ヘルマン・ベルンハルト・フォン・ブランデンシュタイン中佐が北部の戦況視察後に行った報告によって漸く知るところとなったのです。
結局のところ大本営も参謀本部も、「あのカール王子が敵の見える前線にて指揮を執っているのだから、きっと状況を掌握して戦っているに違いない」などと楽観視していたに過ぎなかったのでした。
燃えるモガドール農場を臨むグラヴロット近郊で観戦する
ヴィルヘルム1世とビスマルクら大本営幕僚
午後1時過ぎ、北部の第二軍諸軍団の前進と、防戦のみと命令したはずなのにどうも激しくなる一方の第一軍戦線が気になり出した国王と大本営はフラヴィニーの丘を発ち、ルゾンヴィル近郊の高地上まで進出しました。この時本営の高級指揮官たちは、南方より接近する新たな軍勢を視認したのです。エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将率いる普第2軍団の前衛の姿でした。
軍団駐屯地のバルト海沿岸ポンメルンの地から遥々ザール川沿岸まで鉄道輸送され、その後は殆ど休日なしの強行軍でポンタ=ムッソンに達していた第2軍団は、前日深夜より再び行軍を開始し、オンヴィルとシャンブレ=ビュシエールを経てゴルズ北西高地まで進んで来ました。
既述通り「軍団の参戦前にあらかた戦争の行方が定まってしまうのではないか」と危惧していた猛将軍フランセキー大将は、幕僚を引き連れて軍団に先行し、ちょうどルゾンヴィルへ移動しようとしていたヴィルヘルム国王に直接到着を報告するのです。
フランセキーのような敢闘精神旺盛な将軍が大好きな国王は、既に前夜から一睡もせずに軍団を前線へ繰り出した将軍を労い、また頻りと参戦を願い出るフランセキーの望みを適えてあげたくもなっていました。しかし、既に前線では滞りなく作戦が進行している様子であり、国王は将軍に対し麾下軍団をして「ルゾンヴィルまで前進する大本営の下で待機し後命を待つように」命じたのでした。
この後午後4時15分、第一軍本営のシュタインメッツ大将より報告があり、それには「ジュニヴォー森とヴォー森のそれぞれ東方高地上に対する攻防は敵味方が拮抗し勝敗が付かず」とあり、また「この方面の仏軍に対してはその左翼側に対し強力な攻撃を行うことが肝要」と意見して来たのです。
第一軍前線の様子を自ら確かめたくなったヴィルヘルム国王は、大勢の属員を引き連れて午後4時30分過ぎ、第一軍の前線近くまで騎行しました。
「国王来る」の報に駆け付けたシュタインメッツ大将は、「第一軍は砲兵を以て仏軍を粉砕し、サン=テュベールを確保、勝ちに乗じて砲兵と騎兵を前進させているところ」と報告するのです。国王は信頼するシュタインメッツの報告を楽しげに聞きましたが参謀本部の一行は皆顔をしかめていました。
モルトケを始め参謀本部の目には「大本営が実行中の自軍左翼側(第二軍)を使用して行おうとしている決戦が、今や右翼側(第一軍)が勝手に行っている」と映り、不快感とそれ以上に不安が増して行ったのでした。
しかしこの時刻(午後4時30分)ハルトマン将軍の騎兵第1師団はマルメゾンの北まで後退、サン=テュベールから第7軍団の砲兵も一部後退し、新規に参入した第31旅団や第39連隊も苦戦していました。
第一軍本営と大本営は未だその事実を知らず、暫く後に事実を知った高級指揮官たちはただ驚愕するしかなかったのです。
グラヴロットのシュタインメッツ将軍




