グラヴロットの戦い/「後退する仏軍を襲撃せよ」
普第8及び第7軍団砲兵が陣地転換を開始した午後2時頃のこと。
独第一軍本営-司令官フォン・シュタインメッツ歩兵大将以下の参謀・幕僚一同はそれまでのオニオン森北端を出てグラヴロット部落へ向かい、当初は部落南東に、次いで東郊外の第7軍団砲兵列線後方に進み出ました。
シュタインメッツ将軍等軍首脳はここで普軍自慢の砲兵たちの活躍と、マンス渓谷対岸の仏軍陣地帯の様子を至近から観察するのです。
午後2時15分。この軍本営に攻撃前線左翼側を仕切る第8軍団長フォン・ゲーベン歩兵大将からの報告が届きました。そこには修辞無く簡素に「我、戦闘を有利に進行中」とありました。
更に戦線右翼側で指揮を執る第29旅団長フォン・ヴェーデル少将からも報告が届き、少将は個人の意見として「目下の戦況においては、敵仏軍左翼(戦線南側)を包囲攻撃すれば、自ずと渓谷対岸の高地を攻略する事となる」と言って来るのです。
この時、シュタインメッツ将軍以下第一軍首脳陣の「見立て」もヴェーデル将軍の状況判断と全く一致していました。
第一軍本営は、「仏軍の砲火は著しく低下」しており、「既に退却を始めている」ように見え、また、「ジュールの家やモスクワ農場では砲撃による火災が発生し、サン=テュベール陥落に際して仏兵は雑然として隊伍を乱してモスクワ農場後方の高地まで遁走する姿が見られた」ので、「敵の前線は普軍の砲撃と歩兵攻撃で動揺している」と結論付けたのでした。
シュタインメッツ将軍は、本日ここ(午後3時)まで自分が直接指揮出来るフォン・ツァストロウ歩兵大将の第7軍団をして攻撃前進を自重させ、大本営が正式に前進攻撃を命じるまでじっと耐えていましたが、本来自身の部下であるフォン・ゲーベン将軍が半ば自由に戦闘を拡大し、敵の前進拠点であるサン=テュベールの家を落とすのを見ると、その我慢も限度を超えてしまいました。
「このような好機を前に手を拱くのは愚の骨頂。敵が浮き足立つ機会に乗じて速やかにグラヴロット前面の戦局を終了させて見せよう」
シュタインメッツ将軍は、モルトケ以下の取り澄ました参謀本部が発する命令を「国王が発するに等しい」として受け入れてはいたものの、本来は「見敵必戦」の猛将です。その部下も「敵の面前において死骸累々の血塗られた戦場で一夜を明かす」ことを命じた(コロンベイの戦い)鬼将軍ツァストロウ大将でした。
彼らは遂に「敵の正面及び左翼に向かい果敢かつ猛烈な攻勢を行う」ことを決心するのでした。
第一軍本営は、万が一攻勢が途中で頓挫し、第一線部隊が撃退された場合も想定しますが、グラヴロットの南北に延びる強大な砲兵列線が、マンス渓谷の林縁で確実に敗走部隊を収容し敵の追撃を粉砕するために活躍するはず、と確信していました。この自信に裏付けられ、シュタインメッツ将軍は午後3時、以下の命令を後方に待機していた部隊に発するのでした。
◯騎兵第1師団
マルメゾン付近に布陣する師団は、グラヴロットよりベルダン街道上を東進して、サン=テュベール付近の隘路から東側の草原へ進出、メッスに向けて後退運動に入ろうとしている仏軍を攻撃。
◯第26旅団
アル=シュル=モセルで守勢にある旅団は、敵の最左翼部隊に対抗するためヴォー部落に向かい前進。
◯第7軍団砲兵
前進可能な中隊からベルダン街道上を東進し、マンス渓谷を渡って東岸上に砲列を敷き、退却する敵を砲撃。
◯驃騎兵第9及び同第15連隊
グラヴロット付近からベルダン街道へ進み、騎兵第1師団同様、後退する仏軍を追撃。
◯第27旅団
グラヴロット南西方で待機する旅団は、前進する砲兵援護のためオニオン森の林縁まで前進。
これを受け、ツァストロウ第7軍団長は自軍団砲兵部長パウル・フリードリヒ・フォン・ツィンマーマン少将に対し、「予備の3個中隊を含めた軍団の諸砲兵をグラヴロットの東郊外へ集合させ、ベルダン街道の南側で準備した後サン=テュベールの東側まで前進せよ」と命じるのでした。
同じ頃。
グラヴロットの北側郊外で戦況を確認していた第8軍団長フォン・ゲーベン大将もまた、新たな部隊を前線へ送り出そうとしていました。
大将はマンス渓谷北部の戦いが遅々として進まず、勝敗の行方が混沌とし始めていることに苛立ちを覚え始めていたのです。
将軍はそもそも大本営の戦略を良く理解し、モルトケの深謀を推し量って行動していたはずでした。しかし「ヴェルネヴィルの砲声」に釣られて戦闘の口火を切り、(それが勘違いであったと気付いた後でも)最早戦闘を中止することが不可能となったからには、とことん戦い抜くしかなかったのです。
午後3時、ゲーベン大将は遠路戦場に到着したばかりの伯爵フォン・グナイゼナウ少将に対し「第31旅団を率いてマンス渓谷を越え、モスクワ農場に対する第15師団の戦闘を援助せよ」と命じたのです。
同時に大将は、第16師団砲兵隊(砲兵4個中隊)に対し「グラヴロットの北東へ進出し、第8軍団砲兵列南端の重砲第4中隊とベルダン街道の間に砲列を並べよ」と命じました。
グナイゼナウ将軍は直ちにグラヴロット南西郊外に待機していた旅団に帰ると、まずは部隊を第8軍団砲兵列の直ぐ西(グラヴロット~モガドール間)に進ませました。その後命令に従って部隊は東進し、第29「ライン第3」連隊は3個大隊を密集させてベルダン街道上を行軍し、第69「ライン第7」連隊はベルダン街道の北を、大隊毎に大きな間隔を開けて縦列横隊となり、ジェミヴォー森内を東に進みました。
この時、第69連隊の左翼となったF大隊は「第30旅団が苦戦するマンス本渓谷と支谷の合流点に向かえ」との追加命令を受け、モガドールの家の東側から森に入って進みますが、この大隊の右翼側を進む第2大隊の2個中隊も、連隊長オスカー・ヴィルヘルム・アルフォンス・モーティマー・バイアー・フォン・カルガー大佐の命令でF大隊に加わり、残りの2個中隊は南へ進んで、当初の命令通りモスクワ農場方面へ進む第1大隊の後方に続行したのです。
こうしてサン=テュベールの家陥落後の午後3時から4時に掛け、グラヴロット周辺からベルダン街道を経てサン=テュベールに至る2キロ四方に満たない狭い地域には1個軍団に相当する諸部隊が集中することとなりました。
グラヴロット部落内では、既に衛生隊が包帯所を設けていましたが、モガドールの野戦病院が焼け落ちたために急遽野戦病院も開設されました。これも前線より途切れなく負傷兵が運び込まれ、あっという間に満杯となってしまったのです。
また、工兵たちは部落の各所に緊急の防御工事を施し、多くの目立つ家屋に銃撃拠点を設けました。
部落の西郊外から郵便局の西には第8軍団予備となっていた第32旅団の他、弾薬縦列や輜重の先頭、予備の馬匹や多くの馬車、車輌がひしめき合っていました。
同じく北郊外には第8軍団の砲列線がマルメゾンの南東側まで延伸して砲撃中で、その東側ジェミヴォー森西部では第69連隊が広く南北に広がって前進中でした。
グラヴロットの東、ベルダン街道上では第31旅団所属の第29連隊が縦列で急進し、その直ぐ後方には、前進命令に急ぎ反応した第7軍団砲兵の4個中隊が南側から街道に上がり進み始めていました。
砲兵の後方からは第13と第14両師団の騎兵部隊、驃騎兵2個連隊が速歩で進み出ます。それに続くのはマルメゾンから急進し、途中騎砲兵第1中隊を復帰させた騎兵第1師団の大縦列でした。
ベルダン街道の南ではマンス渓谷の西縁にあのスピシュラン『紅山』で戦死したフランソア将軍が率いていた第27旅団(8月6日の夜、第77連隊長カール・ゲオルグ・ハインリッヒ・フォン・コンラーディ大佐が暫定旅団長として就任)が前進し、前衛部隊のフュージリア第39「ニーダーライン」連隊2個大隊は、街道上を行く第29連隊の右翼(南側)で渓谷を下り、東側の斜面を登りジュールの家に面する荒れ地まで到達しようとしていたのです。
こうして独第一軍は指揮官から兵卒まで、前のめりとなって仏軍陣地帯への総攻撃に突き進みました。
「敵に退却の兆候がある」との「可能性」はいつしか「確信」になっていました。それは「スピシュラン」と「コロンベイ」を経験した独第一軍本営が「以前も仏軍は会戦半ばで退却したので今回も」と「信じたかった」から起きたことなのかも知れません。
確たる証拠のないまま「敵が自分たちの考える行動を採るに違いない」と信じてしまうことは、戦争の歴史上良くあることです。
この戦場心理は、犠牲を厭わない勇猛な、悪く言えば猪突猛進な軍隊ほどよく起きる現象にも思えます。やはりというか「歴史上今回」も勇猛なシュタインメッツ将軍始め第一軍本営はこの思い込みの罠に填まってしまうのです。
この時、退却中のはずの仏軍から猛反撃を喰らうなどと言うことは、独第一軍指揮官たちの頭には全くありませんでした。
この項の最初に記したように、砲兵や騎兵はマンス渓谷やジェミヴォー、オニオン両森を素早く越えることが出来ず、そうするにはベルダン街道を使いサン=テュベールの家を越えて進むしかありません。
この貴重な戦力である砲兵や騎兵は安易に敵の銃砲撃に晒すわけにはいかないので、自軍の砲撃が敵を沈黙させた後でなければ危険な「隘路」に進ませるはずはなかったのです。砲兵や騎兵にこの「チョークポイント」へ進ませたシュタインメッツ将軍は、敵の反撃を予測出来ていなかった、と言われても仕方がないでしょう。
逆に、仏軍陣地帯の奥で刻々悪化する戦況を険しい表情で見つめていたフロッサールとル・ブーフ二人の将軍は、敵が自殺的な進撃を始める兆候を見つけ小躍りしたのかも知れません。なんと普軍は、仏軍に出血を強いる砲撃を続けるのを止め、予め狙いを定めて注視していたベルダン街道に兵を進め、更には砲兵や騎兵まで撃ってくださいとばかりに隘路を進んで来るのです。
彼らが率いる二つの軍団は、前進拠点のみ失い前衛に犠牲が出たかも知れませんが、未だ本陣地では僅かな犠牲が出ただけで、しっかりとした遮蔽物の陰には敵の砲撃に耐えていた軍団歩兵の主力が控え、その砲兵も、犠牲が大きくなる前に無理をせず一時後退しただけで、機会あれば直ぐにでも進出し砲撃を再開することが出来たのです。
総軍指揮官のバゼーヌ大将も後退命令は未だ発してはいません。フロッサールやル・ブーフもこの時点では本陣地から後退する気など更々なかったのでした。
さて、普第7軍団長フォン・ツァストロウ大将により前進を命じられた軍団砲兵は、それまで予備としてグラヴロット南西郊外に控えていた3個中隊を先行し、次いでベルダン街道に近いそれまでの砲列線左翼側より順次砲の前車を繋いで行動を開始、その空いた陣地には後続の第14師団砲兵が入りました。
第7軍団砲兵隊(6個中隊)はそのまま馬車道から本街道へ進みますが、既にベルダン街道上には第8軍団の第29連隊が進軍中で、その傍らをすり抜けるように急進出来たのは4個砲兵中隊だけでした。何故なら、歩兵の後方から騎兵の大集団が街道を進んで来たからで、1,500騎に近いその第一陣、二つの驃騎兵連隊の後方からはハルトマン将軍の第1騎兵師団による延々と続く馬列があったのです。
歩兵は道端に避けることが出来、砲車が横をすり抜けることも出来ますが騎馬となるとそうもいきません。混乱の中、サン=テュベールを目指す砲兵は4個中隊だけとなりました。先へ進めなかった諸中隊は、3個中隊がグラヴロットの東に砲列を敷き直し、残り3個中隊は再び部落後方に下がって予備となります。
第13師団砲兵の内3個中隊は未だにオニオン森のマンス渓谷西縁付近で砲撃を続け、グラヴロットの東に展開し砲撃を開始した3個中隊と合わせ、午後3時30分以降はしばらくこの6個中隊がグラヴロットの東側で砲撃を再開するのでした。
◯サン=テュベールを目指しベルダン街道を進んだ砲兵中隊
*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・軽砲第4中隊
*野戦砲兵第7連隊・軽砲第3中隊
*野戦砲兵第7連隊・騎砲兵第3中隊
*野戦砲兵第7連隊・重砲第4中隊
※街道の進撃順(全て軍団砲兵隊)
◯グラヴロットの南に残った砲兵中隊
・グラヴロット南部で砲撃を続けた部隊
*野戦砲兵第7連隊・騎砲兵第2中隊(軍団砲兵隊)
*野戦砲兵第7連隊・重砲第3中隊(軍団砲兵隊)
*野戦砲兵第7連隊・重砲第2中隊(第14師団砲兵隊)
*野戦砲兵第7連隊・重砲第5中隊(第13師団砲兵隊)
*野戦砲兵第7連隊・重砲第6中隊(第13師団砲兵隊)
*野戦砲兵第7連隊・軽砲第6中隊(第13師団砲兵隊)
※北側より南へ
・グラヴロット南西部で予備として待機した部隊
*野戦砲兵第7連隊・重砲第1中隊
*野戦砲兵第7連隊・軽砲第1中隊
*野戦砲兵第7連隊・軽砲第2中隊
※北側より南へ(全て第14師団砲兵隊)
このベルダン街道を進むことが出来た4個砲兵中隊の中隊長たち(標準なら大尉相当)は、展開予定地の地形と戦況を早く知るために、砲列の先頭を駆け抜け争うように先行しました。
しかし、この時のベルダン街道は未だに危険な場所であり、最初に軽砲第4中隊長のトラウトマン大尉が銃弾を受けて重傷を負い、後を追うように重砲第4中隊長のレンメル大尉もまた重傷を負って、間もなく戦死してしまったのでした。
先頭を行く軽砲第4中隊は、重傷を負った隊長を後送した前後で1門の砲を曳く馬匹を銃撃で倒され、残り5門はサン=テュベール西方の採石場南側に開ける開墾地へ進み、ここに布陣していた第60連隊第1大隊の散兵線の延長線上に砲列を敷き、モスクワ農場付近を目標に砲撃を開始するのでした。
これに続いたのは騎砲兵第3中隊で、こちらは全6門全てが無事に軽砲第4中隊の左翼(北)側へ到着し砲列を敷きました。この2個中隊より先に進んだのが軽砲第3中隊で、彼らはサン=テュベールに向かって前進を継続し、農場西側の農園を囲む隔壁後方に展開、猛射撃を続けるモスクワ農場周辺の仏軍陣地に対し多少は掩蔽された陣地を得ることが出来ました。
しかし、この普軍砲兵の前進は仏軍をいたく刺激します。当時の仏軍から見れば、一番恐ろしいのは普軍砲兵であり最大の脅威となるものでした。この普第7軍団砲兵が前進するのを知るや、仏軍は一時前線で抑制していた銃撃を再び増大させ、潜んでいた砲兵を復活・前進させると再び猛砲撃を開始したのでした。
普第7軍団砲兵の重砲第4中隊は、前進した4個中隊中最後尾を進んでいましたが、ちょうど先行した3個中隊が砲列を敷いた後、仏軍が銃砲撃を激化させたため、猛烈な弾雨の中前進を強いられました。この中隊はそれでもベルダン街道の最狭部を越え、街道の南側に開けた斜面へ進みましたが、それ以上進むことは適わず、損害が拡大する前に再び渓谷の斜面下まで退却しました。
同じく最初に展開し砲撃を開始した軽砲第4中隊は、たった1回の一斉砲撃を行った直後、炎上するジュールの家の北側に展開する仏バージ師団の散兵線より猛烈な銃撃を浴び、砲兵は次々に倒され、たちまち3門の砲は沈黙、砲撃可能なのはたった2門の6ポンド砲となってしまったのです。既に中隊長を失い、曳き馬も大半が倒れ、無事だった馬匹も驚き暴れて森へ逃げ込んでしまい、中隊の生き残った砲兵たちは続く激しい銃撃の中、苦心しながら砲を徐々に遮蔽となる渓谷縁の林縁へ運んで行くのでした。後には馬匹の死骸と無惨に破壊された砲の前車、そして主のいない大砲が会戦終了時まで残されていたのです。
この打撃を受け後退した2個中隊に対し、残りの2個中隊にも変わらぬ地獄が訪れていましたが、こちらの砲兵たちは踏み留まり仏軍を大いに妨害しました。
中隊長ハッセ大尉率いる騎砲兵第3中隊は、サン=テュベール西方の採石場南側に開ける開墾地において、右翼(南)側で軽砲第4中隊が崩壊し後退する中、同じく猛銃砲火を浴びてしまいました。しかし、隊長始め砲兵たちは仲間が次々に倒れる中、整然と砲撃を続け、モスクワ農場西側に延びる仏軍散兵線に対する大きな抑止力となりました。しかし犠牲は大きく、砲兵は37名、曳き馬は75頭が銃砲撃に倒され、ハッセ大尉も負傷者の一人となりましたが、大尉も中隊もこの時は陣を引き払うことを拒否するのでした。
中隊長グヌッゲ大尉率いる軽砲第3中隊は、サン=テュベールの家西側の農園障壁に頼り、モスクワ農場と対決しました。
この陣地の位置は、東側モスクワ農場に対しては塀のお陰で多少は銃砲撃を避けることが出来ましたが、南側と西側は全く遮蔽が無く、ベルダン街道がほぼ90度屈曲する東側の地に陣取る仏ミトライユーズ砲中隊と、その南側ジュールの家周辺で抵抗する強力な歩兵から間断無く銃砲火を浴びてしまいました。
それでもこの中隊は普軍中最も敵前に進出した砲兵中隊であり、その6門のクルップ4ポンド砲は後退せずに仏軍散兵線を最短距離より砲撃し続け、炎上し始めるモスクワ農場の消火活動を妨害し、前進しようとした数個中隊の仏軍砲兵を阻止、また農場から再三再四前進を試みた仏軍戦列歩兵に対し、サン=テュベール東の歩兵散兵線と協力して砲撃を浴びせ、幾度も撃退に成功するのでした。
グヌッゲ軽砲中隊の死闘
次に、この奮闘する第7軍団砲兵の後方から前進した騎兵たちの動向を見てみましょう。
午後3時過ぎに第29連隊の行軍列に続いて東進を始めた騎兵部隊は、ベルダン街道の狭隘な部分を小隊ごと長い縦列で進み、第1騎兵師団はヘルマン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・リューデリッツ少将の騎兵第1旅団を先に、間にフォン・プライニッチェル大尉率いる野戦砲兵第1連隊騎砲兵第1中隊を挟み、その後方にアウグスト・カール・ルートヴィヒ・フォン・バウムガルト少将の騎兵第2旅団が続行しました。
その先頭は槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊で、ルドルフ・アガトーン・ヘルマン・フォン・ラデッケ中佐が率いていました。中佐は師団長フォン・ハルトマン中将が軍本営から受けた「急ぎ街道の狭隘部を抜けサン=テュベールの東側で後退する仏軍を襲撃せよ」との命令に従い、まずは自ら将校偵察を行うため部隊に先行しサン=テュベールの家に向かいました。
すると中佐はこの占領されたばかりの農場で、砲兵を前進させて来た第7軍団砲兵隊の隊長(野戦砲兵第7連隊長)ルドルフ・フランツ・ヴィルヘルム・フォン・ヘルデン=サルノウスキー大佐と出会うのです。
ヘルデン=サルノウスキー大佐は軍団砲兵4個中隊を苦難の末この農場付近まで進ませ、つい先頃砲撃を開始させていましたが、その苦戦の有様をフォン・ラデッケ中佐に告げるのです。
ラデッケ中佐は連隊を軽砲第4中隊の右翼(南)側へ展開し、ジュールの家方面に対面して「退却しているはずの仏軍部隊」を探していましたが、仏軍陣地帯からは激しい銃砲撃が浴びせられるだけで、後退する仏軍の姿はどこにもありません。やがて軽砲中隊が砲撃僅かで被害甚大となり後退を始めると、犠牲が増え始めた騎兵中隊の一部も騎馬が暴れ潰走し始めるほどの悲惨な状況に陥ります。
目標もなくただ撃たれ斃れるだけの人馬を見たラデッケ中佐も「最早ここまで」と退却を決意し、槍騎兵第4連隊は二列縦隊となると一列は街道脇をグラヴロット部落まで駆け去り、もう一列はマンス渓谷へ降りると速足でマンス水車場付近まで退避するのでした。
サン=テュベールの普軍騎兵
その後方を前進中の騎兵各隊は、ベルダン街道が渋滞に陥り、その先頭が全く進まなくなると、連隊を解体し中隊毎の縦列となると徐々に前進しますが、遂にマンス渓谷東岸上に達することは出来ませんでした。
フォン・ハルトマン中将はこの状況を見ると「現時点において騎兵の大集団がマンス渓谷東側で活躍する余地はない」と断じて、「無益の損害をこれ以上増やしてはならない」として、後続する胸甲騎兵第2「女王/ポンメルン」連隊や槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊、そして騎砲兵第1中隊に対し後退を命じました。
これらの部隊は士官たちが奔走して狭い街道上を転回し、情け容赦なく降り注ぐ銃砲弾を避けつつグラヴロットからマルメゾンへ退却して行きました。
午後4時30分、普騎兵第1師団はマルメゾン南およそ1キロ強付近に集合し、一時分散した槍騎兵第4連隊も遅れて同所までやって来ました。
騎砲兵第1中隊は再び第8軍団の砲列に加わり、街道上で渋滞に停止し騎兵第1師団に先を譲って状況を見ていた第8軍団騎兵の驃騎兵第9及び同第15連隊も、マンス渓谷越えを断念し、グラヴロット近郊まで退却したのでした。
グラヴロットの普軍 15:45




