グラヴロットの戦い/サン=テュベールの陥落
1870年8月18日午後3時直前、グラヴロット東方1キロ余りベルダン街道北脇の「サン=テュベールの家」南側では、採石場の遮蔽に頼って仏軍の銃撃を防ぎつつ、大損害を受けた普フュージリア第33「オストプロイセン」連隊第3大隊の残存兵が進撃の機会を待っていました。
採石場南西側のオニオン森北東角には同連隊の第3,4中隊がおり、サン=テュベールに対する普第30旅団の攻撃が始まると、この2個中隊は森縁を飛び出して街道に向かって採石場の西側斜面を登り始め、これに員数の減った第3大隊所属の第11中隊も加わってサン=テュベールの家を目指し斜面を登り始めました。この機会を捉えて第3大隊の残部もまた斜面に取り付き、ベルダン街道を目指すのでした。
普第33連隊の右翼(南側)でも、この午後2時から3時に掛けて動きがありました。
この「ジュールの家」に対面する6個(第1,2,5から8)中隊は第1大隊長ヴィルヘルム・フォン・クノーベルスドルフ少佐に率いられていましたが、少佐は彼らの東200m余り先の砂利採取場に仏軍の前哨陣地があることに気付きます。
クノーベルスドルフ少佐は直ちにこの拠点を奪取することに決し、6個中隊がほぼ一斉に前進して北側から回り込み包囲する攻撃を発動します。この突撃の際、第2大隊長フォン・ギザ少佐は重傷を負って後送されてしまいました。しかし攻撃は順調に進捗し、仏軍本陣地からの猛烈な銃砲撃(特にミトライユーズ砲)を浴びながらも荒地の緩斜面に僅かに隆起する地形が仏軍散兵線に対し死角を作っていたお蔭で、普軍は案外少ない犠牲により攻撃目標の砂利採取場下に到達したのです。
この時、砂利採取場の仏軍守備兵は既に後退命令を受けて退却を始めていましたが、この敵を追って普軍兵士は砂利と岩石が堆積する棚田のような場内に入ります。
この砂利採取場はいくつかの石壁に囲まれた区画で出来ており、普軍は低い壁で僅かな遮蔽が確保出来る最初の区画を占領し、更に斜面を登って次の区画に取り付きましたが、この岩石を積み上げて出来た壁を乗り越える際に部隊の先頭にいた隊長のクノーベルスドルフ少佐が負傷してしまい、攻撃はここで阻止されて一旦中止に追い込まれてしまいました。この後しばらくは第33連隊の半個連隊(6個中隊)が普第8軍団最右翼となり、ジュールの家に対抗するのです。
この第33連隊右翼の前進により、ベルダン街道南側から件の砂利採取場までの間が広く開いてしまいます。この穴を埋めたのがグラヴロットを守備していた第60「ブランデンブルク第7」連隊でした。
この連隊は午後2時過ぎ、サン=テュベールの戦闘が始まると軍団本営よりその攻撃第二陣となるよう命令され、一時グラヴロットの南部から街道に向かう馬車道両側の小林後方に集合し、第5中隊は前進して来た第7軍団の砲列脇に残され、連隊は第1大隊を右翼、F大隊を左翼として間に第2大隊残り3個(6,7,8)中隊を挟んだ形で前進準備をしました。
午後2時30分、準備を終えた第60連隊は先発としてF大隊を前進させます。大隊は連隊長のフォン・ダンネンベルク大佐が直率し、ベルダン街道の南でマンス渓谷を越えると渓谷の東側斜面を登ってオニオン森の東端に達しました。大佐は第一線として第11中隊を長い横隊とし前進させ、やや遅れてその右翼に第10中隊、その後方に第9中隊を前進させます。第12中隊は予備支援として一時森の縁に留めました。
しかし、この攻撃前進もジュールの家方面からの銃火によりたちまち犠牲が多発して前進を阻まれ、ダンネンベルク大佐も第15師団長の命令で後続する第1大隊の様子を見るため騎行したところ、狙撃されて重傷を負ってしまったのです。
このように普第15師団がグラヴロットから東へ、ベルダン街道を挟んで前進した頃。
その左翼(北)後方では騎兵第1師団がルゾンヴィルより前進を始めていました。
8月上旬より続く会戦では、後方待機や偵察・監視任務に終始し、幾分欲求不満気味の闘将、フォン・ハルトマン中将は「ヴェルネヴィルの砲声」を聞くや、第9軍団の戦いに投入されることを期待して北上を決意、「北ルート」とヴェルネヴィルへの街道分岐点となるマルメゾンの小部落へ師団を進めたのです。
部落の西に駒を進めた将軍はいつでも攻撃前進が出来るよう部下に準備させると、まずは付属の砲兵(野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊騎砲兵第1)中隊をマルメゾンの南西郊外へ進ませ、第8軍団の砲列左翼に連絡させました。
この第8軍団砲列はこの時までベルダン「北ルート」街道の西側にいましたが、ハルトマン将軍の1個騎砲兵中隊が加わった前後に第30旅団が東進を始めると、軍団砲兵部長は午後2時、砲列を東進させて街道を越え、更に仏軍陣地帯に接近させる命令を下すのでした。
各砲兵中隊は準備の出来た中隊から前進を始め、モガドールの家北東にある標高1,009フィート(約308m)高地の尾根に軍団砲兵の5個(北から軽砲第3,同4,重砲第1,軽砲第2,重砲第2)中隊が展開し、やや尾根を下った右翼側に重砲第3中隊が、更にその右翼側前方に2個(軽砲第1,重砲第4)中隊が進出しました。また、軍団の騎砲兵3個(第1,2,3)中隊はグラヴロットに向かい、部落の西郊外を南下すると部落の南東側、ベルダン街道と南郊外の馬車道との間に砲列を敷き、第7軍団の砲列と連携するのでした。
なお、騎兵第1師団から前進した騎砲兵1個中隊は師団所属の胸甲騎兵第3「オストプロイセン/伯爵ヴランゲル」連隊の1個中隊を護衛に付して更に前進し、1,009高地の東側、ジェミヴォー森西縁に面する緩斜面上に砲列を敷きました。
この砲兵の前進によって普軍の砲撃は更に激しさを増し、仏軍砲兵を悩ませました。この2時過ぎから3時に掛けての砲撃戦は完全に普軍が圧倒し、仏軍砲兵は一部が壊滅したようにも見え、陣地転換を繰り返した後に遮蔽に隠れたまま砲列を敷かなくなった中隊も数多くありました。
これにより普軍砲列の一部は目標を仏軍砲兵から仏軍歩兵陣地へ変更し、特に友軍が苦戦する「サン=テュベールの家」を目標とすることとなります。この砲列の位置は未だ仏軍主陣地帯から3キロ程度離れており、正確な着弾を期するには少々遠方でしたが、地形はこの高台(1,009高地)から東側が斜面となって下り、その先はジェミヴォー森となっていたため、砲列がこれ以上前進しても視界が遮られてしまい、砲撃効果は薄いと判断されました。
グラヴロットの普軍砲兵 午後3時頃
グラヴロットの北部における午後2時過ぎから3時にかけての戦線では、ヴェルネヴィルで戦う普第9軍団と、ジェミヴォー森で戦う普第8軍団との間(マルメゾンの東部からシャントレンヌ農場南側)に大きな「隙間」が生じており、このジェミヴォー森北西辺部分に仏第3軍団の歩兵が容易く侵入していました。
この仏軍歩兵たちは林間より、最も前進し砲列を敷いていた騎兵第1師団の騎砲兵第1中隊を狙って間断のない銃撃を行い、砲兵たちを悩ませました。また、モスクワ農場北の砲列よりミトライユーズ砲の砲撃も受け、目立つ損害も被っています。
銃撃だけでも排除したい砲兵は歩兵の援護を願い、第60連隊が砲兵援護のため後置した第5中隊は、この騎砲兵中隊砲列まで前進し、森の縁にまで侵入した仏軍散兵に対し攻撃を行い、これを撃退するのでした。
その他の砲兵列線護衛任務は、引き続きマルメゾン周辺に展開する第67「マグデブルク第4」連隊第2大隊と驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊が行いました。
驃騎兵第7連隊は砲兵援護の任務を命じられると、マルメゾンのすぐ東側まで前進、ヴェルネヴィル街道の西側に梯形で集合し、ジェミヴォー森の北西端で第9軍団最右翼のブルーメンタール少将支隊と連絡を取りました。この後砲兵列線が東進するとこれに従って進み、砲列左翼(北)の東側、ジェミヴォー森の西縁に沿って再展開するのでした。
また、第67連隊第2大隊は最初に展開したマルメゾン部落南西側から砲列左翼を直接に援護しましたが、ここでも砲兵に対し森林中より仏軍が銃撃を加えたため、午後1時30分、第8中隊が前進して森の縁に展開、1個小隊が仏軍散兵を攻撃して駆逐した後、林間を北上しましたが、森林中の空き地に出たところでシャントレンヌを攻撃中の強力な仏軍歩兵部隊に遭遇し、前進を阻止されてしまいました。
第7中隊がマルメゾン守備に残ると、大隊残りの第5,6中隊は砲兵の前進に従って東進し、午後2時過ぎにジェミヴォー森へ入ります。この内第5中隊は第8中隊の左翼側、ちょうどマルメゾンの東側から森に入りました。第6中隊は第8中隊の1個小隊が阻止された森の空き地まで前進し、ここで激しい銃撃戦を行いつつ北上を強行、遂に森の北縁付近でシャントレンヌのブルーメンタール支隊と連絡し、これ以降、会戦終了まで普第18師団と共にシャントレンヌの南側で戦い続けるのでした。
この第8軍団砲兵と第15師団の戦線後方には、第16師団が軍団予備として控えていました。
この師団は先述通りこの数日間1個旅団ずつ別働していましたが、この日の午後、ようやく同じ戦場で戦うこととなります。
第32旅団は16日の会戦で、ゴルズ北方の970高地において大損害を受けていたので、この日の午前中は予備に指定されていましたが、第15師団がずるずると戦闘を拡大し、全ての部隊がグラヴロットの東側へ進んでしまうと、軍団本営よりグラヴロット西郊外へ前進を命じられました。また、師団残りの第31旅団も、強行軍の果てにアル=シュル=モセルから午後2時、グラヴロット郊外へ到着しました。この旅団が引き連れていた軍団工兵の第2中隊は早速、グラヴロット部落の防御強化を始めたのです。
前述通り第8軍団の左翼側は第9軍団と少々離れて戦い、危険な軍団境界の隙間を作っていましたが、逆に軍団右翼はグラヴロットの南側郊外において同じ第一軍麾下の第7軍団と緊密な連絡を行うことが出来ていました。
午後2時に第7軍団砲兵隊(軽砲3,4、重砲3,4、騎砲兵2,3の6個中隊)はグラヴロット南方の高地まで進出しましたが、この先グラヴロット南郊アル街道沿いには既に第13と第14師団砲兵(この時点で7個中隊)が砲列を敷いて砲撃を始めており、オニオン森とマンス渓谷(この付近南側からはアル渓谷とも)に挟まれた狭い地域では中々砲列を敷くに相応しい場所を見つけることが出来ませんでした。
しかし、午後2時過ぎには仏軍砲兵線は第8軍団砲兵の活躍もあって弱体化し始めており、第7軍団砲兵もグラヴロット部落の南東側へ前進し、師団砲兵の左翼(北)に展開する事が出来ました。この前進はちょうど第8軍団砲兵がマルメゾン~グラヴロットの「北ルート」東側へ陣地転換を行った時とほぼ同時に行われ、この時、グラヴロットの東側に前進して来た第8軍団の騎砲兵3個中隊を介して、両軍団の砲兵はマルメゾンの南西側1,009高地からオニオン森に接したアル渓谷西縁まで2.5キロに渡って砲列を並べることとなったのです。
仏軍の2個軍団砲兵(但し4個の師団砲兵12個中隊中心)はこの普軍22個(後方で待機も含めれば25個)中隊132門の砲により圧倒され、前進陣地まで進んで砲撃を行っていた仏軍砲兵諸中隊は、順次後方へ陣地を移し、次第に沈黙するのでした。
これにより普軍砲兵諸中隊は目標を仏軍拠点のサン=テュベールの家やジュールの家などに変換し、特にジュールの家付近ではその後方(東)に控えていた予備部隊にまで榴弾が降り注ぎ始め、農場の家屋にも火が点いて炎上し、たちまち消火不可能なほどにまで火炎が立ち上ったのです。
これでジュールの家を守備していた仏軍の猟兵たちも順次退却せざるを得なくなったのでした。
この砲兵の活躍中第7軍団の歩兵たちは、大本営訓令を守ろうとするシュタインメッツ将軍とツァストロウ軍団長の意向で、概ね待機の姿勢を続けています。遅れて到着した第77「ハノーファー第2」連隊F大隊も左翼側砲列(グラヴロットの南東)後方に進み待機となりました。
今朝方より仏軍前衛と小競り合いを続けていたヴォー森の普軍歩兵5個大隊も午後2時過ぎまでは現在地を維持するだけで散発的な銃撃戦のみを続けていました。
しかし、第8軍団のフュージリア第33「オストプロイセン」連隊がジュールの家南西の採石場付近へ突撃を敢行し、その砂利採取場に取り付き維持し始めると、この歩兵たちも独断で進軍を開始するのです。
第53「ヴェストファーレン第5」連隊の諸中隊はヴォー森東に走るベルダン街道へ後退し始めた仏軍歩兵を追って森縁から荒れ地へ飛び出し、この仏軍と猛烈な銃撃戦を繰り広げます。ここで両軍とも大きな損害を受け、普軍側は第13「ヴェストファーレン第1」連隊F大隊が応援に駆け付けるのでした。
その右翼側にいた普猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊はアル(=シュル=モセル)周辺を警備する普第26旅団に連絡を付けようと1個小隊を南下させましたが、これは即座にジュシー部落付近から猛射撃を浴びて阻止され、任務を全うすることは出来ませんでした。
ジュールの家が砲撃により炎上した2時45分頃、もう一つの仏軍前進拠点サン=テュベールの家では普軍の総攻撃が始まろうとしていました。
この「サン=テュベールの家」とは、ベルダン街道に接する一軒の二階建て農家とその西側と北側とにある二棟の厩からなる農場で、敷地の西側は高い塀で囲われて農園となっており、建物は全て仏軍工兵により防御工事が施されていました。この農家2階からはモスクワ農場を見通すことが出来、絶好の観測拠点となります。対して街道に面した南側の農場入り口は、防御工事は行われずに開いており、二階家の東側に続く庭園には膝の高さの塀を巡らしているだけで、農場の北東側にも裏口が開いていました。
この午後3時直前には普軍は東を除く三方からサン=テュベールの家に迫りました。
農家の周囲は木々が伐採されていたため、攻撃当初の普軍歩兵はおよそ200メートルに渡り開けた荒野を進むしかなく、数少ない遮蔽物の陰で苦しい銃撃戦を行うしかありませんでした。
しかし、砲兵の活躍により榴弾が数発農家を直撃し、散兵線からの銃撃が衰えると普軍歩兵たちは独断で突撃を開始します。砲火に負けじと撃ち返す農家からの銃撃により、多少の犠牲も出ますが構わずに突撃を続けた普軍は、ほぼ同時に西と南から農家に達しました。
西側からは普第67連隊第1中隊の1個小隊と猟兵第8大隊の右翼(南西側)部隊が第一線として塀に取り付き、その後方の採石場からは第67連隊の第2中隊とF大隊の主力が猟兵に続行しました。また、南側では第67連隊第4中隊の1個小隊を先頭に、同第1中隊の2個小隊が最初に入り口から農家へ突入し、反対の北側では猟兵第8大隊の左翼部隊と第67連隊第1大隊の残りが塀を乗り越えて厩へ突入したのです。
この西側から接近した諸隊は、ここに入り口がなかったためほとんどが南側へ回り込み、南側の攻撃隊に続いて正面入り口から農家に突入するのでした。
この第67連隊と猟兵第8大隊の攻撃と同時に、グラヴロットから前進していた第60連隊と、壊滅的損害を受けてもなお戦意を失わない第33連隊のそれぞれ一部もまた、サン=テュベールへ突入したのです。
普第60連隊はグラヴロットを午後2時過ぎに発した後、第33連隊と第67連隊の「隙間」を埋めるためベルダン街道の南側をサン=テュベール方面に進みましたが、その前衛を務めたF大隊はマンス渓谷東縁で銃砲撃を浴びて損害を受け、街道付近では連隊長が重傷を負うという苦難の前進となりました。
しかし2時45分、サン=テュベール攻撃が始まるとその左翼側第一線の5個中隊は、ベルダン街道の渓谷縁部分からその南側へ展開し、戦線を延伸するのです。
第2大隊長男爵フォン・キットリッツ中佐は第6,8中隊を直率し、左翼で街道上を前進しました。
第1大隊長ミュラー少佐は第2,4中隊を第一線とし、第3中隊をやや遅れて左翼に連ねるとキットリッツ隊の右翼(南側)を前進します。
しかし、ミュラー隊は例のジュールの家西方の開けた荒野に出るや猛烈な十字砲火を浴びてしまったのでした。この時、ジュールの家は炎上しており仏軍砲兵も沈黙し始めていましたが、仏第2軍団歩兵の戦意は全く衰えていなかったのでした。
東進を阻止されたミュラー少佐は、第2中隊を東方に対する防御として後置すると大隊の目標を北側のサン=テュベールに変更、散兵線を90度転回させて農家正面に向けると、一番街道に近かった第3中隊に農場への突撃を命じるのでした。この第3中隊は第67連隊の農家突入部隊の後ろから続いて農家に突入します。
キットリッツ中佐率いる2個中隊もほぼ同時に街道から農家の西側高塀に取り付いて農場内の敵兵を掃射し、1個小隊は更に農家を迂回して北東側に回り、モスクワ農場側に進み出るのでした。
一方、サン=テュベール南西側の採石場で壊滅的打撃を受けた第33連隊第3大隊の内、第11中隊の「有志」たちは独断で第60連隊第1大隊の攻撃に加わり、その南西側にいた同連隊の第3,4中隊もまた攻撃に続行して農家に突入したのでした。
この総攻撃時、既に仏軍守備隊(仏戦列歩兵第60連隊)は大損害を受けており、普軍最後の突撃前に防衛拠点から東側へ脱出する者が続出していました。
午後3時過ぎ、農家の掃討戦は短時間で終わり、サン=テュベールは完全に普軍の手に落ちます。こうして仏軍は約40名の捕虜を出して前進拠点を失ったのでした。
普軍のサン=テュベール攻撃
サン=テュベールを手に入れた普軍は、直ちに第67連隊第1大隊の諸隊が農場全体の守備に当たり、同連隊F大隊は3個中隊でベルダン街道沿いに前進展開しました。
この戦いでは特に士官たちの犠牲が目立ち、第67連隊は僅かにベルダン街道北方にある採石場とサン=テュベールとの間たった200m間でなんと16名の士官が死傷し、第1大隊長のフォン・クチェンバッハ少佐もベルダン街道上で側にいた副官と共に負傷してしまうのでした。
普軍はサン=テュベール農家の整理と防御処置を開始、急ぎ仏軍の逆襲に備えました。
普第8猟兵大隊長フォン・ブロニコウスキー少佐は活発に動き回り、猟兵3個小隊を選んで農場外周の塀や生け垣に散兵線を設けます。すると北東方僅か250m足らずの場所に構えた仏軍散兵線より狙撃され、意気上がる猟兵たちは直ちに反撃して激しい銃撃戦が始まったのでした。猟兵の残りは攻撃前進の準備をし、一部は第67連隊と協力して家屋の守備に当たりました。
第67連隊の3個中隊も猟兵の左右に散兵線を展開して銃撃戦に参加します。逸った第9中隊は、ベルダン街道に飛び出すと街道脇の下水溝に飛び込んで臨時の散兵壕として使用し、農場付近から逃走する仏軍兵士を狙撃するのでした。
第60連隊の諸中隊は西側の塀に囲まれた農園に集合し、再度攻撃の準備を始めます。第8中隊の一部はこの農園に残り、第6中隊の一部は農家西側守備、第3中隊は農家内部守備となります。
ここに第33連隊残余の部隊も到着し、実に17個中隊が一時この余り広いとは言えない農場に集中することとなるのです。
◯午後3時15分頃、サン=テュベールの家周辺に集合した普軍部隊
*猟兵第8「ライン」大隊
*第67「マグデブルク第4」連隊第1大隊
*第67連隊F大隊(第12中隊欠)
*第60「ブランデンブルク第7」連隊第3,6,8中隊
*フュージリア第33「オストプロイセン」連隊第3,4,11中隊
※この直後、第28連隊第1中隊を中心とする集団も到着(後述)。
このサン=テュベールの家を巡る攻防戦の最中も、普第15師団の戦線では激戦が続いていました。
第33連隊の半個連隊(6個中隊)が戦うジュールの家南西側の砂利採取場では、サン=テュベールでの戦闘が激しくなると普兵たちは同調して炎上し始めたジュールの家へ向かい、岩だらけの斜面を登り始めました。しかし、仏軍散兵線からの銃撃は変わらずに激しく容赦がないもので、たちまち進撃は阻止され、この攻撃は犠牲を出しただけで頓挫するのでした。
その左翼(北)側では第60連隊F大隊が大きな損害を受けつつもマンス渓谷東縁の樹木線を守り続け、その北側面では第11中隊が街道に対面し、モスクワ農場側からの仏軍の攻撃を警戒するのでした。
◯午後3時30分前後、ジュールの家西方に展開した普軍部隊
・ジュールの家南西砂利採取場
*第33連隊第1,2,5,6,7,8中隊
・ヴォー森北東端・前記砂利採取場の北西
*第60連隊F大隊
・ヴォー森北縁とサン=テュベールの家の間、マンス渓谷東斜面上
*第60連隊第1,2,4中隊
この反対北側、普第15師団の左翼側では、マンス本渓谷と支谷との「合流点」で第28「ライン第2」連隊第2大隊と第67連隊第12中隊が再三前進を企てていました。攻撃の主力は大隊長ランゲ少佐に直率された第6,8中隊で、第7中隊は助攻隊として攻撃隊の北を鬱蒼と茂る夏草をかき分けて進んでいました。
しかしここでも普兵の攻撃は厚い仏第3軍団の重層散兵線からの十字砲火で阻止され続けました。仏軍は攻撃を撃退すると直ちに逆襲を行いましたが、こちらも普軍の粘り強い防戦により撃退されるという不毛な一進一退を繰り返したのです。
この第2大隊以外の第28連隊諸中隊も樹木線を一歩出れば狙い澄ました銃撃を受けてしまい、マンス渓谷から東側へ抜けることが出来ません。
猟兵第8大隊がサン=テュベールへ総攻撃を掛けることを知った第1大隊長カール・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・コッペロー少佐は、第1中隊と周辺にいた他中隊の一部を引き連れて猟兵の後を追いましたが、前進中に銃弾を受けて負傷してしまいました。しかし少佐は怯まずに指揮を執り続け、遂に友軍が占領したサン=テュベールの家に入るのでした。
これ以外のマンス渓谷で足止めを食った部隊は、それまでの戦闘で多大の損害を受け、多くの指揮官や士官を失って混乱していました。
下草が密生して前進し辛いジェミヴォー森内部では、部隊をはぐれた兵士たちが広く散って森林内をさまよい、一部部隊は西へ向かい後退を始めていました。
前線で指揮を執る第30旅団長フォン・シュトルプベルク少将や第28連隊長のフォン・ローゼンツヴァイク大佐、第67連隊長フォン・ツグリニッキ大佐らは渓谷内を奔走し、弱気となった部下を叱咤激励して部隊整理を行います。こうした高級指揮官の差配によって崩壊寸前となった諸隊は残り少ない士官に率いられ、再び前線へと帰って行くのでした。
旅団長たちの熱烈な「発破」を受けた第28連隊第2大隊のランゲ少佐は、このモスクワ農場北の強力な仏軍陣地は手に余る、と考え、友軍が多大の出血の上で確保したサン=テュベールへ転進し、そこから攻撃前進しようと考えるのです。
少佐は大隊を集合させると、午後3時30分頃に渓谷を下り始め、サン=テュベール西側の開墾地を通過して樹木線から東側に出ました。しかし、大隊はここでもモスクワ農場方面から猛烈な銃撃を受けてしまい、勇敢に部隊を率いて来たランゲ少佐は遂に銃撃を受け、重傷を負ってしまいました。少佐は間もなく息を引き取り、普軍はまた一人優秀な大隊指揮官を失ったのです。
少佐の死により一時求心力を失った第2大隊の将兵は自然と遁走に移り、サン=テュベール北西側の小採石場へと逃げ込んだのでした。
◯午後3時30分前後、サン=テュベールの家北方に展開した普軍部隊
・ジェミヴォー森とマンス渓谷内
*第28「ライン第2」連隊第1大隊
*第28連隊F大隊
*第67連隊第12中隊
・サン=テュベールの家西の小採石場
*第28連隊2大隊
・第7、8軍団砲兵列線の警備
*第67連隊第5,6中隊(ジェミヴォー森内)
*第60連隊第5中隊
・マルメゾン部落
*第67連隊第7中隊
・シャントレンヌの南
*第67連隊第8中隊
こうして普第15師団の攻撃機動は終わります。午後3時30分以降、フォン・ヴェルツィン師団長は現在位置を死守する事に決し、部下に現在地で経戦することを命じるのでした。
しかし、この先の見えない「泥沼」の戦いは、やがて普軍左翼部隊(第9、10、12、近衛)の決戦を間接的に助けることとなるのです。
彼ら北独第一軍(第7、8軍団)が対決したのは、仏バゼーヌ軍でも最良・最強の第2軍団全てと第3軍団のほぼ三分の二で、結果、北部(独軍にとっては左翼)の攻勢に仏軍最良の部隊が転戦出来ないようにしたのでした。
しかし、その損害を受ける速度は、これまでの普仏戦争における損害を遙かに凌駕する速度でした。
その最前線に立った普第15師団は僅か4時間余りの間に士官の半数を失い、兵士たちは己の生存のためにのみ戦い、部隊相互の連携もないまま、敵の持つ優秀なシャスポー銃の半分に満たない有効射程を持つドライゼ銃を握り締め、仏軍の猛射撃にひたすら耐え、その突撃に対し必死で防戦に努める羽目となっていたのでした。
しかし、グラヴロットの戦い「南部戦線」の戦闘はまだ中盤に差し掛かったばかりです。
この先、普軍の指揮官たちは更に恐ろしい「部隊の崩壊」を見ることとなるのです。
プロシアの猟兵と驃騎兵(エミール・ヒュンテン作)




