グラヴロットの戦い/普第15師団、マンス渓谷へ前進す
普第15師団の砲兵4個(野戦砲兵第8「ライン」連隊軽砲第1,2重砲1,2)中隊は、フォン・ゲーベン第8軍団長の命令を受けるとルゾンヴィルからグラヴロット~マルメゾンへ至るベルダン「北ルート」街道へ向かって前進し、街道の西500m付近に布陣しました。その右翼、軽砲第1中隊は午後12時45分に初弾を発射しています。
同じく15師砲兵に続くよう命令された軍団砲兵隊も師団砲兵の両翼に並び、この砲列はマルメゾンの南西からグラヴロットの北西まで1キロに渡り続いたのです。
このライン州の砲兵11個中隊は軍団砲兵部長(砲兵第8旅団長)パウル・フリードリヒ・フォン・カメケ大佐の統一指揮下となり、午後1時過ぎ、すべての砲が砲撃を開始するのでした。
これでグラヴロット南部の第7軍団に属する砲兵7個中隊と合わせ、18個中隊108門の大砲が仏軍陣地の砲撃を始めることとなりました。普第一軍司令官シュタインメッツ大将は、この第一軍砲列全ての指揮を軍砲兵部長フリードリヒ・アウグスト・シュワルツ中将(砲兵第二方面本部長)に任せるのでした。
すると砲声を聞きつけたフラヴィニー近郊の丘にある臨時の大本営より、秀でた額と鋭い眼光が目立つ老齢の将軍が第一軍の砲兵列線まで進み出て来ました。
この砲撃効果を確認に訪れた将軍、グスタフ・エデュアルド・フォン・ヒンダーシン歩兵大将は当時66歳。「大砲王」アルフレート・クルップと共に鋼鉄製後装砲の開発・改良を促進させ、普軍の砲兵力を世界有数にまでに育て上げた大本営砲兵総監です。
ヒンダーシン家は故あってスコットランドからドイツへ渡ったヘンダーソン家の末裔でした。将軍は16歳で普軍に入隊し第2砲兵旅団の下士官として軍歴を始め、才能を認められると26歳で陸軍大学に学びます。34歳で中尉として参謀本部地図課に入り、38歳で大尉、42歳で少佐と順調に昇進しました。
1848年の革命ではバーデン大公国の騒乱を鎮めるための連邦軍参謀長となり功績を認められ、中央に名が知られ始めます。その後中将にまで昇進した将軍は、1864年の第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でカール王子の砲兵部長としてドゥッペル堡塁攻撃に活躍、戦後の65年、プール・ル・メリットを獲得しました。同時に「リッター」(騎士)の称号を与えられ、晴れて貴族となったヒンダーシン将軍は、スコットランドのヘンダーソン家由来の紋章使用も許されるのです。
砲兵査察監となった将軍は、当時は欠陥も多かったクルップ砲のずば抜けた長射程と速射性に注目、将来性を買って軍への納入を促進させましたがその最中に普墺戦争が始まってしまいました。将軍は大本営の砲兵総監として参戦すると戦役中は常にヴィルヘルム国王の側にいました。
この戦争で未だ発展途上のクルップ砲は数も十分行き渡らず、また多くの欠陥を露呈してしまいました。しかし、貴重な実戦を経たクルップ砲はこれで欠陥を正すことが出来、将軍が全軍から旧式砲を撤廃した後、改良された新型砲は大量生産され砲兵隊に行き渡り、将軍は各地を飛び回り砲兵に新型砲の特徴を活かした使用法を伝授して回ったのです。
ヒンダーシン将軍は66年秋に歩兵大将に昇進し、68年には国防委員の一人に抜粋され、軍の重鎮の一人と認められます。そして再び砲兵総監として普仏戦争開戦を迎えたのでした。
ヒンダーシン
ヒンダーシン将軍が見守る中、当初第一軍の砲列は主としてモスクワ農場とジュールの家付近に布陣する仏軍砲列を目標としますが、この時第15師団の砲兵は敵砲兵までの距離が2キロから3キロと長く、しかも途中に森に囲まれたマンス渓谷を挟んでいたため目測を誤り、弾着が全て近弾(手前)となってしまいました。ヒンダーシン将軍はこれを厳しく叱責し、神に等しい「砲兵の父」に雷を落とされた砲兵たちは慌てて照準を修正して、今度は確実に目標を捉え始めるのでした。
なお、この砲撃戦では悲劇も発生し、16日の会戦で負傷した多くの独仏将兵を収容して臨時の野戦病院となっていた「モガドールの家」(北ルート街道沿いグラヴロットから北へ700m。再建し現存)は、大きな赤十字旗を翻して存在を誇示していたものの、普仏両軍の間に挟まれていたために砲撃戦に巻き込まれ、近弾となった仏軍の榴弾によって火災が発生、火の周りが早く、収容されていた独仏負傷兵の多くは逃げ遅れ、焼死してしまったのです。
焼け落ちたモガドール農場
この普第8軍団の砲列は右翼(南)側警備をフュージリア第33「オストプロイセン」連隊が守備するグラヴロット部落に託していました。部落北郊外では第60「ブランデンブルク第7」連隊第2大隊が布陣して砲列中央部を守り、砲列左翼(北)側には第67「マグデブルク第4」連隊第2大隊がマルメゾンの小部落まで進んで警戒し、驃騎兵第7「ライン第1」連隊から3個中隊が同じくマルメゾンへ進みました。
砲兵が前進したのを見た第29旅団長カール・フリードリヒ・フォン・ヴェーデル少将は、これに続いて歩兵もグラヴロットを経て東進すべきだろうと考えます。
同時刻(午後1時過ぎ)にはゲーベン将軍もマンス渓谷までの前進を許可していましたが、この命令はまだヴェーデル将軍の下まで届いていません。
ヴェーデル将軍は独断で配下に前進を命じましたが、この命令もグラヴロットを守備する第33連隊の下まで届きませんでした。
既にグラヴロット東郊外に進出した第33連隊第3大隊の第一線部隊は、目前のジェミヴォー森縁にいる仏軍散兵に対し独断で攻撃を敢行しており、その第9中隊は、間断なく砲弾の落下する危険な部落東縁から出て、森の縁まで突撃すると仏軍散兵と戦ってこれを駆逐し、続いて第12中隊も突撃を始めました。これを見た第10、11中隊も部落を出て東へ向かい始めるのです。
第3大隊の先頭を行く第9中隊は、駆け足で下草生い茂る森の中を猛進し、逃げる敵を追いました。中隊はそのままマンス渓谷に降りて素早く対岸に辿り着き、その先の斜面を駆け登ります。そして開けた草原に突入した途端、猛烈なシャスポー銃の一斉射撃を受けてしまったのです。
第33連隊第9中隊は瞬く間に壊滅的な打撃を受け、残り少ない兵士は渓谷の縁まで後退しました。
この時、第3大隊残りの3個(第10~12)中隊も第9中隊の左翼(北)で渓谷を渡り、対岸の斜面に取り付きます。
しかしこれも第9中隊と同じく一斉射撃を浴び、猛烈な弾雨の中、果敢に部隊を押し進めた大隊長のフォン・ラインハルト少佐は戦死を遂げてしまいました。以下大隊の士官たちは、この短時間の突進でほぼ全員が死傷してしまい、下士官も多くが倒れてしまいます。しかし、僅かに残った軍曹たちに率いられた大隊の兵士たちは一歩も退かず、サン=テュベールの家南西にある採石場の斜面まで進み、以降、極端に数の減った大隊は、この灼熱の岩場で猛烈な仏軍の襲撃を数え切れぬほど防ぎ続けるのでした。
この時、第33連隊長フォン・ヘニング中佐の下に第29旅団長フォン・ヴェーデル少将が発した前進命令が届きます。中佐は連隊残りの2個大隊を率いるとグラヴロットを発し、ベルダン街道南側、オニオン森の中をマンス渓谷まで進みました。
第2大隊は部落の北東隅から南東方面の林へと進み、第1大隊は部落を南北二手に分かれて迂回すると、第2大隊の両翼(左翼に第3,4、右翼に第1,2中隊)に連携し前進するのでした。
この行軍困難な森林にも構わず突入した普軍歩兵の急進により、林の中で逃げ遅れた15名の仏軍歩兵が捕虜となります。彼らは尋問に対し「バージ師団所属の戦列歩兵第55連隊の者だ」と答えるのでした。
この2個大隊の普軍兵士たちは林の遮蔽をうまく使い、敵の抵抗を受けずに渓谷を渡ると反対斜面を一気に登り詰め、午後2時頃、ジュールの家の西に広く開ける荒野の縁に躍り出ました。
しかしマンス(アル)渓谷の東縁にある林を抜けた先は、仏軍の重層陣地帯から予め照準済みで狙い撃ちされる恐ろしい「キリングゾーン」でした。
2個大隊の将兵は猛烈な十字砲火を浴び、全く前進することが出来なくなります。秒単位で次々と兵士が倒れるのを見た連隊長フォン・ヘニング中佐は前進を中止させ、その位置で塹壕を掘らせるのでした。この即席の散兵線は街道から斜面を下る採石場の南側に広がるヴォー森の東縁に沿っており、ここはサン=テュベールの家とジュールの家に対面する最前線となるのでした。その後方グラヴロットでは、出撃した第33連隊に代わって第60連隊が入れ替わりに前進し予備となったのです。
この第29旅団がほぼ独断で歩兵戦闘を始めた頃、同僚の第30旅団もまたグラヴロットの北方でヴェルツェン第15師団長の命令を受け、東進を始めていました。この時旅団は第8軍団砲兵列による砲撃の邪魔をしないため大隊毎に密集しグラヴロットの直ぐ北郊外で縦列となって行軍を開始、その先鋒は第67連隊F大隊でした。
◯グラヴロット通過時の第30旅団行軍序列
*第67「マグデブルク第4」連隊F大隊(第12中隊欠の3個中隊※)
*第67連隊第1大隊
*猟兵第8「ライン」大隊
*第28「ライン第2」連隊F大隊
*第28連隊第2大隊
*第28連隊第1大隊
※この時、第67連隊第2大隊は既にマルメゾンへ派遣されており、また第67連隊第12中隊は行軍左翼警戒のためモガドールの家に進み、その後第28連隊の戦線で戦闘に従事しています(後述)。
第67連隊F大隊はグラヴロットを通過すると銃砲弾が飛び交う部落北東端から第9中隊を先遣させ、中隊はベルダン街道の左(北)側に展開、残り2個(第10,11)中隊もこれに続き、更に後方には同連隊第1大隊の2個(第3,4)中隊が間を空けずに続行したのです。
この新規の普軍縦列が登場するや仏軍砲兵はたちまち砲撃を加速増加し、また、サン=テュベールの家の北に展開する重層の散兵線からは、激しい銃撃が普軍縦列に加えられました。このため、縦列の先頭を行くF大隊は出発当初より大きな損害を被るのでした。
この後方グラヴロットの部落では、先鋒が前進を阻止されたため続行する第30旅団の諸中隊が溢れ始めており、第67連隊第1大隊の後続2個(第1,2)中隊は先行する第3,4中隊が停滞するのを見ると、部落の北へ転進して、北東側のジェミヴォー森に入ると密生する下草を押し分け踏み分け、苦労しながら新たな進撃路を開拓するのでした。そして苦戦するF大隊の左翼側に並ぶと、突撃の吼声を上げて仏軍歩兵の籠もる森の散兵線に突進し、犠牲を出しながらもこれを制圧するのです。
しかし彼らもこの仏軍散兵線の「穴」を拡大することは出来ず、両側と前方東側の敵第二線から途切れない銃撃を浴びる中、普兵は必死で現場に落ちていた丸太や石を拾い集めて積み上げ、臨時の防御遮蔽物とすると、普第67連隊第1,2中隊は友軍が接近するまでこの地点を守り切るのでした。
後続の部隊も順次部落を出て展開し始め、猟兵第8大隊は第67連隊の戦線更に左翼後方に中隊毎横一線隊形となりジェミヴォー森と対峙します。その左翼では第28連隊が前衛に散兵を展開するとその後方で第1大隊を左翼、F大隊を右翼とし、その後方に第2大隊を展開する二線となってジェミヴォー森に面しました。第30旅団の最左翼は第67連隊の第12中隊で、この部隊は炎上する悲劇のモガドール「野戦病院」を横目に第28連隊の第1大隊左翼に並んだのでした。
第30旅団長オットー・ユリウス・ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・シュトルプベルク少将は、以上の戦列を構築するとこれを先頭で直率し、部隊を森に向かって一斉に東進させました。
シュトルプベルク
この脅威に対し仏軍も猛烈に反抗し、銃砲弾は雨霰と隊列に降り注ぎ、部隊の先頭で剣を振り上げ鼓舞していた数名の中隊長が倒され、旅団長を含む高級指揮官たちは乗馬を殺されてしまいますが、普軍は犠牲を厭わずに森へ突進し、全部隊は一気にジェミヴォー森南西端の樹木線を制圧するのでした。
これにより仏軍はジェミヴォー森の西縁から一斉に撤退し、北東方面へ後退して行きました。普軍は森の中へ押し入ると渓谷まで進み、最左翼に進み出た第28連隊の第2大隊は、渓谷西側の急斜面を駆け下りると逃走する仏兵の後姿に銃撃を加えるのでした。
ここでも森の中は通過困難な箇所が多く存在し、部隊は次第に散逸し個々人は苦労しながら森の中を進みます。やがて仏軍が残した通路や踏み分け道を発見し上手に利用した部隊から集合を始め、苦労の末に各中隊は渓谷の西端で集合することが出来たのです。
第30旅団の左翼側はこうしてマンス渓谷まで進むことが出来ましたが、これにより右翼側第67連隊の戦線でも進展が見られました。
ジェミヴォー森南東角の奥に進んで拠点を得た第67連隊第1,2中隊は、次第に敵の銃撃が衰え、やがて全く途絶えてしまうと、ベルダン街道が北を頂点にカーブを描くサン=テュベールの家西側へ進み始めます。
同連隊の残りはその後方で敵が後退するのを確認すると森の中を苦労して前進し、ベルダン街道の北縁に沿って第1,2中隊の後方まで進むのでした。
こうして午後2時15分、第30旅団は全ての部隊がマンス渓谷の西端に到達します。
最右翼は再び4個中隊が合同した第67連隊第1大隊で、ベルダン街道のカーブ頂点付近北側の林縁にあり、同連隊F大隊の3個中隊はその左翼(北)に連携します。その左翼には猟兵第8大隊が一線となって並び、更に第28連隊F、第1の両大隊が続きました。最左翼は第28連隊の第2大隊と第67連隊第12中隊で、マンス渓谷が北東方「ラ=フォリの家」付近から下ってライプツィヒ農場の脇を南西に下る渓谷の支谷と交わる部分(グラヴロット北東1.6キロ、モスクワ農場の西1.3キロ付近)まで進み、ここで東側モスクワ農場付近の仏軍と対峙するのでした。
モスクワ農場からシャスポー銃の有効射程内(1,100m)にまで迫られた仏第3軍団は、このマンス渓谷へ下りた普軍に対し猛烈な銃撃を行い、進撃を留めます。この渓谷の合流点東側斜面中程に仏軍は二重の防御線を設けていましたが、ここから広い谷底の草原に兵を送り込み、激しい銃撃戦となったのでした。しかし、普軍5個の中隊(第28連隊第2大隊と第67連隊第12中隊)はここで一歩も引かずに白兵戦を行い、多くの犠牲を出した後に谷を下って来た仏軍兵を追い払い、斜面を這い上って防御線を占領するのです。
この戦いを観戦していたフォン・シュトルプベルク旅団長は、今後この地点がモスクワ農場とライプツィヒ農場を攻める際に重要な拠点となることを見込んで、2個(28連隊第5と67連隊第12)中隊を防御線部分に残して守備を固め、残り3個(28連隊6,7,8)中隊を第28連隊第2大隊長のランゲ少佐に委ね、更なる前進攻撃の準備をさせるのでした。
この谷の合流点における戦いの最中、その右翼(南)側では第28連隊の2個(第1、F)大隊がマンス渓谷の草原を越え、攻撃を受けることなく対岸東側の斜面を登り、その縁にある林へ到達しました。
モスクワ農場やサン=テュベールの家までは1キロ余り、この先は草原や林道があり、5分も走れば到達します。この分なら一気に仏軍陣地まで突撃出来る、そう考えた第1大隊の左翼側がサン=テュベールの家へ続く林道に出ると、たちまちモスクワ農場方面から猛烈な銃撃を受け、その数は尋常ではなかったので兵士たちは急ぎ林間に引っ込むしかありませんでした。
こうして第28連隊の前進も阻まれてしまい、午後2時45分を以て停滞することとなります。
普第30旅団右(南)翼を構成する第67連隊もこの頃、サン=テュベールの家に対して前線を形成していました。
例のベルダン街道カーブの頂点付近では、第67連隊第1大隊の4個中隊が部隊毎に街道の両側に沿って前進し始め、第1中隊は仏軍からの猛射撃で大損害を受けつつもサン=テュベールの西へ進み、中でも先鋒散兵小隊は農家西側の障壁から僅か180m余りの地点まで接近し、そこにある僅かの遮蔽物を頼りに銃撃戦を展開するのでした。
第2中隊も既に多くの兵員を失っていましたが、街道北方の踏破困難な採石場を迂回すると弾雨の中を駆け足で進み、比較的進み易い石切場の内部へ侵入、ここに散兵線を設けて先ほどの最前線の小隊と並びサン=テュベールの仏兵に対抗しました。
第2中隊の後方では、第3,4両中隊の前衛もまたこの採石場端に達しますが、この周辺はサン=テュベールの家からは丸見えとなっており、ここに留まる部隊は損耗を免れない運命にありました。
第67連隊F大隊の3個(第9,10,11)中隊は、第1大隊の諸中隊左(北)翼に展開し、サン=テュベールに対し有利な位置を取ろうと樹木と夏の下草が密生する斜面を必死で登りました。これに先行していた猟兵第8大隊は更に北方で同じく斜面を登っています。
しかし、この渓谷斜面の縁に到達したF大隊は、またもや仏軍散兵線から激烈な射撃を受けてしまい、大隊長フォン・ヴィッティヒ少佐は重傷を負い後送されてしまいます。F大隊の諸中隊はこの渓谷縁の樹木線に頼って銃撃戦を行い、果敢な少数の一部小隊は第1大隊が戦う採石場の石切場まで進みました。
この間、広く横一線に展開した猟兵第8大隊も、第67連隊諸隊と同じく猛烈な銃撃戦を行いつつ森の間に開けた危険な開削地を進み、この間4名の中隊長以下士官のほとんどが相次いで死傷してしまいますが、遂にサン=テュベールの家至近まで前進を止めず、農家の北西側にある僅かに浅い窪地に辿り着きました。
この過酷な激戦地で生き残っていた猟兵大隊長のフォン・オッペルン=ブロニコウスキー少佐は、遮蔽不十分なこの陣地でモスクワ農場付近からも銃撃を受ける中、指揮官を失って代理の下級士官率いる4個中隊を叱咤激励し、サン=テュベールの家に対して逆に集中し良く照準された統制射撃を行うのでした。
普軍はこうして北西と南西側からサン=テュベールの家に肉薄し、ベルダン街道に関門の如く立ち塞がる小要塞と化した農家の仏兵を次第に圧倒し始めたのです。
1430時の普第15師団




