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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
234/534

グラヴロットの戦い/難攻の南部戦線

グラヴロット戦場図


挿絵(By みてみん)


 独第一軍司令官カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ歩兵大将は、8月18日の会戦当日午前中、グラヴロット部落近郊の高地上において前線視察をしています。

 何かとお騒がわせな将軍は大本営の命令、「第一軍は全軍の基点となり右翼(第二軍)が攻撃を始めるまで待機・持久せよ」を遵守し、カール王子の部隊が仏軍陣地帯を攻撃するのを今か今かと待っていました。


 既に午前11時までには、軍本営が敵前線を望見するグラヴロットの南側に第7軍団の大部分が集合し、また、メッス周辺で監視任務を行っていた騎兵第1師団も師団長フォン・ハルトマン中将の指揮下、今朝方コルニー(=シュル=モセル)付近でモーゼル川を渡河し、正午までにはルゾンヴィル近郊に到着しています。

 本来はシュタインメッツ将軍麾下の第8軍団は、大本営の直接指揮下とされて行動していましたが、午前11時にはグラヴロットのすぐ西側、ルゾンヴィル周辺に展開しており、その前衛(第28「ライン第2」連隊、猟兵第8「ライン」大隊、驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊の2個中隊)はヴィレ=オー=ボアにあって、軍団長のアウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将もまた上司のシュタインメッツ将軍同様、右翼側友軍の動きを注視していました。


 この敢闘精神溢れる緊迫した普軍の前線に「ヴェルネヴィルの砲声」が響き渡ったのです。


 正午頃、突然北方のヴィルネヴィル付近から鳴り響いた砲声は鳴り止まず、それは第一軍将兵からすれば正に「第二軍が戦闘に突入した証」でした。

 これに素早く反応したのは第8軍団長のゲーベン大将で、午後12時15分、第15師団の本隊をグラヴロット部落に向け出撃させました。

 この行動は、まずグラヴロットの部落を完全に占領し、その後、軍団主力がベルダン街道(メッス市街地よりモーゼルを渡りロゼリユ、グラヴロットを経てベルダンへと向かう本街道)の北にある渓谷に入り敵陣地攻撃の機会を待つ、という作戦初動だったのです。


 普第15師団の前衛も同時に東進しましたが、この「ローマ街道址」を越えた普軍の前進に対し、仏軍第3軍団の構える「モスクワ農場」(フェルム・ドゥ・モスコー。グラヴロット北東2.4キロ)から「ライプツィヒ農場」(フェルム・ドゥ・ライプツィヒ。グラヴロット北1.6キロ)に掛けての前線より銃砲弾が降り注ぎ始めるのでした。

 しかし、この時点では仏軍陣地帯と普軍の間にはジェミヴォー森(注・これまで「ジュニヴォー森」と記述していましたが、こちらの名称に変更します)などの遮蔽が多く存在し、また、仏軍砲兵からの距離もあったことで砲撃の効果は薄いものとなりました。普軍歩兵部隊はこの隙にグラヴロット部落北郊外の渓谷内へと降りて行ったのです(後述)。


 グラヴロットの南にいたシュタインメッツ将軍も、ヴェルネヴィル方面から聞こえる砲声に全く収まる気配がなかったため、「カール王子が攻撃を開始した」と信じます。

 将軍は午後12時30分、第7軍団砲兵(野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊)に命じ「敵戦線に対し砲列を敷き砲撃を開始せよ」と命じたのでした。

 これを受けて第7軍団長のハインリッヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将は一番手近にいた第14師団の砲兵隊をグラヴロットとオニオン森(ボア・デ・オニオン)北端までの間に前進させました。


 手際の良いことに前日17日、師団砲兵隊長のフォン・アイナッテン少佐は将校偵察により砲撃陣地の位置を定めており、4個(軽砲第1,2、重砲第1,2)中隊の砲兵は森林の尾根を遮蔽に使い、仏軍陣地から陰となる予定陣地まで進み出ました。

 この時、軽砲の2個中隊はグラヴロット南方150m地点で砲列左翼(北)となり、重砲第2中隊はその南に並んで砲列を延伸、重砲第1中隊はその南側でアル街道(グラヴロット~アル=シュル=モセル間の街道)を越え、更に仏軍陣地帯に近い場所まで前進し砲列を敷きます。

 このアイナッテン砲兵隊は迅速に展開後、砲戦距離約2,000mで砲撃を開始して仏軍砲兵の鼻をあかし、ここに「グラヴロットの戦い」南部戦線の幕が開きました。


 しかし、仏軍は待っていたとばかりに「ジュールの家」(ル=ポワン=ドゥ=ジュール)付近に隠蔽されていた砲兵隊が応射を開始します。しかし、その榴散弾の破裂は設定の手違いからか早過ぎ、ミトライユーズ砲はその極秘とされた長射程を活かして普軍砲列を直撃するものの、集中し過ぎる弾道のため被害は左翼側軽砲中隊に限定されてしまいます。

 逆に仏軍砲列は普軍クルップ砲榴弾の正確な着弾により、砲車や弾薬車が破壊されて苦戦に陥りました。


 それでもシュタインメッツ将軍は、敵砲兵が数の上で味方を上回っているのを確認すると、第13師団砲兵隊にも砲撃に加わるよう命じます。

 師団で前進していた3個(軽砲第6、重砲第5,6)中隊(残りの軽砲第5中隊はアル部落守備の第26旅団に属しました)は午後1時15分、第14師団砲兵の列まで急行し、重砲第5中隊は第14師団砲兵最左翼の軽砲第2中隊の隣に、重砲第6中隊は右翼側重砲第2中隊の隣、軽砲第6中隊はアル街道東の重砲第1中隊の南東に、それぞれ展開しました。

挿絵(By みてみん)

グラヴロットの砲兵1300


 この午後1時30分頃、シュタインメッツ将軍は「ヴェルネヴィルの砲声」後に大本営のモルトケ参謀総長が発した「ヴェルネヴィルの砲声は第二軍による部分戦闘であり、第一軍は未だ本格攻撃をしてはならず、砲兵のみの準備に止めよ」との主旨の命令を受けるのです(既述)。

 この時点においてはシュタインメッツもその主旨の命令を既に発して(第7軍団に対し、後命あるまで守勢でいることを命じています)おり、表面上大本営の戦略はかろうじて守られていました。


 このグラヴロット南側の砲列護衛は第14師団が行っており、前遣されていた第77「ハノーファー第2」連隊第1大隊がヴォー森北方突出部からグラヴロットへ転進し、第27旅団の全てがグラヴロット南西郊外に集合して砲列の後に付きました。

 また砲列右翼南東側の深いアル渓谷対岸には、前衛として派遣されていた第53「ヴェストファーレン第5」連隊第1,2大隊と猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊が依然「ジュールの家」南方の大採石場南にあるヴォー森南縁でがんばっており、第7軍団長フォン・ツァストロウ歩兵大将は、この疲弊し始めた前衛への増援として、第13「ヴェストファーレン第1」連隊第2とフュージリア(F)の2個大隊を指名しヴォー森へと前進させるのでした。

 この時、第13連隊の第1大隊はマンス水車場の北に展開して前衛の北側を固め、フュージリア第73「ハノーファー」連隊の第2大隊はこの水車場を拠点に集合しました。


 砲列の右翼(南)側では第28と第25両旅団の残部4個大隊が待機しました。これは第53連隊F、第77連隊第2、第73連隊第1,3大隊で、この内第73連隊第1大隊は直接に砲列を南側から援護していました。

 第7軍団の両師団に付属する第8「ヴェストファーレン」と第15「ハノーファー」両驃騎兵連隊(計7個中隊。1個中隊はアル守備隊所属)は第27旅団と共にグラヴロット南西に待機しています。

 第7軍団砲兵は「ヴェルネヴィルの砲声」により前進し、午後2時には護衛の第77連隊F大隊と共にグラヴロット南の砲列右翼側に到着し命令を待ちました。


 このようにシュタインメッツとツァストロウ両将軍は、午後2時頃までは大本営の方針に従い、砲撃以外の攻撃的な行動を控えていたのです。


 一方、第一軍に属しながら半分独立した形となった普第8軍団は、第7軍団の北西側まで進んだところで「ヴェルネヴィルの砲声」を聞き、砲撃を開始しています。


 既述通りその第15師団が北進した折、東側のジェミヴォー森より猛烈な銃撃を受け、また前後してヴェルネヴィル方面から砲声が聞こえ始めました。

 これによりゲーベン軍団長も東側の仏軍に対し反撃することを決するのです。


 午後12時45分、ゲーベン大将は、第15師団長ペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴェルツェン中将に対し「師団砲兵により東側の敵に対し砲戦を開始し、北の第9軍団を援助せよ」と命じます。また軍団砲兵隊に対しても、「戦場に急行せよ」と前進を命じるのでした。

挿絵(By みてみん)

 ヴェルツェン

 第15師団はルゾンヴィルからベルダン街道の北にある小渓谷に入り、一時東側の仏軍陣地帯から遮蔽された状態となります。


 師団の2個(第29、30)旅団は並列して右翼(北)側に展開、驃騎兵連隊は左翼(南)側に展開し、砲兵隊はその中央に位置しました。

 ベルダン街道に最も近い場所となったフュージリア第33「オストプロイセン」連隊(第29旅団所属)はグラヴロットへ進み部落守備を命じられ、第3大隊を先遣しました。大隊は両翼(第9,12)中隊を部落東端まで進ませますが、仏軍は既にここに向けて盛んな榴弾砲撃を行っており、両翼中隊も東側ジェミヴォー森南部に侵入している仏軍散兵と銃撃戦を開始しました。

 これを見た連隊長フォン・ヘニング中佐は直ちに第2大隊もグラヴロット東郊外に差し向け、大隊は部落東端で第12中隊の戦線に合流し敵と対決するのでした。

 また、同連隊の第1大隊はグラヴロット西側の郵便局周辺に進み予備となりました。


 こうして第15師団は第29旅団をベルダン街道に沿って東進させ、第30旅団をその北側、ジェミヴォー森に向かい前進させたのです。

 この間、未だ1個(第32)旅団のみの第16師団は予備として後命を待ち、グラヴロットの南西側で第7軍団の第27旅団と並んで待機となりました。


 この独第一軍が突入しようとしているグラヴロット東側の土地は、天然の要害に近い状態にありました。


 北はジェミヴォー森北端「ライプツィヒ農場」付近から、南はアル=シュル=モセルの町に至るこの戦場は、後日ドイツ帝国支配下となった後に強力な要塞地帯となった(※)ことでも分かる通り、メッスを西側から守護する一大防衛地域でした。


 東側モンヴォー川の造るシャテル渓谷と、西側マンス川の造るアル渓谷は、間に小高い丘陵地帯を形成し、この高地帯は両側が荒野となって開け、広く長い弓型となっていました。

 高地東側は急斜面となってシャテル渓谷に下り、西側は緩斜面となってアル(又はマンス)渓谷に下って行きます。

 これはメッスを守備する側(この場合仏軍)にとって、正面は理想的な射界が得られる遮蔽の少ない斜面を持ち、背後には予備部隊を遮蔽する事が出来る渓谷がある、という理想的な防衛陣地でした。


 この時、仏第2軍団は軍団長フロッサール中将の叱咤により短期間で強力な防御工事を行い、また、その北側に展開する仏第3軍団(ル・ブーフ大将)も、高地尾根付近に強力な拠点2つ(「モスクワ」と「ライプツィヒ」2つの農場)と塹壕を備えた散兵線を設けており、ますます強固な陣地帯となっていたのです。


 その南北中央部分に当たる「モスクワ農場」と「ジュールの家」は特に厳重な防御工事が施され、その間と両側には塹壕が延び、普軍にとって非常に厄介な拠点となっていました。

 また、この地点で屈折するベルダン街道の両側に幾本か延びている林道は、両側に高い樹木が並んでおり、これを遮蔽に利用して何重にも散兵線を設けることが可能となっていました。

 付近にある「サン=テュベールの農家」(フェルム・ドゥ・サン=テュベール。ジュールの家北北西600m、グラヴロット東北東1.7キロ付近。現存)は、緩斜面を深く抉って造られたベルダン街道北側の斜面中腹にあり、ここにも仏軍は防御工事を施してまるで要塞の分派堡塁の様相を呈していたのです。

 その南東側に当たるマンス渓谷の斜面には、大きな砂利採取場と採石場が点在し、ここも防衛拠点を造るには理想的で、仏軍は簡単に散兵陣地を設けることが出来ました。


 この周辺の森林内部は、繰り返しとなりますが季節による下草が密生し、行軍と戦闘には向かない場所のため仏軍は主に森の縁に防衛線を敷いていました。進軍には林間を走る街道や林道を使用するしかなく、これも守る側に有利となる点でした。

 しかし、グラヴロットの東側を南北に走るマンス渓谷は、北部をジェミヴォー森、南部をオニオン森やシュヴー森により遮蔽されており、その渓谷はグラヴロット南部において大部隊も隠すことが可能なほど広かったので、攻撃側にとって、ここで集合したり予備を隠したりするのには最適な場所でした。


 ところが、大部隊が急ぎマンス渓谷を抜けて東へ進むには、前述通り森林を横断することが困難なため、ベルダン街道を行くしか手がありません。

 この街道はグラヴロットの東側で凹状の「切通し」となっており、マンスの谷底に進むに連れ、今度は逆に堤防のように高い堤状となっていました。

 街道は谷底から東へ進むに連れて堤状から次第に「切通し」へと変化しつつ緩やかな坂となって「サン=テュベールの家」まで続き、街道を東へ行く人間はこの地で初めて高地の縁に広がる耕作地や荒野を見ることとなります。

 この美しい高原の田園風景は、多くの普軍兵士にとって最期に見る景色となってしまうのです。


挿絵(By みてみん)

サン=テュベール農家付近のベルダン街道(1870年当時)


 この街道沿いにある「サン=テュベールの家」南側や「ジュールの家」西側には採石場や砂利採取場が広がり、岩や砂利に覆われたこの場所も行軍には困難で、また、伏兵を忍ばせるには理想的な場所でした。このため、森林を越え砂利の斜面を登って強固な拠点であるこれら農家に接近するのは要塞を正面から強襲するに等しく、攻める普軍にとってはただベルダン街道を「サン=テュベールの家」まで押し渡る以外、東進する方法がなかったのです。

 このグラヴロット東郊外から「サン=テュベールの家」までの街道は正に軍隊で言うところの「チョークポイント」に当たり、長さはおよそ1キロ強、「サン=テュベールの家」からグラヴロットまではシャスポー銃の射程内となり、前述通り街道は直線の堤状のため、仏兵は街道上を進んで来る普兵に対し、簡単に狙撃することが出来るのでした。


 この天然の要害を守る仏軍は次の通りです。


○仏第3軍団


 エドモンド・ル・ブーフ大将指揮下のこの軍団は、右翼(北)端を「ラ=フォリの家」に置いて北に続く仏第4軍団と連絡し、ここでは軍団第1師団(ジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将)の一部と軍団第2師団(男爵エドモンド・ネラル少将)が、フォン・マンシュタイン大将の独第9軍団と対峙し戦いました。

 戦線の中央と左翼では、軍団第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将)が「ライプツィヒ農場」を、第4師団(エドゥアール・アルフォンス・ アントニー・エマール少将)が「モスクワ農場」をそれぞれ拠点として南北に散兵線を築き、軍団の左翼(南)端は「モスクワ農場」の南側、ベルダン街道がほぼ直角に曲がる部分(以下、街道屈折部)の北にありました。

 前述通り仏第3軍団は、森や荒地を南北に走る小道に沿って散兵線を何本も敷き、その西側には障害物や築堤を施しています。

 エマール将軍が前進拠点とした「サン=テュベールの家」には戦列歩兵1個連隊を置き、その北西側ジェミヴォー森にはモントードン師団から戦列歩兵2個(第90、95)連隊が派出され浸透していました。その一部はマンス渓谷を越えて森の西部に達し、更に北上してシャントレンヌ近郊において、独第9軍団ブルーメンタール支隊と戦うネラル師団諸隊と連絡しています。

 メトマン、エマール両師団の砲兵第11連隊第6,7,9,10中隊(ライット式4ポンド砲x24)、砲兵第11連隊第5,8中隊(ミトライユーズx12)中隊は「モスクワ農場」の両側南北に展開し、このうち軽快なミトライユーズ砲1個中隊(エマール師団第8中隊の6門)はグラヴロットまで直射出来るベルダン街道延長線上(街道屈折部付近)に砲列を敷き、歩兵の小銃と併せ街道を掃射することが可能でした。

 軍団所属の騎兵師団(ドゥ・クレランボー少将。2個旅団)は、「ライプツィヒ」「モスクワ」両農場の前線中央の東方に控えていました。

 この軍団で独第一軍と対決したのは歩兵26個大隊と砲兵6個中隊(他に軍団予備砲兵数個中隊が参加か)、そして騎兵4個連隊となります。


○仏第2軍団

 

 工兵出身のシャルル・オウガスタ・フロッサール中将が指揮を執るこの軍団(2個歩兵師団、1個歩兵旅団のみ。騎兵師団と伯爵ラヴォークペ少将の第3師団はメッス要塞守備のため参加せず)は、既に「ザールブリュッケン」「スピシュラン」「マルス=ラ=トゥール」と3つの戦いで独軍部隊と衝突し、初戦以外負けはしましたが独軍側に手痛い犠牲を与えていました。少ないながらも補充を受けた軍団は仏第3軍団の南に展開し、まずは第1師団(シャルル・ニコラ・バージ少将)が第3軍団左翼と連絡して、街道屈折部からすぐ南側、「ジュールの家」付近までの狭い地域に集中して陣を構えました。

 この農家は元より頑丈な障壁で数軒の家屋が連結されており、師団はその外に土堤を築き強力な拠点となっていました。この建物には精鋭の猟兵第3大隊が差配されます。

 「ジュールの家」周辺には師団第2旅団(シャルル・ジャン・ジョリヴェ准将)の戦列歩兵2個(第76、77)連隊がおり、ベルダン街道両脇の排水用溝に散兵線を構え、その一部は隣接する採石場に展開しています。

 猟兵以外の師団第1旅団(シャルル・レテラー・ヴァラゼ准将)はその2個の戦列歩兵(第32、55)連隊が最初は予備として後方高地にありましたが、戦闘開始と共に増援として街道屈折部付近に前進します。

 軍団予備砲兵隊の増援を受けたバージ師団砲兵は、「ジュールの家」北方に隠蔽された陣地に入り、ここからベルダン街道を至近距離で砲撃し、特にミトライユーズ砲中隊(砲兵第5連隊第6中隊の6門)は普軍に対し多大の犠牲を強いることとなります。

 「マルス=ラ=トゥールの戦い」のヴィオンヴィル攻防戦で重傷を負った師団長、アンリ・ジュール・バタイユ少将に代わり、軍団第2師団はこの日、師団第2旅団長、ジャック・アレクサンドル・ジュール・ファヴァー=バストゥル准将が代理で指揮を執りました。

 この師団は「ジュールの家」南東のヴォー森周辺と「ローマ街道址」(当時この付近では街道屈折部から東南東へ真っ直ぐに伸びていました。現・カイゼリン要塞跡付近)に沿って配されます。その散兵線ではしっかりと塹壕が掘られ、特にヴォー森北東側ではベルダン街道の西にまで前線を拡張し、当初は猟兵第12大隊と追って戦列歩兵第23連隊が守備に就き、普第7軍団前衛と小競り合いの銃撃戦を行っていました。

 この師団砲兵も軍団予備砲兵により増援を受けた後、大部分がロゼリユ部落北西の高地に展開し、ミトライユーズ砲中隊(砲兵第5連隊第9中隊)のみその右翼(西)側ベルダン街道の西傍にありました(しかしこの中隊は緒戦で大損害を受けロゼリユへ退いています)。

 なお、ロゼリユ部落からムーラン(=レ=メッス。メッス西南西5キロ)付近にはフェルディナン・オーギュスト・ラパス准将旅団(猟兵大隊欠。本来は第5軍団。第2軍団隷属)が展開し、仏軍最左翼端としてモーゼル川方面を警戒していました。

 また、予備騎兵第1師団(フォルト少将)はムーランの東側で待機していたのです。

 

 この軍団で独第一軍と対決したのは歩兵26個大隊と砲兵6個中隊(他に軍団予備砲兵数個中隊が参加)となります。また当日のラパス旅団の兵力は歩兵6個大隊、砲兵1個中隊でした。


 こうして仏軍陣地帯南部の2個軍団は、総計五十数個の歩兵大隊と百数十門の諸砲により、独第一軍に対することとなったのです。



※メッス西側の防衛線


 1870年、普仏戦争の直前では、仏軍はモーゼル川東岸に元から存在していた「サン=ジュリアン」と「クール」のメッス要塞分派堡塁を整備し、「レ=ボルドー」(ボルニーの北)と「サン=プリヴァー」(モーゼル西岸の戦場とは違います。現・仏空軍のメス=フレスカティ空軍基地の北東端)の2堡塁を整備中でした。

 モーゼル川西岸地区では当時、「プラップヴィル」と「サン=カンタン」(フォート・ディウ)二つの堡塁がありました。

挿絵(By みてみん)

1870年のプラップヴィル分派堡塁設計図

 これらは普仏戦争の結果ドイツ領となった後に改造・補強され、また付近に次々と分派堡塁が築造されました。

 「グラヴロットの戦い」で多大の犠牲を出したことが忘れられないドイツ帝国軍は、こうしてメッス西部の激戦地に恒久陣地帯を造ることとなります。


 ドイツ軍はサン=プリヴァー部落東北東4キロのレ=グランシャンの森高地頂上に「フェステ(小要塞)・ロートリンゲン」(仏名フォート・ロレーヌ。1905年完成)、ラ=フォリの家の東、ライプツィヒ農場の北に2つの堡塁からなる「フェステ・ライプツィヒ」(仏名フォート・フランソワ・ドゥ・ギーズ。1912年完成)、モスクワ農場の東、ジュールの家北東に「フェステ・カイゼリン(皇后)」(仏名フォート・ジャンヌ・ダルク。1905年完成)、アル=シュル=モセル西2キロの山上に「フェステ・クロンプリンツ(皇太子)」(仏名フォート・ドリアン。1905年完成)をそれぞれ新築するのでした。

 また、「プラップヴィル」堡塁を「フォート・アルヴェンスレーヴェン」として改装(1891年完成)し、「フォート・ディウ」堡塁を「オストフロント」として改装(1892年完成)、そのすぐ西側に「フェステ・プリンツ・フリードリヒ・カール」を新設(1892年完成)しています。

 これらは第一次と第二次世界大戦で攻守を変え(第一次は独、第二次緒戦は仏、終末は独の守備)激戦の場となり、幾年にも渡って補強と改造を繰り返した堡塁は、現在に至ってもなお奇っ怪で不気味な姿を晒し、航空写真でもその遺構を確認することが出来るのです。

挿絵(By みてみん)

メッスのモーゼル河畔から見たサン=カンタン山



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