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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
232/534

グラヴロットの戦い/サント=マリー=オー=シェンヌの攻防

 普近衛第1師団(近1師)長フォン・パーペ少将とザクセン(S)第2(普第24)師団長ネールホッフ少将は、両軍団砲兵のサント=マリー部落に籠もる仏軍への集中砲撃が十分に効果を挙げたと見るや、午後3時直前、サント=マリーへの総攻撃を命令します。


 攻撃に参加する部隊は南部から近衛、北部からSとほぼ同時に攻撃を開始しました。


 近1師の前衛を率いるフォン・エルッケルト大佐は近衛フュージリア(近F)連隊を先頭に攻撃を始め、連隊の第2大隊は全中隊横隊となり部落南端へ向かい、連隊の第3大隊の内第10、11中隊は部落南東角と東側入り口へ、第9、12中隊は第2大隊の左翼に連なり部落の西側へ突進しました。この部落西側へは近衛猟兵大隊と近衛第4連隊F大隊も目標とし、進み出ました。

 これらの攻撃第一線4個大隊の後方からは攻撃第二陣として近衛第4連隊第1、2大隊が追従し、更にアボンヴィルから近F連隊第1大隊も進んで攻撃陣の直ぐ後方へ付くのです。

 

 S(北独第12)軍団第23師団所属、第47旅団長フォン・レーオンハルディ大佐(この後9月に少将昇進)は旅団のほぼ全力(7個大隊)を直率して、近衛師団とほぼ同時に西側のヌ川渓谷から攻撃を開始しました。

 猟兵第12「ザクセン」大隊長の伯爵フォン・ホルツェンドルフ少佐は大隊を小隊毎に散開させて攻撃先鋒となり、その直ぐ後方にフォン・エルターライン大佐の第104連隊と、男爵フォン・テッタウ大佐の第105連隊が続きます。この2個連隊は並列してそれぞれ大隊毎3個の列線で突進し、第一、第二の列線はやや間隔を開いた縦列横隊となり、最後方の大隊は密集隊形となっていつでも前線に加われるよう続行しました。

 また、オブエへ向かう命令が間に合わずにサント=マリー攻撃に加わったフュージリア第108「ザクセン/シュッツェン」連隊の第3大隊は部落北へ攻撃の矛先を向けるのでした。


挿絵(By みてみん)

 第12ザクセン猟兵大隊の突撃


 この攻撃前、既に部落の仏軍歩兵は独軍の30分に及ぶ集中砲火で死傷者が続出し、後退もままならず散兵線には動揺が広がっていました。

 それでも砲撃が収まり、直後に独軍が南、西、そして北からも突撃してくるとシャスポー銃を取って銃撃を再開し、強力な弾雨を近付く独軍に浴びせたのです。

 しかし普軍近衛兵もS王国兵も一切応射せず、運悪く銃弾に当たった死傷者が倒れる中、大隊旗を中心に翻し大声で鬨の声を上げて、全員駆け足で部落へ殺到したのでした。


 このおよそ1万人の突撃は、守る3千人程度の仏軍兵士を正に圧倒します。独軍兵士は大した抵抗も受けず部落を蹂躙し掃討作戦を展開、午後3時30分、サント=マリー部落は独軍により陥落するのでした。

 仏軍は動けない重傷者を含めた300名程度の捕虜を出し、残りは一斉に北東方向へ退却して行きました。

 独側の損害は攻撃規模に比して大きくはありませんでしたが、攻撃先鋒となった近F連隊は集中砲火を受け大きな犠牲を出してしまいました。


 パーペ、ネールホッフ両師団長は続行していた第二線部隊もサント=マリー周辺に集合させ、この重要な拠点には普近衛7個(近F連隊第1,2,3、近4連隊第1,2,F、近猟兵)大隊、S軍団8個(第104連隊第1,2,3、第105連隊第1,2,3、猟兵第12、第108連隊第3)大隊が集中したのです。

 しかし、この小さな部落にほぼ1個師団が集中するのは無理があり、部落内はたちまち渋滞して混乱が発生、両師団長は走り回って大隊の集合と整頓に追われたのでした。

 パーペとネールホッフ両将軍は短い会合の後、部落守備は近衛とS軍団の一部が、ロンクール方面に去った敵の追撃はS軍団が行うことに決め、混乱を沈めたのでした。


 こうしてサント=マリー攻撃後、近1師(近衛第2旅団)は次の配置となりました。

◯近衛猟兵大隊

 サント=マリー部落東側とその近郊

◯近F連隊第2、3大隊

 サント=マリー部落東部分

◯近F連隊第1大隊

 サント=マリー部落南部分

◯近衛第4連隊

 第1大隊を先頭に部落内街道沿いで集合

◯近衛第2連隊

 サント=マリー部落西郊外の庭園周辺


挿絵(By みてみん)

普近衛猟兵大隊のサント=マリー突入(絵葉書)


 サント=マリーの占領が確実となる午後3時45分、パーペ師団長は予備となっていた近衛第1旅団をサント=マリー南西500mほどの場所にある林の西側へ進めるよう命令を下すのでした。

 また、サント=マリー攻撃が開始されると、同士討ちを避けるため砲撃を止めた近衛砲兵は、近衛軍団砲兵部長のクラフト・カール・アウグスト・エドゥアルド・フリードリヒ・ツー・ホーヘンローエ=インゲルフィンゲン少将の命により陣地転換を開始し、軍団砲兵隊と近1師砲兵はサン=アイルの高地に進み、北東のサン=プリヴァーに正対することになったのです。

 ホーヘンローエ=インゲルフィンゲン王子は未だ強力で戦意旺盛な仏軍散兵線の状況を見ると、逸る砲兵中隊長等を諭して無謀に前進することを厳禁するのでした。

 この砲兵前進の時、それまでは近1師砲兵隊の左翼に付け、軍団砲兵右翼と接して砲列を敷いていた重砲第1中隊は、新陣地ではその位置で十分平坦な場所を確保出来ず、それまで最右翼であった軽砲第2中隊の南側(右翼)へ展開し、鉄道堤を挟んでヘッセン砲兵と連絡を取り合うのでした。

 また、サント=マリー攻撃に協力し近接援護砲撃を行っていた近衛軍団砲兵の軽砲第4中隊は部落陥落後、砲列に復帰しましたがその頃には既に従来の位置は砲撃可能な場所ではなくなっていたため、中隊長のヴィルヘルム・フォン・ムーティウス大尉はサン=アイル東郊外に独り砲列を敷き、サント=マリーからサン=プリヴァーへ向かう街道の北方に見え隠れする仏軍散兵線へ砲撃を続行するのです。


 こうして普近衛軍団の砲兵中隊は2人の中隊長を失いつつも奮戦し、サン=プリヴァー方面からサント=マリーへ砲撃を続けていた仏軍砲兵も午後4時過ぎにはほぼ沈黙するに至るのでした。

 しかし、サン=プリヴァー部落の直ぐ南郊外に砲列を敷いていた12ポンド砲中隊だけは依然盛んに応射を続けるのです。


 サント=マリーを喪失した仏第6軍団は、この午後4時頃から再三再四歩兵による突撃を敢行し、その目標は部落と近衛砲兵の砲列でした。

 しかし、その都度サント=マリー部落の東に進出したS軍団第47旅団と、部落を守備する近衛第2旅団、そして両軍団砲兵の直射により大きな損害を被り、仏軍は犠牲が多く甲斐のない戦いを強いられたのです。


 この状況に怒ったカンロベル大将は午後4時30分、更に強力な歩兵部隊と騎兵2、3個中隊を用いて一大逆襲を命じるのでした。

 このおよそ1個旅団に近い突撃もS軍団と普近衛の十字砲火により粉砕され、仏軍は開けた緩斜面に多くの死傷者を残し、引き返しました。

 しかしこの戦いの最前線で指揮を執っていた普近衛前衛支隊長のフォン・エルッケルト大佐は頭部に貫通銃創を負い戦死してしまいます。

 大佐はこのサント=マリー攻防において、一切遮蔽物に頼ることなく常に最前線で指揮を続けており、この時も銃弾飛び交う部落の東口付近で命令を発しているところでした。

挿絵(By みてみん)

 エルッケルト大佐

 仏軍はこの午後5時直前の攻撃を最後に、サント=マリーを諦めました。しかし守る普近衛軍団側も、第二軍と大本営がS軍団との共同作戦に拘っていたため前進する事はせず、この方面での戦いはしばらくの間、砲兵のみが目標を発見する度に短時間砲撃するのみとなります。

 この他の近1師戦闘正面(東)での戦いもほぼ収束し、同時に第9軍団の前線でも戦闘は休止状態となったのでした。


 一方、普近衛兵と共にサント=マリーに突入したS軍団(第47旅団)は、前述通り一部は部落に残り、一部は北東方面へ去った敵を追撃するため準備を始めました。


 午後4時頃のS軍団第47旅団の配置は以下の通りです。

◯猟兵第12大隊

 主力をサント=マリー部落北西端に残すと、薄く広がった散兵群をロンクール方向に延びる小谷に進ませ、ここで銃撃戦を準備。

◯第104「ザクセン第5/プリンツ・フリードリヒ・アウグスト」連隊第1大隊

 猟兵大隊主力の右翼(南)にあり、部落内の道路に待機。

◯第105「ザクセン第6」連隊第1大隊

 第1,2,3中隊は第104連隊第1大隊の左翼(北)にあり、部落の西端で集合して普近衛部隊と連絡。第4中隊は部落を北に迂回するとロンクール方面へ前進。

◯第104連隊第2大隊

 主に部落の西部に集合。

◯第105連隊第2大隊

 部落北東端まで前進即待機。

◯その他(第104連隊第3、第105連隊第3大隊*)

 部落西郊外から北端にかけて予備として待機。


*注 ザクセン軍歩兵連隊「三番目の」大隊はこの時代、普軍と違い「フュージリア」を名乗らず「第3」大隊を名乗ります。


 対する仏第6軍団は既述通りラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ師団とティクシエ師団のペショ旅団とによりロンクール南からサン=プリヴァーの西部に散兵線を敷いていましたが、サント=マリー陥落により脱出した第94連隊や第12連隊を収容するため一部が前進を始めました。

 これを見た第47旅団長フォン・レーオンハルディ大佐はサント=マリーを守るためには郊外へ撃って出た方が良いと考え、独断で部隊の第一線に更なる前進を命じました。


 これにより前述の仏軍による激しい逆襲が始まったのです。


 S猟兵(第12)大隊の散兵たちは第104連隊第7,8中隊と第105連隊第4中隊と共にS軍団の第一線となり、仏戦列歩兵を迎え撃ちます。

 サント=マリー北東の草原地帯は遮蔽が少ないものの起伏があり、その窪地を臨時の散兵壕としたS軍兵士たちは、敵がドライゼの射程内に入り次第猛烈な射撃を浴びせました。

 この右翼後方(南西)には第104連隊第5と第105連隊第2大隊(第5から8中隊)の5個中隊が散兵線を敷き、同じく銃撃戦を開始します。

 更にサント=マリーからは部落攻撃では予備となっていた第104連隊第3、第105連隊第3の両大隊が駆け付け、第104の第3大隊は前線の右翼、第105の第3大隊は前線の左翼を延伸し、敵の迂回を防ぎ、よって部落包囲を防ぎます。

 この戦線左翼には軍団前衛の第108連隊第3大隊から3個中隊が前進し(第11中隊は部落北部に残留)、更に北へ前線を延ばしました。


 このロンクールとサント=マリーの中間点付近で行われた戦闘は大変激しいもので、最初は勢いに乗って敵と正面から衝突したS軍団諸隊も、倍近い敵(ペショ旅団の全力7個大隊)のためにたちまち苦戦に陥りました。陣頭指揮を行っていた旅団長レーオンハルディ大佐も緒戦で負傷してしまうのです。

 暫時兵力を増強し前線を延伸して抵抗するS軍団に対し、仏軍はシャスポー銃の優位を活かして比較的遠距離から射撃を行い、それはS軍団側から見て遮蔽のない緩斜面の高位から撃ち下ろす形だったので、S側に損害がじわじわと増えるばかりでした。


 第104連隊第3大隊は前線最右翼としてサン=プリヴァーに通じる街道の傍らまで前線を延伸していましたが、仏軍の猛攻により次第に散開して個々人の戦いとなり、再三に渡る突撃を部落東端の普近衛部隊と共に防ぎます。しかし、大隊長のツィリヒ少佐は負傷後送され、大隊自体も大損害を受けますが、しっかりと右翼端を守り切ります。

 第105連隊第3大隊は更に激しい戦いに突入し、敵に左翼端を回り込まれて包囲されますが、必死の防戦を行い敵の突破を防ぎました。しかし、ここでも大隊長ギュンター少佐始め多くの士官が負傷後送され、下士官兵も多くが死傷したのです。

 この大隊の危機を救ったのがフュージリア第108連隊第3大隊(1個中隊欠)で、大隊長アルマー少佐は左翼側から迂回して敵を側面から攻撃し包囲を解き、敵を撃退したのでした。しかし陣頭指揮を行っていたアルマー少佐は戦死し、午後4時15分、フォン・ロッソウ大尉が指揮を代わって大隊を北へ進め、前面で抵抗する仏軍散兵を蹴散らすのでした。


 この仏軍逆襲が始まった午後4時直前、北独第24師団長ネールホッフ・フォン・ホルダーベルク少将はサント=マリー部落内におり、その北東方で発生した銃撃戦の真相を確かめるべく、部落の教会の尖塔に登って戦況を観察しました。

 この戦闘は、仏軍の逆襲に対する防戦として始まったものの、部落から離れた配下第一線部隊が強力な敵と正面衝突したため、師団長の前で瞬く間にS軍団長アルベルト王子が望んでいない(王子はサント=マリーでは耐久しロンクールを狙っていました)激烈な戦闘となってしまうのです。


 次第に押され始める様相を見せる配下に、「このままでは無駄に損耗するのみ」と見切った少将は、負傷したレーオンハルディ大佐に代わって指揮を執る第104連隊長フォン・エルターライン大佐に伝令を送り、「直ちに戦闘を中止してサント=マリーへ撤退」するよう命じたのです。

 間の悪いことにちょうどこの頃(午後4時過ぎ)、アルベルト王子よりネールホッフ将軍宛の命令が届き、「第24師団はサント=マリー部落周辺を守備するに留めよ」とのことだったのです。


 しかし、既に第一線部隊は仏軍と乱戦の最中にあり、命令は師団長がやきもきする中で順次小部隊ずつ戦域を離れることで達成されていったのでした。

 結局、ネールホッフ将軍の戦闘中止命令は午後5時に至って仏軍が撤退したことでようやく完了し、前線部隊はサント=マリー北西端の郊外に集合したのでした。

 この時、部落内で待機となっていた第104と105両連隊の第1大隊は部落を出て傷付いた同僚大隊と合流し、部落がこれ以上混雑し混乱するのを避けたのです。


 このサント=マリーの攻防戦により砲撃を中断していたS軍団の諸砲兵中隊は、部落が歩兵により占領されたのを確認した後、ヌ川の渓谷を越えて前進を開始しました。

 この時、S軍団砲兵第4大隊(軽砲第6、重砲第7,8、騎砲兵第2の4個中隊)は予備として渓谷西側に残留し、第3大隊(軽砲第5、重砲第5,6、騎砲兵第2の3個中隊)は軍団砲兵隊長(野戦砲兵第12連隊長)ベルンハルト・オスカー・フォン・フンケ大佐が直率してサント=マリーの北郊外の新陣地へ移動したのです。

 この内、重砲第6中隊は部落北端に接しブリエ街道の傍らに砲列を敷き、残る2個中隊はその前方へ進み出て、軽砲第5中隊はオブエ街道の東400mの地点に、重砲第5中隊は軽砲の左翼側で街道の東600m付近にそれぞれ砲列を敷いたのでした。

 この砲兵移動直後、サント=マリーとロンクール間に前述の激戦が発生し、この「とばっちり」を受けた両砲兵中隊は仏軍から激しい銃撃を浴びてしまいます。

 この戦闘では味方歩兵と敵が接近していたため砲撃が出来ず、S砲兵たちは一方的に銃撃を受けてしまったのでした。S砲兵第3大隊長のホーホ少佐と重砲第5中隊長のハンマー大尉は重傷を負い、多くの砲兵と馬匹が死傷してしまったのです。

 この2個砲兵中隊は銃撃を避けるため急ぎ後退し、重砲第6中隊の砲列の延長線上、やや離れて新たに砲列を敷き直したのでした。


 この激戦中の午後4時過ぎ、サント=マリー南西郊外で砲列を敷いていた第24師団砲兵の2個中隊も移動を始め、軽砲第3中隊は重砲第6中隊の左、重砲第4中隊は右に、それぞれ砲列を敷くのです。

 間もなく同じ師団砲兵の重砲第3中隊も到着し、砲を並べ始めました。

 こうしてサント=マリーの北には6個のS軍団砲兵が砲列を並べることとなり、部落周辺の歩兵たちと共に逆襲を企てた仏軍の攻撃を撃退するのです。

 なお、サント=マリー攻防の初期に砲撃に加わった北独第23師団砲兵3個中隊はこの時、サント=マリーを後にしてオブエにて師団に加わるべくブリエ街道を北西へ進んでいたのでした。


挿絵(By みてみん)

近衛フュージリア連隊のサント=マリー攻撃  painter Carl Röchling


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