グラヴロットの戦い/普近衛軍団とザクセン軍団の共闘
カンロベル大将率いる仏第6軍団は、開戦当時仏軍3個の「大将軍団」(歩兵師団4個と3個旅団編成の騎兵師団1個)の一つとして、書類上では戦闘員4万強を誇る軍団でした。
しかしこの軍団は、最初から総軍予備としての扱いだったため、動員後の集合・行軍は前線へ急ぐ第一線部隊を優先して後回しとされ、動員時の大混乱を引き擦って前線への展開が大幅に遅れてしまうのです。
結局、砲兵の三分の二と騎兵全部、そして工兵全てが実戦に間に合わず、また歩兵も7個大隊がメッスに到着出来ませんでした。
その後、「コロンベイ」と「マルス=ラ=トゥール」2つの戦闘により、このグラヴロット会戦当時は正面戦闘力3万2千程度の軍団として、仏軍戦線の最右翼を占めることとなったのです。
この軍団が展開する戦線最北はロンクールの部落で、ブリエ街道上にある重要な村落サン=プリヴァー=ラ=モンターニュを中心として、南端は仏第4軍団の守るアマンヴィエ部落の北郊外までが軍団の任担範囲でした。
☆8月18日午前における仏第6軍団の配置
○第1(ティクシエ少将)師団(2個旅団編成) ロンクール周辺で北方監視
○第3(ラ・フォン・ド・ヴィリエ少将)師団(2個旅団編成) サン=プリヴァー部落とその西高地
○戦列歩兵第9連隊(第2「ビッソン少将」師団が持つ唯一の戦力) サン=プリヴァー部落
○第4(ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将)師団(2個旅団編成) サン=プリヴァーの南部からアマンヴィエ北郊外まで
正午から普軍の攻勢が始まると、ロンクールで北方を警戒していたティクシエ師団よりペショ准将旅団がロンクール部落とその南郊外へ、ル・ロア・ドゥ・ディ准将旅団がサン=プリヴァーの西高地へと移動し、普軍の攻勢に備えました。
また、サン=プリヴァーの東郊外には4個連隊に増強されたバライユ少将の予備騎兵師団があり、騎兵の存在しない第6軍団に援助を与えるため待機しています。
この軍団に本来所属する砲兵の内、14個中隊は前線まで前進出来ず、シャロンにて結成されたマクマオン大将指揮の「シャロン軍」に吸収されてしまいましたが、この会戦当日にはメッス要塞から大砲38門(6個中隊と1個小隊)を与えられており、2個師団の砲兵隊(36門)と合わせて74門と増強された大砲の内、60門をサン=プリヴァーの北と西に配し、14門を南に配しました(但しミトライユーズ砲はありません)。
なお、南隣の仏第4軍団シッセ師団の砲兵18門(4ポンドx12、ミトライユーズx6)もこの後、ここサン=プリヴァーの戦いで活躍することとなります。
こうして騎・歩・砲併せ兵員4万、92門の砲が比較的しっかりとした陣地帯に展開し、普近衛並びにザクセン軍団と対決するのでした。
さて、普近衛軍団は最初に砲兵を展開して戦端を開きましたが、歩兵で最初に前線まで進んだのはフォン・エルッケルト大佐率いる前衛支隊でした。
この内、近衛フュージリア(以降近F)連隊第1大隊は、近1師団長フォン・パーペ将軍の命令で砲列援護のためにアボンヴィル部落に残り、前衛残りの3個(近F連隊第2、3と近衛猟兵)大隊はそのままサン=アイルへ北上前進を続けました。
前衛支隊に所属する騎兵、近衛驃騎兵連隊は一部を近1師左翼(北)の援護として割くと、残りは南西後方から接近するザクセン軍団との連絡任務に従事した後、バチイイ北東の林に集合しました。
エルッケルト
アボンヴィルの西郊外から北へ続くヌ川の渓谷を進むエルッケルト大佐の前衛は、サン=アイルの西で仏軍歩兵が駆け足で部落へ向かって来るのを発見します。
ここで近F連隊第3大隊が行軍列より飛び出し、一斉に渓谷の斜面を登ると部落に殺到しました。
この「競争」はわずかに近F連隊が勝ち、部落に入るなり銃撃戦を開始した近F兵は突進する仏軍歩兵を食い止め、しばらく銃撃戦が続いた後、仏軍はあきらめてサント=マリーへ引き返したのでした。
これにより、普軍側にも仏軍部隊がサント=マリーに拠点を持っていることがはっきりするのです。
サン=アイルが前衛に確保されると、普近衛の砲列も左翼側を敵に突かれる心配がなくなりました。
しかし仏兵の前進は食い止めても、仏軍の散兵線は普軍砲列や前衛から完全に2キロ以内に横たわり、シャスポーの銃弾は途切れなく飛来して人馬を傷付け倒し続けたのでした。
普軍砲兵は敵の砲兵に対抗する以前に恐ろしいシャスポー銃と対抗するため、敵の散兵線を狙って砲撃するしかなく、この「大砲が小銃と対決する」ことで、恐ろしいクルップ砲の脅威から多少は逃れることが出来た仏軍砲兵は、敵に煩わされることなく普軍砲列を砲撃するのです。
とは言え仏軍砲兵もサン=プリヴァー西高地から西進すれば、たちまち正確な砲撃を受けてしまい、一部例外を除き大きく前進することは適いませんでした。
こうして普軍砲兵も必死で敵を食い止めますが最初に砲列を敷いた位置が悪く、そこは高地上の仏軍陣地より低い場所であり、また硝煙も地上を這うように漂い視界は晴れず、そのため照準が定まりませんでした。
しかし、仏軍の銃砲火の下では中々陣地転換も出来ず、普近衛の砲兵たちは弾薬の欠乏だけは避けようと、砲列直後の窪地に弾薬車を集めて砲撃を絶やさなかったのでした。
こうした状況の中で近1師のパーペ将軍は、サン=プリヴァーを陥落させるためにはまずサント=マリーを落とさねばならない、と覚悟を決めていました。しかし、今前線に展開する部隊だけではこの強固な拠点は陥落しないことも分かって来たのです。
そのため将軍は前衛に命じ、師団本隊が勢揃いし部落の攻撃準備が整うまでサント=マリー部落の前面に3個大隊を留め置いたのです。
ここへ近衛軍団参謀長のフォン・ダンネンベルク少将が到着し、パーペ師団長の部署を「軍団の意図に適っている」と追認しましたが、「サント=マリー部落内への突入攻撃はザクセン軍団が到着するまで待つよう」に釘を差したのでした。
フォン・エルッケルト大佐の前衛支隊はまず、サン=アイルに突入した近F連隊第3大隊の内、第9,12の両翼中隊で部落北東に拠点を設け、第10,11中隊は部落内で守備に就きました。同連隊第2大隊の第5,8中隊はサン=アイル西の小谷で待機、第6,7中隊は西側高地の縁に展開します。
近衛猟兵大隊は更に西のヌ川渓谷に沿った林を抜け、この林北端でサント=マリーの仏軍と対峙するのでした。
サン=アイルの高地から見た北部戦線戦場
サント=マリー=オー=シェンヌの村落は石造りの家屋が建ち並び、その敷地境界には同じく石造の壁が巡っており、部落の西数百mの場所には生け垣と石垣に囲まれた園庭がありました。
しかし、仏軍にはこれ以上防御を高める工事を行う時間的余裕がなく、家屋の窓やドアを塞いだり、小路にバリケードを作ったりという防御拠点強化の基本行動すら行うことが出来ないまま戦闘に突入したのです。
仏第6軍団は普第9軍団の砲撃「ヴェルネヴィルの砲声」を聞くと、ラ・フォン・ド・ヴィリエ師団から戦列歩兵第94連隊を前進させ(後に増援としてティクシエ師団から第12連隊の一部等も進んだ模様です)部落周辺に展開しました。更に直接援護として4ポンド砲兵1個中隊が普軍砲兵の猛砲撃下、部落東方数百mに砲列を敷きます。
部落の西と南に開ける原野もサン=プリヴァー方面の砲兵が射程内に収めており、この緩斜面は攻める側にとって非常に危険な場所となっていました。
ラ・フォン・ド・ヴィリエ
仏第94連隊歩兵はこの強固な拠点に着くや、直ちにサン=アイルの普軍に対し戦火を開きます。シャスポーの銃弾は、ドライゼ銃の射程外で反撃出来ないサン=アイル周辺の普軍歩兵に降り注ぎ、このままではやられる一方、としびれを切らした近F連隊第2大隊長フォン・シュメーリング少佐は、午後1時過ぎ部下に前進を命じ、最も近い場所に陣取る仏軍に向け攻撃を開始、その左翼に連なる近衛猟兵大隊もまた、その動きに同調して前進を始めるのでした。
普軍の前進を見た仏軍も射撃を倍加しますが、普近衛もまたドライゼ銃の射程内(600m程度)まで進むと銃撃を開始し、巧みに肉薄する普近衛兵の猛襲を受けた仏軍前哨部隊は、遂に園庭の生け垣から退去し、近F連隊の第6,7中隊は生け垣に囲まれた園庭の一部を占領するのでした。
これに続いて第5,8中隊も前進し、サント=マリー西郊外の一軒家に辿り着くとこの背後に潜んで集合し、サント=マリーをドライゼの射程内に収めました。猟兵大隊はその左翼(北西)に進むと、少ない遮蔽を巧みに使って前進するのです。
同時刻、サン=アイルにいた近F連隊第3大隊は、第11中隊を部落警備に残すと3個中隊で同僚の前進に続きます。
この内第10中隊は右翼となりサン=アイルからサント=マリーへ通じる街道を前進し、第12中隊は左翼側で第2大隊と連絡しました。第9中隊はその後方、サン=アイル郊外の園庭で予備として待機しました。
この攻撃が始まるとアボンヴィルにいた近F連隊第1大隊にも、サント=マリーへ前進せよとの命令が下るのです。
更にパーペ師団長は、アボンヴィルに続々と到着する近1師諸隊をサント=マリー攻撃に参加させるべく動き始めました。
師団本隊は大隊ごとに縦列を作り、仏軍から死角となるヌ川渓谷を伝ってサント=マリー西側へ進み始めます。
途中、前衛左翼が苦戦中、との報告が入るとパーペ将軍は先頭の近衛第4連隊F大隊に命じ、近衛猟兵大隊が苦闘中のサント=マリー北西側前線へ急行させました。F大隊は猟兵大隊を助け、直ちに激しい銃撃戦を行ったのです。
近1師残余の11個大隊は午後2時30分頃、サント=マリー西側のヌ川渓谷縁の小林西側へ到着し、総攻撃の準備を整えました。
この頃、サント=マリー部落の仏軍は、西と南郊外に4個(近衛F連隊第2,3、近衛猟兵、近衛第4連隊F)大隊の普軍を迎え撃ち、包囲される形勢にありましたが依然優位に戦闘を続行しています。
頑丈な家屋と石壁に隠れた仏兵は、遮るものが少ない開けた緩斜面を登って来る普軍を狙い撃ち、前進を阻止し続けていたのです。
パーペ将軍としてはこれ以上歩兵の「ごり押し」では強固な部落は落とせない、と感じていましたが、決め手となる砲兵は当時遠く離れた砲列でアマンヴィエ周辺の敵砲兵や周辺の歩兵と激戦中であり、将軍は軍団砲兵隊に対し援助を申し出るのでした。
この要請を聞いた軍団砲兵部長は、砲列左翼の10門(軽砲第4中隊6門と騎砲兵第2中隊から2個小隊4門)を割いて北方のサント=マリーに向け移動を開始させたのです。
これだけでは打撃力不足と見たパーペ将軍は、南西側から接近しつつあるザクセン(第12)軍団第24師団へ伝令を送り、その師団砲兵の援助を要請したのでした。
パーペ
こうしてサント=マリーの攻防戦は普軍近衛とザクセン王国軍との共同作戦となって行きました。
その実体はザクセン王国軍である北独連邦(これも実体は普軍)第12軍団を率いるザクセン王国王太子、アルベルト王子は軍団がジャルニーからサント=マリーへ前進を始めると、幕僚と共に先行してバチイイ近郊にやって来ます。
この時(午後1時頃)、キュセ森と1058高地では砲戦と銃撃戦が盛んとなり、その砲煙はアマンヴィエ方面だけでなく更にその北、サン=プリヴァー方面でも盛んに上がっており、仏軍の戦線はサン=プリヴァーの高台まで延伸していることが見て取れたのです。
そしてアルベルト王子の下には、オルヌ河畔からサン=プリヴァーの北西方面へ偵察に出した騎兵斥候の報告が届いており、それを信じるならば「敵の戦線はサン=プリヴァー以北、ロンクール付近まで延伸している」との想定が可能となりました。
この騎兵斥候が報告するには「サン=プリヴァーとロンクール部落間に仏軍野営あり」とのことで、「ロンクール部落で仏兵が守備しているのを見た」とのことだったのです。
そしてこの情報は「真実」であることが直後に判明しました。
ザクセン王国軍の参謀、カール・パウル・エドラー・フォン・デア・プラニッツ大尉はライター騎兵第1連隊の斥候と共に、この時間(午後1時前)未だ仏軍が前進していなかったサント=マリーに到達し、この部落東郊外から東方の仏軍陣地帯をじっくりと観察した後、軍団本営へ帰還したのです。
大尉はアルベルト王子ら軍団首脳に対し、「サン=プリヴァーからロンクールまで高地の尾根に敵の大軍がおり、この強固な陣地に対し正面から攻撃を加えるのは極めて困難を伴うと思われる。この高地の西側斜面には防御に適する遮蔽物が少なく、場所によって攻撃側は多大の犠牲を免れないであろう」との報告をするのでした。
ほぼ同時にヴァルロアへ進んだ前衛(クラウスハアー少将支隊)より報告が届き、こちらは「ヴァルロアに至るも未だ敵を見ず」とのことでした。
フォン・デア・プラニッツ
正午過ぎに第二軍本営からザクセン軍団に下された「最新」の命令は、「サント=マリーに前進し第9軍団と近衛軍団を援助するため、同所で攻撃準備をせよ」という内容でした。
しかし実際戦場の状況を知ったアルベルト王子は、「諸報告を要すれば、仏軍はサン=プリヴァーからロンクールまで前線を延伸しており、特にサン=プリヴァーの守備は堅い」と判断、「サン=プリヴァー前面の敵を牽制し、同時に西と北からロンクールに向かって前進、これによりロンクールの敵最右翼を包囲」することこそ独軍最左翼を占めるザクセン軍団が成すべきこと、と決心するのです。
この主旨に沿い、ザクセン軍団本営は午後2時頃、以下の命令を麾下部隊に発するのでした。
「第23(ザクセン第1)師団はコアンヴィル(サント=マリー北西)に向かい、オブエ(サント=マリー北北西)東の小林を抜けてロンクールに布陣する仏軍へ攻撃を掛けよ。現在軍団長直轄となっている第46(ザクセン第2)旅団は師団に復帰し行動を共にせよ。
第24(ザクセン第2)師団はバチイイ西郊外を通過し、同地にある小林(現ボア・デ・ゼ)西の低地に沿って進み、直接サント=マリーまで突進せよ。但し第48(ザクセン第4)旅団は軍団長直轄とし、バチイイの西で師団より分離、待機せよ」
つまりアルベルト王子は軍命令に1個旅団強(第47旅団を主力とする第24師団)で従い(サント=マリー占領)、ここを拠点にもう1個師団を北に迂回させ、敵の右翼が控えるロンクールを奇襲する、という作戦に出たのです。
既に普近衛軍団がサン=プリヴァー攻略のための拠点を得るため、サント=マリーに向かったことはアルベルト王子も知っています。そのため王子は1個旅団のみでサント=マリーを攻撃する、としたのでした。
また、近衛軍団の攻撃により仏軍の注意はサント=マリーに集中するはずで、これはロンクールへ迂回する第23師団にとって大変都合の良いことでした。
このザクセン(以下「S」とします)軍団の行動は午後2時30分から3時に掛けて普近衛軍団と第二軍本営に報告されました。
第23「S第1」師団はジャルニーで正午直前に下された前進命令に従って、第45「S第1」旅団をティシェモン(ジャルニー北北東3キロ)からポンティ森(バチイ北西2キロ周辺)まで前進させ、当初軍団長直轄とされていた第46「S第2」旅団をジャルニー北方へ留めます。しかし、師団長でアルベルト王太子の弟君、ゲオルグ王子は午後1時30分、駆け付けた普近衛驃騎兵連隊の一士官より、「敵の少なくとも1個師団がロンクールとサン=プリヴァーにあり。オブエ付近には敵影を見ず」との報告を受けたのです。
これによりゲオルグ王子はバチイイよりサント=マリーまで前進継続することを決意し、準備の出来た部隊より順次行軍を続けたのでした。
この頃、第23師団から抽出された軍団前衛として「見当違いの方面」へ進出し、ほぼ遊軍と化していたフォン・クラウスハアー少将率いる前衛支隊(フュージリア第108連隊、ライター騎兵第1連隊、軽砲第2中隊、工兵第2中隊、第1衛生隊)も、東より連続する砲声とこのヴァルロア部落の「静寂」とを比較検討した少将の独断でヴァルロアを発します。
支隊は少々西へ逆行しボーモン(モアーヌヴィル南西1.3キロ)の北でオルヌ川を渡河すると、アトリズ(ヴァルロア南西2.8キロ)に108連隊の1個中隊と工兵中隊とをオルヌ流域監視のために残留させ、残りは砲声の止むことがない東へと転進するのでした。
クラウスハアー
ゲオルグ王子と第23師団本隊には、サント=マリーへ向かう途中で兄王太子からの命令「オブエを抜けてロンクールへ向かえ」が届きます。
既に一部の部隊(砲兵など)はサント=マリーの西で戦闘を開始していましたが、幸いにも師団本隊は未だ行軍途上で、ゲオルグ王子は直ちに命令を変更しオブエに向かうのでした。
一方、第24師団が変更された軍団命令を受領したのは午後2時15分でした。
この時、師団先頭の第47「S第3」旅団はバチイイ東方にあり、旅団は命令通りバチイイ西方の小林を経てポンティ森に通じる街道の両側で停止、第48旅団も命令通り軍団長に指揮権を渡してバチイイ近郊で留まりました。
師団長のエルウィン・ネールホッフ・フォン・ホルダーベルク少将は急ぎサント=マリー攻撃の準備を始め、午後3時少し前に師団砲兵に対しサント=マリー砲撃任務を与え前進させます。この時、重砲第3,4の両中隊はヌ川渓谷の東縁に沿って砲列を敷き、軽砲第4中隊は重砲の右翼、近衛軍団砲列の左翼に連なり、軽砲第3中隊は一時渓谷の底に留まるのでした。
この前進中に近1師のパーペ将軍より要請が届き、S軍団砲兵も急ぎサント=マリー砲撃の準備に取り掛かるのでした。
こうしてS軍団の砲兵諸中隊はサント=マリーからおよそ1,000mから1,400mの距離で普近衛砲兵と共に砲戦を行い、大きな効果を上げました。
第24師団砲兵に続きS軍団砲兵隊も前進し、砲兵7個中隊でバチイイの北、ヌ川渓谷の西縁にある小林北縁からオブエへ向かう街道に沿って砲列を敷き、サント=マリーばかりでなく、サン=プリヴァーからロンクールに掛けて見え隠れしている仏軍陣地に向け、砲撃を行ったのです。
一方、第23師団(第45旅団の2個連隊中心)はオブエに向かう途中、当時率いていた師団砲兵の3個中隊を分離します。
同師団所属、軽砲第1中隊は既に午後2時30分、バチイイ北の渓谷西側高地に砲列を敷いて砲撃準備を始めていましたが、軍団砲兵がこの位置に砲列を敷くことが明らかになったため移動を開始し、東に進んで渓谷を越えサン=アイル北西に前進し、ここに砲列を敷く第24師団砲兵の重砲2個(第3,4)中隊の左翼(北西)に並び砲列を敷きました。
ちょうどこの場所には都合の良いことに重厚で深い生け垣があり、サント=マリーから歩兵の放つシャスポー銃弾をいくらかでも防いでくれました。
同じく重砲第2と軽砲第2中隊はS軍団砲兵の更に北、1キロ付近に砲列を敷きます。
この内、軽砲第2中隊はクラウスハアー少将の前衛支隊に属していた砲兵で、東より砲声が激しくなると前衛から分離し砲声のする方向へ急進し、ちょうど北上して来た重砲中隊と合流し、共にサント=マリーへの砲撃戦に加わるのでした。
このS軍団の砲兵が本格参戦した頃、近1師のパーペ少将と24師団のネールホッフ少将はサン=アイル近郊で会合し、サント=マリー攻撃を共同作戦とすることで合意しました。
これにより近1師は南から南西方向より、24師団は西から北西方向より、それぞれ攻勢を掛けることとなったのです。
ネールホッフ・フォン・ホルダーベルク
パーペ将軍は既にサント=マリー西に展開する近1師の4個大隊に攻撃準備を命じると、残りの諸隊に対し、一部を第一線の増強として前進させ、残りは予備としてサン=アイル付近に留めました。
また、ネールホッフ将軍は第47旅団の7個大隊全てをこの攻撃に当たらせることとして必要な命令を下しました。
この報告を受けたS軍団本営は、ロンクールに向かうためこの攻撃に参加せず、北方を迂回する予定の第23師団の内、戦場に近付きつつあった諸隊について「場合によっては戦闘に巻き込まれる可能性を考慮」して「オブエに向かう」よう重ねて命令を発したのでした。
しかし、師団に合流するよう命令の出たクラウスハアー支隊の第108連隊は、この時既に先頭を行く第3大隊がサント=マリーを臨む西側高地まで進み銃撃戦を開始しており、支隊は全体が本格戦闘に参入した頃に初めて、この「オブエに向かい本隊に合流」の命令を見ることとなったのでした。
なお、サント=マリーの前線近くにいた騎兵の内、近衛驃騎兵連隊とSライター騎兵第2連隊はバチイイ北東林の傍らで待機姿勢を取り、第23師団騎兵でクラウスハアー将軍に預けられていたライター騎兵第1連隊は、S軍団砲兵の陣地左翼後方で停止し、参戦の機会を待ったのです。
8月18日の仏第6軍団戦闘序列
軍団長 フランソワ・マルスラン・セルテーヌ・ドゥ・カンロベル大将
参謀長 アンリ准将
砲兵部長 ラバスティ少将
砲兵副長 ベルトラン准将
○第1師団 ティクシエ少将
*第1旅団 ペショ准将
・戦列歩兵第4連隊 ジョセフ・ヴァンセンドン大佐
・戦列歩兵第10連隊 シャルル・ジャン・ジャック・ジョセフ・アルダン・ド・ピック大佐
・猟兵第9大隊 フィリップ・マトゥラン少佐
*第2旅団 ラウール・ポール・ウージェーン・ル・ロア・ドゥ・ディ准将
・戦列歩兵第12連隊 ルブラン大佐
・戦列歩兵第100連隊 ジャン・シャルル・モーリス・グレミヨン大佐
*師団砲兵隊 モンリュイザン中佐
・砲兵第8連隊/第5,7,8中隊(4ポンド砲x18)
○第2師団 ビッソン少将
・戦列歩兵第9連隊(第1旅団所属) ルー大佐
※他諸隊は全てシャロン軍へ編入
○第3師団 ラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ少将
*第1旅団 ベッケ・ドゥ・ソネ准将
・戦列歩兵第75連隊 アマデュー大佐
・戦列歩兵第91連隊 ダゲール大佐
*第2旅団 コレン准将
・戦列歩兵第93連隊 ガウジン大佐
・戦列歩兵第94連隊 ドゥ・ゲスリン大佐
*師団砲兵隊 ジャメー中佐
・砲兵第14連隊/第5,6,7中隊(4ポンド砲x18)
○第4師団 ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将
*第1旅団 ドゥ・マルグナ准将
・戦列歩兵第25連隊 ギボン大佐
・戦列歩兵第26連隊 ブルタンド・アレクサンドル・アリオン大佐
*第2旅団 アドルフ・ギュスターヴ・ドゥ・シャナレイユ准将
・戦列歩兵第28連隊 ラモット大佐
・戦列歩兵第70連隊 ベルティエ大佐




