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普軍の戦争準備~野戦軍編成


 普軍参謀本部・モルトケ総長当初の計画では、前述通り墺軍以外の独西・南方諸邦に備える混成軍団(後の「マイン軍」)以外の「総軍」を二分することになっていました。これが「普第一軍」と「普第二軍」です。


 迷いに迷った末にヴィルヘルム1世国王が許可した5月3日の動員令で、近衛と第3から第6まで五個軍団を出征可能としたモルトケ参謀総長は5月中旬、墺側も押っ取り刀で実質動員を始めたことにより普軍が動員中に先制攻撃を受ける可能性が増したとして、当初考えていたザクセン王国と墺領ボヘミアへの先制攻勢を一旦保留、首都ベルリンを含むブランデンブルク州の安全確保を第一とするよう計画を変更しました。


 5月12日。墺軍と正対する正規軍の動員が本格化すると、普軍は「第一軍」の編成を発令します。


 この主力野戦軍司令官には対デンマーク戦で活躍し王族一の軍人との呼び声高い騎兵大将フリードリヒ・カール親王(以下「カール王子」)が任命され、その初期任務をモルトケ参謀総長の意向で「ザクセン王国国境に沿って右翼(西側)端をエルベ(ラベ)川に置き、左翼をシュレジエン州北部まで伸ばして後方の動員を援護し、国家中枢のブランデンブルク州に対する敵の先制攻撃を防ぐ」こととします。


※1866年5月中旬における「普第一軍」の編成

*軍直属(軍団本営を設けない)

〇第5、第6師団(第3軍団・ブランデンブルク州)

〇第7、第8師団(第4軍団・ザクセン州)

〇騎兵軍団

・近衛、第2、第3、第4各軍団の所属騎兵とその師団配属騎兵からその時点で用途が未定だった部隊から編成。2個師団からなり、砲兵は近衛軍団の騎砲兵大隊と野戦砲兵第2連隊を宛てる。


 同月17日には「第二軍」の編成命令が出、こちらは王太子フリードリヒ親王が司令官となりました。


※1866年5月中旬における「普第二軍」の編成

〇第5軍団(ポーゼン州)

〇第6軍団(シュレジェン州)

〇騎兵師団

・第5、第6両軍団の所属騎兵とその師団配属騎兵から編成。


 また、第二軍にはボヘミア侵攻後に後背となりロシア領ポーランドや墺領ハンガリーと国境を接し、この時点で120年程前まで墺領だった普領シュレジェン州警護のために二つの支隊を所属させます。


 一つはオーバー(上。ここでは南)シュレジェン地方を警護するヘルマン・フォン・クノーベルスドルフ少将率いる支隊で、シュレジエンの南端、ラーテイボーア(又はラチボール。現ポーランドのラチブシュ)周辺に展開することとなります。

 同じくシュレジエン州全体の警戒守備として先述通り伯爵ヴィルヘルム・ツー・ストルベルク=ヴェルニゲローデ少将率いる支隊も編成され、こちらは当初オッペルン(現ポーランドのオポーレ)に前進し、後にはグライヴィッツ(現ポーランドのグリビツェ)近郊まで進出し墺軍のクラコウ(クラクフ)守備隊や墺領シュレジエン地方の後備部隊と睨み合い小競り合いを起こすことになります。


※6月15日における普第二軍所属二つの別働支隊


◇クノーベルスドルフ支隊(混成半旅団)

・定数/歩兵3,086名・騎兵625名、砲兵145名。第63連隊除く

・指揮官 ヘルマン・フォン・クノーベルスドルフ少将

〇第62「オーバーシュレジエン第3」連隊(3個大隊)(ヴィルヘルム・フォン・マラコヴスキー=グリファ大佐)

〇槍騎兵第2「シュレジエン」連隊(4個中隊)(アウグスト・バウムグラース大佐)

〇野戦砲兵第6「シュレジエン」連隊歩砲兵第1中隊(6ポンド施条砲6門)

●第63「オーバーシュレジエン第4」連隊(3個大隊)(アレクサンダー・フォン・エッカーツベルク大佐)

*第63連隊は書類上この支隊に属しましたが戦争中は別働し、ナイセ要塞とその周辺に駐屯しつつオーバーシュレジエン地方全体の警戒に当たりました。


◇ストルベルク支隊(混成旅団)

・定数/歩兵5,194名・騎兵1,250名、砲兵96名。

・指揮官 伯爵ヴィルヘルム・ツー・ストルベルク=ヴェルニゲローデ少将

〇集成歩兵6個大隊

*これら大隊は正規兵若干を根幹に旧シュレジエン州郷土軍の後備兵13個大隊から抽出招集した兵士により1個大隊600名定数で編成され、当初はライフリングのない滑腔旧式小銃が与えられましたが直ぐにドライゼ銃に差し替えられます。

〇独立猟兵中隊

*第6軍団の第5、第6両猟兵大隊より抽出して編成しました(定数・250名の「強化中隊」)

〇後備槍騎兵第2連隊(4個中隊)

〇後備驃騎兵第6連隊(4個中隊)

〇独立砲兵中隊(砲4門)

*シュレジエン地方の要塞所属出撃砲兵隊(2個)より抽出

●独立工兵隊(内容不明)


 普第二軍はシュレジエンに進出し、時期を得て東側からクルコノシェ(リーゼン)山脈を越えボヘミア地方を窺うこととなります。

 この日(5月17日)は第一軍に近衛軍団(ベルリン周辺)と第2軍団(ポンメルン州)が参加することが決定され、残りの第1軍団(オスト・プロイセン州)、第7軍団(ヴェストファーレン州)、第8軍団(ライン州)、予備第1軍団は動員状態を維持して待機することとなりました。


挿絵(By みてみん)

プロシア領シュレジエン(1905年の地図)


 普軍は5月16日から決定した待機位置まで行軍を開始し、ザクセン王国と墺ボヘミア国境付近へ進みました。


※5月末時点での普軍配置


◎第一軍(第3、第4軍団)

〇第5師団と第6師団

 フィンスターヴァルデ(ベルリンの南100キロ)、カーラウ(フィンスターヴァルデの北東21キロ)、コットブス(カーラウの東26キロ)、ドレプカウ(コットブスの南西13.5キロ)、シュプレムベルク(ドレプカウの南東14キロ)の各地

〇第7師団と第8師団

 ミュールベルク・エルベ(ドレスデンの北西56キロ)、トルガウ、ヘルツベルク(フィンスターヴァルデの西33.5キロ)の各地

〇騎兵軍団

 ゲルリッツ周辺

〇軍本営

 5月20日時点でゾーラウ(現ポーランドのジャリ。コットブスの東南東57.5キロ)

◎第二軍

〇第5軍団 

 ランツフート・シュレジエン(現ポーランドのカミエンナ・グーラ。ヴロツワフの南西79キロ)周辺

〇第6軍団 

 ヴァルデンブルク(現ポーランドのバウブジフ。カミエンナ・グーラの東17.5キロ)周辺

〇騎兵師団

 ストリーガウ(現ポーランドのストシェゴム。バウブジフの北21キロ)

〇軍本営

 6月4日時点でフライブルク・イン・シュレジエン(現ポーランドのシュフィエボジツェ。バウブジフの北10キロ)南西近郊にあるフュルステンシュタイン城(ポーランド語/クシュンシュ城。シュレジエン地方最大の城館で現存します)


挿絵(By みてみん)

フュルステンシュタイン城


 両軍主力となる4個軍団は5月末までに全て配置に着きました。


 繰り返しとなりますが、元来モルトケが考えていた「対墺作戦」は「東重西軽」で、ザクセン王国とボヘミアに集中するであろう墺帝国の主力に対し、普軍の九割に及ぶ大軍で圧倒するというものでした。

 これに対し不安と不満を覚えていたのはビスマルクで、対仏警戒用にもモルトケが考えていた西方残置兵力(戦闘員3万名程度)の他に1個軍団(4万名前後)をライン沿岸に残すことを強く要望していました。陸相ローンもこれに同調し、モルトケの作戦計画に修正を加え、ヴェストファーレン州が策源地の第7軍団を西方諸侯対策に残留させるよう命じたのです。

 未だ参謀本部は序列上陸軍省の下となり5月時点ではまだモルトケもいちいちローンの許可を得なければ命令を下せない立場にあったため、モルトケも正面切って反対出来ず、とはいえ当初の計画に絶対の自信があったモルトケ(普軍の対墺作戦終了時までの一ヶ月間だけでは仏帝国がライン沿岸へ侵攻する能力はないと確信していました)は国王へ直訴に及び、一旦はローンの命令を保留させることに成功しました。

 結局、政治と軍事の対立に発展しそうだったこの問題は国王によって玉虫色の解決が図られ、予定通りライン州の第8軍団(第15、第16師団)は東方に移動しますが、第7軍団は分割され、第14師団と2個連隊は東方移動を許されたものの、第13師団を中核とする残部は西部に残ることになったのでした。


 この「政治的配慮」によってヴェストファーレン州に残された第13師団は、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争で第26旅団長として活躍(デュッペルやアルス島)、戦後昇進し親部隊の師団長となっていたアウグスト・クリスチャン・フォン・ゲーベン中将指揮下で独西部諸侯でも有力なハノーファー王国軍を警戒し、同州の後備兵6個大隊(後備第16、後備第17連隊)は風雲急を告げるホルシュタイン州に面した普領ザクセン=ラウエンブルク公国守備隊となりました。

 結局このシュレスヴィヒ=ホルシュタインに普墺戦争中残されたのはレンズブルクやデュッペル、キールなどの各要塞守備隊に後備重騎兵第7連隊とこの後備歩兵2個連隊だけとなったのです。


 また、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)とナッサウ公国、そしてヘッセン(=ダルムシュタット)大公国に対するため、グスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー少将率いる第16師団の第32旅団(第30「ライン第4」連隊・第70「ライン第8」連隊)に驃騎兵第9「ライン第2」連隊と野戦砲兵第8「ライン」連隊を加えて一支隊が作られ、ヴェッツラー(フランクフルト・アム・マインの北50キロ。当時はナッサウとヘッセン大公国に囲まれた普王国の飛び地)に集合しましたが、この支隊には連邦要塞守備隊が解隊した6月上旬、連邦ルクセンブルク要塞駐屯の第20「ブランデンブルク第3」連隊と連邦マインツ要塞駐屯の第32「チューリンゲン第2」連隊、更にはフュージリア第39「ニーダーライン」連隊も加わり「集成師団」に格上げとなりました。この時、第32旅団を割かれた第16師団のため、ケルン要塞駐屯のフュージリア第33「オストプロイセン」連隊と連邦ラシュタット要塞駐屯のフュージリア第34「ポンメルン」連隊によって1個旅団(「フュージリア旅団」と呼ばれます)が編成され、第16師団に送られたのです。


 ザクセン王国国境への移動が決定した第8軍団は5月下旬から6月上旬に掛けてヴェストファーレンからトルガウ(ライプツィヒの北東50キロ)地方へ進んでエルベ沿岸で待機に入ります。この時、第16師団と予備騎兵はバート・リーベンヴェルダ(トルガウの東南東27キロ)周辺で、第15師団はベルガーン(=シルダウ。同南東12キロ)周辺で宿営に入りました。

 第7軍団から切り離された第14師団も第8軍団の左翼(南方)に連絡してミュールベルク・エルベ(ベルガーンの南東8キロ)周辺へ進み、前哨隊をムルデ川(ライプツィヒの東を流れるエルベ支流)沿いのバート・デューベン(トルガウの西30キロ)へ送りました。

 同じ6月上旬には王国東部から第1軍団と第2軍団が南下し、第2軍団は先に宿営に入っていた第一軍(旧第3、第4軍団)の右翼後方(北)、ユーターボーク(ベルリンの南南西62.5キロ)からヘルツベルクの間に進んで宿営待機となり、第1軍団は同じく左翼(東)のゲルリッツ近郊で宿営待機に入ります。


 6月1日付で第1、第2軍団と未だベルリンから動いていない近衛軍団は正式にカール王子の第一軍所属となり、第8軍団(第15、第16師団)と第14師団も第一軍所属とされますが、後にこちらの3個師団はカール王子傘下のまま別働することとなり「エルベ軍」と名乗ることになりました。


 ところが、ここでフリードリヒ王太子率いる第二軍がカール王子の第一軍より小規模となることが一部政府と軍首脳から問題とされ、まずは第1軍団が第二軍へ転属となり、ゲルリッツ周辺から第二軍の右翼(北西)となるヒルシュベルク(現ポーランドのイェレニャ・グーラ。ゲルリッツの南東59キロ)とショーナウ・アン・デア・カッツバッハ(現ポーランドのシフィエジャバ。ヒルシュベルクの北東16.5キロ)へ転進します。

 また、エルベ軍がトルガウ周辺のザクセン王国国境に沿って展開し第一軍の宿営地と重複したため、第一軍は6月8日から全軍左翼(東)へ移動し、第5師団と第6師団はゲルリッツ、ライヒェンバッハ(・オーバーラウジッツ。ゲルリッツの西13キロ)そしてニースキー(同北北西19キロ)へ、第7師団と第8師団は第6師団が去ったシュプレムベルク、ホイエルスヴェルダ(シュプレムベルクの南西17キロ)そしてウーイシュト(ニースキーの西北西23キロ)へ、第2軍団もヘルツベルク周辺からゼンフテンベルク(ホイエルスヴェルダの北西18キロ)とオルトラント(ゼンフテンベルクの南西23キロ)へ移動しました。


挿絵(By みてみん)

ヒルシュベルク(18世紀)


 実はこの6月第一週辺りが普王国にとって最も危険だった時期となります。

 何故ならば、ザクセン王国との国境に展開するエルベ、第一の両軍とグローガウの南方でリーゼン山脈を前に比較的狭い範囲(ヒルシュベルクからヴァルデンブルクまで正面40キロ)で集中する第二軍の間、つまりゲルリッツからヒルシュベルク付近のニーダーシュレジエン地方(ニーダーは「下」。ここでは北方となります)とボヘミア国境の間におよそ60キロ正面の「隙間」が空いていたのです。

 このナイセ川の右岸に当る地方はボヘミアのライヒェンベルク(現チェコのリベレツ。ゲルリッツの南43.5キロ)からゲルリッツまで東西に比べて地形は緩やかで谷間となっており、数万に及ぶ大軍も一気に北方へ行軍可能な場所でした。

 当時この危険な「隙間」を埋めることが可能だったのは予備扱いとなっていた近衛軍団と、第二線で使う予定の予備第1軍団でしたが、両軍団ともベルリン周辺で編成中か集合中で、しかもモルトケの命令で一旦「全軍守勢」となっており、つまりはそれぞれの団隊がそれぞれの位置で警戒待機の状態にあるため連携は無きに等しいという状況だったのです。

 この頃、墺北軍はベーメン(ボヘミア地方)に1個軍団とメーレン(モラヴィア地方。現チェコの南東側)のオルミュッツ(現チェコのオロモウツ)要塞都市やブリュン(現チェコのブルノ)周辺に集合を終えており、こちらメーレンの本隊は徒歩行軍でも急げば10日前後でボヘミア北部まで到達出来るはずでした(オルミュッツからライヒェンベルクまで直線でおよそ200キロ)。

 また、オルミュッツから普領のシュレジエン国境までは直線わずか60キロで、このオーバーシュレジエン地方には普軍二つの支隊・合わせてもおよそ1個師団程度の戦力しか存在しておらず、しかもその北ではフリードリヒ王太子の軍が孤立した状態で待機していたのです。

 しかし、墺軍には先手を取って普王国へ侵攻する作戦はなく、「先ずは相手の様子を窺う」としてオルミュッツへ進んで来た経緯があって、その後ボヘミアへ進む予定ではあったものの、急ぎ普王国国境へ向かう計画はなかったのでした。


挿絵(By みてみん)

普軍6月上旬


「普軍当初の作戦は決して墺軍を先制するものではなかった。ところが墺帝国軍の作戦は最初から普軍に先んじることは出来ないとの構想で立てられており、ただ敵国との国境から数日行程を隔てる地域で宿営するとの計画であり、墺軍が当初の集合地をオルミュッツに定めたのは大変な失策であったと言わざるを得ない。しかしこの時、墺軍がいくらか敵の状況を知り直ちにシュレジエン国境を越え(孤立状態の)敵王太子軍の後背を突いたのなら、ここまでの過ちを償う可能性が高かった(が動かなかった)。墺軍は当時敵の細かな状況を知っていたと言うのに。(墺帝国参謀本部編・普墺公式戦記/筆者意訳)」


 しかし普軍の危機は数日で解消に向かいます。

 王太子は、対デンマーク戦でカール王子の参謀長として活躍し今回は選ばれて王太子に付いた中将レオンハルト・フォン・ブルーメンタール参謀長の進言もあって、墺軍がシュレジエン国境を窺う状況であることを憂慮する、として「これに対抗するため第二軍をオーバーシュレジエンのナイセ沿岸とナイセ要塞周辺まで進ませたい」とベルリンに上申したのです。


 結果、6月10日にヴィルヘルム1世国王は第二軍のオーバーシュレジエン転進を許可し、近衛軍団を増援として第二軍に配置するよう命じます。これはシュレジエンの先端へ進む王太子の「安全」を慮って、とも言えますが、これでモルトケ参謀総長の「エルベ軍を右翼の護衛として第一軍でザクセンを抜きボヘミアへ侵入、時機を見て第二軍を墺軍の横腹に突進させて第一軍と合撃、一大会戦に及んで撃破する。墺軍が先手を取ってシュレジエンに侵攻した場合は第二軍をゲルリッツ方面へ後退させ、敵の補給路が伸び切った時点で第一軍と共に反転攻勢に移行する」との「主攻・第一軍、助攻・第二軍」構想は再考を余儀なくされ、参謀本部は改めて全軍左翼/東側へ移動するよう命じたのでした。


挿絵(By みてみん)

普軍6月中旬


※6月10日における普軍の転進命令

◎第二軍

〇第6軍団

・目的地 シュタイナウ(現ポーランドのシチナバ・ニスカ。ナイセの東南東15.5キロ)

・行軍路 ライヒェンバッハ~フランケンシュタイン~オットマッシャウを経て。(現ポーランドのジェルジョニュフ~ゾンプコブツェ・シロンスキエ~オトムフフ)

〇第5軍団

・目的地 グロートカウ(現ポーランドのグロトクフ。ナイセの北25キロ)

・行軍路 シュヴァイドニッツ~シュトレーレンを経て。(現ポーランドのシュフィドニツァ~ストシェリン)

〇第1軍団

・目的地 ミュンスターベルク(現ポーランドのジェンビツェ。ナイセの北西25キロ)

・行軍路 クプファーベルク~シュヴァイドニッツ~ニンプシュを経て。(現ポーランドのミエジャンカ~シュフィドニツァ~ニエムツァ)

・但し一支隊(歩兵6個大隊・騎兵2個連隊・砲兵4個中隊)はヴァルデンブルク(現ポーランドのバウブジフ)に残し、ランツフート・シュレジエン(現ポーランドのカミエンナ・グーラ)とシャルロッテンブルン(現ポーランドのイェドリナ=ズドルイ)の間、ボヘミアに至る街道を警戒。

〇騎兵師団

・目的地 ストレーレン(現ポーランドのストシェリン。ミュンスターベルクの北20キロ)

・行軍路 ストリーガウ~メットカウ~ヨルダンスミューレを経て。(現ポーランドのストシェゴム~ミエトクフ~ヨルダヌフ・シロンスキ)


◎第一軍

・ゲルリッツからローウェンベルク(現ポーランドのルブベク・シロンスキ。ゲルリッツの東42キロ)間に集合した後に各個転進。ゲルリッツよりローバウ(同西南西23.5キロ)、ツィッタウ(同南南西31.5キロ)、フリートラント(同南27キロ)、ライヒェンベルクそれぞれに通じる街道には哨兵を置いて警戒、歩兵3個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊で一支隊を編成しヴァルムブルン(現ポーランドのチェプリツェ・シロンスキエ=ズドルイ。イェレニャ・グーラの南西5.5キロ)へ前哨として派遣。

〇第5師団と第6師団

・目的地 ローウェンベルク、フリーデベルク(現ポーランドのミルスク。ゲルリッツの南東34キロ)、ヴィーガンデスタール(現ポーランドのポビエドナ。フリーデベルクの南西7キロ。ボヘミア国境)の各地で宿営

〇第7師団と第8師団

・目的地 ラウバン(現ポーランドのルバン。ゲルリッツの東21キロ)からグライフェンベルク(現ポーランドのグリフフ・シロンスキ。ラウバンの南東13キロ)間で宿営

〇第2軍団

・目的地 ニースキー、ライヒェンバッハ、ゲルリッツ、ザイデンベルク(現ポーランドのザビドゥフ。ゲルリッツの南南東15キロ。ザクセン、ボヘミアとの国境)

〇騎兵軍団

・目的地 ローウェンベルク周辺に宿営


◎エルベ軍

・トルガウ地方の元の宿営地のまま動かず


◎近衛軍団

・本隊は第二軍に加入するためブリーグ(現ポーランドのブジェク。ヴロツワフの南東41キロ)へ向けて直ちに出立

*近衛軍団はこの時(6月10日)、ベルリン市街とポツダム駐屯地に歩兵9個大隊が駐屯し、他はコットブス、ゾーラウ(現ポーランドのジャリ。コットブスの東57キロ)、ゾンマーフェルト(ベルリンの北西40キロ)の各駐屯地にいました。これら諸隊は行軍準備後13日に各地を出立し、6月22日までに全部隊ブリーグ地方へ到着しています。

*この時軍団10日間の輸送将兵総数は、士官1,154名・兵卒35,523名・馬匹9,334頭・馬車942輌。主に鉄道輸送でした。


 6月20日までに第二軍の主力(第1、第5、第6軍団)はナイセ要塞近辺の予定宿営地に到着し、ナイセ、グラーツ、コーゼル、グローガウ等のシュレジエン主要要塞は全て完全定員で守備隊が配備に就き、要塞都市のシュヴァイドニッツでは近郊に新たな堡塁の築造を開始します。


 ところが、墺軍は普領シュレジエン州に侵入することはありませんでした。墺帝国はドイツ連邦を盾にその正義を訴えて来たため、ハンブルクでの連邦議会議決を最優先とし、普王国の「横暴」に対する連邦軍の出動を決する投票まで動くことが出来なかったのです。しかも6月14日に連邦軍動員の議決がありましたが、先述通り墺軍には普軍を先制する作戦がなく、フォン・ベネデック元帥始めとする墺北軍本営首脳もシュレジエンへの進擊など夢にも考えておらず、モルトケにボヘミア侵攻の準備時間を与えることになったのでした。


挿絵(By みてみん)

ナイセ(1866年5月)


※6月15日(普墺戦争開戦日)の「ザクセン・ボヘミア戦線」(東部戦線)普墺軍序列


☆普本軍戦闘序列

*ザクセン王国と墺領ボヘミア国境に沿った約355キロ正面に展開

◎エルベ軍(歩兵3個師団・騎兵2個旅団)

司令官 カール・エバーハルト・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト歩兵大将

(前・第8軍団司令官)

・展開位置

トルガウを中央にエルベ(ラベ)川両岸に布陣

・兵力

歩兵/38個大隊 39,084名

騎兵/26個中隊  4,060名

砲・各種/144門

砲兵及び工兵 5,696名

〇総計 48,840名

◎予備第1軍団(歩兵2個師団・騎兵1個師団)

司令官 オットー・アルブレヒト・カール・ハインリヒ・フォン・デア・ミュルベ中将

(前・近衛第1師団長/予備役)

・展開位置

ベルリン周辺にて編成中。エルベ軍の後に続いてザクセン王国国境に行軍

・兵力

歩兵/24個大隊 19,800名

騎兵/24個中隊  3,580名

砲・各種/54門

砲兵及び工兵 1,508名

〇総計 24,888名

◎第一軍(3個軍団・騎兵1個軍団)

司令官 親王フリードリヒ・カール・ニコラウス・フォン・プロイセン騎兵大将

・展開位置

 ゲルリッツからローウェンベルク間に布陣

・兵力

歩兵/72個大隊 74,056名

騎兵/74個中隊 11,560名

砲・各種/300門

砲兵及び工兵 11,404名

〇総計 97,020名

◎第二軍(4個軍団・騎兵1個師団・1個支隊)

司令官 王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・カール・フォン・プロイセン騎兵大将

・展開位置

 ナイセ近郊とナイセ川東側に布陣

 本営は6月10日にナイセ要塞へ移転

 近衛軍団はブリーグへ向けて移動中

・兵力

歩兵/95個大隊 97,710名

騎兵/86個中隊 13,454名

砲・各種/348門

砲兵及び工兵 13,682名

〇総計 124,846名

*クノーベルスドルフ支隊を含む(歩兵3個大隊・騎兵3個中隊・砲4門)

※ストルベルク支隊

・兵力

歩兵/6個大隊 5,194名

騎兵/8個中隊 1,250名

砲・各種/4門

砲兵及び工兵 96名

〇総計 6,540名

◎普本軍総計

歩兵/230,650名

騎兵/32,654名

砲兵及び工兵 32,290名

〇総計 295,594名

〇各種砲 846門


☆墺北軍戦闘序列

◎北軍(6個軍団・4個騎兵師団)

 北軍総司令官 ルートヴィヒ・リッター・フォン・ベネデック元帥

・展開位置

メーレン(モラヴィア)地方のオルミュッツ、リッタウ(現チェコのリトヴェル。オルミュッツの北西17.5キロ)、ランデスクローン(現チェコのランシュクロウン。同北西58キロ)、ブリュン地方に展開

・兵力

歩兵/161個大隊 148,414名

騎兵/119個中隊 17,219名

砲・各種/632門

砲兵及び工兵 20,983名

〇総計 186,616名

◎ベーメン駐屯諸兵軍(1個軍団・1個騎兵師団)

司令官 エデュワルド・グラーフ・クラム=グラース騎兵大将

・展開位置

 プラーグ(現チェコ首都プラハ)、テプリッツ(現チェコのテプリツェ。ドレスデンの南45.5キロ)、ヨセフシュタット(現チェコのヨセフォフ。ケーニヒグレーツの北北西16キロ)、ツルナウ(現チェコのトルトノフ。ヨセフシュタットの北25キロ)

・兵力

歩兵/28個大隊 26,710名

騎兵/32個中隊  4,877名

砲・各種/96門

砲兵及び工兵  2,284名

〇総計 33,989名

◎墺北軍総計

歩兵/175,242名

騎兵/22,096名

砲兵及び工兵 23,267名

〇総計 220,605名

〇各種砲 728門

◎ザクセン王国軍(歩兵2個師団・騎兵1個師団)

司令官 ザクセン王国王太子 アルベルト・フォン・ザクセン歩兵大将

・展開位置

ドレスデン、ライプツィヒ等国内待機、一部ボヘミア領内

・兵力

歩兵/20個大隊 18,841名

騎兵/16個中隊  2,574名

砲・各種/58門

砲兵及び工兵  2,000名

〇総計 約23,500名

*後備入れて30,000名との資料もあります。


挿絵(By みてみん)

ブレスラウ(1865年)


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