グラヴロットの戦い/膠着する第9軍団
ヘッセン(H)大公国師団長、ルートヴィヒ王子はマンシュタイン軍団長の命令で、H第2連隊第1大隊に対し「キュセ森を経て普軍砲兵列の右翼へ進め」と命令します。
午後3時30分、大隊はヴェルネヴィル東方の窪地に入り、ここで第9軍団砲兵部長プットカマー将軍よりシャンペノア農場攻撃の命令を受けたのでした。
大隊はまず普第36連隊第1,4中隊が死守するランヴィ農家に向かって前進します。ところがこの時間、ランヴィ農家は火炎を上げ燃え盛っており、部隊はやや左に旋回してシャンペノア農場(ランヴィ農家との距離は500mありません)を正面から攻撃することに決するのでした。
この前進中、剣を掲げて部下を鼓舞しつつ先頭を進んでいた大隊長、グレッフ少佐は敵弾を浴びて戦死してしまいました。大隊指揮は直ちにラムシュテットラー大尉が代わり、第1,2中隊を直卒すると、アイナッテン大尉率いる砲兵や第3軍団砲兵の砲火(後述)により炎上中のシャンペノア農場へ駆け足で接近するのです(砲兵はH軍兵士の接近直前で砲撃を止めました)。
農場では、それまで散々痛め付けた普軍砲兵からの「仕返し」を受けた仏シッセ師団の将兵が動揺しており、一部が砲火に耐え切れず後退を始めると守備隊全体も後退を始めていました。ラムシュテットラー隊は、仏歩兵で最後に農場を脱出する兵士とほとんど接する形で農場に突入し、これを占拠したのでした。H歩兵は火災の中、直ちに展開すると退却する仏軍へ銃撃を浴びせ掛けたのです。
H歩兵がシャンペノア農場を占領したことを知ったランヴィ農家の普軍からは、1個小隊が応援に駆け付け、火災を鎮火させるとH歩兵2個中隊(第3,4中隊は後方に残ります)と共に夕暮れまでこの農場を死守するのでした。
ヘッセン第2連隊のシャンペノア攻撃 (画 カール・レヒリング)
午後4時30分、シャンペノア農場が完全に占領されたことにより、危険だった1058高地尾根の砲列(但し右翼南側のみ)もシャスポー銃の射程外となり、多少は安全な場所となりました。また、シャンペノア攻撃時にはここに普第3軍団砲兵の騎砲兵2個中隊が前進し、逃走する仏歩兵や砲列に砲撃を浴びせたのでした(後述)。
同時刻、1058高地尾根の西側でも進展があります。
普軍砲列を守るため、キュセ森東端から進出して高地の斜面に張り付いていた第84連隊第2中隊は、仏軍から猛射撃を浴び続けていましたが、しばらくすると、待機していたキュセ森東の小林から第3中隊が損害を受けながらも前進し、2個中隊で普軍の最前線を死守していました。
しかし損害は大きく、このままでは先に前線で半数を失って崩壊した第85連隊F大隊の二の舞となってしまうため、第84連隊長フォン・ウィンクラー大佐は午後3時過ぎ、両中隊に後退を命じたのでした。
部隊は第1大隊の残りと合流するためキュセ森へ帰り、12名の士官が戦死(2人の中隊長含む)するなど大損害を受けた大隊は、キュセ森の中で待機となるのです。
午後3時前後、キュセ森東端ではH歩兵第3連隊とH猟兵第1大隊が戦っていましたが、ここでも仏軍の銃砲火は凄まじい威力を見せ、遮蔽物が多い森の中でも損害は増大していました。猟兵大隊長のラウテンベルガー少佐は致命傷を負って後送され、大隊も後退し待機とされたのです。
ところがここで第9軍団本営から、「H猟兵は前進して軍団砲兵を援護せよ」との命令が届くのでした。
既にこの午後3時には軍団砲兵は撤退を完了し、また喉元に突きつけられた刃のようだったシャンペノア農場にも普軍が迫っています。第9軍団本営はこの時、キュセ森西側の中にあって、前線の様子が見えていなかったのです。
当然森の中にいたH猟兵にも状況は分からず、大隊の指揮を代わったダウディステル大尉は部隊を率いて森を出、南側1058高地の尾根に向かいました。
高地の南斜面では、第18師団砲兵3個中隊がアイナッテン大尉の指揮下で砲撃を継続していました。
ここへ仏軍歩兵が忍び寄り、高地下の窪地より正に突撃を敢行しようとしていたのです。
この時、タイミングよくH猟兵が尾根の上に現れました。
敵歩兵が砲列に攻撃を仕掛ける寸前と見た大尉は、先鋒の数個小隊を一斉に散開させると、敵の隙を突いて銃撃と突撃を敢行し、奇襲された仏軍部隊は陥落前のシャンペノアまで逃げ去ったのでした。
H猟兵はこの敵に対して銃撃戦の用意をしますが、すぐさまアマンヴィエ西郊外より新たな仏軍歩兵が前進し、砲兵部隊に攻撃を開始したのです。ダウディステル大尉は直ちに左翼へ展開し、新たな敵に対抗しました。そしてドライゼを撃ちまくりながら突進し、仏軍を1058高地の頂上(アマンヴィエ南南東1キロ付近。シャンペノアからアマンヴィエまでの街道がクランクする部分で、現在普近衛擲弾兵第1連隊の慰霊碑があります)まで追いやるのでした。
ダウディステル大尉の活躍は続きます。
大尉は敵を高地頂上へ追いやると重砲第4中隊の陣地跡に達し、ここで遺棄された車輌などを遮蔽に使って敵と対戦しました。
大隊は高地頂上の敵がアマンヴィエ方向へ退いたのを見ると直に前進を企て、散開しながらアマンヴィエ西郊外の仏軍に対し得意の散兵戦を仕掛けたのです。
しかし、砲兵陣地跡の先には夏草のみが風になびく荒野があるだけで遮蔽物は非常に少なく、また高地から撃ち下ろす仏軍のシャスポー銃は確実にH猟兵を一人、また一人と倒して行きました。
大きな損害を受けたH猟兵第1大隊は、西のキュセ森より助太刀に出撃したH歩兵第3連隊の1個中隊から援護を受けますが、この中隊も猛射撃を受けて甚大な損害を被り退却してしまいます。
H猟兵の散開した高地尾根には3度、仏軍が正面から強襲を掛けますが大隊はこれを撃退し、草原には遺体や重傷者が累々と横たわりますが一切後退することなく、この散兵線を守るのでした。
こうして独第9軍団は多くの犠牲を出しながらも、シャンペノアから1058高地尾根までを占領し、これで一旦キュセ森まで退いた軍団砲兵のうち、前進可能となった中隊を再び1058高地へ前進させることが出来るようになったのでした。
軍団砲兵のうち騎砲兵第2中隊と軽砲第4中隊(5門のみ)は午後5時前、補充と応急修理を経て元の1058高地へ復帰しています。しかしその時には既に戦線は膠着し、砲撃戦も沈静していたのでした(下記注参照/第3軍団砲兵については後に詳述します)。
一方、独第9軍団の戦線で最右翼(南)となるフォン・ブルーメンタール少将の支隊は、午後2時以来シャントレンヌ農場とその東側高地で全く動けずにいました。
少将の麾下部隊は、正午過ぎの開戦より強大な仏軍歩兵と砲兵から間断なく銃砲撃を受け続けており、その損害は大きく無視出来ないものとなっていました。
指揮官たちは自ら前線に立って部下を元気付け、その士官たちも多くが負傷し倒れていました。
ブルーメンタール支隊の親部隊、第18師団長のフォン・ヴランゲル中将は午後2時過ぎ、少将が放った伝令から報告を受け取り、支隊の危機を知ります。ヴランゲル将軍は直ちにヴェルネヴィル在の予備から第85連隊第1大隊を選び、シャントレンヌへ向かわせました。
大隊は農場に到着すると、1個中隊を農場東側の防衛拠点に増援として送り、残り3個中隊は場内で待機となります。
この2時30分過ぎの時点では、仏軍はシャントレンヌへ突出する形となっている南側のジュニヴォー森の突角を占拠し、東側の強力な散兵線と併せ絶えず銃撃を行い、それは農場の二面、東と南側となるので普軍は前進すればするほど後方から射撃を浴びる形となり、非常に厄介な存在として普軍を大いに悩ませていたのです。
ブルーメンタール将軍は午後2時45分、増援を得たことで遂にこの森の敵を排除する決意を固めるのでした。
少将はシャントレンヌ農場内で待機する第85連隊第1大隊に対し、南側森林の突角に向かい前進せよ、と命じました。
大隊長ケッペン中佐は第1,4中隊を前、第2,3中隊を後方に置く普軍の戦闘隊形で密集して敵に接近しました。そして弾雨の中ジェニヴォー森に突入して敵を後退させると、第1,4中隊は西森の東縁に達し、撤退した仏軍が利用していた塹壕を占拠するのです。
森の北縁に沿って続行して来た第2,3中隊がこの東縁までやって来ると、第1中隊長のファウスト中尉と第4中隊長のシュスター大尉は、この東にあるラ・フォリの家西の林へ突撃を敢行することとします。これは両中隊長が見たところ、ラ・フォリ西の林は敵の重要な拠点であり、ここを抑えれば仏軍の戦線に穴を開けることが出来る、そう考えたからでした。
これにより第1中隊はジュニヴォー森の北東縁から先に突撃を始め、間を空けずに第4中隊もその南側より追従するのです。
しかし、これは余りにも無謀な冒険でした。この小林には既述通り仏軍の1個旅団が布陣しており、正に十倍以上の敵により両中隊はたちまち猛銃砲火に見舞われ、瞬く間に大きな犠牲を出したのです。
ファウストとシュスター両中隊長は突撃の先頭に立つものの、わずかの時間で戦死し、両中隊の突撃は数百mも進まずに頓挫してしまいました。
この突撃を援護しようと進み出た第3中隊もまた銃砲火のため進むことが出来ず、諦めて退却するのでした。
これにより、第85連隊第1大隊はジュニヴォー西森の北端を守るだけとなりました。
さて、ヴランゲル師団長は第1大隊を送り出した後、更に第85連隊で残った第2大隊もシャントレンヌへ送り出しました。
この大隊はシャントレンヌに直接向かわず、その南側のジュニヴォー西森へ直接入ります。森の中で目立つ空き地を無事に抜けるとマンス川の渓谷を渡り、仏軍の潜む東森へ侵入したのです。この位置は散々な目にあった第1大隊の直ぐ右翼側となります。
この時、第2大隊を追ってこの最前線に到着した連隊長フォン・ファルケンハウゼン大佐は、大隊を使ってこの東森を南へ進もうと試みましたが、森の奥に潜む仏軍は強力(6個大隊の戦列歩兵)で、犠牲が増えると元の渓谷際まで戻るしかありませんでした。
フェルケンハウゼン大佐は以降ジュニヴォー森の北突角を守ることに専念し、シャントレンヌとその東で持久戦闘を行うブルーメンタール支隊の右翼(南側)を支えることとなるのです。
そのシャントレンヌ東側の散兵線では第36連隊第2,3大隊と猟兵第9大隊が苦闘を繰り広げていました。
銃撃戦は延々3時間以上に及び、多くの犠牲と共に弾薬も次第に乏しくなります。この地で部下を鼓舞し続けた第36連隊長フォン・ブランデンシュタイン大佐も戦死してしまい、代わりに自ら前線で指揮を執っていたブルーメンタール少将も負傷しますが、安全地帯へ下がるよう促す副官の諌言を拒否して前線で指揮を執り続けるのです。
しかし午後4時、遂に第36連隊の第3大隊は弾薬を撃ち尽くし、未練を残しシャントレンヌ農場へ下がりました。
これで東高地際の散兵線には第36連隊の3個(第5,7,8)中隊と猟兵第9大隊の第1中隊のみが一時戦闘を継続することになったのです。
こうして、キュセ森とジュニヴォー森の戦闘は午後5時に至るまで途切れることなく続きました。
この間、全前線では第9軍団だけが戦っていたわけではなく、南方でも北西方でも戦いは同時進行しています。フォン・マンシュタイン大将は午後4時頃、幕僚を従えてキュセ森を北に越え、アボンヴィルの南で自軍団左翼にいる近衛軍団の動きを観察しています。
本来なら第9軍団と「同時」に攻撃を開始するはずだった普近衛軍団は、アボンヴィルの北サン=アイル周辺でサント=マリー(=オー=シェンヌ)への攻撃準備をしていました。頼もしい近衛の姿を見たマンシュタインはバツの悪い想いで、こうなっても出来得る限り近衛軍団の進軍と連動し、東進することに努力しようと決心するのでした。
マンシュタイン将軍は既に2時間ほど前、近衛第1師団長のフォン・パーペ少将から「我アボンヴィル付近に到着」との通報を受けています。また追って近衛軍団長アウグスト・ヴュルテンベルク王子からは「部下の全力を挙げ貴官を援助する」との頼もしい伝言を聞いていました。
しかし、マンシュタイン将軍にもプライドがあり、「援助の申し入れには感謝しますが、本官に対する直接の援助は必要なく、親王にはどうかサン=プリヴァーへの攻撃を続行して頂きたい。これこそが第9軍団のため最も適した援助となるでしょう」との返答を送るのでした。それでも背に腹は代えられないマンシュタイン将軍は付記して「ただ、1個旅団を万が一の場合の予備としてアヌー=ラ=グランジュまで送って頂ければ幸いです」と願い出たのでした。
この「1個旅団を貸し出す」件は、第9軍団の苦戦を見た第二軍本営も考えていたことで、直ちに実行されるのです(後述します)。
この「近衛軍団と共同して攻撃する」という大方針により、特に北部キュセ森の西からアボンヴィルの南に展開したH師団は、「戦闘の状況が許す限り」待機の状態となったのでした。
しかし、「戦闘の状況」はそのような余裕をH師団に与えてはくれませんでした。
前述通りH砲兵はアマンヴィエに面したキュセ森東の鉄道堤を挟んで砲列を敷き、仏シッセ師団とロロンセ師団、仏第6軍団砲兵等と砲撃戦を繰り広げていましたが、敵はそればかりでなく、キュセ森至近まで進出していた仏軍散兵線からもシャスポー銃の射撃を受け、特に砲列右翼側(南)で損害が大きく出ていました。
また、積極的な指揮官に率いられた仏軍戦列歩兵部隊が幾度も突撃を試み、これは鉄道堤とキュセ森の縁に展開していたH軍と普軍歩兵から猛烈な銃撃を浴びせられ、その都度阻止されるのでした。
キュセ森北側の小林西側では、前線に出ずじっと出番を待ち続けるH師団のほぼ半数がありました。これは第49旅団所属のH第1連隊(2個大隊)、H第2連隊第2大隊、第50旅団所属のH4連隊第1大隊(第3中隊欠)、同第2大隊でした。
H師団長ルートヴィヒ王子は午後3時30分過ぎ、アボンヴィル付近から普近衛軍団がサント=マリーへ前進するのを見て、攻撃が開始されたと信じます。
そこで王子は予めマンシュタイン軍団長から命じられていた通り、近衛軍団を援助するため第49旅団の3個大隊でサント=マリーへ進撃することに決しました。
この命令により、この3個大隊はまず鉄道堤まで前進し、現在の待機地にはH第4連隊だけが残されたのです。
3個大隊は所属の第49旅団長、フォン・ヴィッティヒ中将が直率し、まずは先鋒に指定されたH第2連隊第2大隊が鉄道堤を越えようとしました。しかし、元来4mほどの高さのあったこの堤に対し、仏軍は退却する時に荷車や廃材などを積み重ね、そこに鉄条網を張って阻止線を造っていたため、部隊はこれを処置して越えるために時間を費やすこととなり、しばらくの間、仏軍散兵線から格好の目標となってしまうのでした。
大隊はこうして苦労しながら障害物を排除し、その間大きな損害を受けたにも関わらず前進を強行しました。
大隊長のホフマン少佐は堤を越えると右(東)へ転向し、アマンヴィエの北に続く仏軍散兵線に相対しました。この場所は狭い窪地となって北に続いており、まるで天然の散兵線といった趣があったのです。
ここにH第1連隊の第1,4中隊が堤を越えて続き、第2大隊の戦列に加わりました。
これら6個中隊は鉄道堤を右翼端にして、横一列となって展開します。キュセ森北東縁の小林に展開していたH猟兵第2大隊の2個中隊は、鉄道堤の南側をやや後退してこの部隊と堤を挟んで連絡し、一つの戦線を構築したのでした。
このH軍による新たな散兵線は、その東方1,200m付近の敵、仏シッセ師団の左翼(北側)散兵線(高地縁に沿った窪地に潜んで射撃を繰り返していました)に対し、今まで以上の地の利を得て、後方200m付近に砲列を敷くH砲兵列線に強力な援護を与えることとなったのです。
しかし、せっかくの前進も無駄となってしまいました。
北側の友軍、ザクセン軍団と近衛軍団によるサン=プリヴァーへの前進が一時滞ってしまうのでした。
ここに至ってルートヴィヒ王子は、更に前進すればH軍のみ敵中に突出してしまう、として「これは軍本営の意図ではない」として麾下部隊に「これ以上前進してはならない」と命じたのです。
この命を受け、鉄道堤を越えていなかったH第1連隊の6個(第2,3,5,6,7,8)中隊は、H第4連隊の待機場所まで戻ってしまうのでした。
この先、キュセ森内部では大きな動きはありませんでした。
ただ、前線で頑張り続けた普第36連隊の第2,3中隊と普第84連隊F大隊がキュセ森北の小林から後退し、これも大きな損害を受けていた第84連隊第1大隊と合流、これら部隊はキュセ森東側小林の西へ下がって予備となります。
激戦で数を大きく減らした普軍が下がったことにより、キュセ森の北から東端にかけての戦線は午後4時以降、H軍部隊のみによって維持されることになったのです。
グラヴロット会戦(シャントレンヌ農場)の猟兵第9ラウエンブルク大隊 (画 エルンスト・ジンマー)
☆注
第9軍団砲兵隊(野戦砲兵第9連隊第1大隊)と重砲第2中隊の8月18日における損害
・軍団砲兵隊と野戦砲兵第9連隊第1大隊本営 士官4名、下士官(軍曹)2名
・騎砲兵第2中隊 士官2名、下士官兵36名、馬匹200頭
・軽砲第3中隊 士官2名、下士官兵24名、馬匹47頭
・軽砲第4中隊 士官2名、下士官兵27名、馬匹48頭
・重砲第3中隊 士官3名、下士官兵32名、馬匹54頭
・重砲第4中隊 士官3名、下士官兵45名、馬匹49頭
*第18師団砲兵
・重砲第2中隊 士官1名、下士官兵23名、馬匹70頭
この損害は、殆どが午後12時から午後3時30分までの間に発生した損害でした。
普軍砲兵中隊の定員は、士官3から5名、下士官兵130から140名、砲6門、馬匹200頭前後。下士官兵には正規砲員以外の補助兵、つまり予備砲員、運搬、修繕、雑用の兵卒など、馬匹には予備、乗用、車輌曳馬も含むものと思われます。
実際に砲を曳く馬は1門につき6頭、操作砲員は5名なので、砲の近くには中隊で砲員50名前後、馬匹も50頭前後がいたものと想像出来るでしょう。
敵に最も近い最左翼にいた騎砲兵中隊は全ての馬匹を失い、全滅した重砲第4中隊は砲操作の人員ほぼ全員が死傷しました。一番損害の軽かった軽砲第3中隊でも砲員の半数と砲側の馬匹ほとんどを失ったことになり、いかに損害が大きかったかが分かろうと言うものです。
普軍の砲列




