表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
227/534

グラヴロットの戦い/第9軍団砲兵の苦闘

 独第9軍団の砲撃は、仏軍戦線の全域で戦闘開始を告げるものとなりました。

 第9軍団砲兵の陣取った高地線の前面には、たちまちにして仏軍砲兵が次から次へと現れ、山沿いの野営からは急ぎ歩兵部隊が定められた散兵線へ急行したのです。


 フォン・マンシュタイン大将率いる第9軍団の相手は、主にルイ・ルネ・ポール・ドゥ・ラドミロー中将率いる仏第4軍団でした。


 この軍団は3個師団編成(詳細な戦闘序列は『コロンベイの戦い/戦術的勝利と戦略的勝利』を参照)で、軍団の右翼端となるアマンヴィエには第3師団(伯爵シャルル・フェルディナン・ラトリル・ロロンセ少将指揮)が置かれ、その北に続く仏第6軍団と連絡を通しています。

 このアマンヴィエの南からヴェルネヴィルの北東まで広がっていたキュセ森に面しては第1師団(エルネスト・ルイ・オクターヴ・クルト・ドゥ・シッセ少将指揮)を配置し、その南の軍団左翼端には第2師団(フランソワ・グルニエ少将)を二列横隊に編成して配置しました。

挿絵(By みてみん)

 シッセ

挿絵(By みてみん)

ロロンセ

 左翼のグルニエ師団は、モンティニー城館(モンティニー=ラ=グラン=シャトー。ヴェルネヴィル東北東3.3キロ)まで散兵線を延ばし、第一線部隊はシャントレンヌ農場付近に進出していましたが、普軍部隊(ブルーメンタール支隊)がヴェルネヴィルに現れると直ちに前哨を撤退させ、決して自ら攻撃することはありませんでした。

 しかし、ヴェルネヴィルからブルーメンタール隊が東進すると、その強力なシャスポー銃で猛射撃を浴びせ始め、普軍を釘付けにしたのです。


 同じく普軍砲兵の展開に対してはシッセ師団から戦列歩兵が前進し、砲撃を冒して掩蔽物の陰から長距離狙撃を実施し普軍砲兵を苦しめました。


 仏砲兵の動きも活発でした。

 ラドミロー将軍は、独第9軍団が砲兵を展開すると見るや、自軍団砲兵に対し「前進し全力で敵砲列を叩け」と命じ、ドゥ・ソレイユ大佐率いる軍団砲兵(6個中隊。4ポンド砲x12、12ポンド砲x12、4ポンド騎砲x12)は迅速に前進してヴェルネヴィルに面した高地に砲列を敷き、3個師団の砲兵もまた各個に師団戦区の高台へ進出(各師団3個中隊。4ポンド砲x12、ミトライユーズ砲x6)するのです。

挿絵(By みてみん)

 ライット4ポンド砲

 独第9軍団の敵はラドミロー軍団だけではありません。仏第4軍団の左翼(南)には前ライン軍参謀長エドモンド・ル・ブーフ大将率いる仏第3軍団(戦闘序列は同じくコロンベイの戦い参照)があり、その右翼(北)には第1師団(ジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将)と第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将)が戦列を整えていました。

 その師団砲兵(編成は第4軍団と同じ)はジェニヴォー森の東側に展開し、強力な前衛は東森の中に浸透して、普軍の進出した北側の開けた耕作地に銃砲火を浴びせることが出来たのです。


 同じくラドミロー軍団の右翼(北)にはカンロベル大将の仏第6軍団がサン=プリヴァー部落の南を走るブリエ街道南側から北へ戦線を敷いており、強力な軍団砲兵がサン=プリヴァーの南に展開していたのです。


 独第9軍団の砲兵列線はたちまちにして窮地に陥りました。

 北東からのシッセ師団歩兵の急進に対しては榴弾や榴散弾で抵抗し、東からの砲撃に対しては対抗砲撃で応じます。しかし、仏軍砲兵はほとんどが普軍砲兵陣地より高所から撃ち下ろし、最初に普軍が予想した高所の有利は消え去ってしまいました。目標までの射程距離も2キロ前後と近く、普軍砲兵自慢のクルップ砲の長射程を活かせません。目標が砲列より上にあるため、普軍の砲弾は命中せずに高く飛び去ることが多く、また仏軍は予め砲兵陣地を構築して土塁や塹壕内から砲撃を行ったため、中々被害を与えることが叶いませんでした。

 逆に普軍が展開した高地線の緩斜面は、土質が非常に硬く塹壕を掘るのにも苦労する場所で、遮蔽物もなく胸壁を作れぬまま、普軍砲兵は「撃たれ放し」の状態に陥ってしまったのです。


 次第に前進する仏軍歩兵はキュセ森(ボア・ドゥ・ラ・キュセ)を遮蔽として移動し、普軍砲兵線の北へ回り込み、やがては北面から北西側の背面にまで進入し激しいシャスポー銃の一斉射撃を浴びせました。

 また、仏軍砲兵は榴弾、榴散弾、霰弾、そして当たれば恐ろしいミトライユーズの集中弾と、ありとあらゆる砲弾を途切れることなく連続で撃ち込み、普軍に劣ると言われたその照準・着弾も、数の多さと連続砲撃、そして目標が「近距離で丸見え」となっていることにより急速に正確となるのです。

挿絵(By みてみん)

仏軍砲兵

 こうなっては剛胆冷静な普軍砲兵でも動揺は広がり、鉄の規律で辛うじて砲撃を維持する有様となりました。

 激しい弾雨は次々と馬匹を倒し、砲列を叩き、特に仏軍に近い左翼(北)側では著しい損害が発生しました。

 第9軍団砲兵隊長のフォン・ヤーゲマン大佐は戦闘初期に小銃弾に倒れ重傷を負って後送され、第18師団砲兵隊長のフォン・ガイル少佐も引き続く戦闘中に瀕死の重傷を負って倒れます。その副官や砲兵中隊長たちも多くが倒れてしまいました。


 仏シッセ師団歩兵は小部隊に分かれて波状的な肉薄攻撃を行い、普軍砲兵は霰弾を発して防ぎますが、犠牲もまた大きなものとなります。

 騎砲兵第2中隊長のケーニヒ大尉は、最初最左翼となっていた中隊を率い、ほぼ三方向から降り注ぐ銃砲弾に耐えながら後退せず頑張り続け、逆に前進した仏軍砲兵2、3個中隊に対し正確な砲撃を与え、陣地転換させることに成功しました。ここに遅れていた重砲第4中隊がその北側へ進み、左翼側砲列は厚みを増します。

 ところがこれは仏軍格好の目標ともなり、高地の砲列は激しい側面攻撃を受けて銃砲弾が降り注ぎ、正面に対して砲撃を続けることが難しくなったのです。

 午後12時30分、重砲第4中隊長のヴェルナー大尉は全滅を免れるため陣地転換を決意し、砲の前車を繋いで右手に転回すると150mほど西に離れた場所に新たな陣地を占めて、普軍砲列からやや離れて砲撃を再開するのでした。


 この砲兵の危機に対し、第9軍団首脳陣も手を拱いていたばかりではありません。

 マンシュタイン軍団長は砲兵が展開し始めた正午頃、砲兵援護のために竜騎兵第6「マグデブルク」連隊から2個中隊を前進させ、この騎兵半個連隊は砲兵線の左翼へ向かい、ケーニヒ大尉率いる騎砲列の西、つまり1058高地とキュセ森北東角との間に布陣しました。しかし、砲兵と同じく目立つ騎兵にも等しく銃弾が降り注ぎ始め、榴弾は破裂して人馬をなぎ倒します。やがて普軍竜騎兵は歩兵と交代する形でヴェルネヴィルへ引き返したのでした。


 マンシュタイン将軍が竜騎兵を砲兵援護に繰り出す少々前、第18師団長のカール・フォン・ヴランゲル中将も砲兵を心配して歩兵の援護を付けようと、軍団長が留め置いたブルーメンタール少将支隊の残り、フュージリア第36「マグデブルク」連隊第1大隊から2個(第2,3)中隊を引き抜き、砲兵援護のため前進を命じました。

 その後方では第1大隊残りの2個中隊にも前進命令が下り、こちらは高地の南西側にぽつんと存在する一軒家、ランヴィ農場(ヴェルネヴィル1.8キロにあった農家。現存しません)へ向かうよう指示されたのです。


 第1大隊長のゲッティング少佐は、後から出発した大隊の両翼(第1,4)中隊を直卒してランヴィ農場を目指し前進を始めますが、ヴェルネヴィル東郊外へ出たとたんに東側から猛烈な銃撃を受けてしまいます。それでもランヴィ農場の南西側にある窪地まで何とか前進し、午後12時30分、農家に対し攻撃を開始しました。ここを守っていた少数の仏兵は粘り強く抵抗しましたが長くは保たずに退却し、普軍は初めてヴェルネヴィルの東に拠点を獲ることが出来たのです。

 ゲッティング少佐は直ちに農家とその周辺に塹壕を掘り、廃材でバリケードを作る等出来る限りの防御を施しました。

 逃げ出した守備隊を収容した仏軍シッセ師団はランヴィ農家から数百m付近まで接近し、再三再四農場へ突撃を敢行します。しかしゲッティング隊は幾度もこれを撃退し、多くの犠牲を払いながらもこの拠点を死守するのでした。


 この間、第36連隊第1大隊の第2,3中隊は北上し、間もなくキュセ森まで進みます。当時この森林地帯は大小多くの雑木林が連なって出来ており(現在も疎らですが痕跡が残ります)、他の森林同様、木の下は夏草が生い茂り軍隊が通過するにはやや困難な場所となっていました。


 この半個大隊は最初、森と高地の間を走る溝を上手に利用して敵に姿を晒さず進みましたが、やはり仏軍に見つかってしまい集中砲火を浴びることとなります。そこで銃砲弾を避けるように左(南東)へ折れ、幾つかの小さな林を抜けて最後にはキュセ森北東角(現オー・ボワ北部分。ヴェルネヴィル北東2.5キロ)付近の鉄道線(現在は廃線。所々に堤が残っています)まで進むのです。

 ここで部隊は鉄道堤の南側と森林の東端とに分かれて布陣、堤の陰で隊列を整えるや、前方アマンヴィエ部落の南西側に散兵線を敷くシッセ師団歩兵と激しい銃撃戦を開始するのです。第2中隊の一部は更に前進し、アマンヴィエ西郊外に向かって突出する小林(北東端の東350m)に到達、ここで仏軍散兵と戦うのでした。


 普第18師団主力は午後12時15分、その先鋒部隊がヴェルネヴィルへ到着します。

 待ちかねたフォン・マンシュタイン大将は早速第84「シュレースヴィヒ」連隊の2個(第1とF)大隊を、砲兵援護のため先行している第36連隊半個大隊の増援としてキュセ森へ送り出しました。

 この2個大隊は戦闘隊形の縦列横隊のまま横2列となって前進し、F大隊が先頭列、第1大隊が後方列となりました。その行軍は先行した第36連隊第2,3中隊と同じルートで進み、全く同じ箇所で仏軍散兵線から銃撃を浴びます。この時F大隊はキュセ森内へ転進して森の前方で待ち構えていた仏軍に対抗し、第1大隊はそのまま前進するのでした。

 しかし仏軍の銃撃は大変激しいもので、森を行く普軍行軍列は小林の間にある空き地を通過する度に多くの犠牲を出してしまいます。それでも午後1時頃、F大隊は遅れた第9中隊を除く3個中隊で鉄道堤に到達し、同地で戦っていた第36連隊第2,3中隊と合同に成功しました。


 この普軍拠点に対し、仏軍(主としてシッセ師団)は波状攻撃を掛けますが、仏軍は突撃の度にドライゼ銃の一斉射撃を浴びて撃退されてしまいました。その内、仏歩兵はドライゼ銃の射程外(500m程度)まで後退して散兵線に籠もり、射程の長いシャスポー銃で普軍を一方的に狙い撃ちする作戦に切り替えたのです。

 これは相当普軍を苦しめることになりました。

 ここでは鉄道堤以外に遮蔽物もなく、仏軍散兵線が東側南北に長く延びていたため側面からも射撃を浴び、普軍は短射程のドライゼ小銃では反撃も出来ず、飛び交う銃弾の下で身を縮めるしか避けることが出来ません。しかも、普軍砲兵と砲撃戦を行っていた仏軍砲兵も、普軍砲兵の対抗砲撃が弱まるに連れ、次第にこちらの普軍歩兵を狙って砲撃を加えるようになり、榴散弾やミトライユーズの散弾が有効弾として着弾し始めると死傷者が増え始めるのでした。

 しかし、彼らは一歩も退くことをせず、キュセ森北東角を死守するのです。


 一方、先へ進んだ第84連隊の第1大隊は、普軍砲兵線の北西側の窪地を進み、アマンヴィエ西郊外に面したキュセ森東端の小林に達しました。

 ここには第36連隊の第2中隊の一部が前進して盛んにアマンヴィエ郊外の仏軍散兵線に銃撃を行っていました。ここで84連隊第1,3中隊は36連隊第2中隊の兵士と合流し東側の敵と戦い始め、第1中隊はこの小林南端を、第3中隊は東端を死守することとなります。


 第84連隊第1大隊の残り第2,4中隊は左翼へ進み、F大隊の戦うキュセ森北東端で一時予備となりましたが、ほぼ同時に普第25「ヘッセン大公国」師団の砲兵がアボンヴィル部落南東郊外まで前進したため(後述)、84連隊第1大隊の半個大隊はヘッセン砲兵から同士撃ちされないため右へ転回し、キュセ森東端の小林西にある空き地へ退き、ヘッセン砲兵の射界を空けるのでした。


 この間もヴェルネヴィルの南東、シャントレンヌの農場で前進を阻まれたブルーメンタール少将率いる前衛支隊主力(フュージリア第36連隊第2,3大隊、猟兵第9大隊第1,2,4中隊)は、仏グルニエ師団の戦列歩兵と激闘を繰り広げていました。


 ブルーメンタール少将はフュージリア第36連隊の第3大隊を先行させ、大隊は第9,12中隊、第10,11中隊の順に横列縦隊となって農場へ突撃します。荒野を駆け抜けた先頭の半個大隊は、農場付近の生け垣や東側の高地から猛烈な銃撃を浴びつつも前進を続け、遂に農場を陥落させたのです。

 この時、第10、11中隊は一旦南へ離れ、敵が潜む可能性のあるジュニヴォー森北西縁に沿って進み、仏軍が南側から攻撃しないことを確認した後にシャントレンヌへ進みました。続行する36連隊第2大隊はその右翼側を進み、その後方に猟兵3個中隊を引き連れ、不気味なジュニヴォー森へと入って行ったのでした。


 現代は伐採され小さくなっているジュニヴォー森は、当時はヴェルネヴィル北に広がるキュセ森と同じく大きな森で、南側アル渓谷へと流れるマンス川の小渓谷により東西二つに分かれていました。


 当時、その西側の森には仏軍はいませんでしたが、例の如く夏草は森を通過困難としており、マンス川の東側にはル・ブーフ大将麾下の各師団からそれぞれ前衛が前進していたのです。

 ネラル少将師団の戦列歩兵第90連隊と第69連隊第1大隊、そしてメトマン少将師団から派出された2個大隊(計6個大隊)はジュニヴォー東森の中心付近を守備し、モントードン少将師団の第2旅団(第81,95連隊)はその北、ラ・フォリの家西側にあるジュニヴォー森へ続く小林に陣地を構築していました。

 

 強力な敵が待ち構える東へ向かって、ジュニヴォー西の森を進んだ普第36連隊の第5,8中隊がマンス川の渓谷に達した時、対岸より猛烈な銃撃を受けました。それは激しく容赦のない銃撃で、数倍の敵が対岸に潜むことが明らかとなります。一方的な守勢へ追い込まれた第36連隊第2大隊と猟兵大隊は、激しい銃撃に食い止められて退くにも退けず、この地で持久の銃撃戦を行うしかなくなってしまうのでした。

 しかしなぜか仏軍は、優勢な内に前進することをせず、優勢なシャスポー銃による銃撃で幾度も普軍を圧倒したものの、最後まで突撃へ移行することはなかったのです。


 この時、シャントレンヌ農場でもブルーメンタール少将が躍起となってラ・フォリへの東進を企てていましたが、第36連隊第3大隊の2個中隊を、農場東に緩斜面を成す高地の端に進めただけで頓挫してしまいました。

 仏軍の散兵線はよく練られて作られており、歩兵は前述通りラ・フォリの家西側の小林からジュニヴォー森縁に掛けて厚く展開して、その西側の荒野や耕作地に対し射界を開き、ここを東進し先へ進むことを自殺行為に近いまでにしていたのです。

 また、ラ・フォリからモンティニー城館の間に展開する仏第4軍団は、砲兵を巧みに高地線へ配置して、特にシッセ師団に配属されるミトライユーズ砲1個中隊(6門)は、ラ・フォリ西側の小林を狙う普軍の前進を阻み、その南に展開するグルニエ師団のミトライユーズ砲中隊は、小林の南端とジュニヴォー森との間を進もうと企てる普軍部隊を完璧に阻止したのでした。


 ここに至ってブルーメンタール少将も、ラ・フォリの家へ進撃することは全滅を意味することを認め、シャントレンヌ農場を普軍の前進拠点として死守する他ない、と決心するのです。

 将軍はジュニヴォー森で停滞してしまった第36連隊第2大隊と猟兵第9大隊(第3中隊欠)をシャントレンヌまで呼び戻す命令を発しました。これら前線部隊は猛射撃を浴びつつ犠牲を出しながらも、死地の森から脱してシャントレンヌまで戻ったのでした。

 

 こうして第36連隊第2と第3大隊は、同連隊長ハンス・フリードリヒ・フォン・ブランデンシュタイン大佐の指揮下に再び帰して、シャントレンヌ東側高地の縁に散兵線を築き、第2大隊を左翼、第3大隊を右翼として展開、第6中隊のみ後方に予備として残ったのでした。

 シャントレンヌ農場では兵士たちが即席のバリケードや塹壕を作って防御力を高め、ここを猟兵第9大隊第1中隊が守り、第2,4中隊はジュニヴォー森北西端で待機して仏第3軍団諸隊への備えとなりました(同第3中隊はヴェルネヴィルに残っています)。

 このブルーメンタール隊の戦線は遮蔽が少なかったこともあって、途切れなく続く仏軍の銃砲撃で損害が膨らみました。特にジュニヴォー森北東端から発せられる砲撃は効果的に着弾して普軍を苦しめ、ブルーメンタール将軍は第36連隊第11,12中隊をシャントレンヌへ突き出す形のジュニヴォー森北端へ送り、仏軍砲兵を脅かしますが、そこを維持することも僅かの時間でしかなく、敵の銃火のため少時で撤退するしかありませんでした。


 午後1時、ブルーメンタール将軍は猛銃砲火に晒される最左翼への増援として猟兵第1中隊を送り、ジュニヴォー森北端から猟兵第4中隊を呼んでシャントレンヌの守備を交代させます。こうして再び両軍は膠着状態に陥って、際限ない不毛な銃撃戦を行うのみとなるのです。


 この頃(午後1時)キュセ森の南側1058高地の尾根にある普軍砲列は最大の危機を迎えていました。


 正午過ぎから砲撃を始めた途端、三方から銃砲火に晒されることになったこの砲列に対し、アマンヴィエを守るロロンセ少将師団からミトライユーズ砲中隊が前進し、その最も効果の高い有効射程(1,500から2,000m前後と思われます)から普軍砲列最左翼に対し猛烈な勢いで砲撃を加えたのです。

挿絵(By みてみん)

 ミトライユーズ砲

 この時(午後1時)の砲列最左翼は砲列からやや西に下がっていた野戦砲兵第9連隊重砲第4中隊で、既に30分ほどの短期間で仏軍の銃火により大きな損害を被っていたこの中隊は、ミトライユーズの有効弾が着弾し始めるや数分間で殆ど全滅状態となってしまいます。士官と砲長全てと砲兵40名が死傷し馬匹もほぼ全滅してしまったのです。

 この惨状を知ってか知らずか、時を合わせるように仏軍散兵線に動きがあり、グルニエ師団の第1旅団から旅団長ベロン・ベルクール准将直卒の仏猟兵第5大隊と戦列歩兵第13連隊が出撃し、突然高地東側の麓に現れると普軍が慌てる早さで一気に高地を駆け上がり、重砲第4中隊の陣地へ突入しました。


 この危機の直前、砲兵中隊長のヴェルナー大尉は既に重傷を負っていましたが後送を拒絶、同じく殆どが負傷者の砲兵たちを叱咤激励し、なんとか生き残った数頭の曳馬に2門の砲を繋ぐと高地西の斜面下、キュセ森の縁まで退却するのです。

 中隊残りのクルップ6ポンド砲4門や砲車は仏軍の手に落ちてしまいました。

 しかし、仏軍にとって貴重な戦利品となった大砲は、馬がなくては銃火の下運び出すことは困難でした。仏軍は多くの遺棄された荷車と砲2門をそのまま高地に残し、人力で運ぶことが出来た2門のみメッスまで運び去ったのです。


 ヴェルナー大尉が命を賭して守りキュセ森まで避難した2門も、この地で馬匹が全て銃火に倒れてしまい進退窮まっていましたが、進出して来たヘッセン師団の歩兵が助太刀し、人力で安全な後方へと引いて行ったのでした(後述)。

 後日談となりますが、高地上の遺棄された2門は会戦後に普軍の手に戻り、奪われた2門はメッス要塞で発見され、再建された中隊の手に戻りました。

挿絵(By みてみん)

クルップ砲とプロシア砲兵


 この間、普第9軍団砲兵部長のフォン・プットカマー少将は、キュセ森東端へ前進して来た第84連隊第1大隊に命令し、苦戦中の砲兵援護のため最前線に進出した第1中隊を割いて1058高地尾根の南東側へ展開させました。

 中隊はここで浅い窪地を拠り所に普軍砲兵に銃撃を続ける仏散兵線と激しい銃撃戦となりますが、さすがにこの場所は仏軍陣地から丸見えでたちまち銃撃に圧倒され損害が続出するのです。中隊長のフォン・コッシェムベーア大尉も瀕死の重傷を負って倒れ、生き残った僅かな兵士は再び尾根を越えて後退するのでした。

 ここで第1中隊に代わって、キュセ森東端の小林西にある空き地で待機する第2中隊が前進を命じられました。

 第2中隊も第1中隊が戦った南東斜面に至るや銃撃戦を始めましたが、こちらも同僚と同じく大きな損害を受けたものの斜面を死守し、ささやかではあったものの砲兵に懸かっていた敵の圧力を分散させたのでした。

挿絵(By みてみん)

 プットカマー

 これら第84連隊第1大隊の犠牲もあり、仏軍は一時的に普軍砲兵線への前進を拒まれましたが、砲兵たちの苦難は去ったわけではありません。


 重砲第4中隊の全滅後、砲列最左翼となった騎砲第2中隊も大損害を受けていましたが、こちらは一歩も退かず規律を保って砲撃を続けていました。それに続く軍団砲兵たち(重砲第3、軽砲第3,4中隊)も損害激しく砲撃不可能な砲も数多くありました。

 士官や砲長も多くが倒れ、フォン・ヤーゲマン大佐が負傷後送された後、指揮を代わったダラプスキー中佐もまた負傷してしまいますが、こちらは後送を拒絶し、前線に留まりました。しかし中佐の副官は戦死してしまったのです。

 砲列右翼となる第18師団砲兵(重砲1,2、軽砲1,2中隊)は多少ですがシャスポー銃の最大射程に近く、斜面が北側よりは多少隆起して僅かでも遮蔽となっていたため、左翼側の軍団砲兵よりは損害は少ないものでした。それでも損害は無視出来るものではなく、特に士官に死傷者が相次いで、砲兵隊長フォン・ガイル少佐の戦死後も古参士官に負傷が続き、午後1時過ぎにはその指揮は唯一残った大尉でコロンベイの戦いでも活躍した軽砲第2中隊長、フォン・アイナッテン大尉が執っていたのでした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ