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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
225/534

グラヴロットの戦い/「敵右翼がそこにあれば攻撃せよ」

 8月18日午前9時における普軍の状況を、その右翼側(東)から簡単にまとめます。


☆第一線部隊


○第7軍団

 主力はグラヴロットの南側に集合しています。前哨部隊(3個大隊)はヴォーの森(ボア・ドゥ・ヴォー)東縁まで進出し、仏軍と小競り合いの銃撃戦を続けていました。

○第8軍団

 正面をやや北東に向け、ルゾンヴィルからヴィレ=オー=ボア(ルゾンヴィル北2キロ)にかけて展開、停止しています。前衛はジュニヴォー森に対面し、「北ルート」上の「バニューの家」付近まで前進しています。

○第9軍団

 中心を「北ルート」(グラヴロット~エテン街道)のコル農場付近として、前哨をヴェルネヴィルに対して街道北のゾイヨンの森に沿って展開しました。

○近衛軍団

 マルス=ラ=トゥール西郊外で第12軍団の前進通過を待っていました。この後、第12軍団の後方をドンクール(=レ=コンフラン)へ向け行軍する予定です。

○第12「ザクセン王国」軍団

 後衛がマルス=ラ=トゥールを通過中で、前衛は目的地のジャルニーに到着、右翼側がガラ空きなので前哨をドンクール西郊外まで進出させ、また、前衛はヴァルロア付近まで進出した後、待機に入っています。


☆第二線部隊


○第3軍団

 当初第9軍団と近衛軍団の中間後方に進む予定でしたが、大本営から命令変更され、前進準備をしたままヴィオンヴィルで待機となりました。

○第10軍団

 近衛軍団と第12軍団の中間後方に進むため、トロンヴィルで前進準備をしていました。

○騎兵第5師団

 第10軍団隷下としてトロンヴィル南郊外で待機しています。

○騎兵第6師団

 第3軍団隷下としてヴィオンヴィル南西のゴルズ高地北西端で待機しています。

○騎兵第12「ザクセン」師団

 既に目的地のジャルニーの西ピュクスに達し、「北ルート」を封鎖して待機に入りました。


挿絵(By みてみん)

 普兵(左)とザクセン兵(右)


 また、各師団所属の騎兵部隊からは偵察と軍団間連絡任務のため、多くの斥候や小騎兵部隊が第一線部隊の前方で活動していました。

 第23「ザクセン第1」師団のライター騎兵第1連隊は右翼側で近衛驃騎兵連隊の1個中隊と連絡し、軍団境界に敵斥候などが入り込まないよう警戒します。

 この近衛の驃騎兵中隊は既に午前6時30分、近衛第1師団長のフォン・パーペ少将から命令されブリュヴィルを経てドンクールへ先行したもので、彼らはドンクールに敵がいないことを確認すると更に北上し、バチイイ(ドンクール北東4キロ)まで進み出ました。

 ここでサン=プリヴァー方面を偵察せよと命じられて前進して来た第25「ヘッセン」師団のライター騎兵1個中隊と邂逅します。彼らは第9軍団長マンシュタイン将軍の命令でコル農場から偵察に進み出たものです。近衛驃騎兵はヘッセン軽騎兵に後を託し、ドンクールまで引き上げたのでした。

 この他のヘッセン騎兵たちは第8軍団の前衛驃騎兵中隊と連絡して軍団境界線を守り、その反対側では第7軍団の驃騎兵たちが第8軍団と連絡を取り合っていました。


 この独第一軍の前哨部隊は午前9時から先、仏軍の野営地で理解に苦しむ現象を目の当たりとすることになりました。

 戦線最南端となるヴォー森東端の前線からは、「ロゼリユ~ジュシー付近の野営が撤去されつつあり、天幕は巻き取られ馬車と兵士らが行軍縦列を作って北か北東に向けて出発するように見える」との報告が第一軍本営に届けられたのです。

 しかし、その前線では相変わらず仏軍は遠距離からのシャスポー銃による狙撃を行っており、グラヴロット北東高地上に敷かれた仏軍の散兵線から西側のジュニヴォー森に進む行軍すら観察されていたのでした。


 ここで独軍側に重大な誤認が発生するのです。

 第一軍本営ではロゼリユ付近の仏軍の動きを「一部がメッスへの退却を始めた」と信じますが、実際は仏軍が最南端の部隊を予定された本陣地へ北上させる動きだったのです。

 実際の前線における兵力は変わらず、第7軍団の前線から入った報告から「敵が減った」と誤認した第一軍本営は、午前中次々に入って来た第8軍団の前哨(第60連隊第1大隊や第67連隊F大隊)からの報告も「都合よく」(例えばジュニヴォー森への前進を「後衛」と信じるなど)解釈し、「敵は総退却を始めたのではないか」と疑い始めたのでした。一向に前進せずに砲撃と銃撃で満足する仏軍の姿を、グラヴロット南の高地から自ら観察したシュタインメッツ将軍ら第一軍の首脳たちも、開戦以来の経験も相まって「敵の退却」という結論を急いでしまったのです。

 シュタインメッツ大将はこの主旨に沿った報告をフラヴィニー丘の大本営へ送付するのでした。


 また、この時もそうであったように、大本営直轄と指定された第8軍団の指揮権を気にするシュタインメッツは、変わらず第8軍団に報告を求めるなどの「訓令」を発しており、野戦指揮官で現役最長老にあるシュタインメッツを当然ながら尊敬していたはずのゲーベン将軍も、大本営と第一軍両方から命令を受け取ることとなってしまい、自身の「身の振り方」を難しくするのでした。これも後に会戦の推移に微妙な影響を与えたのです。


 前述しましたが大本営は午前9時過ぎ、既に数々の報告を吟味して、仏軍は前線の「ジュールの家」からジュニヴォー森東高地は変わらず確保しているものの、後方の野営では活発な行動を起こしており、おそらく本隊はメッス方面へ後退しつつあり、前線に展開する兵力も次第に減って行くだろう、と判断しました。シュタインメッツ将軍の報告は、それを裏付ける証拠ともなったのです。

 ほぼ同時刻に届いた第二軍のカール王子の報告にも「第一線の3個軍団は北ルートに停止、第18師団はコル農家付近に、第12軍団はジャルニー付近に到着した」とした後、「敵の部隊は一時ヴァルロアにいたものの、その敵も東方に向け退却した模様」とあり、これも都合良く解釈すれば、仏軍が「東」へ撤退中の証拠と言えるのでした。


 しかし実際には、これだけの内容で仏軍が全て東へ退却するのか、陣地線に留まるのか、大局を判断するにはまだまだ情報が不足気味だった筈です。

 それでも普大本営は午前9時30分、第二軍本営に対し以下の情勢通告を行ったのでした。


「第7軍団の東では軽微な散兵戦闘が行われている。また、メッス方面の高地上では軍の移動が望見され、それは北方に向かっている。敵はブリエ方面へ移動する可能性がある。第一軍の援軍としては、第3軍団(直後にこの任務は第2軍団に変更されます)をヴィオンヴィルあるいはサン=マルセルから東へ進ませることになるが、(仏軍がロゼリユ方面から北上しているので)これ以外に援軍は必要ないものと考える」


 この通告が行われる少し前、第一軍本営に「お目付け役」として派遣されていた参謀本部参謀でザクセン軍の首席参謀、カール・ルートヴィヒ・フリードリヒ・ベルンハルト・フォン・ホルレーベン=ノーマン少佐がフラヴィニーの丘に帰って来ます。

 少佐は自ら観察して来た敵の状況をモルトケらに報告し、更に「敵はなお大きな戦力を保持したままジュニヴォー森の西端まで進んでおり、これは敵が一戦を交える覚悟を決めた証拠に見える」と自らの意見を開陳するのでした。

 午後10時になると、大本営の命令を直に受け取るため、第一軍参謀長のフォン・スペルリング少将が騎乗して訪れ、ホルレーベン少佐と同様の意見を述べたのです。

 ここに至って大本営も決戦の火蓋を独軍側から切る覚悟を固めました。

 午前10時30分、第二軍本営に対し重要な次の命令を達したのです。


「到着した諸報告を総合すると、仏軍はジュールの家からモンティニー城館までの間を死守するつもりのようである。その歩兵4個大隊は前進しジュニヴォー森に入った。国王陛下は、第12と近衛軍団でバチイイ方面へ進撃し、北部の敵がブリエ街道を西進した場合はサント=マリー=オー=シェンヌ(ヴェルネヴィル北5キロ)付近でこれを攻撃し、もしも仏軍が動かず、プラップヴィルの西側高地線に留まった場合は、アマンヴィエ方面から攻撃するのがよかろう、とお考えになった。この攻撃は各方面同時に時機を合わせて行うことが肝要である。つまり、第一軍においてはヴォー森及びグラヴロット方面、第9軍団はジュニヴォー森及びヴェルネヴィル方面より、第二軍左翼の2個(12と近衛)軍団は北方より、全て同時に行うものとする。  フォン・モルトケ」


 この命令を見ると、少なくともモルトケは東に展開する敵は「後衛」ではなく「本軍」であると見抜いており、また、その前線の端はアマンヴィエ付近まで延びているだろう、と考えていたことが分かります。

 他の「楽観」主義者よりは随分マシなものの、実際は、更に1個軍団の仏軍(第6軍団)がアマンヴィエの北、サン=プリヴァーからロンクールまで戦線を延ばしていたので、これは大きな誤認と言えるのです。


 モルトケはシュタインメッツが逸って先走らぬよう、第一軍に対しては別命も用意します。それによれば、「第一軍は左翼側で第二軍諸団隊が前進を継続し攻勢の準備が整うのを待った後に、初めて攻撃を開始せよ」とのことでした。

 フォン・スペルリング第一軍参謀長は、この命令をモルトケから直接受け取って第一軍本営へと帰って行ったのです。


 このように、普大本営の総攻撃計画の根幹には「仏軍陣地線の最右翼はアマンヴィエ付近」との「思い込み」がありました。また、「敵は西へ突破しようとするはず」との「思い込み」もまた同時に存在していたのです。


 この「思い込み」は第二軍本営のカール王子やスティール参謀長にも同様にありました。彼らは昨日来の、「敵はベルダンへの突破を諦めていないはずで、未だ主力を以て北西へ退却行を続けるか、ムーズ川への退却行を企んでいるに違いない」との考えを捨て去っていなかったのです。

 何故ならば、今朝に至ってもなお、「前深夜(17日夜)、仏軍はドンクールを通過して行軍して行った」との情報が入って来ていましたし、他の情報を詳細に吟味しても、敵の西進を「完全に」否定出来る材料は存在しなかったからでした。その上、第一軍の発した「ヴォー森東側の敵が野営を徹して北上」との前哨報告もカール王子の下へ届けられ、あのザクセン軍フォン・トライチュケ参謀の「ブリエまで敵影なし」との報告も、事前の「ドンクールの北及びヴァルロアの西に敵あり」の情報から「敵は一時的に退却した」即ち「一旦東で集合し西行を再開するのでは」との推察へ変換されてしまうのでした。


 第9軍団長マンシュタイン将軍のコル農場から報告も当初は「北方及び北東方面に向かった斥候は一切敵を見ず」とのことでした(詳細は後述)。

 この報告と前後して先行し斥候偵察に出ていた近衛驃騎兵中隊も「ドンクール周辺の現地民を尋問した結果、仏軍は17日ドンクールを発ったとのことだが、その行軍方向はブリエ、エテン、メッスと語る者により様々で一定せず」と混乱が助長される報告を上げたのです。

 

 こうしてカール王子は従来信じ続けた「仏軍の西進」を否定することが出来ないまま、総攻撃を目前としたのでした。

 取り敢えず、ザクセン軍団の前哨がブリエ近郊まで進み、ブリエ街道付近に敵がいないとのフォン・トライチュケ参謀の報告は、「仏軍はまだ東の陣地線から動いていない」との確信に変わるのです。


 ここで重要なのは、攻撃側の心理です。敵が動こうとしている、と信じて攻撃する、ということは、敵は「一時的に現陣地にいるだけ」即ち「陣地は仮の居場所であるから真剣に死守など考えまい」との「油断」が底に潜むことでしょう。

 逆に敵は動かない(死守する)、と信じ攻撃するには、攻撃側に相当な犠牲と覚悟を要することになります。


 普軍はここまでの戦いで、仏兵個人の勇気や能力に対しては「侮り難い」と思っていました。また、シャスポーやミトライユーズなどの新兵器に関しても「恐るべき性能」と考えていました。その結果、「普軍の誇る圧倒的な砲撃力で先に敵を粉砕し、弱らせた後で歩兵が突進、ドライゼ銃でも届く近距離で互角に持ち込み砲撃を併用して敵を叩く」との必勝作戦が次第に注目されていました。

 今回も普軍首脳は、敵は何とか普軍の攻撃をかわして「ベルダンへ逃走」または「メッスへ後退」しようと考えている、と信じ、「それならば、先制し砲撃を加えれば仏軍は陣地を長く保持することはあるまい」との考えで動き始めたように見えるのです。


 しかし、バゼーヌ始め高級指揮官たちはどう考えていたにせよ、実際前線に展開した仏軍将兵たちの心情はどうだったのか、と言えば、ある者は、「連戦連敗に我慢ならず、この有利な陣地帯から敵に一矢を報いたい」と考え、またある者は、「一度も敵と交戦することなく逃げるように右往左往の行軍が続き、これでようやく敵と戦うことが出来る」と考えていました。

 確かに将兵の半数以上に厭戦気分が潜み始めていましたが、まだまだギリギリのところで仏軍の秩序とプライドは保たれていたと思われるのです。


 この西へ動くことなど考えていない、一度は普軍に「土を付け」てやろうと「燃えて」いる仏軍陣地帯に、まずはほぼ同数の普軍が正面から向かって行くことになったのです。


挿絵(By みてみん)

 仏軍の野営


 カール王子はヴィルヘルム国王の(即ちモルトケの)意図に基付いて第9並びに近衛軍団を右旋回(東向き)する準備を決します。

 午前10時、つまり大本営が10時30分に発した命令以前、第二軍は第9軍団に対し、後に問題となる以下の命令を発しました。


「ヴェルネヴィルからラ・フォリの家(ヴェルネヴィルの東3.5キロの農家。現存)を目標に前進し、『仏軍右翼がそこにあれば』まず砲兵を集中して展開し砲撃から戦闘を開始せよ」


 同時に近衛軍団に対しては、「ドンクールからヴィルネヴィルに向かって前進を継続し、目的地に達したならば停止して第9軍団を後方から援助せよ」と命じ、第12軍団は予備としてそのままジャルニー近辺に留まるよう命じられたのです。


 また、待機していた第3軍団にも「コル農家に向かって前進を開始せよ」との命令が下りました。

 第3軍団は直前まで「第一軍を援助する予定であるからヴィオンヴィルに留まれ」との命令を受けていましたが、大本営は午前10時前に「仏軍が直ちに第7軍団に対し攻勢を仕掛ける危険性はなくなった」として命令を取り消し、「第3軍団の使用は以降自由、代わりに前進中の第2軍団は到着次第、第一軍の予備とする」と第二軍に通告していたのです。


 この命令を決したカール王子は、大本営から派遣されていた参謀フォン・ブランデンシュタイン中佐に対し、「モルトケ将軍に第二軍の部署を報告して貰えまいか」と頼み、中佐は早速フランヴィルの丘へ向かい、モルトケ始め大本営のお歴々に第二軍の行動予定を説明したのです。

 中佐の報告は午前10時30分過ぎとなり、時はちょうど大本営が「総攻撃」命令を第二軍に対し発した直後(第一軍にはスペルリング参謀長へ直に発令)だったのです。


 この「総攻撃」命令が第二軍本営に伝わったのは午前11時ですが、ブランデンシュタイン中佐が大本営へ去った後も、新たな情報が前線より届いていました。


 第一軍の前線を視察して来た第二軍本営の工兵本部員、フォン・ベルゲン大尉の報告では、「仏軍はジュールの家付近の高地上において戦闘態勢にあり、第一軍の前哨に対する銃撃も激しくなっている」とのことでした。

 この頃、近衛軍団本隊はドンクールに達し、先行する驃騎兵たちはサント=マリー(=オ=シェンヌ)からブリエまで、長距離に渡って偵察を行いますが、現地民を尋問しても、街道筋を捜索しても、このブリエ街道沿いには軍隊が通過した痕跡は一切なかった、と報告しました。

 第二線となった第10軍団には、ドンクール方面から逃げて来たらしい負傷した仏兵が投降しますが、その尋問によれば、仏軍は17日正午にメッスに向かって急ぎ後退して行った、とのことでした。


 これらの情報と届いた大本営の「攻撃」命令は、仏軍主力がメッス前面に存在することを確実にしていました。

 カール王子が「万が一」と考えていた「既にブリエ街道を敵が進んだ」との想定も、近衛軍団驃騎兵の偵察結果により否定されます。これでカール王子も、右旋回後の「背後」(西)を気にせず攻撃を行うことが出来るというものでした。


 しかし、普軍が解決すべき問題はまだ存在していました。

 仏軍の戦線は一体どこまで延びているのか、という問題でした。


 仏軍が陣地線を構築している姿は、ヴォー森付近からライプツィヒ農場付近までは確認されていました。しかしその先がどこまで延びているのか、地形と森林が邪魔となってはっきりとしていませんでした。

 第二軍ではモンティニー城館までは敵の存在を斥候が確認しましたが、それ以北となるとさっぱり分からなかったのです。


 ここで第9軍団の斥候たち(ヘッセン大公国騎兵など)が送った報告が、午前11時過ぎに第二軍本営に届きました。

「ジュアヴィル(ドンクール北東2.4キロ)には敵はいない。しかし現地民の尋問によれば、北方に仏軍の集団がいるとのこと」

「アマンヴィエとサント=マリー間の高地上には、敵の斥候が進出し、サン=プリヴァー=モンターニュ付近には敵の野営があり」

 この重大な報告は命令通り軍団本営だけでなく第二軍本営と大本営(正午過ぎに到着)まで直ちに送られました。


 仏軍右翼(北)がアマンヴィエより北に延長している、という点は非常に重大でした。

 戦線を形として対峙して戦う「会戦」では、その翼端が弱点と言われ、この「端」を狙う作戦は古代から数多くありました。正に戦術の常道で、普第9軍団が命じられた「ヴェルネヴィルからラ・フォリの家を目標に前進し、仏軍右翼がそこにあれば攻撃せよ」という命令も、敵の翼端を叩く狙いに他なりませんでした。仏軍が戦線をアマンヴィエより北に延ばしているとしたら、ヴェルネヴィルを攻撃する第9軍団は「敵の右翼」ではなく仏軍が両側から支援可能な「中央」へ突進することとなり、正に強襲と言える状態となるのです。

 同時にモルトケの「夢」見た「右翼と正面同時の攻撃」も危ういものとなったのです。


 戦後に普参謀本部戦史課が編纂した普仏戦争公式戦史では、この辺りを、「マンシュタイン将軍にカール親王が与えた命令は単に、敵の右翼がラ・フォリの家付近にあった場合に砲撃のみで攻撃せよ、としていた」等とひどい言い訳をしていますが、この後の展開は、明らかに参謀本部と第二軍本営の失態と言えるものでしょう。更に大本営10時30分発の「総攻撃」命令も、「変更相次ぐ状況に応じて各隊が適宜に協力して臨機に部署を定めるもの」等とするに至っては、戦場で死んだ将兵が浮かばれまいと思うのです。


 いずれにせよ、カール王子は大本営10時30分発令の「総攻撃」命令を受け、午前11時30分、第9軍団に以下の命令を発令しています。

「仏軍の右翼がアマンヴィエより先に延伸している場合を考慮し、ラ・フォリの家に向かう攻撃は、近衛軍団がアマンヴィエ方面から攻撃準備が成るまで待つこと」

 また、近衛軍団には、「ヴェルネヴィルへ向かい迅速に前進した後、アボンヴィル(ヴェルネヴィル北2.3キロ)へ向かい、ここから迂回してアマンヴィエ付近で第9軍団左翼と連絡し、更に北にある仏軍右翼を攻撃せよ」

 同じく第12軍団には、「サント=マリーへ前進せよ」

 第12騎兵師団には、「一部は西方警戒に残し、他の一部はメッスのモーゼル下流河畔に向かい、メッスとティオンヴィル間の鉄道と電信線を破壊せよ」

と、それぞれ命じたのでした。


 第二線部隊に対しても命令が下ります。

 第10軍団はサン=アイル(サント=マリー南南西1.5キロ)へ向かうこととなり、第3軍団は第二軍本営と共に前進し、第9軍団の後方に付くためヴェルネヴィルへ向かうこととなりました。

 ポンタ=ムッソンよりビュシエールへ前進中の第2軍団には、全軍の右翼(第一軍)の予備となること、ビュシエールからルゾンヴィルへ向かうことが命令されたのです。


 第二軍本営からこの命令が発送されつつあった正午頃、ヴェルネヴィル方面から砲撃音が響きました。これは正に、普第9軍団が戦闘を開始したことを敵味方等しく報せることとなりました。

 普軍としては、正式な命令の前に再び独断で攻撃が開始されてしまったのです。

 慌てたカール王子は、直ちに幕僚を率いて、ヴィオンヴィルからサン=マルセルを経て前線に騎行したのです。


 ヴィルヘルム国王と大本営は正午になっても変わらずフラヴィニーの丘にいましたが、ここにも「ヴェルネヴィルの砲声」が響きます。大本営も第二軍が計画した「包囲攻撃」が「右翼側」から遂に始まったと信じましたが、モルトケらは同じ砲声を聞いたに違いないシュタインメッツの第一軍が、時期尚早の攻撃を始めるのではないか、と危惧するのです。


 そこでモルトケは以下の命令を伝令士官に持たせ、第一軍本営のシュタインメッツ将軍の下へ走らせたのでした。

「只今、ヴェルネヴィル方面から砲声が聞こえているが、これは独立した第二軍の戦闘であり、第一軍の戦闘開始を告げるものではない。第一軍はまだ兵力を敵に現す時期ではない。必要であれば攻撃準備として砲兵のみ準備のため、敵に姿を現すことを許す」


 こうして普大本営は独第二軍を以て、仏軍陣地線の正面と側面を同時に攻撃する任務を与え、第二軍は仏軍「右翼」に対して決定的な攻撃を行うことになり、独第一軍は仏軍陣地線でも強力な左翼から中央に掛けて、一時的に持久しながら戦う任務を受けることとなったのでした。


挿絵(By みてみん)

左・着剣したシャスポー銃を持つ仏兵

右・着剣したドライゼ銃を持つ普兵


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