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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
223/534

グラヴロットの戦い/1870年8月18日午前(前)

 8月17日の夜。仏メッス要塞西側に広がるヴォー森では、普第7軍団と仏第2軍団がにらみ合っていました。

 わずか10日前、逸るフォン・カメケ普第14師団長の独断攻撃で始まった「スピシュランの戦い」でも死闘を演じたこの両者は、再びモーゼル川西岸のこの森林地帯で、ザール川西岸での戦いが霞むほどの激しい損耗を繰り返すこととなるのです。


 お互いに敵の状態が不明であったこの日、このアル渓谷とシャテル渓谷に挟まれた狭い高地では、目前にしっかり敵を見ることが出来、翌日の激戦を覚悟する場所となっていました。


 普第7軍団の前衛「W・ヴォイナ少将支隊」の第53「ヴェストファーレン第5」連隊第1、2大隊は、「ジュールの家」を中心に南北に展開する仏軍に正対し、ヴォー森南東から東端にかけて展開していました。

 この戦場全体として最南端となるこの地区では、シュタインメッツ将軍の戦闘中止命令が出た後も、夕暮れに至るまで散発的に銃撃戦が続き、仏軍陣地からは4ポンド砲とミトライユーズ砲による砲撃も行われたのです。


 この戦場の北側では、普第77「ハノーファー第2」連隊の第1、2大隊が命令により一度は侵入したグラヴロット部落から南へ後退し、オニオン森北端の線を維持し夜を明かします。

 その左翼は第8軍団の右翼と連絡し、第二線となっていた第53連隊フュージリア大隊(歩兵部隊の第3大隊。以下F大隊)はアル(=シュル=モセル)からグラヴロットに通じる街道(以下アル街道)に接するオニオン森の縁で野営しました。

 この他の普第14師団諸隊は、アル街道が渓谷を過ぎてグラヴロット南の高地へ登り始める地点まで前進し集合していました。


 普第7軍団残りの部隊はアルの街に集合し、第13師団主力と軍団砲兵隊等は街の西郊外とアル渓谷の入り口付近で野営し、クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将率いる第26旅団、砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊軽砲第5中隊、驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊第4中隊による支隊は、軍団長フォン・ツァストロウ大将直轄の軍団予備として街の守備とメッス方面(北東側)警戒任務に当たりました。


 このアルの街には午後4時、フォン・シュタインメッツ大将と第一軍本営が前進し、この街からグラヴロットに至る担当地域の今夜から明日にかけての部署を命じます。

 この命令により、第26旅団の前哨はヴォーの部落に向かって前進し、猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊も第53連隊の右翼側(南東)を強化するためヴォー森内へと入っていったのでした。


 この時、第一軍傘下の第8軍団は第7軍団の西側、ゴルズ部落付近に展開していました。しかし、軍団の間にはオニオン森を中心とする連絡困難な森林が広がっています。このため、第一軍による統一指揮は困難と見たモルトケは、フォン・ゲーベン大将の第8軍団を一時「大本営直轄」とするのです。

 この普参謀本部の命令で第15、16の両師団はゴルズ北東に、軍団砲兵は南東郊外に、それぞれ野営地を設け留まることとなりました。

 軍団前衛はオットー・ユリウス・ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・シュトルプベルク少将指揮の第30旅団の一部で、第67「マグデブルク第4」連隊、砲兵第8「ライン」連隊軽砲第2中隊、驃騎兵第7「ライン第1・国王」連隊の1個中隊からなっていましたが、この前衛支隊はサン=タルヌー林の北縁に沿って展開し、東側のオニオン森に展開する第7軍団の第77連隊と連絡を付けるのでした。


 この軍団に属する第31旅団は、偉大な父を持つブルノ・フォン・グナイゼナウ少将に率いられ、不成功に終わったティオンヴィル要塞攻撃から長駆戻ってこの日、アリー付近に到着しています。

 また、第一軍所属の騎兵第1師団は、命令通りコルニー付近まで前進し渡河準備を開始しました。この師団所属でメッス監視のためフェ(コルニー東3キロ)付近に残留していた槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊は夕刻、騎兵第3師団の胸甲騎兵第8「ライン」連隊と交代し、本隊を追ってコルニーへ向かいます。メッス要塞警戒を託されたライン胸甲騎兵はオニー(コルニー北東5キロ)とモーゼル河畔のジュイ=オー=アルシュ(コルニー北北東3キロ)へそれぞれ前哨として1個中隊を送りました。

 この17日夜、騎兵第3師団の残りはコワン=レ=キュヴリー(コルニー東7キロ)周辺で野営しています。


 ところで、シュタインメッツ大将に命じられたフォン・マントイフェル大将の第1軍団砲兵によるメッス要塞への「陽動」砲撃は17日夕刻、命令通り実行されました。

 軍団砲兵隊(野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊騎砲兵大隊と第2大隊/6個中隊36門)と砲兵第1大隊(第1師団砲兵。4個中隊24門)はラクネイーからメルシー=ル=メッスに展開し、また砲兵第3大隊(第2師団砲兵。4個中隊24門)はペルトル南西の高地に砲列を敷いて、午後5時から6時30分まで、メッス要塞のクール分派堡とメッス要塞本体に対して激しい砲撃を行いました。要塞の損害は普軍側からは窺い知ることは出来ませんでしたが、多少の火災を発生させたようで、仏軍は要塞重砲で応戦しましたが多くは普軍砲列を飛び越えて着弾し、普軍側の損害はありませんでした。任務を終えた普砲兵は再び野営地へと引き上げたのです。

 メッス監視の普第1軍団はこの夜、クールセル=シュル=ニエとラクネイー周辺に陣地を構え野営しました。


 17日午後遅くに到着し翌日の会戦を示唆した大本営命令により、普第一軍はアル在の本営より午後6時に軍命令を発します。これによると第7軍団は18日午前5時、現在位置のまま戦闘準備を成すこと、このヴォー森は全軍が東側へ転回運動をするための支点となるため、絶対死守することが命令されました。


 大本営により第8軍団の指揮権を「奪われた」形となったシュタインメッツは、第7軍団が「孤立」して敵の大軍と対峙するので現在でも非常に危険な状態にあること、第8軍団がゴルズ付近に残留し「指揮権」を奪われた状態では、第7軍団は必要な支援を受けられないこと、そしてグラヴロット高地上でミトライユーズ砲に狙われながらも観察した敵状報告を併せ、ポンタ=ムッソンへ帰ったモルトケへの親書として夕刻、大本営へ送るのでした。


 モルトケの回答は翌早朝午前4時、シュタインメッツの下へ届けられました。

 この書面には、これから行う独軍の攻撃主旨を明確に記して、気を許せば独走するシュタインメッツが誤解しないように全体の戦略を示した後、以下のように「言い含め」ています。

「第7軍団は一時的にせよ守勢を採ることを命じる。第8軍団と連絡するということは前方へ招致する時以外にない(つまりは攻勢時)ので許されない。敵がもし、メッスへ退却することが確実となれば、我が軍は全軍が右側(東)へ旋回することになり、第8軍団もこれに従い行動することとなる。もし第一軍(第7軍団と軍直轄のみ)が(苦戦に陥って)援軍を要請する場合は(第8軍団ではなく)第二軍の後続部隊(第2軍団など)がこれを行うことになるだろう」としています。


 これを読んだシュタインメッツは18日午前7時、麾下部隊でもメッス警戒のためにモーゼル東岸に残すこととなっていた第1軍団の軍団長、フォン・マントイフェル大将に以下の主旨の訓令を発しています。


「本日第7軍団は団隊毎の梯団となり、左翼に連絡する第8軍団と第二軍が右旋回運動するための支点となる。しかし現在、当軍団は孤軍となり非常に危険な位置にあるので、おそらくは敵大軍の本格的な攻撃に対し耐えることは出来ないと思われる。このため、当軍団はモーゼル東岸に残る部隊の応援を必要としている。貴官には第7軍団援護のため、歩兵1個旅団に砲兵2、3個中隊を付属させた支隊を作り、要塞からの砲撃を避けて迂回しヴォー部落(アル=シュル=モセルの北2キロ)方面へ送って欲しい。万が一、敵が裏を突いてアル(=シュル=モセル)へ攻撃を仕掛けた場合は対岸より敵の側面を攻撃してもらいたい。騎兵第3師団はオニーとマルリー方面に展開し、先の第7軍団支援支隊の援護をせよ」


 なお、モーゼル河畔のコルニーで渡河準備を終え、待機に入った普騎兵第1師団師団長フォン・ハルトマン中将は17日夕刻、「明18日、会戦が惹起したら状況を観察した後、臨機応変の独断を以て会戦に参加せよ。この際師団を率いてルゾンヴィルの高地まで進むには、コルニー~ゴルズへ至るルートを使用せよ」との第一軍命令を受けています。


 こうして東のアル(=シュル=モセル)から西のアノンヴィル(=シュゼモン)に至る、総延長18キロに及ぶ独側戦線には、17日の夕刻、独軍(普王国・ザクセン王国・ヘッセン大公国)の7個軍団と騎兵2個師団が戦闘準備を整え、翌日に備えて野営に入ります。ポンタ=ムッソンには軍の総予備として第2軍団があり、コルニーには騎兵第1師団が、パルフォンドリュプトには騎兵第12師団がそれぞれ待機していました。

 最前線にある諸隊の17日夜における本営の位置は以下の通りです。


○第7軍団(ツァストロウ大将) アル

○第8軍団(ゲーベン大将) ゴルズ

○第9軍団(マンシュタイン大将) フラヴィニー

○第3軍団(C・アルヴェンスレーヴェン中将) ヴィオンヴィル(第5師団と軍団砲兵はビュシエール)

○第10軍団(フォークツ=レッツ大将) トロンヴィル

○第12軍団(アルベルト・ザクセン大将) マルス=ラ=トゥール(第24師団はピュキュー)

○近衛軍団(アウグスト・ビュルテンベルク大将) アノンヴィル

○騎兵第6師団(W・メクレンブルク=シュヴェリーン少将) フラヴィニー

○騎兵第5師団(ラインバーベン中将) トロンヴィル

○近衛騎兵師団(K・フォン・デア・ゴルツ中将) トロンヴィル(第3「竜騎兵」旅団)アノンヴィル(第1「胸甲騎兵」旅団)

 ※近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団はサン=ミエル(ムーズ川方面)


 結果的に第4軍団と第1軍団、騎兵第3師団は目前に迫った会戦に直接参加することは出来なくなりました。しかし、シュタインメッツ将軍が第1軍団に援軍を命じたため、間に合うなら東岸から第1軍団の1個旅団が参戦する可能性が生じます。しかし既に17日の夕刻、モルトケ参謀総長は第1軍団長のフォン・マントイフェル将軍に対し、「もしも敵が優勢な兵力によりメッス要塞を出撃し攻勢に出た場合、第1軍団は(躊躇なく)レミリー(メッス南東20キロ)方面へ待避せよ」と命じており、彼らの参戦は微妙となっていました。


 この独軍19万に近い一大戦力に対する仏「バゼーヌ軍」は、17日夕刻までに以下の位置へ布陣しました。


○仏第6軍団(カンロベル大将) 

 ロンクール北郊外~サン=プリヴァー=ラ=モンターニュ南郊外(ブリエ街道の南まで)

○仏第4軍団(ラドミロー中将) 

 右翼を第6軍団に連絡し、アマンヴィエを中心に南は「モンティニー城館」(モンティニー=ラ=グラン=シャトー)付近まで

○仏第3軍団(ル・ブーフ大将)

 右翼を「ライプツィヒ農場」(フェルム・ドゥ・ライプツィヒ)、左翼を「モスクワ農場」(フェルム・ドゥ・モスコー)に置き、その間の高地線に展開

○仏第2軍団(フロッサール中将)

 右翼を第3軍団と連絡しつつ「ジュールの家」(ル=ポワン=ドゥ=ジュール)付近から南へ、ロゼリユ(アルの北3キロ)部落付近までに展開

○仏第5軍団フェルディナン・オーギュスト・ラパス准将旅団

 「マルス=ラ=トゥールの戦い」において970高地で善戦し、引き続き第2軍団に属したこの旅団は、モーゼル河畔警戒としてサント=リュフィーヌ(ロゼリユの東1キロ)周辺に布陣

○ドゥ・バライユ混成騎兵師団

 ヴェルネヴィルより北進しサン=プリヴァーの東郊外で野営

○フォルト騎兵師団

 ロゼリユの東で野営

○近衛軍団(ブルバキ中将)

 総予備としてメッス要塞の西側分派堡のサン=カンタン分派堡とプラップヴィル分派堡の西側に展開

○軍総予備砲兵

 プラップヴィル分派堡とメッス西側郊外との間に待機

○バゼーヌ大将の本営

 プラップヴィル部落(分派堡の東麓)


 バゼーヌ大将としてはこの布陣で独軍の攻撃を粉砕し、あわよくば反撃出来るだろう、としたのです。

 前述しましたが、各軍団は指定された展開地で布陣し終えると、弾薬補給と糧食補充を始め、痛みに堪えて追従して来た多くの負傷者の後送も行いました。

 これも前述ですが、第2軍団が盛んに防御工事を始めるとル・ブーフ大将の第3軍団も塹壕や土塁、交通壕を築き始めます。これにより「ジュールの家」や「モスクワ農場」、「サン=テュベールの農家」(フェルム・ドゥ・サン=テュベール。ジュールの家北北西600m、グラヴロット東北東1.7キロ付近。現存)などは、たちまち堅固な拠点となったのです。


 仏軍が構える陣地帯は、全線に渡って東側後背地が高地かその斜面となっていました。また、その前面となる西側は全てが緩斜面となり、所々では射界が開けた攻める側には危険な要塞の堤のようになっていました。

 特にライプツィヒ農場からロゼリユに至るモンヴォー川に沿った第2、第3軍団の陣地帯は、後背にサン=カンタンやプラップヴィルの分派堡があって砲撃などの支援が期待出来る上に、南側はモーゼル川が防御線となり、前面にはマンス川のアル渓谷があるという難攻な地帯でした。しかし同時に仏軍側には後方連絡線がロゼリユの東側とシャテル=サン=ジェルマン(ロゼリユ北2キロ)付近にしかなく、後退時や援軍の投入に支障が考えられるのでした。


 これに対し、仏軍右翼(北)側のサン=プリヴァー付近では南側に比べ仏軍にとって地勢的な利点は少なく、その上に前述通り第6軍団は防護工事を行わなかったため、仏軍側の「弱点」と考えられます。

 それでも仏軍戦線最右翼となるロンクール付近では、後背は踏破困難なジョモンの森(ボワ・ドゥ・ジョモン。ロンクールの東)で守られ、またサン=プリヴァーの部落も、頑丈な石や堅い煉瓦造りの家屋や高い生垣があり、簡単には攻め落とせない状況にありました。

 

 仏バゼーヌ軍は、この北はロンクールから南はサント=リュフィーヌに至る約12キロの戦線に12万5千から15万(諸説あり。11万2千8百という説も)に達するほぼ全力を注ぎ込んだのです。


 明けて8月18日午前6時。

 普国王ヴィルヘルム1世は、大本営従事者を引き連れて黎明前にポンタ=ムッソンを発し、再びフラヴィニー南方の丘陵を訪れました。この地に居残っていた命令伝達のための大本営幕僚に出迎えられた国王は、第一、第二両軍との連絡を密とするため、高級参謀を幾人か指名して各本営へ走らせました。

 大会戦に際してモルトケ率いる普参謀本部の願いを受け、今後、重要な決定は全て大本営が行うと伝達し、二度と独断と僥倖によって勝利が左右されぬようにしたのです。


 第一軍傘下第7軍団の参謀長フォン・アンガー大佐は同時刻、アル在の第一軍本営に次の敵状報告を送りました。

「敵は未だに昨日と同じ位置にあり。ジュールの家並びにサン=テュベールは強力な拠点となり砲兵と歩兵の大集団が展開中である。またモスクワ農場からライプツィヒ農場付近に続く敵の野営も変わらず、その活動は活発である」

 第一軍本営では既に昨日シュタインメッツ大将が発した「意見」に対するモルトケの返答も届いており、前述通り将軍は、第1軍団と騎兵第1師団に前進を促すと自ら敵を観察するため午前8時、幕僚参謀を従えてグラヴロット南方高地へ向かうのでした。


 この時、第7軍団の正面では黎明時より敵味方の斥候が忙しなく行き来するようになり、正に「鍔迫り合い」といった様相を見せていました。

 双方の斥候はお互いを見つけると直ちに銃撃戦となり、それは次第に激しいものとなって行きます。

 この朝の仏第2軍団は非常に積極的で、バタイユ師団の仏猟兵第12大隊はヴォー森東端を目指して開墾地を前進し、前日午後から森の東端を押さえていた普第53連隊第1,2大隊に銃撃戦を挑んだのです。既にシュタインメッツ大将はここに普猟兵第7大隊を送っています。普猟兵は3個中隊でヴォー森北東端を死守しており、その東側の荒野にある遮蔽物をうまく利用して即席の陣地としていました。その左翼には第53連隊第1大隊が散兵線を敷き、同第2大隊はアルの北西から「ジュールの家」付近にある採石場へ続く小道の両側に展開しています。

 ところが、彼らの左翼(北西)側森林には仏軍散兵が深く入り込んでおり、3個大隊は敵中に突出する危険な形になっていたのです。

 しかし、仏軍は銃撃を仕掛けるものの突撃はせず、普軍の「針銃」ドライゼ小銃の短い射程(550m)を知悉する仏軍は、その外から射程が倍(1,100m)のシャスポー小銃で銃撃を加えるだけで満足するかのようでした。また仏軍は「ジュールの家」付近から榴弾砲撃も加えましたが、概ね普軍は高台にいて遮蔽物も豊富にあったため、損害を被ることはほとんどありませんでした。


 この第53連隊の親部隊、W・ヴォイナ少将率いる第28旅団の残部はグラヴロットに面して展開し、ほぼ南北に展開し東を向く第一軍の左翼(北側)を構成していました。

 この日早朝、非武装の仏軍兵が東より街道をグラヴロットへ向かうのを第77連隊の前哨兵が発見します。おそらくは飲料水の確保と思われましたがW・ヴォイナ将軍は直ちに第77連隊第1大隊の1個小隊を突進させ、この仏兵たちを蹴散らすのでした。

 この第1大隊は、オニオン森とアル渓谷北端に挟まれたヴォー森最北端の突角に布陣していましたが、将軍はここで前進を命じ、グラヴロット南郊外に布陣し直したのでした。


 W・ヴォイナ支隊の南方では、第27旅団を中心とする第14師団本隊が午前5時を以てオニオン森北側に集合し、戦闘準備を完了します。この場所はジュールの家に布陣する仏軍からは森林により遮蔽されており、敵に気付かれることはないものと思われていました。

 ツァストロウ将軍直属とされアルに留め置かれた第26旅団を除く第13師団は、軍団砲兵や騎兵と共に黎明から戦闘準備を始め、順次グラヴロット南方高地を目指して進み始めるのでした。


 同じ18日朝。大本営直轄に指定されたフォン・ゲーベン大将の第8軍団本営は午前8時、第一軍本営に以下のような報告をしています。


「我が軍団は午前6時にゴルズを発しルゾンヴィルを経て前進し、前衛はヴィレ=オー=ボア(ルゾンヴィル北2キロ)を目標に進み、西側を進む第9軍団と連絡を付けた。同軍団は左翼(西)を以てサン=マルセルに向かって進むものである。しかし現在のところ、その後をどうするのか情報を得ていない。又、(北からの)砲声もしない。我が軍団は一時ルゾンヴィルで停止し、命令を待って北西あるいは北東に向かって出発する準備を為すものである」


 ゲーベン将軍は「静止する敵に向かって東へ向かう」のか「逃げる敵を追って北上する」のかを大本営が定めるまで、ルゾンヴィルで待つと言うのです。

 命令されずとも正確に参謀本部の意図を読むところは、さすが名将ゲーベンと呼ぶべきで(独公式戦史でも賞賛しています)、自分の任務は第二軍の最右翼を進みながら、状況に応じて左右どちらにも素早く動けるようにすることだ、と見切っていたのです。

 この後はカール王子の第二軍がどう動くかによって決まる訳で、それを待つ、ということは同じく全軍転回の「支点」となる第7軍団にも期待されることなのでした。

 ひょっとするとゲーベン将軍はモルトケの意を汲んで、敵に「ちょっかい」を出されてむずむずしていると思われるシュタインメッツ将軍に対し、「忍耐し待機」という大本営が望む形を「親父殿、私も動かずにいるので、どうか辛抱し動かずにいてください」と伝えたかったのかも知れません。


 しかし、やはりというか流動的な戦場の状況はモルトケやゲーベンが望む理想的な形にはならず、さすがのゲーベン将軍も流れには逆らえず、その渦中へと巻き込まれて行くこととなるのです。


挿絵(By みてみん)

戦場の郵便(エミール・ヒュンテン画1873)

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