8月17日・大会戦前日の普仏両軍(後)
普第一軍は8月16日夕刻に発せられたモルトケ参謀総長の命令により、17日午前、速やかにモーゼル川を渡河しグラヴロット方向へ前進することとなりました。しかし、未だモーゼル川西岸における仏軍の展開状況は判明せず、第一軍本営としては速やかな前進のためにも敵の情勢を知ることが重要でした。
そこで黎明時、第一軍から参謀副長の伯爵フォン・ヴァルテンスレーベン大佐が前線視察のためモーゼル川を渡河します。大佐は国王が前線にいると聞き及ぶとフラヴィニーへ直行し、部落近郊の丘陵にいたモルトケ大将と協議するのでした。その結果、情報と意見とを書面にして副官に持たせ、コルニーで待っているはずのシュタインメッツ大将の下へ走らせたのです。
「敵は大方メッス要塞方向へと退却を始めたが、未だにルゾンヴィル及びグラヴロットに居座っている部隊もある。第7軍団はコルニー付近で渡河した後、アル渓谷を遡ってグラヴロットへ向かって前進することが必要とされるだろう。同時に、軍団右翼警戒のため、アル渓谷東側のヴォー森にも一部隊を派遣することが必要となるだろう。第8軍団についてはアリーより渡河後、直ちにゴルズの右翼東側へ進み、ルゾンヴィルを目標に北上することが求められている」
この書状がコルニーに達する前、既にシュタインメッツ将軍はコルニーを発ってモーゼルを渡河しており、対岸のノヴィアン(=シュル=モセル)に進んでいました。この地から午前8時45分、第一軍に対し今後の目標を予告し、騎兵第1師団に対し前衛をコルニーまで前進させるよう命じていました。
これと前後してフォン・ヴァルテンスレーベン大佐本人と、遠回りをさせられた書状がノヴィアンに到着し、参謀副長から前線の状況を聞いたシュタインメッツ将軍は、まずは後方メッス要塞を警戒中の第1軍団長、フォン・マントイフェル大将に宛てて次の書面を送るのでした。
「第1軍団の砲兵隊は本日(17日)、メッス要塞に対し陽動の砲撃を行い、要塞周辺の守備兵の注意を引き付け、決戦に向かう第一軍から敵の注意を逸らすようにして欲しい」
シュタインメッツ将軍はこの書面を伝令に託すと、本営と共にモーゼル渡河中の第7軍団を迎えに行くのでした。
この時、第7軍団の前衛として最初にモーゼルを渡河したのは、第28旅団長のヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将を長とする「W・ヴォイナ支隊」でした。
第28旅団(第77「ハノーファー第2」連隊のF大隊欠・歩兵5個大隊)、驃騎兵第15「ハノーファー」連隊の第2中隊、野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊の軽砲第1中隊からなる前衛支隊は午前9時、ノヴィアンからアル=シュル=モセルへ向けて出発、アルで左へ旋回しグラヴロット目指し渓谷に沿って北上しました。
その先頭を行くのは驃騎兵中隊で、マンス川下流から二番目の水車で独呼称アイゼングルーベ水車場(グラヴロット南2.2キロ付近)に至った時、敵の前哨と接触し銃火を浴びます。数人の騎兵が負傷する中、総大将にも関わらず最前線の現場に駆けつけたシュタインメッツ将軍は、前方のオニオン森に向かって攻撃を掛けるよう追って駆けつけたW・ヴォイナ将軍に命じるのです。
少将は第77連隊の2個(第1,2)大隊を横隊縦列の戦闘隊形とすると、グラヴロットの南側まで広がるオニオン森北端までの占領を命じ、第53「ヴェストファーレン第5」連隊F大隊を攻撃第二線として続行させます。
また、第53連隊第2大隊に命じ、アイゼングルーベ水車場の300m上流にあるマンス水車場の横から急斜面を登らせてロゼリユに至る小林道を前進させ、同連隊第1大隊にはその南の林間を東へ進ませました。
各大隊は夏草生い茂る森の通過に難渋しますが、短くも激しい銃撃戦の後、次第に林間の仏軍を圧倒しつつ撃退したのです。この仏軍はメトマン師団の一部前哨で、中には近衛擲弾兵も混ざって戦っていた様子でした。
この銃撃戦で普第77連隊は士官3名・下士官兵二十数名の損害を受けますが、午後1時過ぎオニオン森の北東端まで占領することに成功するのです。
この連隊右翼(東)はヴォー森西端まで進みますが、ここで南西方向から前進して来た第53連隊の第1,2大隊と接触し、後を任せて西側へと転進しました。この53連隊も林間にいた仏軍前哨と戦い排除して進み出たのです。
森から追い出された仏軍前哨は、なおしばらくの間オニオン森の北端に沿って展開し、普軍と散発的な銃撃戦を行いましたが、やがて親部隊のメトマン師団がグラヴロットの西郊外と南から退去し始めると続いて後退し、午後3時にはグラヴロット部落自体からも退去して行ったのでした。
ルゾンヴィルの仏軍06
メトマン師団はこの後「モスクワ農場」から北へ展開するル・ブーフ大将の仏第3軍団本隊へ復帰し散兵線に加わりました。同時にヴェルネヴィルで前進警戒任務に就いていたドゥ・バライユ少将騎兵師団も北のサン=プリヴァー方面へ引き上げて行くのでした。
因みに所属連隊がたった1個(アフリカ猟騎兵第2連隊)だったバライユ騎兵師団は17日、第3軍団のドゥ・クレランボー少将騎兵師団から第1旅団(第2,3,10驃騎兵連隊)を編入、4個連隊の「混成」騎兵師団となっています。
敵が重要な拠点であるルゾンヴィルとグラヴロットを「捨てた」ことを知った第一軍司令フォン・シュタインメッツ大将は、好機とばかり前進を急いだかと言えば、そうはなりませんでした。
何故ならば、W・ヴォイナ支隊が戦闘中、慌てた大本営から矢継ぎ早に連絡士官がやって来て「戦闘中止」を強硬に命じられたからでした。
大本営からの使者が伝える口述命令はモルトケ参謀総長発令で「本日に戦闘を行うのは大本営の意図にない。明日全軍を挙げて敵と会戦を行うので、目下の戦闘はこれを中止自重せよ」との内容でした。
モルトケは国王と共にフランヴィルの丘から東側の銃声を聞き、直ちに本営の参謀数名に命令を伝えるよう急派したのでした。また、第7軍団の西を行く第8軍団長のフォン・ゲーベン大将も、上司のシュタインメッツ将軍に対し「命じられたルゾンヴィルへの前進は大本営のモルトケ将軍より命令が届いたので中止した。大本営は現在地で留まれとのことである」との内容の報告書を送るのでした(後述します)。
シュタインメッツ将軍は直ちに麾下部隊に命令を送り、それによれば「部隊はそれぞれ林端に達したなら前進を止め、少数の前哨と斥候のみを前方に派出せよ」とのことでした。
この後、シュタインメッツ将軍と第7軍団長フォン・ツァストロウ大将、第14師団長フォン・カメケ中将の3名はそれぞれ幕僚を従えて揃って将校偵察を行うためグラヴロットの目前まで前進しました。
するとヴォー森から「ジュールの家」(ル=ポワン=ドゥ=ジュール)、そしてモスクワ農場の高地に仏軍の野営テントが延々と続くのが確認され、仏兵が防護用の塹壕や鹿柴(木柵)を造っている様子が観察されるのでした。将官たちはこれで敵の「一部」前線が目前に展開していることを知るのです。
この目立つ騎馬の集団に対し、昨日から「ジュールの家」付近に砲列を並べていたミトライユーズ砲中隊が砲撃を開始し、その集中した弾丸が普第一軍首脳の傍らに着弾したため、こんなところで上司を失っては適わないと焦る副官たちに促され、将官たちは威厳を失わぬよう悠々と丘を降りるのでした。
シュタインメッツ将軍の攻撃中止命令を受けたW・ヴォイナ少将は午後4時過ぎ、それでも「この位は」と敵の去ったグラヴロット部落と西郊外の郵便局を占領し、北のヴェルネヴィルに未だ騎兵部隊が駐屯しているのを望見するのでした。少将は仏騎兵を砲撃するため、率いた軽砲中隊に前進と砲撃準備を命じました。これをシュタインメッツ将軍に伝え、許可を得ようとしましたが、司令官は許可しませんでした。
これは、ここまでの各会戦の発生状況から特に大本営が堅く命じていたもので、即ち「常に普軍砲兵の砲撃により仏軍が大きく反応して戦闘が拡大しており、結果、無闇な砲撃は意図しない戦闘を呼ぶので厳禁する」というものでした。
これが原因で大本営から二回も「叱られている」シュタインメッツ将軍は、偶発的な砲撃を防ぐため、「念を押して」この砲兵中隊を後退させています。
ルゾンヴィルの仏軍07
普国王ヴィルヘルム1世は前述通り17日午前中、大本営の側近を引き連れ、カール王子の第二軍本営と共にフラヴィニーの丘陵上で敵を観察し、斥候たちの報告や進軍中の各軍団からの報告を受けました。
正午頃になると、国王含め普軍の将官たちは誰もが「本日仏軍の攻撃はない」と確信しますが、その「真意がどこにあるか」については誰もが図りかねていたのです。
騎兵たちの報告は敵の動きについて当然ながら部分的な状況しか伝えず、このパズルのピースを一つの「絵」に組み上げるはずの本営の秀才参謀たちも、形の揃わないピースだらけ(矛盾した敵の行動)で一つの絵(答え)を導き出せずにいたのでした。
正午頃の国王たちの一致した意見としては、「仏軍は保持していた陣地を捨て、東か北へ向かっている」というものでした。しかしこの敵の後退方向が問題で、バゼーヌは一体、メッスへ引き上げようとしている(東)のか、それとも北へ進み「メッス~ブリエ街道」から西への突破を謀ろうとしている(北)のか、意見の分かれるところでした。
このフラヴィニーの丘陵からは、東側はヴェルネヴィル西の高地からゴルズ北の森林地帯まで視界が開けており、そこにいる敵の動きは観察出来ましたが、北から北西にかけては起伏が大きく森や並木があり(ローマ街道址)その先を見通すことは出来ません。この方面は騎兵斥候に頼らざるを得なく、その報告が当初は西を目指す敵の存在を示していたので、敵の「北進後の西進」を疑った者がいたのです。
シュタインメッツ将軍の第一軍がグラヴロットの南で敵と衝突し、同時に敵が東側に展開し陣地を構築している姿を目撃した、との報告も敵のメッスへの後退を示す証拠とは言えませんでした。
何故なら、この陣地を構える敵が「本軍」なのか「支隊」なのかがはっきりとしないからで、これは前日、敵が「後衛」ではないかと最後まで疑っていたカール王子ら第二軍本営が唱える疑問でした。
カール王子は心中「実は仏軍はヴォー森からアマンヴィエ方面まで一部部隊のみが防衛線を敷き、その後方または面前を本軍が北上し、その先のサン=プリヴァー方面からブリエ街道に乗って西へ進むのではないか、否、もう既に西へと進んでいるのではないか?」と考えていたのです。
この他にも、北上した後にメッス要塞へ後退するのでは、と考える参謀もおり、普軍がこれからとるべき行動は非常に定め難くなって来るのでした。
ルゾンヴィルの仏軍08
こうなると、イロン川の遙か西を北上中のザクセン騎兵(騎兵第12師団)の報告が俄然注目されることになるのです。
午前中この騎兵師団は北上を続け、既に15キロ以上は走破してベルダン街道を越えているはずでした。もし敵に遭遇したならば、直ぐにでも至急報が届けられるはずです。
この騎兵の報告を待つ間、ヴィルヘルム1世国王は側近を引き連れ、昨日激戦を行った各部隊の野営地を視察しています。
国王自らの巡察に、当然ながら将兵は大熱狂で出迎え、根っからの軍人である国王は、息子と同等に感じる「愛すべき」兵士たちに激励と忠勇に感謝する言葉を与え、お返しに「国王万歳」の大唱和を受けるのでした。
フラヴィニーやトロンヴィルといった前線にある第3と第10軍団の各大隊は、17日午前中に部隊整理と集合を行い、午後早くには集合を終えて再び一つの戦闘単位として行動出来るまでになっていました。損害の大きな連隊は2個中隊を一つにするなど合併と再編を行い、同時に弾薬糧食等消耗品の補給を受けるのでした。
戦闘で空になった弾薬補給縦列は、遠くエルニーに向けて出発しました。この日は第二軍の予備弾薬廠がサルグミーヌからエルニーまで前進しており、ザール河畔からここまで汽車で送られた武器弾薬が、エルニー停車場周辺に所狭しと積み上げられていました。この後一大戦闘が発生することは確実だったので、この日は輜重部隊も大忙しだったのです。
また、糧食や馬匹の秣糧などは兵站部門の活躍で前線まで問題なく運ばれて来ましたが、ゴルズ高地の上では飲用の井戸や湧き水、小川などはほとんどなく、水が欠乏し始めていました。仏軍も攻めて来ないことから、この日正午を以て普第5師団と騎兵第6師団に対し後退命令が出て、飲水補給が可能なシャンブレー=ビュシエール周辺で野営し直すことになりました。
この間、普近衛軍団と第12軍団も戦場に接近して来ました。
第12軍団は午前9時30分に前衛がクソンヴィルに達し、「敵は攻撃して来ない」との情報を得てここで1時間休憩した後、再び前進を開始し、マルス=ラ=トゥールへ向けて進みました。この行軍はこの日第二軍本営が構えていたビュシエールの部落からもよく見えており、員数の減った第3軍団の兵士たちも、前衛に続き進み来る頼もしいザクセン本軍の到着を見てほっと胸をなで下ろしたのでした。
午後1時になると近衛軍団からも第二軍本営に報告が届き、「軍団はアジェヴィル(シャンブレー南西)に接近した」とのことでした。
こうして8月17日正午過ぎ、普軍は7個(第3、7、8、9、10、12、近衛)軍団と騎兵3個(第1、5、6)を戦場付近に到達させるのです。これにより国王始め独大本営の首脳陣は安心して敵と対決する準備が出来たと感じるのでした。
しかし、敵の動向は深く知れず、また敵が攻撃して来ないので、その撃滅を期するモルトケ将軍としては、こちらから攻める「攻勢作戦」を考えなくてはなりませんでした。
状況からして、敵は東側で態勢を整えており、ここは普軍側も大会戦の準備を行い、この決戦に際しては第一並びに第二軍を「今度こそ」統一的に中央統御して事に当たらなくてはならない、そうモルトケは決心するのです。
国王と参謀本部はこの日午後2時前、「翌18日に集結する戦力でこちらから攻撃を敢行する」、と決定します。これに先立ち正午頃、東側第一軍の戦区から銃撃戦の銃声がこだました時に、第一軍は正面を東側に転向するため極力敵との接触を避け、この日は防御以外の戦闘を禁止することも決したのです。
これは前述通り、これまでの戦闘が全て偶発的遭遇戦で発生し、それが中央統率の制御が不能なまま拡大したことへの反省からでした。
この「戦闘厳禁」命令を守らせるためにモルトケは八方手を尽くしました。前述通り数人の参謀士官に口述命令を伝えて走らせ、確実にシュタインメッツの耳に伝わるようにし、シュタインメッツ大将よりは余程分別のある第8軍団長のフォン・ゲーベン大将にも進撃中止を命じて、間接的にシュタインメッツの行動を封じる手に出たのでした。
ルゾンヴィルの仏軍09
午後1時、第二軍司令のカール王子は伯父でもある国王より裁可を貰い、麾下軍団に対し「現況に適合する部署」を命じました。
○第9軍団
軍右翼(東)としてヴィオンヴィル林の西端からゴルズ高地北部(989高地の西側)に展開(右翼側のサン=タルヌー林には第一軍第8軍団の第30旅団が展開しており、連絡を通しました)。
○第3軍団
歩兵第6師団は第9軍団左翼に連絡しつつフラヴィニー及びヴィオンヴィルに展開。騎兵第6師団は歩兵第6師団後方(南西方)に駐留し、歩兵第5師団はビュシエール周辺で野営。
○第10軍団
騎兵第5師団と近衛竜騎兵旅団(近衛騎兵第3旅団)は、歩兵第19、20師団と共にトロンヴィル周辺の野営地に展開。
○第12軍団
第23師団は第10軍団と連絡しつつ、マルス=ラ=トゥール付近に野営。第24師団と軍団砲兵隊はピュキュー周辺で野営。
更にカール王子は各軍団に個別の訓令を送り、特に第9、3、12の各軍団に対しては行軍予定方向(北)に前哨を配置し、北方における地勢や街道の状況を調査するため将校偵察を行うよう命じるのでした。
これを受け、普国王ヴィルヘルム1世は午後2時、フラヴィニー南の高地上より独第一並びに第二軍に対し以下の命令を発します。
「第二軍は明18日午前5時、現野営地を発し左翼(西側)より団隊毎にヴィル=シュル=イロン(マルス=ラ=トゥール北北西2.5キロ)からルゾンヴィルの線上より前進(北上)せよ。第一軍の第8軍団は第二軍右翼と連絡し連携して前進(北上)せよ。第7軍団は当初、敵が万が一メッス方面より攻勢を仕掛けた場合を考え、第二軍の前進側面を援護警戒せよ。国王陛下は、その後の行動に関して今後の仏軍の状況に於いて命令する、とお達しになった。本日、国王陛下に対する報告は、まずフラヴィニー南方高地上に在る陛下属員まで送付せよ。 フォン・モルトケ」
これで第二軍は敵を真横(東)にしながら前進することになります。まるで大海戦のトラファルガーやリッサ、将来のツシマのような「陸上のT字」(実際は最初だけ縦棒も横を向くT字で、後にⅡ字に向かい合う形となります)で一見、第7軍団が側面を防御することを考えても無謀な前進に見えます。また、この行軍により、従来第二軍が堅守していた方針、「全軍団ムーズ川への突進」はなくなりました。
この行軍は、次の2つの想定を両方とも叶えるためのモルトケ発案による作戦でした。
1・仏軍主力がもし「ブリエ街道」まで北上し西進していた場合、独第二軍はこの仏軍の側面南側から襲撃分断することが可能となり、この攻撃をかわした仏軍がオルヌ川を越え、更に北上しても25~30キロ先のベルギー国境までの狭い地帯、しかも起伏が大きな高地で戦うという厳しい状況になります(後に現実となりますが、敵に追われた野戦軍が中立国の国境を越えた場合、その時点でその軍は中立国によって武装解除され抑留されるのが国際ルールです)。
2・仏軍主力がメッス要塞に向かっていた場合、これを包囲するため、独軍全体が北へ戦線を延伸する必要があり、第二軍はオルヌ川付近まで戦線を延伸後一斉に東向きに転向運動することとなります。
繰り返しますがこの行軍は、たとえ東の敵が「後衛・殿軍」だとして、更に1個軍団が側面援護に回るとしても、想定数万の敵を至近に、大軍が側面を晒して先に進むという非常に大胆な作戦です。
この危険を無視出来たモルトケは、これまでの仏軍統帥部の「消極性」を根拠に「敵は襲撃して来ない」と「見切って」いたのでしょう。
ヴィルヘルム1世はこの命令を発した後、モルトケら大本営の首脳・側近を引き連れてポンタ=ムッソンへと帰って行ったのです。
さて、カール王子が国王から許可を得て麾下軍団に配置命令を発した時、行軍中の近衛軍団にも「第12軍団の後方、ピュキュー(マルス=ラ=トゥール南2.5キロ)付近で野営せよ」との命令が発せられました。
しかし伝令士官がこのエリート軍団を発見出来ず、命令書は漸く午後6時になってアウグスト・フォン・ヴュルテンベルク大将に手渡されます。
既に軍団は昨夜の命令に従い、ザクセン軍(第12軍団)の左翼、イロン川西岸のラテュール=アン=ヴォエヴル(マルス=ラ=トゥール西南西5.5キロ)からアノンヴィル(=シュゼモン(マルス=ラ=トゥール西3.5キロ)間に達しており、野営の準備も終え、到着の報告も第二軍本営に宛て発した後でした。アウグスト王子はカール王子の許しを得て、このままの野営地に留まり、前衛支隊(近衛第3旅団、近衛槍騎兵第2連隊、近衛砲兵2個中隊)を北方のブランヴィル南郊外にある小部落、ポルシェ(アノンヴィル北北西3.2キロ)まで進ませるのです。
近衛軍団の東側、マルス=ラ=トゥール付近に展開したザクセン軍団の衛生隊は、グリジエール農家(フェルム・ドゥ・グリジエール)付近で見捨てられていた仏軍負傷兵数名を収容し手当を施しました。
また、ライター騎兵第1連隊の斥候は北のジャルニーまで進みましたが敵兵を見ることはありませんでした。
この2時間ほど前の午後4時前、在ビュシエールの第二軍本営に待望のザクセン騎兵師団から北方偵察の報告が届きました。この騎兵師団からやって来た連絡士官は仏兵捕虜を数名引き連れていたのです。
この騎兵師団はアルベルト王子の命令通り17日早朝4時ヴィーニュル(=レ=アトンシャテル)を発ち、午前7時30分アルヴィル(マルス=ラ=トゥール西11.5キロ)付近のベルダン街道に到着、「敵影も大軍が行軍した形跡もない」、との報告を士官に持たせてザクセン軍本営へ走らせた後、更に北ルートに向け北上し、午前9時サン=ジャン=レ=ビュジー(アルヴィル北7.5キロ)付近で北ルートに到達しました。
街道には敵影も行軍跡も見えず、師団長の伯爵フランツ・ウント・エドラー・ヘル・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルト少将は直ちに街道の東西へ斥候を走らせ、また北方にも数組の斥候を発しますが、戻って来た斥候はいずれも「敵を見ず、行軍の痕跡もなし」と報告したのです。
ただ、ジャンデリズ(ビュジー東へ4.5キロ)に達した斥候隊は部隊からはぐれたか逃亡した数名の仏兵と遭遇し、短い銃撃戦の後に捕虜として連れ帰りました。
ツール・リッペ将軍は午後3時に報告と捕虜を連絡士官に託して送り出し、師団はサン=ジャン=レ=ビュジーに前哨を置いて北ルートを封鎖すると、本隊は1キロ南のパルフォンドリュプトで野営しました。
連絡士官の方は難なくアルベルト王子が待つマルス=ラ=トゥールに到着すると、報告を受けた王子は速やかに士官と捕虜をビュシエールへ送り出したのでした。
その後、ザクセン騎兵斥候は西側遠くエテン(ビュジー北西8キロ)にまで足を延ばして騎行し、また、逆の東側は(コンフラン=アン=)ジャルニジー(ビュジー東9キロ)でオルヌ川を渡るまで偵察を行いましたが、どちらの方面にも敵兵は1名も発見出来ませんでした。
また、付近の住民を尋問した師団本営参謀は、ナポレオン3世が昨日夕方、多くの護衛騎兵を伴ってサン=ジャン=レ=ビュジーを通過し、更に急いで西へ去った、との情報を得たのです。
この追加報告も第二軍本営に達し、最終的には深夜、ポンタ=ムッソンの大本営にも伝わりますが、「これらの情報は、18日に仏軍がこの北ルートやブリエ街道を西進しない、との確実な証拠とは言えない」として午後2時の「第二軍北進」命令を変更するまでには至りませんでした。
カール王子は夕刻、ビュシエールより命令を発し、「第10、12、近衛軍団長は前進に関する口達命令を受けるため翌18日早朝5時、マルス=ラ=トゥールに集合せよ」とし、「第3、9軍団長は前進に関する口達命令を受けるため翌18日早朝5時30分、ヴィオンヴィルに集合せよ」と達したのでした。
第二軍の殿軍、第2軍団は17日夕刻、ポンタ=ムッソンに一部列車を利用して到着しましたが、軍団長「シュウィープ森」のフォン・フランセキー大将は18日午前4時にポンタ=ムッソンを発してビュシエールまで前進するよう命じられました。
また、第4軍団に対してはカール王子の「意地」からか、命令変更はなく、依然としてムーズ川へ向かい、この17日命令通りブックに到着し野営に入りました。
こうして独第二軍は普仏戦争最大の会戦、「グラヴロット/サン=プリヴァーの戦い」前夜を迎えるのでした。




