8月17日・大会戦前日の普仏両軍(前)
8月14日に敵の後衛と戦闘(コロンベイの戦い)し、翌15日にその後退を認め、16日に会戦(マルス=ラ=トゥールの戦い)を行ったにも関わらず、17日午前、普軍は相手側仏軍の展開状況を一切掴めていませんでした。
このため、国王以下普軍の首脳陣は前線に十分な兵力が集まるまでのほぼ半日、敵からの攻撃を密かに恐れまんじりともせずに、ただ前線における敵の動きを注視するのみでした。
この「敵の状態が見えない」という状況は仏軍も同様で、バゼーヌ大将は普軍が戦力を集中し南部からグラヴロットを狙うだろう、と正確に判断していましたが、その敵が本当に南から来るのか、それとも西から来るのか情報は少なく、全く分からないままでした。そもそも敵の状況を探ることにも熱心ではなかったバゼーヌは、時間経過と共に増えて行くのは確実な普軍を前に、西側へ突破する気はなくなっていたのです。
しかし普軍がこの17日、ベルダン街道沿いに仏軍と同等の戦力を展開するまでには午後まで掛かり、この時(17日黎明時)仏軍が全力を挙げて「北ルート」なり「ブリエ街道」なりに北上し西へ転進すれば、まだ普軍を出し抜きベルダンへ脱出する可能性はあったのです。
しかし、後述しますがバゼーヌにはバゼーヌなりの考えがあり、仏「ライン」軍のベルダン脱出の可能性はこの17日の夜、遂に潰えるのでした。
この、目前数キロ先で行われていた仏軍の動きを探れぬほどまでに、普軍の偵察には「穴」があったと言われています。
確かに普軍の偵察行動は少数の騎兵により近場で限られた範囲内で行われ、ただ、ザクセン騎兵師団だけが、未だ仏軍が進んでいないイロン川の西岸遙か西でベルダン街道を横切って北上し、「北ルート」を目指していたのです。
このお互いの情報不足(偵察軽視とも)は、現代の人間から観れば非常にお粗末に見えます。
しかし、以前にも言及しましたので繰り返しとなりますが、この点(偵察不足)を以て「騎兵運用の失敗」と断じる方も多くいるのですが、しかしそれは「未来の後知恵」と言えるのではないか、と筆者は思います。
批判は「普仏共に偵察不足で、それが原因で作戦に齟齬を生じ犠牲を増やしたのは事実。しかし当時の戦術思考を以てしてはこれが限界だった」くらいにしておいた方が良いと思うのです。
普軍は8月16日を「騎兵の日」と定め、後々まで祝日としますが、あの「ローマ街道址」の南で「死の騎行」を断行したブレドウ少将旅団の将兵や、マルス=ラ=トゥール北の平原を敵味方騎馬の血で紅く染めた近衛竜騎兵やバルビー少将旅団の将兵は、この「批判」を耳にしたら「侮辱」と断じて決闘を申し込んだに違いありません。当時の騎兵にとって「攻撃」それも「決戦」的攻撃は存在意義の第一位であり「偵察」は二義的存在で、それは指揮命令をなす司令部でもそうであった、ということです。
この手の「過去の戦術批判」で注意すべきは、戦術的にも戦略的にも現代の常識では「間違い」に相違ない事柄でも、当時の「風潮」や「常識」を考えれば、当時これを止めたり変更したりする事を考えていた者は少数派であり、「進歩」の高みより、多くの「プロ」が「それで良い」と信じていたことを否定したとしても「当時の」真実など見えて来ないだろう、ということです。
この、持っている「物差し」の違い、「センチ(現代)と尺(当時)の違い」で意見は分かれるわけで、戦史を含めた歴史を捉えるとき、「現代の視点」なのか「当時の視点」なのか、立ち位置の違いで全く違う絵が見える、ということなのでしょう。
「危険域」に到達してしまいましたので、戦記に戻ります。
後の歴史家や戦術家から「穴だらけでお粗末」、と言われた普軍騎兵ですが、それでもこの17日、疲れた身体を押して精一杯偵察を行っていました。
しかし、多くの斥候が持って帰った情報は、お互いが矛盾するような、返って混乱を助長しかねないものが多かったことも確かでした。
普軍のある斥候は「敵はジャルニー(西)へ向かっている」とし、またある斥候は「敵はヴォー森(フォレ・ドゥ・ヴォー。グラヴロットの南東)高地上を占め、敵砲兵はこの高地を伝ってメッスへ至る街道へ後退中」と報じます。
午前8時には驃騎兵第16連隊の士官が偵察から帰り、「多くの敵集団がグラヴロットの西で北ルート(ドンクールへ向かう街道)の南側に集合している」とし、「敵の大軍は続々とグラヴロットの西側を目指しており、特にヴェルネヴィル(グラヴロット北4キロ)からグラヴロット方向への行軍が目立っている」と報告、「ヴィルネヴィルには騎兵の1個旅団が進んで来た」としました。この士官はまた、「騎兵の前進は新たな敵軍団がヴィルネヴィルへ進み来る予兆と思う」としたのです。
これを聞いた第二軍参謀でカール王子の副官、伯爵ゴットリーヴ・フェルディナント・アルベルト・アレクシス・フォン・ヘセラー少佐は、自ら敵状を確かめるため偵察に出、最前線で敵の動きを観察しますが、「敵の行動を見るところ、グラヴロットに後衛の陣地を構築しているように見え、しかも炊事の煙が方々から上がっているところから、これらの動きは攻撃準備ではない」としたのです。
この驃騎兵士官の観察と、カール王子「右腕」の観察が矛盾したのは、どちらかが見誤ったのではなく、どちらも「正解」だったのです(後述)。
結局、仏軍はルゾンヴィル~ゴルズ北の前線を17日昼前まで維持し続け、普第3及び第9軍団はその前方に薄く広く展開し睨み合っていました。
ヘセラー
独軍右翼トロンヴィル北の戦線は夜間、東側ルゾンヴィル方面に比べ普仏前哨の接触は少なく、黎明時にはお互い全く接触を失ってしまいます。これは普第10軍団長のフォン・フォークツ=レッツ大将が、早朝必ず仏軍が攻撃してくるものと信じ、会戦で損害の大きかった自軍団の様子を考慮した挙句「受け身」の配備を行って、前哨をかなり退いた状態にして斥候もあまり出さなかったからだ、と言われています。
17日早朝、このトロンヴィル周辺の普軍で最初に斥候を送り出したのは驃騎兵第11連隊で、午前5時45分、マルス=ラ=トゥールから1個中隊をドンクール方向に送り出しています。この斥候中隊は帰って来ると「ブリュヴィルには未だ敵の一大部隊がおり、郊外には広大な野営地が存在し、その北側の街道(北ルート)ではサン=マルセル(東)方向からベルダン(西)方向へ敵の縦列が進んでいるようにも思える」と微妙な報告を行います。この連隊からは午前10時過ぎにも1個中隊がジャルニー方面へ送られて、「ドンクール~ジュアヴィル(ドンクールの北東2.5キロ)間に砂塵が舞い上がっており、敵は北東方向へ後退していると思う」と真逆な報告をするのでした。
このように戦線の東西共、普軍は仏軍の定まらない行軍に苛立ちを覚えていましたが、当の仏軍にとってこの行軍は、バゼーヌ大将の作戦に従った至って真面目な行動だったのです。
ナポレオン3世皇帝やバゼーヌら、軍首脳の思惑など知る由もない仏軍将兵にとって「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」とは「勝利」にしか見えていませんでした。何故なら彼らは大きく後退していないからで、逆に普軍が夜になって始めた「逆襲」に対しても彼らはしっかり撃退しているのです。
中には戦意燃え盛り、直ちに前進し敵を撃滅しようと逸る者もいたようで、それは第6軍団や第3軍団の一部で予備に指定された者、そして近衛軍団の部隊に多く、何故なら彼らは開戦以来未だに一戦も交えていなかったからです。
8月に入り本格的に戦争が始まって以降、フロッサール将軍率いる第2軍団とアルザスで戦ったマクマオン将軍の第1軍団以外、どの軍団も半分程度の兵力を戦闘に用いただけで、未だ全力で戦ったことはなかったのでした。そのため、連戦連敗であっても案外士気が高い部隊も多く残っていたのです。
しかし、後退を続けて士気もガタガタに落ちていた部隊も多かったわけで、特に首脳陣の「不仲」が見えてしまっていた高級士官は、今後自分たちより員数が増えて行く一方の独軍との戦いを思い、憂鬱になっていたのではないかと思われます。
バゼーヌ大将は16日日中こそ優位か同等の戦力で戦ったものの、この先間違いなく普軍は増強され、17日以降は不利な戦いを強いられるだろう、と正確に状況判断していました。しかし、状況が有利な内に西側へ突破しようとはしなかったのです。
バゼーヌとしては堅固な大要塞メッスを至近にし、いつでもその中へ逃げ込んで籠城出来る状態で決戦を行おう、との考えが常にあったものと思われます。
既にマクマオン大将の軍は、アルザスからロレーヌの南部を抜けてシャロンへ進みつつありました。バゼーヌとしては迂闊に前進して独軍包囲の危険に晒されるより、メッス周辺で持久し、マクマオン軍の前進で挟み撃ちにする方が理に適う、そんなことも考えていたのではないか、と思われるのです。
また、彼の部下たちはプライドが高く彼を馬鹿にして協力的であったためしがなく、このまま独軍に対し一勝もせずメッス要塞を「捨てて」ベルダンへ「逃げ込め」ば、近い将来バゼーヌは事情を知らない国民から弾劾され、部下に裏切られて全ての責任を負わされ「生贄の羊」となり、過去の栄光も命でさえも全て失ってしまう、そのように考えていたのではないでしょうか?
このような心理状態下のバゼーヌは、激しい戦いで消耗し乏しくなった弾薬や糧食を得るためにも「不抜の要害」メッス近郊まで戻るべきで、直ぐにでも増強される普軍を前に、このままビュルヴィル~ルゾンヴィルの線で迎え撃つのは拙い、と考えました。もっとメッス寄りの「要害の地」へと下がり、しっかりとした防衛線を敷こうと考えたのです。
ルゾンヴィルの仏軍03
グラヴロットの東を流れアル=シュル=モセルでモーゼル川に注ぐマンス川は、案外幅のある谷(アル渓谷)を造り、東岸は緩斜面で視界が開けていました。その更に東側は小高い丘陵が川に沿って続き、その斜面は森となっています。更にその東側にはムーラン(=レ=メッス)へ流れるモンヴォー川がシャテル渓谷を造っており、このアル渓谷~シャテル渓谷の幅4、5キロの高地は散兵線や砲撃陣地の適地でした。万が一ここで負けても直ぐ東はメッス要塞の西側防衛拠点プラップヴィル高地であり、簡単にメッス要塞へ逃げ込めるのです。バゼーヌ大将はこのヴォーやロゼリユを南側、アマンヴィエからロンクールまでを北側として南北に防衛線を敷き、メッス西面を背景として決戦に挑もうとしたのです。
この作戦は早くも「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」終了直後には確定していた様子で、バゼーヌは16日深夜、以下の命令を麾下軍団に発しています。
「本日の会戦により銃砲弾の消費激しく、糧食も1日分しか残っていない。従って予定通りベルダンにこのまま進むのは困難であり、ここはプラップヴィル高地の前面まで後退することが軍の利益に適うと考える。
フロッサール第2軍団はライン軍最左翼としてル=ポワン=ドゥ=ジュール(グラヴロット東2キロにあった一軒家)からモーゼル河畔までに展開せよ。
ル・ブーフ第3軍団は第2軍団の右翼に連絡し「モスクワ農場」(フェルム・ドゥ・モスコー。グラヴロット北東2.4キロ。現存)、左翼を第4軍団に連絡して「ライプツィヒ農場」(フェルム・ドゥ・ライプツィヒ。グラヴロット北1.6キロ。こちらも現存)付近まで展開せよ。
ラドミロー第4軍団はアマンヴィエ(グラヴロット北北東6キロ)の北郊外~モンティニー=ラ=グラン=シャトー(現ボア・ドゥ・モンティニー付近の城館。アマンヴィエ南1.3キロ)までの高地に展開せよ。
カンロベル第6軍団はサン=プリヴァー(=ラ=モンターニュ。グラヴロット北8.5キロ)~ロンクール(サン=プリヴァー北1.5キロ)までに展開せよ。また一部隊によりヴェルネヴィル方面に前哨を置くこと。
ブルバキ近衛軍団は予備としてプラップヴィル高地で待機せよ。
ドゥ・バライユ騎兵師団は第6軍団の後方に待機せよ。
フォルト騎兵師団は第2軍団の後方に待機せよ。
その他騎兵は近衛軍団の周辺で待機せよ。
軍本営は17日プラップヴィルに在り。
総軍は明17日午前4時を期して行動を開始せよ。ただし、第3軍団は1個師団を以てグラヴロットに留まり、軍の後退を援護せよ。 バゼーヌ」
ルゾンヴィルの仏軍04
また同時にバゼーヌは各軍団長に対し、この陣地線に防御を施して塹壕や妨害の柵などを構築するよう要求しています。
しかし、この命令は一部で無視され、特に第6軍団は工兵や土木工具の縦列を欠いていたため、ほとんど陣地らしい陣地を構築しませんでした。
これによりサン=プリヴァー付近では塹壕がほとんど存在しないこととなり、後に重大な結果を招くのです。ただ、第2軍団長フロッサールだけは工兵上がりの将官故か防御工事を熱心に行ったようで、このヴォー~ロンクールまで12キロ以上に及ぶ防衛線は、元より地形的に一番防御し易い「南端」が更に強力な陣地帯と化し、一番弱い部分と思われる北端(渓谷も切れてただの小丘が続く街道筋です)は貧弱な防衛線のままとなってしまったのです。
この仏第2軍団の守る「ヴォー森」左翼東側にはプラップヴィル堡塁と高地南端のサン=カンタン堡塁があり、たとえ第2軍団の防衛線が後退しても、普軍がそれ以上東へ進むには本格的な攻城軍を必要とするようになっていましたが、仏第6軍団が守ることになるロンクールは割合に平坦な土地で障害も少なく、その北には普軍がそこまで北進出来れば、モーゼル川方面へ廻り込んで仏軍を包囲可能となる平地が広がっていました。
このロンクールを北へ3キロも行くと、モーゼル川支流の中でも大きなオルヌ川流域となり、後日、何故バゼーヌはロンクールからオルヌ川河畔まで防衛線を延伸し「穴」を塞がなかったのか、また、この地に予備の近衛軍団を置いておけば会戦の結果に影響したのではないか、と責められています。これについてバゼーヌは、「マルス=ラ=トゥールの戦い」において終盤、南側から激しく攻められたために近衛軍団を北へと動かすことをせず、予備として南側により近いプラップヴィル高地に置いたのでは、と言われています。
とにかく、仏軍はバゼーヌが命じた通り17日早朝行動を開始し、全体としてゆっくり後退しながらそれぞれ指定の防衛地へと向かいました。同時に弾薬と糧食の補給が行われ、1万5千に近い負傷者もメッスへ後送されます。しかし、この負傷者の後送には貴重な馬車を使うため車輛が不足し、前線では糧食用の馬車を「救急車」の代用としたため、グラヴロット周辺では糧食用馬車から積載されていた馬匹用の秣や貴重な糧食が降ろされ、一部は後退に伴って遺棄されてしまうのです。
ルゾンヴィルの仏軍05
仏軍の配置転換はこの17日午後に至るまで続きます。
最初に予定されていた第6軍団によるヴェルネヴィルへの前哨部隊配置は途中で中止され、代わりに第4と第3軍団の後退援護としてドゥ・バライユ騎兵師団がヴェルネヴィルへ進み、第3軍団のル・ブーフ大将は第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将)を命令にあった軍の後退援護のため、グラヴロットの西へ進ませました。
そうです。普軍驃騎兵士官とエリート参謀の報告はどちらも虚報ではありませんでした。
このメトマン師団の一部はマンス川のアル渓谷沿いに森林を南下し、17日正午頃、前進北上して来た普第一軍部隊と衝突するのです。
仏軍ラッパ手




