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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
220/534

8月16日~17日早朝の普軍

 普王国ヴィルヘルム1世国王は8月15日、コロンベイの戦場でメッス方面を観察した際に「仏軍は既にモーゼル西岸へ主力を移動させた」と確信しました。

 このため、普参謀本部次長ポドビールスキー中将を介して「第3並びに第9軍団は速やかにモーゼルを渡河するよう」要求し、「第一軍もメッス要塞の南側、モーゼル川上流において渡河に備えるよう」要求したのです。

 大本営はモーゼル西岸での決戦に備え、エルニーからポンタ=ムッソンへ移動することとなり、16日夕刻前、国王は大本営と共にポンタ=ムッソン市街へと到着したのでした。


 この16日正午頃、国王が出発直前のエルニーには「マルス=ラ=トゥールの戦い」第一報が伝わっていました。

 これはモーゼル西岸の状況を確認するため大本営より第3軍団本営へ派遣されていた参謀、パウル・レオポルト・エデュアルド・ハインリッヒ・アントン・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ中佐が午前9時30分にビュクシエールから送ったもので、「第3軍団は目下ルゾンヴィル付近の敵野営地に対し攻撃準備中。まもなく攻撃が開始される」という内容でした。

 既に午前11時45分にはポンタ=ムッソンの第二軍本営から同様の報告が電信にて送られており、これを聞いた後にエルニーからポンタ=ムッソンへ移動した普参謀本部のフォン・モルトケ大将は、移動の車中で今後の作戦を黙考し、ポンタ=ムッソンに到着するや荷を解く間もなく、第二軍参謀長フォン・スティール少将が置いて行った状況報告書に目を通すのです。

挿絵(By みてみん)

独大本営が置かれたポンタ=ムッソンの市庁舎

 スティール少将はこの時既にカール王子と共に前線へ出発していましたが、正午頃までに得た情報と敵の戦力分析を詳細に記しており、これによりモルトケ参謀総長は「ルゾンヴィル付近の敵は普第3軍団より強力な戦力で対抗し、第3軍団を助けるため第10軍団の2個師団は既に戦場へ向かった」ことを知ったのです。


 しかしこの時点(16日午後早く)では未だにスティール(=第二軍本営)も「ルゾンヴィルでは単に敵の強力な一部分(後衛)と衝突したに過ぎず、今後周辺の3個(第3、10そして9)軍団で敵を北方へ撃退するので、第二軍左翼(南側)は予定通りムーズ川に向かって西進を続行すべき」としていました。カール王子を初めとする第二軍首脳は戦場で「現実」に直面するまで、「ルゾンヴィルの敵」に対抗するには3個軍団で事足り、状況を確認出来たなら後は現場の最上級士官でありカール王子旧知の部下、フォン・フォークツ=レッツ大将に3個軍団を任せ、第二軍本営は「敵主力」を求めて西進する軍左翼の指揮のため、ムーズ河畔へ赴こうと考えていたのです。


 ところが参謀総長のモルトケ大将は、第二軍首脳陣とは違う「風景」を観ていました。

 モルトケは大本営が集めた情報と冷静な状況判断とにより、独軍は今や重大な局面(若しくは危機)を迎えている、と断じたのです。


 モルトケはまず、第9軍団が現在(16日夕刻)モーゼル渡河中であることを確認すると、後続する第二軍部隊(第12軍団と第2軍団)は本日中にゴルズ高地まで到達不可能なことを認め、先により近くにいる第一軍を速やかにモーゼル西岸へ送り込もうと画策するのです。


 この主旨を独第一軍司令官フォン・シュタインメッツ大将へ通達するため、急ぎ大本営から参謀士官が一人第一軍本営へ派遣され、国王の名前で出された以下の口述命令がシュタインメッツ将軍に通達されました。

「第一軍司令官は本日、直ちに第7並びに第8軍団を先行する第二軍の第9軍団に続行させ、翌17日早朝にはコルニー(=シュル=モセル)及びアリー付近で渡河を完了せよ」

 この口述令を追ってポンタ=ムッソンより急使がモルトケの書簡を届け、それによると「明日早朝の第一軍主力によるモーゼル渡河は、本日ルゾンヴィル付近の敵に対し行われた第二軍の攻撃を発展させ、この敵を仏軍の一大拠点であるシャロン(=アン=シャンパーニュ)との連絡線より北へ押し上げ、パリ方面からの連絡を遮断するという大本営の戦略意図によるもの」とし、「(渡河の足手まといとなる)第一軍の輜重縦列は、別命あるまで全てモーゼル東岸に留めよ」とするのです。


 更にモルトケは16日夕遅く、ポンタ=ムッソンに到着したばかりのザクセン王太子アルベルト・フォン・ザクセン大将に対し「第12軍団(ザクセン王国軍)は現在交戦中の第二軍右翼に対し翌17日、速やかに、また、確実に援助出来る態勢を整えよ」と命じたのでした。

 具体的には「ザクセン歩兵及び砲兵部隊は17日午前3時、ポンタ=ムッソン周辺の宿営及び野営より出立し、ティオークールを経てマルス=ラ=トゥールに向かい、騎兵師団は現在地よりベルダン街道まで北上せよ」としたのでした。


 さて、モルトケの命令を伝えるためポンタ=ムッソンを発した参謀士官は、途中輜重などの渋滞に巻き込まれ、午後8時になってようやくこの日(16日)第一軍が本営を構えるコワン=シュル=セイユ(ポンタ=ムッソン北東16キロ)に到着しましたが、その時には既にシュタインメッツ大将は、ほぼ大本営と同じ考えからモーゼル渡河に備える命令を麾下部隊に発令していました。


 これはコワンへ移動中の第一軍本営に、第8軍団長フォン・ゲーベン大将の報告が届いたことに端を発します。

 ゲーベン将軍は「ゴルズ高地にて第二軍の部隊が戦闘中」であることを通報し、暗に独断で前衛を先行させ普第5師団を援助することを知らせたのです。

 これを受けてシュタインメッツ将軍は、直ちに両軍団の架橋縦列とその工兵とを先行させる命令を発した後、両軍団長に対し「両軍団は速やかな渡河のため、翌17日夜明けまでに少なくとも1本の仮設橋をモーゼル川に架橋せよ」と命じたのでした。架橋は第7軍団がコルニー付近、第8軍団がアリー付近で行うことと指定されます。


 シュタインメッツは大本営からの使者が到着し命令を受領した後、今夜から明日に掛けての軍命令を以下のように発しました。

「第7軍団と騎兵第1師団は翌17日朝コルニー付近に、第8軍団はアリー付近に集合せよ。騎兵第3師団はプイイ(メッス要塞の南7キロ)~マルリー(プイイ西北西2.5キロ)間に展開しメッス要塞から軍のモーゼル川渡河と残留する輜重縦列を護衛せよ」

 この時には既にゲッペン将軍の第8軍団から前衛の第32旅団(第16師団)が前進しており、ルゾンヴィル南方の前線で死闘を繰り広げていたのでした。


 第一軍の架橋作業は夜を徹して突貫で行われ、第7軍団の架橋縦列と工兵はコルニー郊外に架かる吊り橋の外側に3本の舟橋と仮橋とを渡すことに成功し、第8軍団の架橋縦列と工兵はアリー付近で第3軍団が残していった仮橋の横に第2の仮橋を架けることが出来たのでした。

 この時、アリー~コルニーにおいて第一軍より先に渡河を行ったマンシュタイン大将の第9軍団は、輜重をも渡河させようと奮闘していましたが、このため道路から河畔にかけては大渋滞が発生し、架橋作業にも影響を及ぼしていました。第一軍本営の参謀バウマン大尉はこの渋滞解消に奮闘し、輜重を強引に道の外へ追い出すと架橋縦列と戦闘員優先で交通整理を行い、これが効を奏して架橋が夜明けに間に合ったと伝えられています。


 一方、第二軍本営は16日の夕刻ポンタ=ムッソンからゴルズへ移動し、マルス=ラ=トゥールの戦い終盤で先行したカール王子に追い付きます。

 カール王子やスティール参謀長らは翌朝、仏軍は再び西への突破口を開こうとして、員数的に劣ることがバレたに違いない普軍に対し、正攻法で戦いを挑んで来るだろう、と考えます。しかし受けて立つ第3軍団や第10軍団、第9軍団は疲弊し、既に多くの将兵を失い、切実に物資補給を求めていました。カール王子は極力早くに新鋭部隊を補充する必要に駆られ、午後10時から11時の間に翌日の行動を示した以下の第二軍命令を発するのでした。


○第2軍団

 17日中にポンタ=ムッソンまで前進。

○第4軍団

 17日夕刻までにムーズ川河畔を目指しブック(ムーズ河畔のコメルシーから東へ12キロ)付近を目標に前進。

○第9軍団

 本営がゴルズまで前進した軍団は黎明時、残余の部隊を前進させゴルズの北高地際第3軍団の右翼側に集合。

○第12軍団

 未明にポンタ=ムッソンを出立し、ティオークールを経てマルス=ラ=トゥール付近で第10軍団の直ぐ後方に展開。

○近衛軍団

 この命令が届き次第、夜間に出発しブネ(=アン=ヴォエヴル。ティオークール西北西4キロ)からシャンブレ(=ビュシエール)を通過してマルス=ラ=トゥールに向かい、同時に前進する第12軍団と連絡し、その左翼(西)に展開。騎兵師団はムーズ河畔に向かって前進を継続。


 カール王子は16日深夜11時、「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥール会戦」の結果と翌日の展開予定をまとめ、ポンタ=ムッソンのヴィルヘルム1世国王へ送付しました。


 この午後11時の命令は、一部部隊にとっては突然の方針変更で困難な命令ですが、第9軍団にとっては容易と言えました。

 マンシュタイン将軍の「混成軍団」は、既に後衛もゴルズの南方至近まで進んでいたため、第3軍団の右翼側後方(南東方)に位置するのは命令通り17日黎明時に確実となります。

 逆に第12軍団と近衛軍団への命令は、両軍団共に連日炎天下の行軍が続き、また予定された行軍とは大幅に変更された命令のため実施困難とも思われました。しかし指揮官たちは部下将兵を叱咤激励し、翌日の戦闘を意識させて戦意を鼓舞しつつ前進、予定より早くに到着可能、と強気に第二軍本営へ確約するのでした。


 中身はザクセン王国軍である「北独連邦」(=普軍)第12軍団の司令官、フリードリヒ・アウグスト・アルベルト・アントン・フェルディナント・ヨーゼフ・カール・マリア・バプティスト・ネポムク・ヴィルヘルム・クサヴァー・ゲオルグ・フィデリス・フォン・ザクセン大将(まるで落語の寿限無のようですが、ザクセン王族の名前はこのくらい長いのが普通です)はカール王子の命令を待つまでもなく既に夕刻、モルトケから直に与えられた命令により行動を起こしています。

挿絵(By みてみん)

アルベルト・フォン・ザクセン

 アルベルト王子はザクセン王国騎兵である第12騎兵師団に対し、「17日午前4時にヴィーニュル(=レ=アトンシャテル。ティオークール西北西12キロ)付近で集合を完了し戦闘隊形で北上開始、アルヴィル(マルス=ラ=トゥール西11キロ)でベルダン街道へ至る」よう命令し、更に師団がもし「アルヴィルに至っても敵を発見出来なかった場合、前進を継続しメッス~エテン街道(北ルートのことです)まで進んで敵の情報を集め、極力敵の行軍と輜重縦列を妨害、ベルダン方面との連絡を遮断すること」と命じたのでした。

 

 ザクセン(第12)軍団の内、第23(ザクセン第1)師団の本営は16日夜ルニエヴィル=アン=アイユにありましたが、この本営に午後10時過ぎ、同師団所属第1ライター騎兵連隊のヴィリー・フォン・クレンク大尉が帰って来ました。

 大尉は師団から命令され、普騎兵第5師団との連絡を通すため16日昼頃、マルス=ラ=トゥール方面へ向かいましたが、トロンヴィル付近で第10軍団の戦闘を目撃することとなり、ここで前線指揮中の第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ大将に会い、「ザクセン軍の協力を求めたい」との希望を受け「第二軍司令官カール王子の認可を得てザクセン軍をトロンヴィルまで前進させて欲しい」との要求伝達を請け負ったのでした。


 第23師団長は「ザクセン軍団」長アルベルト王太子の弟、親王フリードリヒ・アウグスト・ゲオルグ・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・マリア・ネポムク・バプティスト・クサヴァー・キリアクス・ロマヌス・フォン・ザクセン中将(繰り返しますがザクセン王族の名前は長いのです)でした。

 ゲオルグ王子は「カール王子や兄に聞くまでもなし」として直ちに師団に緊急集合令を掛け、深夜ティオークールを経てルゾンヴィルを目指し出立するのでした。

 同時にポンタ=ムッソン在の兄アルベルト軍団長とベルネクール在の近衛軍団長、親王フリードリヒ・アウグスト・エベルハルト・フォン・ヴュルテンベルク騎兵大将に対し、師団の前進を事後通告するのです。

挿絵(By みてみん)

ゲオルグ・フォン・ザクセン

 近衛軍団長アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク大将は普王国の「ライバル」、南部ドイツ諸侯ヴュルテンベルク王国の歴とした親王でありながら、国王の二男だった父パウル王子がアウグストの祖父に当たるフリードリヒ1世国王に反逆し、普王国やロシア帝国軍に加わってナポレオン1世と戦い、その後も死去(1852年)するまで何かと王家と対立したため、その影響を受けた末子アウグストも「半」亡命状態で十代から普軍に所属し続けていました。父の意志を受け、母国より普国王に忠誠を誓うアウグスト王子は普王家のホーエンツォレルン家の信頼も厚く、普仏戦争開戦時点で既に12年に渡って普近衛軍団長(1858年7月から)を勤めていました。4年前の普墺戦争では、直接戦場で相見えることはなかったものの、兄が軍首脳を務める母国を敵に回して戦っています。

挿絵(By みてみん)

アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク

 ゲオルグ王子の通告は日付の変わった午前0時過ぎに近衛軍団本営に到着し、直ちに軍団長の下へ届けられました。

 アウグスト王子はこの時、第二軍本営より16日正午に発せられた翌日の行軍命令を受けてムーズ川方面へ突進する用意をしていましたが、直ちに西進計画を中止し、近衛第1並びに近衛第2師団、そして近衛軍団砲兵隊をフリレ(ベルネクール北3.5キロ)とリッシュクール(ベルネクール北西7キロ)周辺に集合させ、また近衛第1騎兵旅団(胸甲騎兵)をウディクール(=ス=レ=コート。ノンサール西5キロ)に集合させて直ぐにでも出立出来るよう準備を開始、追って発令されるはずの軍本営命令を待ちます。すると、程なくゴルズから発せられた午後11時発の第二軍命令が届き、アウグスト王子は変更命令通り、マルス=ラ=トゥールの西側に向け混乱無く軍団を出立させることに成功するのでした。


 こうして近衛軍団は主力が一斉に北上し、午前5時にはブネ(=アン=ヴォエヴル)を通過します。ムーズ川方面には近衛第2騎兵旅団(槍騎兵)のみがアプルモン(=ラ=フォレ)から前進し、サン=ミエルに入城するとムーズ河畔に前哨を展開し警戒しました。

 このサン=ミエルは近い将来独軍のムーズ川沿岸における拠点ともなるため、野戦糧食部隊が先行して到着して乾パン製造所が開設され、この護衛には近衛擲弾兵第3連隊(近衛第2師団所属)から第1,4中隊が抽出されサン=ミエルの街に進みました。


 ところで、午後11時にゴルズを発したカール王子の報告書簡は、会戦をつぶさに観察したブロンサルト・フォン・シェレンドルフ参謀中佐と共に夜半過ぎ、ポンタ=ムッソンの大本営にも到着します。

挿絵(By みてみん)

ブロンサルト・フォン・シュレンドルフ兄

 シェレンドルフ中佐の口頭報告とカール王子の報告書は、寝ずに待っていた大本営の首脳に伝えられ、これで普軍のお偉方も、マルス=ラ=トゥールの会戦が第3、第10軍団の奮戦によって勝ちを拾った、とも呼べる非常に危うい戦いだったことを知ったのでした。

 同時に、前線では疲弊した将兵が未だ倍する敵と対峙し、増援を待っていることを知った国王を始めとする普軍首脳陣は、早朝戦場に駆けつけることとし、また同時に第一軍に素早くモーゼル川を渡らせ、ゴルズの東側へ進撃させることに決します。


 この通報は在コワン=シュル=セイユの第一軍シュタインメッツ大将の本営まで、今度は素早く届けられました。


 既に架橋作業を始め渡河準備を進めていた第一軍は即行で大本営の要求に応えます。

 まずは16日夕方遅くにロリ(=マルディニー。ポンタ=ムッソン北北東10キロ)付近に到着し野営していた第8軍団の第15師団と軍団砲兵隊が、アリーの仮設橋を使用して午前5時からモーゼルを渡河し始めました。

 この渡河作業は第8軍団長フォン・ゲーベン大将が直接陣頭で指揮を執り、ゲーベン将軍は渡河を終えた部隊と共に前線へと進撃して行ったのです。

 午前6時には第7軍団もシルニー(コワンの南。ポンタ=ムッソン北東12キロ)~ポムリュー(シルニーのセイユ対岸1.5キロ)間に集合し、軍団長のフォン・ツァストロウ大将が先頭に立ってコルニー目指して前進します。騎兵第1師団もフェ(コルニーの東3キロ)付近で集合しコルニーで渡河する準備を始めました。

 シュタインメッツ将軍自身は早朝コルニーまで進み、モーゼル河畔で第7軍団の渡河を待ちました。老将軍は自ら第7軍団を率いて、敵が集中するというグラヴロットを目標に前進しようと考えていたのです。


 17日午前4時30分。ゴルズで一夜を明かしたカール王子は、空が白み始めるやスティール参謀長ら側近と共にフラヴィニーの前線まで騎行します。


 昨夜は午後10時以降大きな戦闘は発生せず、戦場は不気味に静まり返っていましたが、払暁時には仏軍の野営から何かの合図のラッパ音が響き渡っていました。

 カール王子がこうして再び丘陵に登り、仏軍の前線を観察する頃までには仏軍の動きは活発になっており、西のブリュヴィルから東のルゾンヴィルに掛けての仏軍前線では多くの散兵が動き回り、一部では集合する動きも見えるのです。カール王子とスティール参謀長は直ぐにでも敵の攻撃が開始されるだろう、と覚悟を決めるのでした。


 ところが、仏軍が前進することはありませんでした。


 普第3軍団の正面に当たるルゾンヴィルの前線では、普軍槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の第3中隊が最前線の前哨となり、代理中隊長のフォン・ローア少尉に率いられた騎兵たちは一晩中敵の前哨と睨み合っていました。夜明け前には敵の前哨交代の隙を突き、交代のためルゾンヴィル東方の野営から前進して来た仏軍歩兵部隊を奇襲して蹴散らし、30名の捕虜を獲るという殊勲を挙げるのです。

 この捕虜の尋問や、その後の偵察によりルゾンヴィル付近の仏軍野営からは次第に後退する部隊が増えているのが確認され、仏軍は東へ後退しグラヴロット周辺に再集合しているらしいことが分かりますが、ルゾンヴィル部落自体は未だ守備が堅く、うるさい蠅のように近付く普軍槍騎兵斥候に対しては激しい銃火が浴びせられ、少数の騎兵では部落に接近し敵の真意を知ることは不可能でした。


 午前6時、東を睨むカール王子ら第二軍首脳の前に、南から目立つ騎馬集団がやって来ます。

 自ら騎乗したヴィルヘルム1世国王は大本営の幕僚を従え、夜が明ける遙か前にポンタ=ムッソンを発ち、最前線に到着したのでした。

 国王とモルトケはカール王子から報告を受け、一緒に東側の敵前線を観察しますが、敵は一向に前進の気配を見せませんでした。


 このフラヴィニーの丘南側のゴルズ高地では仏軍の前進に備え、普第5師団の兵士たちが疲れた身体に鞭打って散兵線に展開し、その東側の森林地帯には既に第9軍団の全力が揃って展開していました。準備万端とは行かないまでも、普軍の右翼側戦線は戦闘準備が整っていたのです。

 しかし、何事もなく時間だけが過ぎて行き、フラヴィニーの丘には次々と早朝の斥候報告が届くものの、その情報は攻守の動きが錯綜し敵の意図はさっぱり分からず、普軍首脳たちは焦燥を抑えて敵の動きを見守り続けたのでした。



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