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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
219/534

8月16日の独第二軍とトゥール要塞攻撃

 独第二軍で8月16日に発生した「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」に参加しなかった軍団は、概ね前日15日夕方に発せられた第二軍命令により予定された行軍を行い、16日中に以下の位置にまで到達しています。


○第2軍団

 普軍団中最も後から戦線へ移動したこの軍団は、16日の夜、朝にザクセン軍団のいたメッス~ストラスブール本街道の線に達し、第3師団はビュシー(ポンタ=ムッソン東北東18キロ。ストラスブール街道の西)付近、第4師団はソルニュ(ビュシー南南東1.8キロ)付近、軍団砲兵隊はリュピー(ソルニュ東北東4キロ)付近でそれぞれ野営しました。


○第12「ザクセン王国」騎兵師団

 ザクセン騎兵はこの日午前5時、ルヴィニーからシュミノ間(サン=タヴォル~ポンタ=ムッソン街道沿い)の野営から出発し、およそ10キロ西のポンタ=ムッソンまで進みました。ポンタ=ムッソンで普第40旅団のモーゼル渡河を待ち、その後隊列を整えると、ティオークール=ルニエヴィルを通過して西進、午後2時にはノンサール(=ラマルシュ。ティオークール西南西7キロ。現在は1965年に出来た人造湖マディーヌ湖の東畔)に至ります。ザクセン軍騎兵はここから長躯ムーズ川まで前哨を派出、サン=ミエル(ポンタ=ムッソン西37キロ)近辺まで進出したのでした。


○第12軍団(=ザクセン王国軍)

 ザクセン軍歩兵の2個師団は15日にノムニー(ポンタ=ムッソン東12キロ)付近で野営しますが、一部はなお遠方にあり、深夜になってようやく全軍が野営地に揃います。行軍の遅れを取り戻すべく両師団は休息を短縮し、16日黎明時朝食も取らずに目的地のポンタ=ムッソンへ出発しました。軍団はポンタ=ムッソン市内で東西の市街を結ぶ石橋の他、南東郊外のアトンに架かる橋も利用して市街地に達しましたが、この日ポンタ=ムッソンには大本営から諸師団まで様々なレベルの本営が集合し、しかも輜重部隊も集中し始めたため大渋滞が発生しており、苦心しながら街を通過する羽目に陥ります。

 午後に入ってようやく第23師団がルニエヴィル=アン=アイユ付近(ポンタ=ムッソン西9キロの現国道D3とD75分岐点)、軍団砲兵はポンタ=ムッソン西2キロ郊外のモントヴィルで野営し、第24師団は渋滞を避けて午後6時になってポンタ=ムッソンに入り市街地周辺で宿営しました。

 また、軍団の輜重縦列は先頭が夜間にモーゼル川河畔に到着し、市街地の南からデュールアール街道に沿って野営に入りました。軍団本営はザクセン軍総司令官のアルベルト・ザクセン王太子大将と共にポンタ=ムッソンに入りました。


○普近衛騎兵師団

 15日はデュールアール(ポンタ=ムッソン南7キロ)に宿営した師団(第10軍団に派遣した第3旅団を欠く2個旅団)は早朝に出立し、午前中にアプルモン(=ラ=フォレ。サン=ミエル南東8キロ)に達します。2個騎兵旅団はここからサン=ミエル~コメルシー間のムーズ川に前哨を送り、アプルモン北北東7キロ付近のビュキシエール=ス=レ=コートを経てノンサールにいるザクセン軍騎兵と連絡しました。


○普近衛軍団

 同じくデュールアール付近で宿営・野営していた近衛軍団は騎兵部隊の後から前進し、ボーモン(アプルモンの東11キロ)まで前進、軍団前衛(近衛第2師団の一部)をブコンヴィル=シュル=マド(アプルモンの東南東6キロ)へ、残余の近衛第2師団はモー・ラ・シェーヴル池(ブコンヴィル南南東1キロ)の畔に、軍団砲兵隊はボーモン周辺で、それぞれ野営し、近衛第1師団はベルネクール(ボーモンの東南東4キロ)周辺に宿営、軍団本営もこのベルネクール部落に置かれました。


○第4軍団

 独第二軍の最左翼(南)を行くこの軍団は、15日にマルバッシュ(デュールアール南南東5キロ)付近に達すると16日早朝、モーゼル川を渡河し、午前中に第8師団はモーゼル西岸沿いにマルバッシュから北2.5キロのベルビルに掛けて展開、軍団砲兵隊はマルバッシュを西へ4キロのセーズレー近郊へ進み、輜重縦列は川を渡らずマルバッシュの対岸キュスティーヌ付近で待機となりました。

 この時既にセーズレーの西3.5キロのロジエール=アン=アイユまで進んでいた第7師団は、麾下の第14旅団(第27、第93連隊)に師団騎兵の竜騎兵第7「ヴェストファーレン」連隊、野戦砲兵第4「マグデブルク」連隊の軽砲第2と重砲第1中隊、軍団工兵第2中隊と軽架橋縦列を「前衛支隊」として、南西へ延びるデュールアール~トゥール街道(現国道D611)を南下させ、トゥール要塞都市へ向かわせました。

 この前衛の内第93「アンハルト公国」連隊と竜騎兵連隊、重砲中隊はフランシュヴィル(ロジエールから街道を8キロ南)部落の高地まで進んで野営拠点を作ると前方の街道とモーゼル河畔までを監視し、残った第27「マグデブルク第2」連隊と軽砲中隊、工兵隊はフランシュヴィル高地の北、モーゼル川支流のテルワン川流域の小部落に分かれて宿営するのでした。

 軍団本営は午前中にセーズレーまで前進しています。


 この第4軍団は16日、ゴルズ高地で第二軍右翼が戦っている最中に、自身も南部で戦闘に突入しました。


 15日に普近衛槍騎兵第3連隊のフォン・ローゼン大尉が中隊長を勤める第2中隊が、仏護国軍数千人が籠城すると思われるトゥール要塞に降伏を勧告し拒絶されましたが、その帰り道で第4軍団の前衛と接触したローゼン大尉は要塞の現況を彼らに伝えました。


 前衛からこの報告を受けた第4軍団長、グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン大将は、「トゥール要塞は仏軍の現況からすれば必然的に少数の弱小部隊が守備に就き、武器弾薬も不完全であろう」と断じます。この要塞はナンシー~サン=ディジエ~シャロンを経てパリに至る主要鉄道と街道を閉鎖しており、独軍はこれを占領しなければこの先進撃の邪魔者と化し、補給路と後方連絡線確保のためにも早急に排除しなくてはならない障害物でした。


 そこで大将は、この日午前早くに「要塞を偵察した後に奇襲を掛けて占領せよ」との命令を麾下部隊に発したのです。


 グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン(以下G・アルヴェンスレーヴェンとします)歩兵大将はこの時67歳。第3軍団長のコンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将の6歳上の兄となります。

 名門軍人貴族アルヴェンスレーヴェン家の次男として陸軍幼年学校卒業後17歳で普軍に少尉として入隊し、1841年に大尉として参謀本部勤務、47年少佐に昇進します。バーデン公国軍に交換士官として勤務した後、50年に第8軍団の参謀長、続いてヴェストファーレン州、ライン州の軍事スタッフとして勤務した後55年に大佐、58年少将へと順調に昇進し皇太子附の副官に任命されます。

 61年には王宮の副官となり国王の信任を得たグスタフは、63年にポーランドで発生し普露両国を巻き込んだ反乱に際し、ロシア帝国との交渉をビスマルクと共に行って世に言う「アルヴェンスレーヴェン条約」を結び、紛争を回避する活躍を見せました。65年には中将に昇進し、66年国王の側近として普墺戦争では常に大本営でヴィルヘルム1世王の傍に控えます。

 戦後10月に第4軍団長となり久々に野戦軍を率い、68年歩兵大将となって第4軍団を鍛え上げ、70年の戦争を迎えたのでした。

挿絵(By みてみん)

グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン

 このエリート軍団長の命を待たずとも、既に第4軍団の騎兵斥候たちはこの日早朝から要塞の周囲で活動を続けていました。

 ある斥候は要塞の北にある外郭市街地サン=マンシュイ(要塞の北運河沿い)まで潜入に成功します。しかし斥候たちは要塞周辺に長く留まることは出来ず、パトロールの仏歩兵に追い払われてしまいました。それでも斥候たちは住民の尋問から「要塞は護国軍兵士1,000から2,000名によって薄く広く守られている」との確証を得たのでした。


 しかし実際にはこの要塞は、フロッサール将軍の第2軍団第3師団(ラヴォークペ少将)に属する第63戦列歩兵連隊の第4大隊(要塞・内国警護用)500名を中核として、ヴルトの会戦から後退して来たマクマオン軍の歩兵で要塞に残ることを選択した部隊と少数の胸甲騎兵、鉄道連隊の警護兵に護国軍の大隊を合わせ2,300名が籠城していたと言われています。


 第14旅団長で前衛支隊を率いる由緒あるポーランド貴族の末裔、フランツ・フリードリヒ・スゼリガ・ツィヒリン・フォン・ツィヒリンスキー少将はこの要塞情報に接すると、自ら将校偵察を行うべく前線に向かいますがその途上、軍団長からの「要塞攻撃」命令を受領し、少将は午前11時、工兵と架橋隊を除く前衛をフランシュヴィルに集合させたのです。


 この時、第4軍団の砲兵部長オットー・レオポルト・グスタフ・フォン・シャーベニング少将はロジエールから重砲第2中隊をこの地へ急行させ、前衛支隊に合流させたのでした。

挿絵(By みてみん)

フォン・シャーベニング

 2個の重砲中隊は竜騎兵を護衛に先行して要塞に近付き、その12門の6ポンド野砲は下馬した竜騎兵に護られながら要塞本体の隔壁に対し砲撃を始めました。遅れて到着した軽砲第2中隊は2門を重砲第2中隊の砲列に加え、残りは予備として控えます。

 しかし、いくらクルップ社製の優秀な大砲とはいえ、相手が本格的な要塞の隔壁では野砲では無理があります。トゥール要塞は樹林に囲まれ、周囲の丘陵からでは内部が見通せず、撃ち返す要塞砲の位置もはっきりと見えず、沈黙させることが出来ませんでした。

 本営から騎行し観戦していたG・アルヴェンスレーヴェン大将はこれを見ると、砲撃目標を要塞本体から外壁内の市街地に変更させ、街を炎上させて籠城兵の士気を挫く作戦に出ました。

 また、砲撃が続く中午後12時45分になるとツィヒリンスキー将軍率いる歩兵部隊も前線に到着し、直ちに要塞攻略戦が開始されるのです。


 G・アルヴェンスレーヴェン将軍は第93連隊第2大隊を砲兵護衛に、第27連隊第1とヒュージリア(以降F)大隊を予備として後置させると、残りの3個大隊と要塞攻略のために前進して来た軍団工兵第3中隊に対し要塞攻撃を命じました。


 工兵第3中隊は真っ先に前進すると、要塞からの銃砲火を冒して要塞北側の斜堤に沿って流れるマルヌ=オー=ラアン運河に達し、ここから密集する樹林を透して内部を偵察、要塞の北側は幅広い水濠と半月堡塁を備えた難攻な稜角面堡となっていることに気付いたのです。

 こうして勇敢な工兵たちの観察により歩兵の正面強襲では要塞を落とせないことを悟ったツィヒリンスキー将軍は、別の方面から要塞本体に接近しようと試みます。


 午後1時、第93連隊のF大隊は北市街地から要塞へ前進し、第1大隊はその後方、鉄道の跨道橋付近に進みました。

 F大隊は第10中隊を先頭に突撃を敢行し、この第10中隊長を失いながらも運河に架かる橋を渡り、要塞の外壁に対し銃撃を加え、要塞の門を護る半月堡に対し猛射撃を加えるのでした。

 この時、砲兵護衛に残されていた同連隊の第2大隊が「要塞守備隊は外に打って出る気配なし」と決め付けて前進し、同僚の要塞攻撃に加わりました。

 要塞隔壁からの激しい銃砲火の中、果敢に突進して要塞の北西側に開けた庭園を中心に展開したこの大隊は、要塞隔壁からわずか100m前後まで迫りますが、この最前線で乗馬したまま指揮を執っていた大隊長のルドルフ・ヴィルヘルム・フェルディナント・フォン・シュヴェムラー少佐は、銃撃を一身に浴びて馬から落ち、程なく戦死してしまったのです。


 この要塞北面から北西側では、水濠に架かる跳ね橋は全て撤去されており、雨天続きで満水となっていた水濠の幅は12mを越え、銃弾飛び交う中、舟無くしてはとても渡れるものではありませんでした。この方面の攻撃はここで頓挫するのです。


 一方、第27連隊第2大隊はトゥール市街地を抜ける鉄道堤に沿って要塞の西側と市街地北西にある停車場へ進撃します。

 この鉄道堤は最初、家屋と園庭の壁に視界が遮られて要塞からは普軍の進軍が見られずに済みましたが、西に行くに従って家屋が少なくなり、遮るものが無くなってしまいます。前線で督戦する第7師団長のカール・ユリウス・フォン・グロス・ゲナント・フォン・シュヴァルツホッフ中将の目前で第8中隊は一気に危険地帯を駆け抜けますが、思ったよりは死傷者が少なかったため、後続の中隊も走り抜けようと突進します。しかし、今度は要塞から猛射撃を浴び、また正確な狙撃を受けて多大な犠牲を生んでしまいました。中隊長の大尉たちは負傷して倒れ、第2大隊長のジョッフロワ少佐も乗馬を射殺され落馬し重傷を負って後送されてしまいます。負傷した中隊長の一人ダンマート大尉は、怪我をおして再び馬に跨りますがたちまち銃弾を受け戦死してしまいました。


 この悲惨な状況下でも、大隊は強硬に停車場まで進撃し占領したのでした。指揮官の多くが倒れ、大隊を率いることになったフォン・ヴィッツレーベン大尉は大隊の主力を率いてアベイ・サン=エヴァル(トゥール南郊外)の高地を目指し、運河を越えて南進し高地を占領しました。

 これにより手薄になった停車場には、フォン・クロージク大佐率いる第93連隊の第1大隊から第1と第4中隊が停車場まで前進しましたが、例の鉄道堤で損害を受け、部隊を率いていた第1大隊長ヴェルネラー中佐は負傷してしまいました。


 この時、要塞の東側から砲撃音が響き、普軍の援軍がやって来たのです。

 この部隊は独第三軍に属するバイエルン王国軍の槍騎兵旅団で、その前哨中隊が旅団付属の騎砲兵中隊と共にトゥールの東郊外、モーゼル川を挟んだドマルタン部落に入り、バイエルン砲兵たちが要塞へ砲撃を開始したのでした。(「独第三軍ナンシーへ(後)」参照)


 こうしてトゥール要塞に対する第7師団の攻撃は、バイエルン軍まで参加した攻城戦へと発展しましたが、四方を囲む歩兵の銃撃や、北と東から加えられる野砲や騎砲の榴弾砲撃では要塞はびくともせず、また市街地は砲撃により方々で火災が発生していましたが、これも次々に消火されてしまい、全く効果は見えませんでした。

 それでは、と、ツィヒリンスキー将軍は午後2時、第7師団の砲兵隊長フォン・フライホルト中佐に砲兵を前進させて散兵線を援護するように命じ、フライホルト中佐は要塞からの猛射撃を受けながらも6ポンド砲1門を隔壁から75mの至近距離まで前進させ、北門を破壊し巻揚橋を落下させようと試みました。

 しかし、この一帯は密生する樹木と銃砲撃の硝煙で視界が極端に落ちており、砲の照準がつかず、また激しい銃撃のために、わずか8発発射したのみで断念せざるを得ませんでした。


 午後3時、軍団長G・アルヴェンスレーヴェン大将は攻撃を中止させ、要塞からの銃撃に晒されている部隊を収容するため予備として後置していた第27連隊第1とF大隊、そして竜騎兵第7連隊、そして攻撃に参加するため前進して来た猟兵第4「マグデブルク」大隊をフランシュヴィルへの街道両側に整列させます。

 ツィヒリンスキー将軍は退却を指揮し、前進した諸部隊は一斉に後退し始めますが、要塞からの狙撃による犠牲を増やさぬため、部隊は小単位に分割され、少人数のグループで次々に開けた場所を通過し、後退したのです。

 要塞からは後退する普軍に向け榴弾砲撃が行われましたが、効果は薄く損害は少ないものでした。しかしもっとも南側で戦っていた第27連隊の第2大隊には退却命令が到着せず、大隊は要塞に対して散発的な銃撃戦を続け、午後7時になってようやく周囲で戦闘が停止していることに気付くのです。状況を知るため、単独で要塞を回り込んで北市街に達した大隊の副官は、第2大隊を救うため進んでいた収容隊に出会うのです。


 こうして普第4軍団のトゥール要塞攻撃は失敗に帰します。

 軍団はトゥールの停車場と北市街を一時確保しましたが、要塞本体はびくともせず、市街地では砲撃で火災が発生しましたが大した被害にはなりませんでした。

 フォン・ツィヒリンスキー少将の支隊は全てフランシュヴィル高地の野営まで後退し、この日の攻撃は終わったのです。


 この「第一次トゥール要塞攻撃」は普軍に士官6名、下士官兵44名の戦死、士官12名、下士官兵129名の負傷者、9名の行方不明者、馬匹14頭の喪失という損害を与えました。仏軍側の損害記録は不詳です。


 G・アルヴェンスレーヴェン将軍が夕刻セーズレーの本営に帰ると、第二軍本営から書簡が届いており、そこには第4軍団が既に要塞に対し攻撃を行ったことを知らないカール王子の「トゥール要塞を奇襲して制圧開城させよ」との命令がありました。

 しかし将軍は、再び同じ正攻法でトゥール要塞を攻撃しても結果は同じであろう、と考え、直ちに本営のカール王子に宛て攻撃の再考を上申するのでした。

 その書には「トゥールを占領することは最も望まれ、また、緊急の課題ではあるが、マルス=ラ=トゥールの会戦直後に大いなる兵力を長期に渡って一要塞に膠着させるのは如何なものだろうか」とありました。


 第4軍団はトゥール要塞を後続に任せ、前日の命令通り北西方面、ロレーヌ高原へと進撃することに決するのです。


1866年のトゥール市周辺

挿絵(By みてみん)

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