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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
218/534

マルス=ラ=トゥールの戦い/二倍の敵に対して

 12、3時間にも及んだ長時間の戦いにおいて最終的に、普軍は約67,000人・大砲222門を投入し、仏軍は約138,000人・大砲476門で対抗しました。

 その戦死傷者は双方の参謀本部・本営が唖然とするほどの莫大な数となります。


 戦術的には、ほぼ引き分けと呼べるこの会戦では双方とも捕虜は少なく、損害は死傷者が多くを占め、その数は普仏拮抗していました。

 以下、「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」の人的(普は馬匹も)損害を記します。


☆仏軍の損害(戦死・負傷・行方不明・捕虜の総計)


○第2軍団(フロッサール中将)

 士官201名 下士官兵5,085名

○第3軍団(ル・ブーフ大将)

 士官98名 下士官兵748名

○第4軍団(ラドミロー中将)

 士官200名 下士官兵2,258名

○第6軍団(カンロベル大将)

 士官191名 下士官兵5,457名

○近衛軍団(ブルバキ中将)

 士官113名 下士官兵2,010名

○騎兵予備軍団(フォルト、バライユ両師団)

 士官70名 下士官兵465名

○砲兵予備集団

 士官6名 下士官兵105名


仏軍総計

 士官879名 下士官兵16,128名


☆普軍の損害(戦死・負傷・行方不明・捕虜の総計)


○第3軍団(C・アルヴェンスレーヴェン中将)

*第5師団(シュテュルプナーゲル中将)

 士官140名 下士官兵3,107名 馬匹249頭 

*第6師団(ブッデンブロック中将)

 士官163名 下士官兵3,412名 馬匹159頭

*軍団砲兵

 士官10名 下士官兵119名 馬匹249頭

*他諸隊(軍団本営、補給段列など)

 士官2名 下士官兵3名 馬匹20頭

軍団合計

 士官315名 下士官兵6,641名 馬匹677頭

○第8軍団(ゲーベン大将)

*第16師団(バルネコウ中将)

 士官55名 下士官兵995名 馬匹74頭 

○第9軍団(マンシュタイン大将)

*第18師団(ヴランゲル中将)

 士官41名 下士官兵1,119名 馬匹1頭

*第25師団(ルートヴィヒ・ヘッセン公中将)

 士官1名 下士官兵75名 馬匹2頭

軍団合計

 士官42名 下士官兵1,194名 馬匹3頭

○第10軍団(フォークツ=レッツ大将)

*第19師団(シュワルツコッペン中将)

 士官136名 下士官兵3,634名 馬匹90頭 

*第20師団(クラーツ=コシュラウ少将)

 士官63名 下士官兵1,168名 馬匹105頭

*軍団砲兵

 士官7名 下士官兵143名 馬匹169頭

*他諸隊(軍団本営、補給段列など)

 馬匹1頭

軍団合計

 士官203名 下士官兵4,945名 馬匹365頭

○近衛騎兵師団(K・フォン=デア=ゴルツ中将)

*近衛騎兵第3旅団(W・ブランデンブルク少将)

 士官20名 下士官兵200名 馬匹361頭

○騎兵第5師団(ラインバーベン中将)

 士官62名 下士官兵830名 馬匹902頭

○騎兵第6師団(W・メクレンブルク=シュヴェリーン公中将)

 士官20名 下士官兵274名 馬匹354頭


普軍総計

 士官720名 下士官兵15,079名 馬匹2,736頭


 普軍の損害(士官)には軍医9名が含まれています。銃砲弾が飛び交う前線近くで、軍医が負傷者を助けるため奮闘していた姿が浮かび上がって来ます。


挿絵(By みてみん)

 ツィーテン驃騎兵連隊の突撃


 更に詳しく普軍で損害の大きかった歩兵連隊を取り上げますと、


○第5師団の部隊で、デューリング少将が戦死したゴルズ高地の戦線で激闘を続けた第52連隊が、士官50名・下士官兵1,202名の損害。

○ベルダン街道北部で「ローマ街道址」までの間に散兵線を敷いて仏第6軍団と戦った第6師団の第24連隊が、士官48名・下士官兵1,099名の損害。

○魔の970高地を強襲した第18師団の第11連隊が、士官41名・下士官兵1,119名の損害。

○ヴェーデル旅団の一員としてブリュヴィル目指し挫折した第19師団の第16連隊が、士官49名・下士官兵1,736名の損害。


挿絵(By みてみん)

ゴルズ高地で仏騎兵と戦う普第52連隊


 こうして見ると、激戦地で戦った部隊の損害が際立って大きなものだったことが分かります。

 これらの連隊は「壊滅」と呼んで差し支えないレベルの大損害(定数の4割から6割)であり、損害が飛び抜けて大きな第16連隊については、ブリュヴィルの南で、この会戦では珍しいまとまった数の捕虜(行方不明)400名以上を出していることがその要因でしょう。


 また、この会戦の特徴でもある普軍騎兵と砲兵の活躍は、逆に損害数にも現れており、普軍がこの会戦に投入した騎兵10,780騎中、騎兵は約1,400名、馬匹は約1,600頭が倒れ、砲兵は約700名、その牽引用馬匹1,000頭が犠牲となり、砲兵は各種砲弾20,000発をたった1日で消費しているのです。これには各軍団の砲兵部長や兵站士官が青くなったと思われます。


 こうして損害数の上ではほぼ引き分けとなった会戦は、午前から午後早くの時間に普軍が獲得した地帯を、午後遅くに仏軍が取り返し、夜に入って戦線整理のため仏軍がこの地域から後退したことにより、ほぼこの日早朝の戦線の位置へと戻ってしまったのでした。

 しかし、普軍が最終的におよそ7万の兵力だったのに対し、仏軍は最初から10万近くを展開させ、最後には14万に及ぶほぼメッス近郊の全兵力に等しい部隊を投入したことを思えば、敗れるはずだった普軍が勝利を拾った、と言っても過言ではないでしょう。


 この戦いにおいても、開戦以来1ヶ月の経過ではっきりとして来た両軍の資質の違い、即ち「普軍の命令違反すれすれの積極性」と「仏軍の独立心皆無な消極性」が仏軍有利なはずの「数の論理」を打ち砕いてしまったのです。

 仏軍の「大目的」であるはずの「ベルダン方面への脱出」を蔑ろにし、メッス要塞から離れることを「恐れた」ようにも見える仏軍総司令官アシル・バゼーヌ大将の命令を、全く疑うこともせず、ただ単に命令に沿った行動だけを心掛けたかのような仏第2、3、4、6、近衛の「錚々たる」はずの軍団長たち。

 逆に、ここまでの戦いでもそうであったように、一度砲声が聞こえたら上司の命令も無視して突き進む普軍の士官たちによって、カール王子の独第二軍は、「敵を先に進ませない」という目的を達成するのです。


 旧日本陸軍少将で戦前の軍事戦史家の伊藤政之助氏は、普仏共に敵の状況がはっきりしないまま戦闘に突入したことに触れ、敵の状況が分からないとは会戦では普通に起こることで、名将ならば不明な敵に対し自分の能力と判断で善処し、その「善処」とは「疑わしきは攻撃する」という原則に基づいて行動することである、普軍はこれを守り、仏軍は「疑わしきは攻撃せず」と逆を行ったので敗れた、としています。(伊藤政之助・戦争史/普佛戦争・前期作戦より)


 伊藤氏が語る通り、「攻撃は最大の防御」であり「攻撃は勝利の早道」です。その攻撃を中途半端な防護戦闘の形で行い、終始「受け身」で立ち回った仏軍は、滅多にない数の優位を全く無駄にしてしまい、勝てたはずの敵に対しわざわざ「引き分け」に持ち込んだようにも見えるのです。


 これは一介の野戦将兵たちの責任ではありません。その責を負うべきは高級士官たちであり、参謀を含めた幕僚と高等指揮官たちと断言出来るのです。


 仏第2軍団長のフロッサール将軍が、フォルト予備騎兵師団の15日における停滞により行軍を止めてルゾンヴィル付近で野営し、後日問題とされたことは以前に記しました。

 この時、もし仏第2軍団が前面の敵、普軍騎兵第5師団に対し積極攻勢を掛けて蹴散らし、マルス=ラ=トゥールを越え、更にイロン川も越えて西へ進んでいたとすれば。

 結果16日には、また違った形での戦いが発生したはずです。それは独第二軍のカール王子が信じ切っていた仏軍のムーズ川への突進であり、その場合、普軍は全て南方から仏軍を追撃する形で攻撃することとなったでしょう。

 その結果がどうなったのかは筆者ごとき素人では何とも言いようがありませんが、少なくとも普軍はゴルズ高地の戦場より十数キロは西側で戦うことになり、その分行軍距離は長くなり、将兵の疲労は大きくなって兵力の集中も遅れ、特に第8、9軍団は会戦に間に合わず、ほとんど第3と第10軍団のみの参戦となったことでしょう。それがどう戦いに影響したか……そういうことだと思います。


 この他にもバゼーヌの命令を杓子定規に捉えて西への動きを止めた第4軍団のラドミロー将軍や、出遅れてほとんど場当たり的に戦った第3軍団のル・ブーフ大将も、ある意味何の工夫もない戦振りでした。

 しかし、これが第二帝政期の仏軍では至極当然だった訳で、普軍のような独断専行は許されぬ命令違反として処罰の対象であり、司令官の威光・地位は仏軍士官の頭の中にしっかり刻み込まれていました。ですから、全てはバゼーヌ大将の作戦指導が敗戦の原因、とされてもバゼーヌとしては反論出来なかったはずなのです。


 その上に仏軍では、このバゼーヌやフロッサールの消極的な防御戦闘を誉めるような将軍までいた、と言います。つまり、もしフロッサールが強行に突破を謀った場合、その戦力が普軍に知られ、あるいは味方から突出して離れ、各個撃破されたかも知れない、だから、敵にその戦力の全てを晒さず、大軍の一部として戦ったのは可であろう、というものです。これは普軍の将軍なら誰しもがあざ笑ったであろう、あまりにも消極的で「事なかれ主義」に惰した考えと言えるでしょう。


挿絵(By みてみん)

 Mars La Tour


 仏軍の「哀れむべき」状況は、8月15日(マルス=ラ=トゥールの戦い前日)に仏「ライン軍」参謀長を降りたル・ブーフ大将が、この先「上司」となるバゼーヌ大将を戒めた、という場面にも現れています。

 これはル・ブーフが参謀長を降り第3軍団長に自ら「降格」するに当たり、ナポレオン3世臨席の上でバゼーヌを叱咤激励?したとされるものです。


 この席上ル・ブーフは、以下のような内容の書面をバゼーヌに渡すのです。


『バゼーヌ大将閣下に申し上げる。近頃我が軍が敗北を喫するのは、次の3点が原因であると本官は考える。1・不測に開戦すること。2・軍が「散漫」していること。3・兵力が過少であること。以上の3つである。これを一つずつ述べたい。

1・不測に開戦すること

 予期なくして不意の開戦となっていることで負けている。これからは一層、各指揮官の独断を戒め前哨の監視を強化し、また報酬を増やしてスパイを多数雇うこと。普軍においては至る所にスパイを活用しているようなので、我が軍も負けてはいられないだろう。

2・軍が「散漫」していること

 ヴァイセンブルクでもヴルトでもスピシュランでも、全ての会戦において我が軍は広く散ってしまい、集中して運用出来なかった。ナポレオン1世陛下は常に兵力を敵方より多く一極に集中し勝利を得ていた。66年の普墺戦争でも普軍は二分されていた兵力を一点に集中させ墺軍を敗退させている。我が軍もこれに従うべきである。

3・兵力が過少であること

 我が軍は総計でも25万、敵は80万に達すると思われる。この差は驚くべき大差であるが、恐れるに足らず、戦略を以て対抗すればよい。

 その戦略は「軍の一部を囮とし多くの敵を引き付け、集中した主力で残った敵と決戦する」ということである。(バゼーヌの回想録より)』


 これは正にバゼーヌを怒らせるに十分だったのではないでしょうか?

 ル・ブーフはここまでの自らの失敗を棚に上げ、まるで他人事にバゼーヌの責任とでも言いたげで、しかもこれから「部下」となるくせに上から目線で意見し、皇帝の面前にまで呼び出して横柄に「意見書」を「与えた」のです。

 バゼーヌは一兵卒から仏軍の階級を一段ずつ、しかし素早く駆け上った叩き上げの「有能な」軍人であり、しかも恵まれた貴族のル・ブーフより軍歴は長いのです。

 確かに戦前ル・ブーフは陸軍大臣として、近衛軍団長だったバゼーヌの「上司」でしたが、そこには互いに尊敬の念などありませんでした。

 ル・ブーフは、メキシコ派遣軍総司令官(元帥格)まで駆け上がった「成り上がり者」のバゼーヌを小馬鹿にし、密かに憎んでもいたようです。この意見書は、その配下になるに当たって「俺を侮るなよ」とでも言うような「釘差し」だったのでは、と思われます。

 しかしおかしなことに、バゼーヌもこの「意見書」を破りもせずに保管し、後日自著の回想録に採録しているのです。これを「お人好し」と見るのか、フランス人らしい「皮肉屋」と見るのかは、見る者の立ち位置により評価が分かれることでしょう。しかし、バゼーヌがこのル・ブーフの「意見」で動いた形跡は、このマルス=ラ=トゥールでも、この後の哀れな戦いでも無かった、と思います。

 バゼーヌはこの後、この難しい部下を率いて更に悲惨な戦いへと突き進むのでした。

挿絵(By みてみん)

仏竜騎兵の突撃(ヴィオンヴィル部落)


 フロッサールとラドミローのバゼーヌ「評」もまた、ル・ブーフに劣らぬものがあり、スピシュランからコロンベイの戦いにおいて、その「不仲」は浮き彫りとなっていましたが、このマルス=ラ=トゥールでもぎくしゃくとした関係は続きます。


 バゼーヌは15日の夜、フォルトを「勇気を以て前進しなかった」と責め、フロッサールの「無為無策」を叱責しています。この時点(15日深夜)ではバゼーヌも「西方への突破」を目標としていたことがこれで分かります。

 また、ラドミローに対しても「15日の行軍がたった数キロというのはどういうことか」と叱責しています。この叱責が効いたのか16日ラドミローは15キロ以上を駆け抜け、仏軍最右翼(西)まで進出するのですが、ここからがいけません。


 ラドミローはバゼーヌの「第4軍団で仏軍右翼側から南下してマルス=ラ=トゥールを確保せよ」という命令を半分無視、と言うか、ラドミローからの「報・連・相」はこの日一回もなく、バゼーヌもまた直接ラドミローに連絡せず、伝令で命令を一方的に送り付けただけであり、その受領確認すら受け取ることはありませんでした。


 これは偶然だったのかも知れませんが、ラドミローの進出が普19師ウェーヴェル旅団の進撃と同期し、ラドミローはウェーヴェル旅団を粉砕し、その勢いを維持すれば員数が定数の4分の3の普第10軍団を粉砕することも可能、という絶好の機会を得るのです。

 しかし麾下部隊への命令はあくまでも「警戒防御」であり、わずか1個連隊の騎兵(普近衛竜騎兵第1連隊)による決死の突撃で、2個師団の仏戦列歩兵は元の散兵線へと引き返したのでした。

 しかもこの攻撃で西側に普軍の「大軍」がいるのではないか、との恐怖心が湧いたラドミローは、付近の騎兵部隊を集めて西へ向かわせ、歩兵にはなんと警戒しながらの食事休憩を与えたのです。


 こうして、バゼーヌ率いる15万の仏軍主力が普軍の西側へ突破する機会は失われました。


 バゼーヌは、

 1・まず、ポンタ=ムッソン~アル=シュル=モセル間に展開していると思われる独「中軍」の北上を阻止し、

 2・この独軍をモーゼル河畔まで押し戻して粉砕、

 3・この後、メッス要塞に若干の守備兵を置いて、独「北軍」に備え、

 4・本隊はベルダンへ移動。

 との青写真を描いていたのではないか、と言われています。

 このため、その第1段階として、「北西側(仏軍右翼)は守勢で、南東側(仏軍左翼)では攻勢を」採ろうとし、第2段階として「右翼側の第4軍団、続いて第3軍団を次第に南向きにして守勢から攻勢に転換、南から攻める敵を押し返す」作戦を考えたのでした。

 しかし、この意図は麾下軍団長に伝わらず、また従順とは言えない部下の、やる気の見えない采配により消極的な防戦一方となり、半数以下の普軍に抑え込まれるというお粗末な結果を迎えたのです。


 このバゼーヌの「失態」が普軍を助けたことは確かで、普軍は大本営も第二軍本営も「仏軍は既にムーズ川付近に接近しているはず」との「思い込み」で作戦を実行し、もう少しで取り返しのつかない失敗(=第3と第10軍団の壊滅)をするところでした。

 これは広範囲の偵察を少数の騎兵に任せ切りにして、その報告を上手く「読む」ことが出来なかった参謀部の責任でしょう。

 この絶体絶命の危機を救ったのが「敵」と言うのも皮肉なものですが、もちろんそればかりでなく、大きかったのは普第3軍団長コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーベン中将の積極果敢さだったのです。


 C・アルヴェンスレーベン将軍は、仏軍が自軍団より数倍の大軍であることを認識した後も攻撃の手を緩めることなく、退却することもありませんでした。その敢闘精神は、最初から「受け身」の心情だった仏軍の指揮官たちに「普軍はすぐにでも増援が到着するのでは?」との不安を与えたのでした。


 更に第10軍団長のフォークツ=レッツ大将は、轟き連続する砲声を聞くと迷わずその方向へ馳せ参じ、散っていた自軍団を速やかに戦場へ召集させようと努めるのです。

 この行動の結果は大きく、仏軍の戦線を西へ延長させたことで第3軍団への圧力を減らし、その危機を救いました。


 同様に第8軍団のゲーベン大将も状況判断から独断で前衛(第32旅団)をモーゼル西岸へ送り込み、第3軍団の第5師団を助けたのです。

 また、第16師団のモーゼル渡河を援護するだけでよかったはずの第18師団の第11連隊は、その勇猛な連隊長シェーニング大佐によって970高地まで進み、引き返せとの命令にも目前の激戦を見たからには、と進んで命令を無視、まるで三十数年後の「旅順」を思わせる戦場で戦い、多くが帰らぬ人となったのです。


 この「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」では、再び普軍の「委任命令」と「共同責任」という独自のルールがものを言い、普参謀本部はそれを賞賛するだけで良かった、と言ったら過言でしょうか?


 いずれにせよ、上意下達という点においては普仏(違う意味で)共に失敗だった戦いと言えます。

 仏軍はその高級指揮官たちの「不和不仲」が「負け」を招き、普軍は「見敵(聞敵?)必戦」の精神が「勝ち」を呼び込んだ、と言えるでしょう。


 普軍で反省すべき点としては、ここまでの会戦同様この「中央統率がうまく機能したとは言えない」という点ですが、これも「委任命令」のなせる業(副作用?)、とも言えますし、また、一部の戦史家や戦術家が責め立てる「大本営の情報収集軽視」についても、何度も繰り返しとなりますが、この19世紀後半という誰もが明日を見通せないでいた「猛烈なる変化の時代」において、仕方がなかったことではないのか?と筆者はモルトケに同情したくなるのです。


 モルトケはこの日ヴィオンヴィルで大規模な会戦が発生したことを知るや、第3、第10軍団の戦場へありったけの兵力を進めるよう各地に命令を飛ばし、その結果、第8軍団や第9軍団の参戦を早めた、とも言えます。一見独断の連続とも見える行動も、後方本営からの速やかな「追認」があってこそ、独断を行った指揮官たちは迷い無く自信を得て前進出来たと言えるのです。


挿絵(By みてみん)

胸甲連隊の突進(ブレドウ旅団)


 会戦後、一部の高級士官や参謀から、マンシュタイン第9軍団長やウランゲル第18師団長が果敢に部隊を前進させなかった、として非難されていますが、モルトケは大した叱責を行っていません。

 既述通り第9軍団はコロンベイ戦で急遽北上した後、休むことなく南下しモーゼル西岸を目指すという過酷な機動を強いられており、将兵の疲労度は戦場の第3軍団や第10軍団の兵士たちと遜色なかったはずです。たとえ数時間早く戦場に到着していたとしても、会戦の結果に大きな影響を与えたとも思えません。双方の損害だけが空しく増えただけに終わる可能性が高かった、と思うのです。


 ただ一点、カール王子が戦場到着後(午後4時)、次々に行った数的不利を承知の攻勢については意見の分かれるところでしょう。

 特に夕闇の中、疲弊した戦線に命じた「総前進」は、一つ間違えれば「大惨事」となる危険なものでした。


 モルトケは戦後、この最後の攻撃を「愚策」と切り捨てています。

 この時の状況から見てもカール王子の積極策はいたずらに戦力を擦り潰すのみで、仏軍の西進突破を防ぎ最終的にはブリュヴィル~ルゾンヴィル~グラヴロットの線まで仏軍を押し返したのだから、この「戦略的勝利」を危うくする攻撃など行う必要はなかった、とするのです。


 しかし、カール王子の心境も分からないことではありません。

 自身の「判断ミス」により、親友シュチュルプナーゲルの第5師団を始めとする第3軍団が壊滅の危機に瀕し、それを心中恥じた王子は第10、第8軍団の参戦、そして第9軍団の前進を知ると面子に賭けても「完全勝利」を欲して前進を命じたのではないか、と思われるのです。

 当時はこれを責める普軍人は少なく、却って賞賛する声が高かったと言います。この辺が「勝っている側」の余裕であり、また、「勝利に浮かれて危険を見失っている」とも言える状況なのでしょう。


 ただ、この後の展開を見てみると、このカール王子の積極的な攻撃がきっかけとなり、バゼーヌは完全に「ベルダンへの西進」を諦め、「メッスに籠もりパリからの援軍を待って決戦する」との考えが芽生えたのかも知れないのです。

 この辺りの「功罪」については、当時戦場に身を置いた人間だけが判断出来たことだ、としてこの項の幕を引きたいと思います。


挿絵(By みてみん)

第57連隊長クラナッハ大佐の帰還


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