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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
217/534

マルス=ラ=トゥールの戦い/カール王子の執念

 シュヴー森へ派遣された第72「チューリンゲン第4」連隊第2大隊は、夏草生い茂る暗い森の中を苦労しながら北上し、午後7時オニオン森(ボア・デ・ソニオン)の西端に到達します。

 ここで彼らは(知らなかったとは思いますが)、親部隊が凄惨な目に遭った970高地に見え隠れする仏軍左翼に対し、ドライゼ銃の射程ぎりぎりで一斉射撃を行い、これに仏軍が気を取られた隙に、サン=タルヌー林北端付近にいた普5師と16師の残存部隊は再び高地に向けて突撃を再開したのです。


 しかし、合わせても1個旅団に満たない雑多な部隊の集団では、最早この高地は突破出来ない状況となっていたのです。

 この時間(午後7時過ぎ)、北西のローマ街道址の戦線からバゼーヌ大将の命令で第3軍団のネラル師団が引き抜かれて転進し、ちょうど970高地に到着し始めていたからで、これでルゾンヴィル街道沿いのこの高地には、約2個師団相当の兵力がいることになっていたのでした。


 この普軍最後の攻撃は前3回と全く同じ展開となり、一旦は高地稜線を確保した普軍は、たちまち仏軍の逆襲を受けて高地を追い落とされ、仏軍はそのまま高地を駆け下りサン=タルヌー林北端に達しますが、ここで林間から猛烈な射撃を浴びて大損害を受け、急ぎ970高地へと退却したのでした。


 この午後7時過ぎ。970高地とその東に広がるシュヴー林の更に東方には、普第9軍団第25「ヘッセン=ダルムシュタット」師団の前衛が到着し始めます。

 この師団がマルス=ラ=トゥールの戦いに参戦するまでには、ちょっとした「葛藤」がありました。


 第9軍団長のフォン・マンシュタイン大将はこの16日夕刻まで、ゴルズからマルス=ラ=トゥールにかけて大規模な会戦が行われていることを知りませんでした。


 将軍は午前11時に受け取った第二軍の「翌日の」行軍命令、「第9軍団は17日マルス=ラ=トゥールに到達せよ」に従い、麾下の第18師団をアリーへ、第25師団をコルニーへと、それぞれ向かわせましたが、この時には麾下部隊を今日中に渡河させる気など更々ありませんでした。

 その理由は、この数日の行軍が大変厳しいものだったからで、将兵の疲労は傍目でも分かるほどひどいものだったため、将軍は兵士たちを半日でもゆっくり休ませたかったのです。


 これは将軍がこの時に置かれていた状況も微妙に影響していたと思われます。


 この第9軍団は本来なら北部ドイツの諸侯とデンマーク国境沿いから徴兵された軍団でした。ところが、7月中旬に動員令が発令されると、軍団の半分(第17師団)はデンマーク対策でシュレスヴィヒに残され、代わりに北ドイツ連邦軍(実体は普軍)でも「変わり種」の地域「北部ヘッセン(オーバーヘッセン地方)」の兵士で構成されたヘッセン「旅団」に、「南部ヘッセン(シュタルケンブルクとライン・ヘッセン地方。いわゆるダルムシュタット政府)」が急遽加わった普軍の「末尾番号師団」第25師団が加わることとなったのです。


 当時、ヘッセン大公国は南北に分断されて政治的にも「微妙」な状況にあり、普王国と「攻守同盟」を結ばされた「ヘッセン軍」は普軍の一部として錬成され、部隊指揮官も半分ほど普軍の正規士官が派遣されて「目を光らせて」いる状況だったのです。


 そのためか、これまでの行軍や戦いではこの第9軍団は常に第二線に置かれ、戦いが発生しても第25師団より先に「純粋な」普軍である第18師団が出動する事が多くありました。

 この第18師団にしてもその実態は、普墺戦争の結果で普国傘下とされた地域出身の兵士が多く含まれており、その信頼性は指揮を執る普軍正規士官の手腕如何に掛かっていたのです。


 このある意味特殊な軍団を率いたのが、この会戦後に65歳となったアルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン大将でした。


 将軍はナポレオン戦争当時、第2ヴェストプロイセン竜騎兵連隊を率いてプール・ル・メリットを襟元に飾ったアルベルト・エルンスト・フォン・マンシュタイン少佐の子息として生まれます。

 ベルリンの陸軍幼年学校で学んだグスタフは、17歳で第3連隊の下士官(後に少尉)として軍歴をスタートします。このマンシュタイン家は14世紀以前から続く普王国の名門貴族家であり、優秀な軍人を繁出している家系でもありました。

 グスタフは34歳で中尉に昇進した後、55歳まではラントヴェーア(郷土軍)や第1軍団の幕僚として本営勤務を重ね昇進しますが、直接野戦部隊の指揮を執ることは少なく、やや遅めの58歳で少将に昇進すると、ようやく野戦部隊の第6師団長に任命されたのです。

 直後の64年に第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が始まると、第6師団はこの戦争に主力の一部として参加、これが将軍の転機となりました。この戦争で最も重要な戦闘だった「ドゥッペル堡塁の戦い」や「アルス島上陸作戦」に活躍し、戦後父と同じ念願のプール・ル・メリット(同時に同盟軍だった墺帝国からマリア=テレジア騎士十字章受勲)を獲得しました。

 引き続き66年の普墺戦争に参戦したグスタフ将軍はカール王子の第1軍傘下となり、墺第1軍団やザクセン軍と戦い、ケーニヒグレーツの戦いでは師団長が負傷し欠員となっていた第5師団長を兼務して実質「第3」軍団長となって奮戦、戦後プール・ル・メリットに加える「柏葉章」を獲得し、世間一般でも優将の一人と認められました。


 このケーニヒグレーツの会戦直前、モルトケ署名の命令書を見て「なかなかいい作戦だが、このモルトケとは一体誰だ?」と参謀に尋ねた逸話は後に有名な「笑い話」となります。

 こうして普墺戦争でも名を上げたマンシュタイン将軍は、67年に第9軍団長として中将昇進、翌68年に誰もが羨む歩兵大将へと昇進し、この70年の開戦を迎えたのでした。


 気になる方も多いと思うので記しますが、この将軍は第二次大戦時独軍最高の「智謀」と謳われたエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥の祖父に当たります。但し、元帥はレヴィンスキー家から実母の縁で養子としてマンシュタイン家に入った人なので、このグスタフ将軍とは直接の血縁はありません。血縁で言えば、この普仏戦争時に第一軍参謀長だったオスカー・カール・フォン・スペルリング少将は、マンシュタイン元帥の実母方祖父となります。

 また、グスタフ・フォン・マンシュタイン将軍の子息4人は士官として普仏戦争に参戦しましたが、ハノーファーの第77連隊大尉だった長男のベノ・アルブレヒト・アレクサンダーは、スピシュランの戦いで戦死しています。

 末っ子は後に中将まで昇進し、レヴィンスキー砲兵将軍の子エーリヒを産まれて直ぐ養子に迎えるのでした。


 マンシュタイン将軍はその人間味溢れる性格故に兵士に人気があり、この「明るさ」とデンマーク軍相手に戦った経験を買った軍首脳が、この「北部辺境の軍団長」に任命したのではないか、と推察します。

 こうして、マンシュタイン将軍は普仏戦争を迎えて更に「難しい軍団」となった第9軍団を苦心しながら指揮していたのでした。

挿絵(By みてみん)

グスタフ・フォン・マンシュタイン

 このマンシュタイン将軍が部下を気遣っている最中、正午にカール王子が発した第9軍団宛の特別命令、「前命令を出来得れば本日中に実行し、第3軍団の右翼を援護せよ」が午後3時、行軍中の将軍の下へ届くのです。

 マンシュタイン将軍は心を鬼にして直ちに伝令を送り、第18師団(アリー)と第25師団(コルニー)に対し本日中にモーゼル川を渡河し、普第3軍団の右翼側へ進出するよう命じたのでした。


 この「難しい師団」、第25師団の師団長は、ヘッセン大公国の公太子、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・フォン・ヘッセン・ウント・ベイ・ライン中将でした。

 イギリス女王ヴィクトリアの次女アリス妃を妻とし、普墺戦争ではオーストリア(ドイツ連邦軍)側に立って普王国と戦った王子はこの時33歳。7年後に伯父の死により第4代大公となります。

 公太子は南北に分断された国軍を、わずか4年前に戦った普軍の一部として率い戦っていたのです。

挿絵(By みてみん)

ヘッセン公ルートヴィヒ

 ルートヴィヒ公子はカール王子の意図を酌み、軍団長の命令以前に既に師団を出来る限り急がせ、本日中の渡河、そして北進を目指していました。

 この時、師団の後衛だった第50旅団はルートヴィヒ公子に急かされ、男爵ルートヴィヒ・アレクサンダー・フォン・リッカー大佐に率いられてコルニー目指し強行軍を開始しています。

 また、普王国から派遣され、もう一つの第49旅団を率いる男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッティヒ少将は、旅団の4個歩兵大隊と騎兵旅団から送られたライター(軽)騎兵第1連隊、そして師団砲兵3個中隊で「ヴィッティヒ」支隊を即製し、ゴルズを目標に前衛として進みました。この中からヴィッティヒ少将は騎兵第2中隊を情報収集のために先行させます。

挿絵(By みてみん)

ヴィッティヒ

 しかし、コルニーとノヴィアン間の橋は狭く揺れが大きな懸架橋のため、大軍の通過には時間を要し、行軍はどんどん遅れてしまいました。この我慢の時間にも前線より戦況が次々に届き、まずは砲兵部隊を直接普5師の戦場、ゴルズ高地へ向かわせ、歩兵はゴルズへの街道を右折し、仏軍が散兵線を敷く970高地より東側(仏軍左翼)へ進むこととなりました。

 さらに前線から伝令が運んだ第16師団長フォン・バルネコウ中将からの要請で、シュヴー林を目標に歩兵4個大隊は速歩で前進するのです。

 しかし、ヘッセンの歩兵部隊がゴルズの東郊からこの森林内に入った時には既に日はとっぷりと暮れており、林間の小路は足下が見えず行軍は更に遅延しました。


 この困難な行軍中にヘッセン歩兵第1連隊の前衛6個中隊は仏の精鋭、近衛猟兵大隊と遭遇するのです。


 午後7時30分、オニオン森からシュヴー林北部に深く分け入って警戒任務に就いていた仏近衛猟兵大隊は、広く森林内に横隊で展開しており、この「網」にヘッセン歩兵は進み出てしまうのでした。両翼包囲を謀る仏軍猟兵に対しヘッセン軍は、後続する半個大隊(2個中隊)が援護を行ったおかげで白兵戦に持ち込み、数に劣る仏軍猟兵は直ぐに撤退しました。

 このままヘッセン歩兵はシュヴー林北西端まで進み、ちょうどルゾンヴィルへ退却を始めた西側高地の仏軍に対し銃撃を行うのです。しかし、既に夜となり、林間では視界が優れず効果はありませんでした。

それでも戦意高まるヘッセン軍はオニオン林になおも潜む仏軍に対し、長時間効果の薄い不毛な銃撃戦を行います。これは現場に駆け付けた第9軍団長マンシュタイン大将に中止させられました。

 時刻は午後10時を過ぎており、マンシュタイン将軍はヴィッティヒ少将に対し、旅団をこの森林内の空き地で野営させ、前哨はルゾンヴィルを臨む森林線北西端まで進んだのです。


 第9軍団残りの諸部隊も夕暮れ時にはモーゼルを渡河、西岸に渡りました。第25師団の残り部隊はオニオン森南端、軍団砲兵隊はゴルズ部落南東のゴルジア川渓谷沿いに達し、970高地で大損害を受けた第11連隊以外の第18師団は、1個大隊をノヴィアンからアル=シュル=モセルへ橋梁警備のため前進させた後、残りはアルナヴィル(ノヴィアン南西1.5キロ)で野営するのでした。


 さて、カール王子は午後5時過ぎからフラヴィニー郊外の高台で観戦を続け、午後7時、東側戦線の銃撃戦が再び激しくなり、伝令の報告でマンシュタイン将軍の第9軍団が間もなく参戦するとの予測が立つと、「これでルゾンヴィル~グラヴロットに対し攻勢を掛けられる状況になった」と確信するのです。

 カール王子はゴルズ高地に展開する100門以上の強力な砲兵をバックボーンに、この半日に及んだ激戦の後に更なる激しい攻勢を掛ければ、この勝敗のはっきりしない会戦ではっきりと普軍勝利を謳うことが出来、また夜間に普軍の攻勢を受けることで、仏軍の戦意を挫くことが出来る、と目論んだのです。


 カール王子はこうして本日掉尾を飾る「決戦」をルゾンヴィルで行うため、東部戦線に展開する諸部隊に対し、総前進を命令するのでした。


 しかし、実際長時間戦い続けた将兵にとって、この命令は大変過酷なものでした。


 5師砲兵諸中隊は、既に午前中から砲撃を繰り返し、弾薬も尽き、幾度も補給のための往復を行ったため、既に前進する気力がなく、命令を受けても砲列線を動かさずに黙々と砲撃を続けました。


 第25「ヘッセン」師団の砲兵部長、普軍から派遣されたシュトゥムプフ中佐はヘッセン砲兵の軽砲第1と重砲第2中隊を直卒して、ヴィオンヴィル林からフラヴィニーまでの砲兵列線に加わりますが、中佐はカール王子の命令が届くと、進軍しない諸砲兵たちを尻目にヘッセン砲兵2個中隊を前進させ、これに弾薬補充を終えたばかりの第10軍団軽砲第1中隊も続きました。

 また、第3軍団の重砲第3中隊は命令を受けると、ヴィオンヴィル周辺に展開していた第10軍団の騎砲兵を中心に指揮をするケルベル少佐の砲列まで進み合流しました。

 フォン・ドレスキー大佐は疲弊した指揮下の砲兵(騎砲兵3個と軽砲1個中隊)を励まして砲兵列線中央部から前進を開始し、第20師団砲兵2個中隊はドレスキー隊の間に進み、指揮官のコッタ少佐が砲撃中に負傷後退した第10軍団重砲第5,6中隊の内、第5中隊はドレスキー隊の右翼へ前進し、第6中隊は砲列線に留まります。


 この他、ヴィオンヴィル付近の砲兵では、第10軍団騎砲第3中隊がドレスキー隊の左翼に参加しますが、その他ケルベル少佐の隊や他の砲兵は、次第に激しくなるルゾンヴィル方面からの銃砲撃のために前進は困難となり、疲労も激しかったためにゆっくりと東へ進むのでした。この内、第3軍団軽砲第4と重砲第4中隊は、ルゾンヴィル~ゴルズ街道の街道脇下水溝を散兵線に利用する仏軍歩兵から猛烈なシャスポー銃射撃を浴び、ベルダン街道脇から動くことが出来ませんでした。


 歩兵部隊も前進は困難を極め、進んだものは少数でした。


 ベルダン街道の北側では、フォン・アルテン中佐が集合させた第35連隊の残存兵に、スツーケン少佐が率いる第20連隊第1大隊と、フォン・ピルヒ少佐率いる同連隊F大隊が重い足取りで砲兵隊の前進に付いて行きました。

 普軍歩兵の目立つ行軍はこれだけに終わるのです。


 午後8時少し前、あれだけ固守した989高地と970高地から仏軍諸部隊はルゾンヴィルとグラヴロットへと後退し始めました。

 これは夜闇による孤立を恐れたバゼーヌ大将の命令で、これにより「空」となった989高地に、ドレスキー大佐の砲兵を始めとする普軍の諸砲兵中隊が苦労しながら稜線上に展開しました。

 ところが、仏軍はこれに対して東及び北から猛烈な銃撃を加え始め、この間に仏近衛軍団がルゾンヴィル東郊外の渓谷東に54門の砲を並べ始めたのです。

 普軍砲兵側は少しの時間、榴弾砲撃を仏軍に加えましたが、このままで夜が更けるのは危険として一斉に高地を降り、元の砲列線まで後退して行ったのです。


 カール王子の命令はこの会戦で大活躍した騎兵部隊にも届きます。


 騎6師は午後1時過ぎにゴルズ高地からルゾンヴィル目指して突撃を敢行し、失敗してフラヴィニーの南西、ゴルズ高地西端まで後退していましたが、この命令で再び前進を開始しました。

 ディーペンブロイック=グリューター少将率いる騎第14旅団は間隔を大きく取った縦列横隊を組み、ビュシエール~ルゾンヴィルの小道沿いにルゾンヴィル目指し高地を進みます。

 槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊(2個中隊のみ)が先頭となり、胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊(3個中隊)がその左(北西)翼後方、槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊は右(南東)翼後方に続きました。この旅団梯団右翼に5師騎兵の竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊が展開し、並走し前進します。

 負傷し後送されたグスタフ・ワルデマー・フォン・ラウフ少将に代わりカール・ヨハン・フォン・シュミット大佐が指揮を執る騎15旅団はトロンヴィル南東郊外から前進を開始し、放射状に広がった行軍列で驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊、驃騎兵第3「ブランデンブルク」連隊が並列して進み、その左翼(南)後方からは、第19師団騎兵の竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊が続行するのでした。旅団は燃え続けるフラヴィニー部落の北側を通過し、ルゾンヴィルへ向かうのです。


 この騎兵の襲撃時は既に午後8時を過ぎており、ゴルズ高地は燃え盛る部落を除き暗闇に閉ざされ、敵の方向は瞬く敵の砲火によってのみ分かるという危うい状況にありました。

 先行したグリューター旅団は普軍砲兵線を越えて前進を続けましたが、暗闇の中で仏軍の散兵線に衝突し、激しい銃撃を浴びた普軍騎兵は次々に倒され、大損害を受けた騎兵旅団は普軍砲兵が989高地から退却するのに合わせる形で後退し、ゴルズ高地の西端へと戻ったのです。


 一方、「シュミット」旅団は左翼側がベルダン街道を越えて進み、ルゾンヴィルの東で普6師の前線を越え、暗闇の中更に東へ突き進みます。この時、仏軍も普軍歩兵に対し騎兵で襲撃を掛けようとしましたが、シュミット旅団の進撃に気付き、後退しています。

 普軍騎兵はこの先で構えていた仏軍の散兵線から銃撃を浴びますがこれを突破し、多少仏軍前線を混乱させますが、夜が更けて行くに従い、益々闇に閉ざされる戦場ではこれ以上敵戦線内に留まるのは危険でした。

 シュミット大佐は最後に驃騎兵第3連隊の1個小隊強、およそ50騎を直卒すると、最も活発に銃撃を行っていた仏軍戦線最右(北)翼に向かって突撃を敢行しますが、銃砲火に目が眩んで闇の中を騎行することが困難となり、また馬匹の疲労も極限に達していたため、止む無く友軍戦線内へ引き返したのでした。この普軍騎兵の馬匹はこの16日早朝の午前2時30分に鞍を装着されて以来、この午後9時を過ぎる頃まで一切飲食をする機会に恵まれず戦い続けていたのでした。


 こうして仏軍が夜間のため戦線を引き締めようとして後退を始めると、前線に残った普軍騎兵も一斉に後退するのです。

 普軍のフォン・シュミット大佐は負傷し、 男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・アダム・フォン・ディーペンブロイック=グリューター少将もまた989高地の麓で重傷を負ってしまいます。

 ディーペンブロイック=グリューター少将は1か月後の9月20日、この戦傷が元で亡くなっています。51歳でした。

挿絵(By みてみん)

ディーペンブロイック=グリューター

 こうして普軍戦線右翼におけるカール王子「執念の」攻勢は失敗に終わります。

 この時、普軍戦線左翼では第10軍団長のフォン・フォークツ=レッツ大将がマルス=ラ=トゥールとトロンヴィル林を断固死守するつもりで部隊を区処しますが、午後8時頃にルゾンヴィル方面で銃砲火が激しくなると、第20師団長クラーツ=コシュラウ少将に命じ、自軍団の右翼へ兵を進ませます。

 クラーツ=コシュラウ将軍は第17連隊第1大隊と、第92連隊F大隊を直卒するとベルダン街道をヴィオンヴィルに向かい急行して警戒し、追い駆けて来た師団砲兵の軽砲第4中隊はヴィオンヴィルの西高地上に砲列を敷きました。前哨として更にルゾンヴィル方向へ走った竜騎兵第16連隊第4中隊は、仏軍散兵線から猛射撃を受けて引き返しています。


 こうして全戦線が沈黙したのは午後10時を過ぎた頃で、午前9時から始まったこの会戦は、13時間を経過してようやく終了したのでした。


『銃砲撃音が轟き渡り、双方が剣を交えたこの広漠たる荒野は、今、寂寥として再び声もなく、累々と重なり斃れる死骸は方々に散見され、その有様に人々は震え上がる。

しかし、昼間の灼熱炎暑は去り、涼しい夜風が吹き出すと、人々は重い身体を押して野営の準備をし、短い休息と睡眠を貪らんとするのだった。

この夜、普軍の前哨線は苦戦の中必死で勝ち取ったルゾンヴィルの西側高地の左右に延ばされ、大きな弓型を描いてオニオン森から始まりトロンヴィル森までに至った。この前線は夜半に月が昇ると、戦線左翼で騎兵たちの鮮血に濡れたままのマルス=ラ=トゥールの平原からイロン川に至るまで延伸されるのだった。 (1870~1871独仏戦史・プロシア参謀本部戦史課編・筆者意訳)』


挿絵(By みてみん)

ルゾンヴィルの仏軍(パノラマ左)

挿絵(By みてみん)

ルゾンヴィルの仏軍(パノラマ右)

☆ノヴィアン=シュル=モセル(モーゼル西岸。コルニー橋の500m南)からゴルズへのヴィッティヒ支隊行軍序列


*「ヘッセン」騎兵ライター第1連隊・第2中隊

*「ヘッセン」歩兵第1「近衛ライヴ」連隊・第1、2大隊

*「ヘッセン」野砲兵大隊・重砲第1,2、軽砲第1中隊

*「ヘッセン」歩兵第2「大公」連隊・第1、2大隊

*「ヘッセン」騎兵ライター第1連隊・第1,3,4中隊


※ヘッセン大公国軍の1870年における歩兵連隊は普軍と違い2個大隊制です。

※「ヘッセン」猟兵第1「近衛」大隊は、輜重縦列に遮られ行軍が遅れ、深夜旅団に追い付きました。

※「ヘッセン」騎兵ライター第1連隊は「ヘッセン大公国近衛シュヴォーレゼー騎兵連隊」とも言います。ライターもシュヴォーレゼーも軽装・護身武器のみ携帯の最軽量騎兵の伝統名称です。



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