マルス=ラ=トゥールの戦い/魔の970高地
仏軍総司令官バゼーヌ大将は、この戦い当初より戦線左翼(東)を重視して、独軍のゴルズ方面からルゾンヴィル及びグラヴロットへ北上する動きを警戒し、主力をこの方面に留め置き続けました。
午後遅く夕暮れ時を迎え、独軍がこの方面に兵力を増強したことはバゼーヌ自身には自己の判断が正しかった証拠とも思え、西方脱出を命じたナポレオン3世皇帝の命令などどこへ行ってしまったものか、仏軍は攻勢が続く独軍右翼(東)の動きに乗じて更に東側へ兵力を投入するのです。
最初にヴィオンヴィルとフラヴィニーの失陥により普軍の動きに釣られる形で、予備後置して来たル=ヴァッソール・ソルヴァル師団(第6軍団)をルゾンヴィル西の高地へ転進させ、原隊のカンロベル大将率いる仏第6軍団左翼と連絡させたのを皮切りに、「切り札」近衛軍団を投入し始めるのでした。
フロッサール中将の仏第2軍団がグラヴロット近郊まで後退を完了し、入れ替わりに前進したのがヨセフ・アレクサンドル・ピカール少将の近衛第2師団で、まずは2個グレナディール(擲弾兵)連隊(第1、第2)をサン=タルヌー林に面する989(標高フィート。約301m)高地に送って散兵線を敷きました。
その後、普リッカー大佐の第78連隊がこの高地へ突撃した時に、増援としてエデュアルド・ジャン・エティエンヌ・デリュー少将の近衛第1師団第1旅団の2個ヴォルティジュール(選抜歩兵)連隊(第1、第2)が送り込まれ、この仏軍精鋭4個連隊により989高地は不抜の要害と化したのでした。
ほぼ同時に、仏近衛擲弾兵第3連隊はフェルディナン・オーギュスト・ラパス准将旅団が陣取る970高地(標高約296m。ルゾンヴィル~ゴルズ街道上にある高地で989高地の東側)へ増援として送られ、強力な阻止線を街道上に敷いたのです。近衛第2師団残りの近衛ズアーブ連隊は予備としてグラヴロット郵便局付近に待機となりました。
ルゾンヴィルの仏近衛兵01
午後5時を過ぎ、普第16師団がこのルゾンヴィル~ゴルズ街道(以下ルゾンヴィル街道とします)を北上するのを認知した仏軍は、グラヴロット郵便局付近で待機していた仏第3軍団第1「モントードン少将」師団の大部分を前進させる決定をし、この普軍攻勢に対抗させました。
モントードン師団の残部は近衛猟兵大隊(近衛第1師団所属)と共に、グラヴロット部落南方に広がるオニオン森(ボア・デ・ソニヨン)に分け入って、南方のアル=シュル=モセル方面から普軍がグラヴロットを奇襲しないよう警戒するのでした。また、同じ警戒任務をミトライユーズ砲中隊1個に命じ、この砲兵隊はジュレ森(ボア・ドゥ・ラ・ジュレ。今は無きグラヴロット南東の森)に接したマンス渓谷の東崖上でオニオン森を斉射出来るよう砲列を敷いたのです。
バゼーヌ大将はグラヴロット周辺にそれ以外の予備兵力を集中させました。
モントードン師団が去ったグラヴロット郵便局周辺には近衛第1師団第2旅団(第3、4選抜歩兵連隊)が構え、グラヴロットの東側、マンス渓谷脇には第2軍団が集合し、郵便局北西の高地にはフォルト、ヴァラヴレーグ両騎兵師団が集結していたのです。
この重厚な布陣の仏軍に対し、普軍はなおも攻勢を続けようとしたのでした。
普第9軍団長アルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン大将は、この16日午前11時にポンタ=ムッソンより朝発令された第二軍命令「明日17日にモーゼルを渡河しゴルズ方面へ前進し、第3軍団の右翼を援護せよ」を受領、前衛の第18師団と軍団砲兵隊をアリー(ポンタ=ムッソン北10キロ)の渡河点へ進ませ、第25「ヘッセン」師団をコルニーの渡河点を目標に進ませました。
すると行軍中の正午、右翼北側のお隣、第一軍第8軍団長のアウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン大将からの伝令が第18師団の下へ届き、「諸般の状況と情報をまとめると、どうやらモーゼル川の西岸、ノヴィアン(=シュル=モセル)の北方面で戦闘が行われているらしいので、第8軍団は戦闘の方向へ移動する」とのことでした。
第18師団長のカール・フォン・ヴランゲル中将は、位置関係から同僚の第25師団より第8軍団が先行すると確信し、まずは第8軍団の渡河点となるコルニー橋梁を確保守備するため、擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊をコルニーへ向かわせ、連隊長のカール・ハインリッヒ・アウグスト・ゲオルグ・ヘルムート・フリードリヒ・フォン・シェーニング大佐に対し、同地にて第8軍団長ゲーベン将軍の命令に服するよう命じたのでした。
このゲーベン大将の第8軍団の前衛となった第16師団(但しティオンビル攻撃の第31旅団を除く「半師団」)は強行軍で進み、アリー付近に到着した諸隊は、この日だけでないこの数日の激しい行軍と戦闘で疲労困憊となっていました。
しかし、この第32旅団を中心とする部隊は第3軍団5師よりの緊急援軍要請が届くと直ぐに行動を開始し、午後1時にアリーを発ってコルニー橋梁へ向かい、午後2時過ぎに無事モーゼルを渡河すると午後3時30分、前遣の砲兵がゴルズに到着するのです。
この時、第18師から橋梁警備のために先遣され、「ゲーベン将軍の命令に服するよう」命じられた第11連隊も第32旅団に続行するのです。これは勇猛果敢な連隊長フォン・シェーニング大佐の独断で、「遙か前方で起こっている戦闘に参加し敵の南下を阻止すれば、結果的にコルニー橋梁の援護もまた確実に成したことになる」という「屁理屈」(つまりは何が何でも戦いたいという欲求)なのでした。
コルニー=シュル=モセルの橋
部隊に同行した第16師団長アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将は、切羽詰まった5師フォン・シュテュルプナーゲル中将からの伝令により、驃騎兵と砲兵3個中隊を先行させました(既述。「カール王子戦場へ」の項参照)。
その本隊も午後4時にはゴルズに到着し、その歩兵3個連隊9個の歩兵大隊をサン=マルク林(ボア・デ・クロア・サン=マルク。ゴルズ部落東郊外に広がる雑木林)の北へ展開させたのです。
当初、バルネコウ将軍はこの森林線から北上し、シュヴー林(ボア・デ・シュヴー)とオニオン森へ迂回して北上し、一気にグラヴロットを陥れようと考えます。しかし、5師のフォン・シュテュルプナーゲル将軍たっての希望により迂回運動は中止され、第72連隊第2大隊のみ右翼(東)方面警戒としてシュヴー林へ進ませ、第32旅団残りの5個大隊は行軍序列のまま(第72連隊フュージリア、1、第40連隊1、2、3大隊の順)でゴルズ北の「ムッサの丘」へ登り、ここを起点にサン=タルヌー林を通過して北上を謀り、第11連隊の3個大隊はこの後続第二線として北上するのでした。
第72「チューリンゲン第4」連隊1、フュージリア(以下F)の両大隊は午後5時、サン=タルヌー林北端の最前線に到着し、ここで5師の擲弾兵第8「ブランデンブルク第1」連隊の2個大隊と合流しました。
この由緒ある「ライヴ(親衛)」連隊は、既に6時間以上も休むことなく北の高地に強力な散兵線を敷く仏軍と銃撃戦を繰り広げており、連隊長のレストック中佐は負傷しながらも後送を拒否し指揮を執り続けており、2人の大隊長と連隊附士官、フォン・ザイドリッツ少佐、男爵フォン・フェアシューア少佐、フォン・シュレーゲル少佐は重傷を負い後送されていました。
第16師団の増援は、この連隊の弾薬も尽き掛け、戦線を後1時間保てるか否かという際どいタイミングだったのです。
普第5師団の攻撃
第72連隊長カール・ハインリッヒ・グスタフ・フォン・ヘルドルフ大佐は、自身のF大隊をルゾンヴィル街道の東へ、第1大隊を街道に沿って展開させ、その後、989高地と970高地から浴びせられる銃砲火を冒して前進を謀りました。
ところが、この2個大隊はたちまち犠牲が続出し、先頭を行く士官は倒れ、突撃する兵士は次から次へと倒されてしまいます。それでもヘルドルフ大佐は犠牲を厭わず、将兵を励まして前進を強行し、遂に第72連隊は高地の稜線上に達したのでした。
しかし、普軍兵士たちが前面の仏軍散兵の後退を見て、高地を占領したとの感慨に耽る間もなく、数倍の敵歩兵が稜線上に出現し、一斉に突撃を敢行したのでした。
結果は悲惨で、わずか数分間高地を占領したのみで普第72連隊は高地を追い落とされ、元の森林北端に戻った2個大隊はほぼ半減し、連隊長のフォン・ヘルドルフ大佐は戦死、フォン・エルツェン少佐は重傷、午後5時30分には2個の大隊は再編のため、サン=タルヌー林の奥へ引き上げざるを得なくなったのでした。
これに代わって北上したのが男爵フォン・エーベルシュタイン大佐率いるフュージリア第40「ホーエンツォレルン」連隊でした。
同僚と違い、既にスピシュランの戦いで銃砲火の洗礼を浴びた、普王国飛び地で王家誕生の地ホーエンツォレルン州出身の兵士たちは、散々な目に遭った72連隊を収容すると入れ替わりに前進し、第2大隊は街道を行き、その右翼に第1、左翼に第3大隊が街道脇の谷を進み、第72連隊で戦意の衰えない一部兵士たちもこの進軍に加わったのです。
こうして新たな普軍連隊は970高地へ突進し、再び激闘が繰り広げられたのでした。
その左翼、第3大隊は仏軍防衛線を突破し、散兵を蹴散らして尾根にある小屋を占拠する快挙を成し遂げるのです。
しかし、この高地を守るのは仏軍で最も優遇され訓練・装備が行き届いたエリート集団、近衛軍団の擲弾兵第3連隊と、長時間の戦いで幾度突破されても再び逆襲して陣地を取り返す、戦意の衰えないラパス准将の戦列歩兵です。しかもこの時、グラヴロットから増援としてモントードン師団の主力歩兵部隊が到着し始めていました。
行軍で疲れ果てた後に休まず参戦したわずか1個連隊の歩兵では、この師団規模にまで膨らんだ敵には歯が立ちませんでした。
高地の小屋はたちまち奪還され、モントードン師団の戦列歩兵による波状突撃に薄い普軍の散兵線は次々と破られ、押された普兵は後退を余儀なくされ、するとその「穴」から仏軍の新鋭歩兵は戦果を拡大して行きました。
結局第40連隊も総崩れとなり、サン=タルヌーの森林線へ引き上げたのです。
その後退する将兵の中に連隊長はいません。フォン・エーベルシュタイン大佐は最初の突撃の先頭に立ち、戦死していたのでした。
わずか1時間足らずで麾下部隊が大損害を受け、二人の連隊長を失った旅団長、ルドルフ・フランツ・クルト・フォン・レックス大佐は唇を噛みしめ、後続する第18師団所属の第11連隊に援助を求めました。
クルト・フォン・レックス
擲弾兵第11連隊はレックス旅団の攻撃時、サン=タルヌー林南端で待機していました。レックス大佐の要請を受けた連隊長カール・フォン・シェーニング大佐は直ちに前進準備に掛かります。ところがここに驚くような命令が届くのです。
これはアリーから駆け付けた第8軍団参謀長カール・ヴィルヘルム・フォン・ヴィッツェンドルフ大佐が伝えたもので、第8軍団長フォン・ゲーベン大将の命令により、第11連隊は午後6時を以て元の露営地に復帰せよ、とのことだったのです。
ヴランゲル18師団長よりゲーベン将軍の命令に従うよう命じられていたシェーニング大佐は、普通に考えるのなら即コルニーまで後退すべきでした。しかし大佐は、「この命令は、ここゴルズでのレックス支隊の苦戦を知る前に発せられたもので、支隊に付いて行った我が連隊のことを知った将軍が、レックス旅団だけで十分だ、として、他師団の手助けは不要、と発したものだろう」と推察します。そして現状を見ればどちらに従うかは明らか、とばかり迷いなく独断でレックス大佐の要請に従うことに決したのでした。
こうして第11連隊はサン=タルヌー林を抜けて急進、レックス支隊の2つの連隊と全く同じ林の北端でルゾンヴィル街道と西側の渓谷の間に展開し、未だに多くの死傷者が倒れている970高地の斜面に向かうのです。また、付近で疲労困憊して休んでいた第56「ヴェストファーレン第7」連隊の残存兵はフォン・モンバル大尉に率いられ共に前進するのでした。
しかし、この三回目の突撃も前二回と全く同じ経過を辿りました。
普軍兵士は高地の稜線を越えて仏軍散兵を蹴散らしますが、またもや北から新たな増援が突撃を敢行し、再び白兵戦の乱戦となったのです。
この防戦で連隊長フォン・シェーニング大佐と大隊長フォン・イジング少佐は瀕死の重傷を負い、間もなく二人とも戦死してしまいました。連隊次席のフォン・クライン中佐も負傷しますが、なんとか連隊の残存兵を率いてサン=タルヌー林北端の小丘の陰まで退却するのでした。
このサン=タルヌー林の北端線は、それまで970高地を奪取しようと戦った諸連隊の生き残りが集合する場となり、将兵は部隊の枠を越えて散兵線を敷き、勢いを駆って970高地からサン=タルヌー林を狙って突進して来た仏モントードン師団第1旅団の攻撃をくい止めるのでした。
こうしてお互い決め手を欠いたまま、夕闇は深くなって行きます。
夜を目前とし、仏バゼーヌ大将は三回もの突撃に耐えた970高地を足掛かりに、普軍に一矢を報いようと考えていました。
大将は970高地とその南西の989高地から更に南方へ進出し、敵の攻勢を挫折させようと考えたのです。そのため、仏近衛歩兵第1師団第2旅団(「選抜歩兵」第3、4連隊)と近衛ズアーブ歩兵連隊(近衛第2師団第1旅団所属)をグラヴロット郵便局付近から前進させ、989高地へ進ませたのでした。
この仏軍部隊は同僚の4個近衛連隊が守る989高地を縦断し、普5師やリンカー大佐支隊の諸隊が張り付く西斜面を避け、サン=タルヌー林の北西端を左に臨みながら西へ突破します。
ここには、989高地に対する第二線として普第56連隊第1、2大隊が散兵線を敷いていましたが、仏近衛部隊はこの散兵線に突撃を加え、長時間の戦闘で疲弊し切った普兵を蹴散らしてしまいました。
敗れた普56連隊の一部は、普12連隊やリッカー支隊の第78連隊等がしがみつく989高地西側斜面へ後退し、残りはヴィオンヴィル林へと逃げ込んだのでした。
仏軍の一部はこれを追ってヴィオンヴィル林北端に迫りますが、この林はこの時間、第19師から来た「助っ人」第79連隊F大隊が守っており、樹間から猛射撃を浴びせて仏軍の攻勢を跳ね返すのです。
しかし、ここまでは上出来の仏近衛精鋭部隊も、この直ぐ近くに普軍の恐るべき「部隊」がいることに注意すべきでした。
仏近衛部隊は、このサン=タルヌー林とヴィオンヴィル林の北西側に開けたゴルズ高地に出たところで、目前延々2キロに渡って展開する普軍砲兵から、近距離の水平射による猛砲撃を受ける羽目に陥ったのです。
結局、仏近衛兵も60門(フラヴィニーに至る砲列線18個中隊108門の南側)のクルップ砲による榴散弾や霰弾砲撃には適いません。多くの犠牲を出しつつ989高地へと急速後退して行ったのです。
ルゾンヴィルの仏近衛兵02
ここで普仏双方手詰まりとなりました。
いつしか小銃射撃も砲撃も止むと、血塗られた戦場は夕闇の中、不気味に深と静まり返ったのでした。
この奇妙な沈黙は午後7時前後に1時間余り続き、これで東部の戦線も戦闘終了か、と思われました。
しかし、午前9時から延々10時間に及ぶ激戦が続いたこの戦場には、もう一波乱が待ち受けていたのです。
戦場の最東端で、最後の銃撃戦が始まったのでした。
ゴルズ部落・夜の普軍
第16師団(第32旅団)と第11連隊
アリーよりゴルズへの行軍序列
☆第16師団 アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将
○第32旅団 ルドルフ・フランツ・クルト・フォン・レックス大佐
*驃騎兵第9「ライン第2」連隊(第1中隊欠)
オットー・フォン・ウィティヒ=ハインツマン・ハルマン大佐(連隊長)
*第72「チューリンゲン第4」連隊フュージリア(以下F)大隊
*野戦砲兵第8「ライン」連隊 軽砲第5、重砲第5中隊
ヒルデブラント中佐(師団砲兵隊長)
*第72連隊「チューリンゲン第4」第1,2大隊
カール・ハインリッヒ・グスタフ・フォン・ヘルドルフ大佐(連隊長)
*フュージリア第40「ホーヘンツォレルン」連隊第1大隊
*砲兵第8「ライン」連隊 重砲第6中隊
*フュージリア第40「ホーヘンツォレルン」連隊第2,3大隊
男爵フォン・エーベルシュタイン大佐(連隊長)
*擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊
カール・ハインリッヒ・アウグスト・ゲオルグ・ヘルムート・フリードリヒ・フォン・シェーニング大佐




