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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
213/534

マルス=ラ=トゥールの戦い/ヴェーデル旅団・死の谷

 普第19師団長のフォン・シュワルツコッペン中将は、わずか4個大隊の歩兵と2個中隊の工兵で、ブリュヴィルとその南と西にある高地を目標に進撃を決し、その戦闘正面をトロンヴィル森の北西突角からフェルム・ドゥ・グリジエール(現在も存在するマルス=ラ=トゥール北2.3キロの一軒家)までとしました。


 臨時に指揮下とした近衛竜騎兵旅団にはマルス=ラ=トゥールの西郊外からヴィル=シュル=イロンへ前進させ、既にその部落まで前進したと思われる友軍騎兵師団(実際はトロンヴィル周辺で待機中)と協力し、左翼を防御して貰うつもりです。

 近衛竜騎兵旅団長のW・ブランデンブルク少将がこの命令を実行すべく部下に命じている最中、第10軍団長のフォン・フォークツ=レッツ大将からも命令が届き、「街道脇に展開するフォン・デア・ゴルツ大佐の砲列を援護せよ」とのことで、少将は暫し思考すると第1連隊をマルス=ラ=トゥール南東に進ませ砲兵援護とし、近衛竜騎兵第2連隊第4中隊と騎砲第1中隊の「ペア」を当初の命令通り旅団左翼援護としてジャルニー(マルス=ラ=トゥール北6キロ)へ通じる街道に向かわせたのでした。


 こうして第38旅団本隊(=この時の第19師団全力)は進撃を開始しますが、直後、近衛竜騎兵の先兵から「マルス=ラ=トゥール部落内に敵騎兵あり」との警告が入り、シュワルツコッペン将軍は第16「ヴェストファーレン第3」連隊の1,2大隊を部落に向かわせましたが、敵騎兵(仏アフリカ猟騎兵連隊の前哨でした)は既に普軍竜騎兵を発見した後に退却していました。


 第16連隊1,2大隊はそのままマルス=ラ=トゥール南西側より郊外の窪地を伝って前進し、第57「ヴェストファーレン第8」連隊(1個大隊欠)は砲兵部隊と共に部落南方へ迂回し、この時第16連隊F大隊は部落の南より呼び戻されて、部落東側で16連隊の2個大隊右翼に連なったのです。

 この第16連隊がマルス=ラ=トゥールを抜け、部落の北端に達した時、仏軍砲兵はその北東となるブリュヴィルの高地より猛烈な榴弾砲撃を開始、部落はものの数分で所々に火災を生じたのです。


 19師団の砲兵隊長シャウマン中佐は、直卒する2個砲兵中隊12門を部落の直ぐ北に展開させ、その右翼側で砲撃を続けていたフォン・デア・ゴルツ大佐の砲列と同調して北の敵砲兵に対し対抗射撃を始めたのでした。

 なお、これで第10軍団の砲兵6個中隊がマルス=ラ=トゥールからトロンヴィル森までの間に展開することとなります。これは左翼(西)から重砲第2、軽砲第2、同第5、同第6、重砲第4、軽砲第4の6個中隊36門でした。

 この強力な砲兵援護を得てシュワルツコッペン中将は部隊を燃え盛るマルス=ラ=トゥールの部落郊外へ進めたのです。


 リヒャルト・ゲオルグ・フォン・ヴェーデル少将率いる第38旅団はこの時、部落の北東側を中心に大きな弓状に展開し、4個の歩兵大隊は両翼中隊(大隊の端番号中隊。第1大隊なら第1と第4中隊です)を第一線にして中隊二列となり、2個の工兵中隊は最右翼(南東)に並びました。また、最左翼(西)の第16連隊第2大隊はビェルヴィルへ向かう街道を跨がって展開し、シュワルツコッペン将軍もこれでトロンヴィル森北の敵を包囲出来ると自信を持つのです。


 この攻撃命令直前の午後5時過ぎ、第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ大将はマルス=ラ=トゥール東郊外にやって来て、シュワルツコッペン中将と会合します。この際、軍団長は19師団長の作戦を承認し、お墨付きを得たシュワルツコッペン将軍は旅団長のヴェーデル少将に前進を命じたのでした。


 午後5時における、この第10軍団の戦線(普軍全体の左翼・西部戦線)を俯瞰すれば、全体が北を向いていました。


 最左翼(西)は第38旅団(2個大隊欠)でブリュヴィルへの攻撃直前。その北東のトロンヴィル森内には第20師団の5個大隊がおり、その南側ベルダン街道の線には同師団の4個大隊が第二線を作っていました。ベルダン街道の北側、トロンヴィル森とマルス=ラ=トゥールの間には第10軍団砲兵が6個中隊集合して北に向けて砲戦を行っています。

 街道の南、トロンヴィル部落には第37旅団の半分、レーマン大佐の支隊がおり、この部落周辺には騎5師を中核とする騎兵の大集団が出撃の機会を待っていました。


 この騎兵集団をもう少し詳しく見れば、一端ブリュヴィル南方834高地まで前進し、敵の逆襲に遭って後退したバルビー旅団と、「死の騎行」に参加出来なかったブレドウ旅団竜騎兵第13連隊、そして20師所属の竜騎兵第16連隊が展開していました。

 その南、ピュキュー部落の北にはレーデルン旅団の驃騎兵第10連隊がトロンヴィル森から後退して待機しています。

 また、胸甲騎兵第4連隊の2個中隊は第10軍団砲兵の援護としてフォン・デア・ゴルツ大佐の下にトロンヴィル森南西角におり、近衛竜騎兵第1連隊はマルス=ラ=トゥールの南東、同第2連隊の第1中隊(記録によっては第5中隊となっていますが)は遙か北西ドアオモン部落付近で「北ルート」偵察のため北上中、同第4中隊は近衛騎砲兵第1中隊と共にマルス=ラ=トゥールの北西側を北上中でした。

 第10軍団残りの部隊(リンカー支隊等)と隷属する騎兵は「東部戦線」つまりはC・アルヴェンスレーヴェン中将の第3軍団に加わって戦っていました。


 この第10軍団に対する仏軍は、サン=マルセル南のローマ街道址の線に戻った仏第6軍団左翼の第1(ティクシエ少将)師団と、それに連なって仏第3軍団の第4(エマール少将)師団がトロンヴィル森北東側の渓谷の線に、その西に仏第4軍団の第2(グルニエ少将)師団が広くブリュヴィル南の834高地上に展開し、その西側、パセ川の深い渓谷沿いには同軍団第1(シッセ少将)師団が到着し仏軍最右翼となっていたのでした。


 ヴェーデル少将の第38旅団は1個大隊を欠いたまま、その穴を本来なら要塞・堡塁への攻撃や防護設備・砲台構築、架橋に活躍すべき貴重な工兵2個中隊で埋め、戦闘正面だけでも2倍以上の敵に向かって行ったのです。


 敵の榴弾や榴散弾砲撃は途切れなく続きましたが、「ヴェーデル支隊」に損害は少なく、将軍の合図と共に部隊は一斉に前進を始めます。この時、シャウマン中佐の砲列から重砲第2中隊が外れ、左翼側の第16連隊第2大隊の行軍に続いたのでした。


 マルス=ラ=トゥール北方の高地は、南側が緩斜面を作り、その頂上に至ると地形はそこからブリュヴィルの南にある高原とその直下に流れる川が作り出す深い渓谷まで、一気に下る見通しの良い斜面となっていました。

 仏第4軍団のグルニエ師団はヴェーデル支隊がこの高地から覗くや、シャスポーの猛射撃とミトライユーズ砲の射撃で迎えたのです。

 しかし、仏帝国(特にナポレオン1世)とは因縁深いヴェストファーレン州で召集されたこれら普軍部隊は秩序正しく前進を続け、第一線の兵士が倒れても第二線から直ちに補充が駆け付け、各中隊は100m余りを全速力で駆け抜けては匍匐し、また疾走しては匍匐しながら斜面を下り、一部の中隊を除き刻一刻と仏軍散兵が構える渓谷に迫ったのでした。


ところが、普軍を待ち受ける渓谷が「難関」だったのです。

その谷は深く切れ込み、場所によっては12m以上の断崖となっていて、まるで要塞の外堀のように堅牢な防御拠点でした。ですが、この障害を見ても普軍は怯むことはありません。ヴェーデル将軍の5個大隊は一斉にこの渓谷の崖を滑り降り、上方から降り注ぐ銃弾も何のその、涸れた川を渡ると対岸の崖を駆け登ります。

 仏軍の散兵線はこの渓谷沿いにあったので、ヴェーデル支隊は断崖を登ったことで突然、敵の鼻先100mから短い場所では30m余りの至近距離に躍り出て、ここに壮絶な近接戦闘が開始されたのでした。


 この100m内外という距離ではシャスポーとドライゼの優劣など全くなくなります。どんな新兵でも発射すれば100%命中する近距離と兵士の密集度で全く互角の白兵戦に陥りますが、ここに北方から仏軍増援のドゥ・シッセ少将師団の戦列歩兵がグルニエ師団右翼(西)側に突進して加勢、たちまち普軍は窮地に陥ったのでした。

 この崖上の戦いは文字通りの死闘となり、双方とも死力を尽くして戦いますが、数に勝る仏軍は突撃に次ぐ突撃、猛射に次ぐ猛射で普軍を押しまくり、動揺し浮き足立った中隊や、士官を全て失い個々人で戦う中隊などが続出した普軍陣営からは、後退合図のラッパが高らかに鳴り響き、仏シッセ師団の猛攻を受けた左翼側の普第16連隊から戦線は崩壊し、たちまち壊走状態となったのです。

 この断崖上の戦いは戦った当人たちには長かったでしょうが、わずか数分間だった、と記録されています。


普第38旅団の攻撃

挿絵(By みてみん) 


 普軍の敗残兵は登った崖へと逆戻りし、滑り落ちるようにして渓谷の底へ至り、急ぎ反対側の断崖を登ろうとしますが、崖の縁に達した仏軍は見下ろす形で絶好の目標となった普軍の集団を見逃すはずはありません。崖の上のシャスポー銃から数千の火線が伸び、それは次々に普軍兵士を倒し、この渓谷は血に染まったのです。


 この不毛な川底で普第16連隊長フォン・ブリクセン大佐は頭部に銃弾を受けて即死、大隊長の一人で同時刻に兄がゴルズ高地で戦っていたフォン・カリノフスキー少佐も重傷を負った後に戦死してしまいます。

 第57連隊では大隊長のフォン・ロェル中佐が戦死、ほか多数の士官が重傷を負い兵士に担がれながら後退するのでした。


 こうして高級士官たちが騎乗した多くの馬も倒れ、旅団長フォン・ヴェーデル少将も負傷する激戦中、第57連隊長のルートヴィヒ・オットー・ルーカス・フォン・クラナッハ大佐は、銃弾飛び交う戦場で独り泰然と騎乗したまま連隊の第1大隊旗を捧げ持ち、連隊を超えて旅団兵士の目標となり(当然ながら仏軍狙撃手の的でもありましたが)、振り返ることなくベルダン街道まで兵士たちを導いたのです。

挿絵(By みてみん)

第38旅団の帰還


 とはいえ、第38旅団は早朝から行軍を続け、遠回りしてこの戦場へ赴いた(その行軍距離はこの日だけで45キロ近くになります)ので、ただでさえ疲弊しており、その直後の激戦だったため兵士の多くは歩くことも覚束ない有様でした。例の谷底では、戦死者や負傷し呻く同僚たちに混じって、体力を使い尽くして崖を登ることが出来なかった、およそ300名の下士官兵が捕虜となっています。


 また、第16連隊の第2大隊では大隊旗を捧げ持つ旗手が倒され、次々に軍旗を掲げ持つ臨時の旗手が現れて戦場に兵士を導きましたが、混戦の中、軍旗は仏軍の手に渡ってしまいました。

 軍旗を奪われることは当時、軍人が考える屈辱の中でもかなり大きなものでしたので、当然のように普仏の言い分は異なります。

 普軍によれば、第2大隊旗はこの時既に多数の銃弾や榴散弾を浴びて「吹き流し」状に千切れてボロボロの状態で、退却の際に棹頭と飾紐ごと旗棹から外れてしまい混乱の中行方不明となった、それを仏兵は拾ってメッスへ持ち帰っただけ(つまり旗棹は手元に残ったので軍旗を奪われたことにはならない)、としています。

 仏軍の記録はもっと単純で、戦列歩兵第57連隊(仏第4軍団シッセ師団第1旅団所属)が普第16連隊第2大隊を攻撃した時、連隊所属の兵士が敵の旗手から軍旗を奪い取りメッスへ凱旋した、と断言しています。

挿絵(By みてみん)

仏57連隊による普16連隊第2大隊旗の奪取

(仏の絵葉書でプロパガンダです)


 この攻撃時、第16連隊の後方ではランツェレ大尉率いる野戦砲兵第10連隊重砲第2中隊が歩兵に続行していました。起伏の大きな荒野を行くには砲は重く行軍は困難を極めますが、渓谷での戦闘時には渓谷の南縁に辿り着いて砲列を敷き、たった6門の6ポンド砲で敵の2個師団へ砲撃を繰り返しました。しかし、前進する仏軍歩兵に迫られ、これに至近距離から霰弾を浴びせて自らを護っていると、この直後に行われた騎兵の襲撃(後述)により救われて後退し、無事マルス=ラ=トゥール近郊で味方砲兵列線に加わるのでした。

 最左翼ではフォン・クリッツィング少佐が孤立しかけた第16連隊の第5中隊を率いてジャルニーへ至る街道沿いに走る谷へ降り、ここを南下してマルス=ラ=トゥールへ脱出しました。 

 右翼側ではフォン・メーデム少佐が第57連隊F大隊をベルダン街道まで引率し、何とか全滅せずに後退を成功させています。


 旅団の最右翼(東)となった軍団工兵の2個中隊は、歩兵部隊よりは恵まれた行軍をし、断崖上の戦い時にはトロンヴィル森の北西突角に至り、ここから激戦の渓谷に向けて側面から援護射撃を行いました。

 彼らのいるトロンヴィル森西突角は、前述通り三方に見通しの効く攻守共に適地です。ここからは渓谷崖上の戦闘が良く見え、数倍の敵に立ち向かう友軍の悲壮な姿が良く見えていました。工兵たちは歯ぎしりしながら壮絶な死闘を見守るしかなく、溢れる敵の集団に届くかどうかの距離で空しくドライゼ銃を発射し続けるしかなかったのでした。


 すると、崖を超えて前進する仏軍の後方に砂塵が舞い上がり、ものすごい数の仏軍騎兵部隊が出現したのです。

 普軍工兵の前で、敵の騎兵集団は正に襲撃態勢を整えており、それは敵が本気でマルス=ラ=トゥール方面へ進撃する予兆に見えたのでした。


 午後6時少し前、フォン・フォークツ=レッツ大将は第38旅団に対し、トロンヴィルへ向かい退却せよ、と正式に命じますが、既に部隊は崩壊・潰走しており、残兵は迫る仏軍に飲み込まれるか否かという際どい時にありました。

 フォークツ=レッツ将軍はこの危機に際して「切り札」を切る覚悟を固めます。


「騎兵諸部隊は直ちに奮進し敵を襲撃せよ」


 この付近の騎兵部隊指揮官、騎5師のフォン・ラインバーベン中将と、近衛竜騎兵旅団のW・ブランデンブルク少将は命令を受けるや否や、使える麾下部隊を全て投入することに決し、危険に瀕して助けを求める友軍歩兵のため、2時間前のブレドウ少将と同じ自ら犠牲となる命令の実行に取り掛かります。


 この命令により1870年8月16日は、普軍騎兵にとって最大の記念日となるのです。



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