マルス=ラ=トゥールの戦い/カール王子戦場へ
ここで時計の針を半日ほど戻します。8月16日、午前10時30分頃のことです。
ポンタ=ムッソンの独第二軍本営に騎馬伝令が駆け込んで来ました。伝令は第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将が発したもので、「第3軍団は午前9時、ゴルツ北方において仏軍と戦闘状態となった」との第一報でした。
しかし、その報告の文面では、第3軍団は単に「ヴィオンヴィルとルゾンヴィル付近にある仏軍の野営に対して包囲攻撃を始めた」とあり、「こちらに対する敵は北方に退却中のようである」との楽観的意見も付いていたのです。
このように報告からは危機感は全く感じられず、よって第二軍本営は予定通り正午に明日の行軍に関する軍命令を発し、麾下諸部隊に対し、これまでの状況判断によって軍は更にムーズ川方面(西)へ進撃し、順調なら渡河して更に西へ進むことを命じました。
但し第9軍団に対しては特別命令を追加発令し、翌日(17日)に予定する行軍を可能であれば本日中に実行し、現在敵「後衛」と戦いつつある普第3軍団が「北方」へ前進するに当たってその右翼(東)側を援護せよ、と命じたのでした。
ところがこの後、まるで冷水を浴びせるような報告が第二軍司令官カール王子の下に到着するのです。
午後2時、第二軍本営に再び伝令が到着、今度は今朝早くこのポンタ=ムッソンを発してティオークールに向かった第20師団のフォン・クラーツ=コッシュラウ少将からで、その内容は「今届いた報告によると第3軍団は敵の大軍と激戦中であり、我が師団はこれを救援すべくティオークールを発ってトロンヴィルに前進する」との主旨だったのです。
カール王子は直ちに騎乗すると、本営幕僚を従えて馬に鞭を与え街道を疾走し、道のりにすれば30キロ余りを55分で駆け抜けて午後4時、普5師の戦線後方に到着したのでした。
カール王子は若き軍団長中将時代に第3軍団を10年間も率いていました。王子にとって我が子のような軍団は、王子が第一軍司令官だった普墺戦争当時もその傘下にあり、ベルリンにおける戦勝帰還パレードの時も軍団と共にウンター・デン・リンデンを歩んだのです。
敬愛するカール王子の姿が現れると戦線の兵士たちは歓喜の雄叫びをあげ、ピッケルハウベやドライゼ銃を掲げ、未だ戦意の衰えていないことを示したのでした。
カール王子の騎行(隣はスティール参謀長)
この午後4時頃、ゴルズ部落の北方からゴルズ北西高地にかけての普軍(主に5師)は、正午過ぎに占領した高地とヴィオンヴィル林とサン=タルヌーの林を死守し、対する仏軍はルゾンヴィル南方の高地に居座り、その緩斜面に強力な散兵線を敷いてその後方に砲兵を並べており、両軍互いに正面からの突撃を幾度も防いで膠着状態にありました。
これは内線に当たる数に勝っているはずの仏軍が消極的な防御主体となり、予備もない状態で外線となった普軍が、迂回し包囲する態勢を取れないでいたことが主な原因と言えるでしょう。
カール王子はヴィオンヴィル林の北西端から戦場を見渡し、暫し黙考するとフォン・スティール軍参謀長や幕僚を呼び寄せて短い軍議を開きます。その結果「戦場東部においては現在の戦線を維持、戦線西部については第10軍団が来着しつつあるので反攻が可能」と結論し、高級指揮官に訓令を発するのです。普軍の左翼側戦線はこうして攻勢に拍車がかかることとなったのでした。
さて、カール王子が戦場に登場する以前。
ゴルズ高地の戦線では普軍砲兵の強力な砲兵が2つのグループに分かれて活動していました。
東側ヴィオンヴィル北西角の先からは、5師砲兵隊長ガルス少佐率いる5師砲兵隊を中心とする5個中隊が、その西側フラヴィニーの南西に第3軍団砲兵隊長フォン・ドレスキー大佐率いる5個中隊が陣取り、仏軍の進出を妨害し続けていたのです。
正午頃から午後4時にかけてこの砲列には、新たな7個中隊の砲兵が到着し、随時その砲列線に加わりますが、長時間に渡る砲撃で会戦初期から砲撃を続けていた砲兵諸中隊は弾薬補充のため砲撃を止めたり後退したりしたために、砲列には空隙が目立つようになっていました。
まずはここに新参第20師団の行軍列より第10軍団砲兵(野戦砲兵第10連隊)の4個中隊が分離して到着するのです。
午後2時45分頃、クラウゼ少佐率いる2個(軽砲第3、重砲第3)中隊が到着し、ドレスキー隊の騎砲兵3個中隊の間に入って砲列に加わり、午後3時45分にはコッタ少佐率いる後続の2個(重砲第5、6)中隊はガルス隊左翼に並んで砲列を敷いたのです。
しかし、ガルス少佐はこのうれしい増援を見ることが叶いませんでした。少佐はこの少し前に砲撃指揮中流れ弾に当たって重傷を負い後送、やがて戦死してしまうのでした。
またコッタ隊の到着わずか前の午後3時30分には、独第一軍所属の第8軍団第16師団前遣隊として砲兵2個中隊(野戦砲兵第8連隊軽砲第5、重砲第5)が到着、ヒルデブラント中佐率いるこの12門の砲兵は、ガルス隊の左翼砲列をかすめるように抜けると、大胆にも友軍第12連隊の前進に合わせて前に出ようとしたのです。しかし、これは余りにも無茶な行動で、ルゾンヴィル南の高地から激しい銃撃を浴びて阻止された普軍歩兵の停滞と共に、ヒルデブラント中佐の冒険も失敗に終わります(後述)。
前進を諦めた中佐は遅れて到着した16師の重砲第6中隊を合わせて3個中隊で、ドレスキー隊とガルス隊の間に砲列を敷いたのでした。
この間、第3軍団の砲兵部長ハンス・フォン・ビューロー少将は戦線中央に陣取り、仏軍の波状攻撃を見極めて「ローマ街道址」からルゾンヴィルに対する長い戦線に対する砲撃を調整し、ゴルズ高地に対する仏軍の進出を阻止し続けるのでした。
ハンス・フォン・ビューロー
この様に巨大な砲兵陣地と化したゴルズ高地の中央部から、普軍砲兵はルゾンヴィル南からベルダン街道を越えた北側に布陣する仏軍砲兵に対しても連続した砲撃を続けました。対する仏軍も負けじと応射を続けていたのです。
この砲撃戦では普軍は陣地を転換することなく、ただ弾薬補充の際に後退するだけであり、目標も仏軍戦列歩兵の動きに対して砲撃を続ける以外、この長大な敵の砲列を主目標に変更することはありませんでした。
対する仏軍砲兵は対称的に激しく移動を繰り返していたのです。
普軍砲兵の倍以上となる砲兵戦力を投入出来た仏軍は、次々に新参の砲兵中隊を前線に送りましたが、これは増強のためでなく交代のためだったのです。これにより前線の砲列にある砲数は増加せず常に一定数を保っていたので砲撃はだらだらと連続して続いていたのでした。
この理由は、普軍砲兵の命中度が恐ろしく高く、正確な着弾が同一場所での砲列の維持を困難にしていたからです。仏軍砲兵は短い時間で陣地転換を行わなければ被害が続出し、また疲弊した砲兵は直ぐに新たな砲兵と交代していました。これは仏軍砲兵の数が多かったために出来た戦術で、一見有利な数の論理も、普軍のクルップ鋼鉄砲の威力の前に帳消しにされていたという証左なのでしょう。
この仏軍の「交代戦術」は何も砲兵に限ったことではありませんでした。同じことは戦列歩兵部隊でも繰り返されており、その数を頼って仏軍は散兵線に次々と新参部隊を投入し、短い間隔で部隊を入れ替えるという手段に出ていたのです。
新たに投入された仏軍部隊の中でも、積極的な隊長に率いられたものは功名を狙って前進し突撃を敢行しました。数と優秀な武器(シャスポー銃)を頼りに突進する仏兵は、ドライゼ銃でも届く範囲(500m以下)に入れば互角となることを知っていたため、その外側に留まって銃撃戦を仕掛け、敵が怯んで隙を作ることで銃剣突撃の機会が生まれることを期待しました。しかし大概は普軍砲兵の榴弾・榴散弾砲撃のために阻止されて失敗、元の散兵線まで後退を余儀なくされていたのです。
本来ならこの後退する敵を追って戦域を拡大すべき普軍側も、予備がなく増援も期待薄である以上消極的にならざるを得なく、この繰り返しによってゴルズ高地は膠着状態となっていたのでした。
その活発ながらも動かない戦線に登場した普軍待望の増援は、それまでの第3軍団諸兵の奮戦と犠牲を知ると、勇気ある軍人なら誰しもが持っている功名心と対抗心に煽られて一気に前進し、この戦線に再び悲惨な状況を呼び込むのでした。
午前中からの戦闘で離散した諸中隊を集合させ、再び戦力として立て直した第10旅団長のフォン・シュヴェリーン少将は、戦況を一変させようと目の前に立ちはだかり続けるルゾンヴィル南方の989(標高フィート。約301m)高地を攻略せよ、と麾下部隊に命令しました。
これにより、コルニー(=シュル=モセル)の橋梁警備から解放されて前進し午後2時に戦線へ到着したばかりの第12連隊第1大隊と、先行してゴルズ高地の南側で戦っていた同連隊第2大隊は、フォン・カリノフスキー中佐に率いられて行動を起こします。これに前述のヒルデブラント中佐率いる砲兵2個中隊が加わると午後3時30分、989高地に向け前進しました。
しかしこの攻撃は仏軍必死の銃砲撃で阻止され、砲兵は後退し歩兵は匍匐して難を避けます。それでもカリノフスキー中佐と第12連隊は989高地の西麓窪地に駆け込み、ここに普軍の前進拠点を築くことに成功したのでした。
同じ頃、午前中普5師戦線に南西側から参戦した普19師レーマン大佐の第37旅団半分を率いるフォン・リッカー大佐の第78連隊第2,F大隊は、2個(第5,8)中隊がヴィオンヴィル林攻略戦に参加し、残りがガルス少佐の砲列警護に廻っていましたが午後4時、モーゼル河畔から第8連隊第1大隊が到着し砲兵援護を肩代わりすると前進を企てます。
フォン・リッカー大佐はフォン・カリノフスキー中佐と同じく目標を989高地とし、大佐が「今」と信じた機会を待って攻撃を開始、F大隊はガルス隊砲列の左翼から、半大隊(6,7中隊)は砲列右翼から一気に高地めがけて突進しました。しかし、ものの200mも行くと両翼とも激しい銃砲火によって前進を阻止されてしまい、突撃の先頭に立っていたリッカー大佐始め、フォン・プロイス少佐とフォン・ヴィンス少佐の両大隊長、そしてなんと6人の中隊長全員が負傷し倒れてしまうという惨事となってしまうのでした。
一方、フォン・ブロック大佐率いる第20師団の歩兵3個(第56連隊1,2、第79連隊F)大隊は午後4時30分、ゴルズ高地南端に登場します。師団長クラーツ=コシュラウ少将が5師を援助すべく分遣した「ブロック支隊」は長距離行軍の疲れを隠してシャンブレから南東へ進むとゴーモン林を通過し、急斜面を登るとゴルズ高地上に現れたのでした。
この時、第56連隊2個大隊は左翼、第79連隊F大隊は右翼となり、各大隊は前衛に散兵を展開すると中隊単位の行軍列となって一斉にヴィオンヴィル林北西角目指して進撃したのです。
ブロック支隊はドレスキー、ガルス両砲列の間隙から前方に進出し、最後は989高地へと突進しましたが高地とベルダン街道から猛烈な銃撃を浴び、特に左翼(北)側街道からの銃撃は凄まじいものがあり、たちまち第56連隊左翼の行軍は乱れ、隊列は後方シュヴェリーン少将の戦線へ屈曲して、敵散兵線に対し次々と側面を晒してしまい損害が続出してしまうのです。
同時に右翼(南東)でも損害は続出しましたが、この第79連隊F大隊は前進を強行し、ブロック支隊はそのまま989高地の中腹付近まで登ることに成功、仏軍の度重なる突撃を防ぎつつ、しばらくはこの地点を死守するのです。
この攻撃中、第56連隊の2人の大隊長、フォン・ティールベルク少佐とフォン・ヘニッヒス少佐は戦死を遂げました。
これら989高地を目指す普軍の進撃は全て阻止された形で終わります。しかし、このゴルズ高地東側の戦線は倍する敵に対抗する普軍有利とも言える状況で推移し、更なる増援も到着し始めていました。
午後4時過ぎにゴルズ近郊に到着したのは前述通り普第16師団前衛で、そのまま北上しサン=タルヌー林で戦い始めており、これで右翼(東)側が補強されたと感じたフォン・シュテュルプナーゲル中将は、5師は普軍戦線の右翼側をしっかり守ることが出来る、と戦場に到着したばかりの第二軍司令官カール王子に保証するのでした。
カール王子は、信頼する部下であり大の親友でもあるシュテュルプナーゲルの力強い握手と自信に勇気付けられ、午後5時過ぎに最前線のフラヴィニーへ騎行します。
この地で第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将と6師フォン・ブッデンブロック中将と会合したカール王子は、この中央の戦線も落ち着いて来たことを知るのです。
このヴィオンヴィルとフラヴィニーを中核とする普軍戦線中央部は、損耗し疲弊しているものの第64連隊がしっかり保持しており、また、ブレドウ騎兵旅団の突撃の際に前進した第20連隊第1,Fの2個大隊は、ヴィオンヴィル北東側の高地を占拠し仏第6軍団と対峙していました。
6師と他の部隊(後退した第24連隊や第91連隊など)は、ヴィオンヴィル北西側のベルダン街道沿いで砲兵と共にあり、仏軍が遠距離からの銃砲撃戦で満足している現状では、戦線崩壊の危険はありませんでした。
C・アルヴェンスレーヴェン将軍は「既にヴィオンヴィルとフラヴィニーを占領し、ベルダン街道を押さえてその周辺に拠点を得ており、敵味方共にこれ以上攻勢を強めても現実には得られるものは少ない」との意見を開陳し、カール王子も「観察するに仏軍戦線の中央部は、ローマ街道とその東側高地の線に沿って細い戦線を維持しているだけで、単に両翼を連結するのみ。戦力は両翼より劣っている」として第3軍団長に同意するのでした。
カール王子はここでもC・アルヴェンスレーヴェンらの戦意を認め、安心して任せることが出来たのです。
残ったのは戦線左翼でした。
トロンヴィルを中核とするこの普軍左翼の戦線は、既に普第20師団本隊の前進でトロンヴィル森を占領し、また、仏軍の強力な砲兵も森の北から西にかけての渓谷を越えて撤退したことで一時的な安定をみました。
戦意が全く衰えることがない砲兵隊長ケルベル少佐は、この機会に乗じて再び30門の砲列を動かし、ヴィオンヴィル西の陣地から右に転回してヴィオンヴィルとトロンヴィル森との間にある高地で砲列を敷き、ローマ街道方面に対する砲撃を継続するのでした。
しかし、カール王子がヴィオンヴィル付近で高級指揮官たちと会合していた午後5時過ぎ、戦線の最西端となるマルス=ラ=トゥールの北付近から猛烈な銃砲撃音が聞こえ始め、これは予想していた第19師団の攻撃に間違いありませんでした。
カール王子はフランヴィルの高台から左翼(西)側の戦闘を観察、幕僚たちに次々と左翼側第10軍団に対する命令を発しました。特に20師のクラーツ=コシュラウ将軍に対し「数個大隊で街道を越え(19師の)攻撃を(援護し)拡大せよ」と命じたのでした。
しかしこの命令が実行されることはありませんでした。普軍戦線の最左翼は、再び危機的状況に陥ったのです。
ルゾンヴィルの仏軍




