マルス=ラ=トゥールの戦い/トロンヴィル森奪還と普19師登場
普第20師団の前衛、第79「ハノーファー第3」連隊1,2大隊は午後3時30分頃からトロンヴィル部落の南郊外に到着、待ちかねた第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ大将は、前衛と共に到着した師団長クラーツ=コシュラウ少将に命じ、直ちにトロンヴィル森への反撃を開始させました。
仏軍はケルベル少佐やフォン・デア・ゴルツ大佐の砲兵隊により散々に痛め付けられてはいましたが、まだ森の外へ打って出ようとする気配は濃厚です。
先発した第79連隊第1大隊はトロンヴィル西郊外を北上し、第1中隊は疲弊してもなお部落守備にがんばるレーマン支隊の応援としてトロンヴィルに残し、第2中隊を予備部隊に指定してベルダン街道南縁に残置すると、残り2個(3,4)中隊で街道を越え、街道南縁に陣取ったフォン・デア・ゴルツ大佐の砲兵を守りつつトロンヴィル森の南側小林の西端に散兵線を敷いたのです。
続行した同連隊の第2大隊は、同じくトロンヴィル部落西郊外を過ぎるとベルダン街道を渡り、第5,7,8の3個中隊は南小林の東端を進み、最右翼(東)となった第6中隊は北の大きな森南東角を目指し林間を突進しました。
第2大隊3個中隊は小林から出て北大森との間にある広い空き地に出ると、北側大森の西突角に陣取った仏兵から猛射撃を受けますが怯まず、そのまま大森の南縁に突入して、まずはトロンヴィル森攻略の「足掛かり」としました。
同時に第6中隊も猛烈な射撃を受けますが、中隊は北大森の東角に敵がいないことを確認すると一気に空き地を駆け抜け、北大森東角を占拠するのです。
この後、森林内の仏軍はなぜか急速に北上後退し、仏軍は以降トロンヴィル森より標高の高いローマ街道に沿った散兵線から撃ち下ろすかたちでシャスポー銃の射撃を浴びせますが、遮蔽物の多い森を行く普79連隊第2大隊の損害は概して少ないものでした。しばらく後、今が機会と信じた勇猛果敢な第6中隊長、フォン・シェーンフェルト大尉は中隊を率い、森の北東側高地(834高地の東部分)へ突進し高地の南斜面に取り付きますが、北のブリュヴィル方面や北東のサン=マルセル方面から十字砲火を浴び、やむなく森の中へと退却するのでした。
同じ頃(午後4時過ぎ)トロンヴィルには普第20師団本隊の第40旅団が到着し、第79連隊の予備となっていた第2中隊は後を託して前進を開始し、先に小林西にいた第3,4中隊に合流すると、午後5時を待ってこの第1大隊3個中隊は一気に北大森の重要な拠点、西突角へ突撃を敢行するのです。
しかし、この時には既に仏軍は森から完全に脱し始めており、第2中隊は後退する敵の後衛を発見するや果敢に追撃するとトロンヴィル森北端まで至り、ここで北から猛射撃を浴びて停止するものの、夜に至るまでこの森の北端を守り通すのでした。
普第40旅団は午後4時30分頃、トロンヴィル郊外で集合し戦闘準備を終えました。クラーツ将軍はこの内第17「ヴェストファーレン第4」連隊に対し、トロンヴィル森の左右に離れて戦う先行した第79連隊の隙間となった中央を埋める形で森に進撃せよ、と命じるのでした。
第17連隊は各大隊の両翼中隊(例の1,4・5,8・9,12の半個大隊3つです)を第一線、残りの半個大隊3つを後続させてトロンヴィル東方を通過、仏軍が盛んに浴びせる銃砲火をものともせずにトロンヴィル森へ突進し、森の東南縁で戦う第79連隊5,7,8中隊の左翼(西)へ展開したのでした。
トロンヴィルではクラーツ将軍が次の手を打っていました。
将軍は師団で残った3個大隊、第92「ブラウンシュヴァイク」連隊第1,F大隊と猟兵第10「ハノーファー」大隊をベルダン街道北縁まで進ませ、先行部隊の援護と仏軍の逆襲に備えさせます。また、午後5時過ぎには第56「ヴェストファーレン第7」連隊F大隊も遙々ポンタ=ムッソンから駆けつけ、この3個大隊に並びました。
しかしこれ以降、緊張して待ち受けるクラーツ将軍以下第20師団将兵の前に、仏軍戦列歩兵が前進して来ることはありませんでした。
仏軍戦列歩兵の攻勢は陽が傾くと共に終了し、南下した諸部隊は暫時北へと戻ったのです。
午後6時前の時点で仏軍右翼(北部)の戦線は従前の位置、つまりは東から仏第6軍団ティクシエ師団は「ローマ街道址」の線、仏第3軍団ネラルとエマール師団は「ローマ街道」からブリュヴィルの東側、ブリュヴィル南側には仏第4軍団グルニエ師団が陣取ったのです。
彼らはこの安全な陣地帯から、有効な小銃射撃と榴弾や榴散弾砲撃をトロンヴィル森やその東側の窪地に潜む普軍前線部隊に浴びせるだけで満足するかのようでした。
こうしてトロンヴィル森が概ね普軍の手に入ると、積極果敢な普軍砲兵たちは前進を開始します。
フォン・デア・ゴルツ大佐は午後5時過ぎ、第10軍団砲兵の軽砲2個中隊を森の西側に沿わせて前進させ、少し前まで仏グルニエ少将の砲兵3個中隊が砲列を敷いていた森の北西側高地に砲列を敷かせました。
また、ゴルツ大佐に従った20師砲兵の軽砲第4と重砲第4の2個中隊は、森の西突角に突進した歩兵の後を追うように前進し、ベルダン街道から500mほど北へ進んだ空き地に砲列を敷いたのです。
さて、普第20師団と第10軍団砲兵は、実に際どいタイミングで戦場に現れ、普第3軍団左翼の危機を救ったように見えます。
とはいえ、わずか歩兵2個連隊と砲兵4個中隊が仏の4個師団の猛攻を阻止したのには他にも理由があったのです。
C・アルヴェンスレーヴェン将軍によるヴィオンヴィル~フラヴィニーの占領は仏軍バゼーヌ大将の不安をかき立て、カンロベル大将の第6軍団を本格的に参戦させる結果となりましたが、それでもバゼーヌは頑なに南方モーゼル河畔より普軍の「本隊」がやって来ると信じていました。
バゼーヌの頭の中は「西側の敵をどう粉砕し先(西)へ進もうか」、ではなく、「モーゼル川を渡河してやって来る南側の敵の包囲運動に対し、どう対抗するか」ということで占められていたのです。
いくら普第3軍団が勇戦しても西側には「防御」だけを命じ続け、ブレドウ旅団「死の騎行」を受けても午後5時過ぎ、ル・ブーフ第3軍団長へ「第6軍団と連携し現進出線を固守すべき」との訓令を出す程度だったのです。
この消極的な命令に諾々と従った仏軍高級士官たちの無策以外にも、仏軍側には重大な過誤がありました。
午後4時頃、仏第3軍団長ル・ブーフ大将の下に、戦線の西側に派出していた斥候より報告が届きます。
これは「独軍はアノンヴィル(=シュゼモン。マルス=ラ=トゥール西)を経由しヴィル=シュル=イロン方向に進みつつあり」という情報で、この報告が気になったル・ブーフ大将は、「このまま普第20師団の攻撃をトロンヴィル森で防いでいると、ブリュヴィル方面を襲われ右翼(西)側面及び背後を突かれてしまう」と考えてトロンヴィルへの攻撃を中止してしまい、せっかく獲得したトロンヴィルの森も大して争いもせずに普軍に明け渡してしまうのでした。
この「アノンヴィルに出現した敵」の正体は、フォン・シュワルツコッペン中将率いる普第19師団本隊でした。
しかし前述通り、この師団はレーマン大佐の第37旅団を欠いており、師団「半分」となっていたのです。
この「半」師団は前述通り軍団長フォン・フォークツ=レッツ大将と共にサン=ティレール(=アン=ヴォエヴル)を第1目標として進みます。しかし途中ヴォエル近辺で、軍団長は軍団護衛に就いていた近衛竜騎兵第2連隊第3中隊と共に砲声止まぬ北方マルス=ラ=トゥール方面を視察するとして、シュワルツコッペン将軍に後を託すと北東方向へ去っています(既述)。
また、近衛軍団から臨時にフォークツ=レッツ将軍に貸し出されている近衛第3騎兵旅団(近衛竜騎兵旅団とも呼びます)の本隊は、師団に先行し午前10時サン=ティレールに到着しました。ところがエリート竜騎兵たちは道中盛んに北東方より砲声を聞き、それは一向止むことがなかったため、旅団長の伯爵ヴィルヘルム・アレクサンダー・フェルディナント・フォン・ブランデンブルク少将はシュワルツコッペン中将が歩兵部隊と共に到着すると直ちに離脱許可を願い出、許されるや第1連隊と騎砲兵中隊を率い砲声のする方向、すなわちマルス=ラ=トゥール方面へと駆け去ったのです。
ここでまたまた注釈ですが、このヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルクという将軍、父はプロシア王国宰相を勤めた国王フリードリヒ・ヴイルヘルムⅡ世(現国王3代前の王)とその後妻の子息(但し貴賤結婚の子のため王族から除外)という王家の血を引く軍人でした。(ブランデンブルク姓は定めし日本の徳川家に対する松平姓のようなものです)
また、彼の兄はフリードリヒ・ヴィクトール・グスタフ・フォン・ブランデンブルク伯爵といい、兄弟は揃って1819年3月30日生まれ、そう、双子なのです。しかも二人とも同時に陸軍に入り、普仏戦争開戦時、兄フリードリヒは弟と同じ近衛騎兵師団所属で、近衛騎兵第1旅団長の少将。これではヴォイナ兄弟以上に間違えやすいので、以降兄をF・ブランデンブルク、弟をW・ブランデンブルクとします。完全に余談ですがこの双子兄弟、同じ1892年に亡くなっています。
さて、第19師団半個を率いたシュワルツコッペン将軍は、こうして独り敵地に取り残されることとなりましたが、将軍は焦ることなく、「軍団長が砲声の原因を調べに直接赴き、また近衛竜騎兵もそちらへ向かったのだから、何かあれば追って命令が来るだろう」と当初の「第二軍命令」をあくまで遵守する姿勢を見せたのです。
シュワルツコッペン将軍は、カール王子の第二軍本営が信じた「敵の本隊はベルダンを目指し西進中で、既にムーズ川河畔に近付いているだろう」という推定を鵜呑みにしていました。従って東から聞こえる砲声は敵の「後衛」が(正にその目的のためカール王子が後方に置いた)第3軍団と衝突した結果であり、おそらくはレーマン大佐もそれに協力し、騎兵2個師団も参加しているのだろう、そう考え「仏軍後衛に対する普軍の戦力は既に十分であり支援は不要」として、「命令あるまでは」このままムーズ川まで進もうと考えたのでした。
シュワルツコッペン
このため将軍は、ムーズ川の南にもいると思われる敵(仏マクマオン軍)を警戒して本隊をサン=ティエールの南西へ進め、サン=ティエール近郊には近衛竜騎兵第2連隊(残2個中隊のみ)と第57連隊第2大隊を展開させ、メッスからベルダンを目指している(と思われる)バゼーヌ軍に対しては前哨を北西ベルダン街道方面に進ませるよう命じるのでした。
ところが、師団がこの命令を実行中(午後12時過ぎ)に東より伝令が到着し、フォークツ=レッツ将軍の命令をシュワルツコッペン将軍に渡したのでした。それは軍団参謀長カプリヴィ中佐の報告を受けたフォークツ=レッツ将軍が発したもので、「第19師団本隊は第3軍団を援助するためシャンブレ(=ブュシエール)北東方へ前進せよ」とあったのです。
シュワルツコッペン中将は直ちに部隊集合を掛けると、行軍準備中に届いた伝令による追加の状況報告により、既にレーマン大佐がトロンヴィルの北方で激戦中と知り、将軍は大佐を助けるのが先決として、独断で目標をマルス=ラ=トゥールの北方と変更するのです。
このため部隊はまず北上してベルダン街道に至り、この街道を東進することに決します。シュワルツコッペン将軍はこの大街道を東へ行けば最短距離で友軍左翼に接触可能で、万が一敵がこの街道まで前進していた場合でも敵の側面か背面を襲撃出来るだろう、と考えたのでした。
シュワルツコッペン将軍は、その頃サン=ティエールへ前進して来た輜重縦列警護と西方警戒のため、竜騎兵若干と第57連隊第2大隊とを残置し、近衛竜騎兵第2連隊第4中隊をマルス=ラ=トゥール目指して早駆先行させ、後を追って師団残余の部隊(歩兵5個大隊、工兵2個中隊、騎兵1個中隊、砲兵2個中隊)を率い、午後12時30分過ぎに東進を開始したのでした。
ところで、午前中に19師本隊より一足お先にマルス=ラ=トゥール目指して急進した、W・ブランデンブルク旅団長少将率いる近衛竜騎兵第1連隊と騎砲中隊はどうなったのでしょうか?
W・ブランデンブルク将軍は部隊と共に午後2時少し前、マルス=ラ=トゥール近郊に到着すると、その郊外の高台から、北方に次々と現れる仏軍部隊の縦列を、驚きを持って監視していました。
やがて19師から先駆けの近衛竜騎兵第2連隊第4中隊が駆け付け合流すると、将軍は5個中隊となった竜騎兵を率いてヴィル=シュル=イロンへ向かい前進し、部落郊外にまとまった数の仏軍騎兵部隊がいるのを発見するのです。しかし、この仏軍騎兵は普軍騎兵が出現しても向かって来ることはなく、攻撃の素振りは一切ありませんでした。
このため、この仏軍騎兵部隊の一部が展開する「ドゥ・ラ=グランジェの一軒家」(ヴィル=シュル=イゾン北東にあった一軒家の農家)付近の林に対し普近衛竜騎兵第1連隊が攻撃を加えている隙に、同第2連隊第4中隊は騎砲兵中隊を引き連れてブリュヴィル南方の高地まで進出、ここでちょうど普バルビー騎兵旅団らと戦っていた仏軍砲兵列としばらく砲撃戦を繰り広げ、普軍騎兵の後退を助けたのです。
しかし、間もなく仏軍は呆れるほど多くの戦列歩兵部隊を南下させ、トロンヴィル森で騎兵ばかりでなくレーマン大佐の歩兵部隊まで撃退したため、午後3時過ぎW・ブランデンブルク少将は部隊に対し、マルス=ラ=トゥール部落南西郊外への後退を命じたのでした。
この間、午後3時30分にシュワルツコッペン中将率いる第19師団「半個」は、マルス=ラ=トゥール西4キロの(アノンヴィル=)シュゼモン付近に至ります。このイロン川河畔の高台からは対岸東側に数多くの硝煙が上がっているのが観察され、また銃砲撃音もまた多方面から聞こえました。これにより敵の大体の位置を定めた将軍は当初ヴィル=シュル=イロンへ向かおうとしますが、斥候報告と見る間に南下して行く敵の姿を望見し考えを変え、トロンヴィルへ直進し速やかに友軍左翼に連結した方が得策とします。
そこでシュワルツコッペン将軍は、第16連隊F大隊をマルス=ラ=トゥール南西郊外へ向かわせて友軍と連絡させ、また遙か北に砂塵が舞い上がるのを見て、トロータ大尉率いる近衛竜騎兵第2連隊第5中隊(騎兵連隊は四個中隊ですが、史料ではこうなっています。第1中隊との事と思われます)を「北ルート」に向け派遣し、現在も西へ進んでいると思われる敵の行軍を観察させたのです。
将軍は残った歩兵4個大隊と砲兵2個中隊を率い、午後4時シュゼモンを発ってトロンヴィルへ向かうのでした。
一方、午後早くにトロンヴィルへ到着した第10軍団長、コンスタンティン・フォン・フォークツ=レッツ大将はずっとトロンヴィル郊外の高地から戦況を見続けていました。将軍はシュゼモンにシュワルツコッペン将軍が到着したのを知ると午後3時30分、トロンヴィル森が敵の手に落ちたこととトロンヴィル郊外に騎兵1個師団(騎5師)が控えていることを知らせ、更に森の敵右翼(西)を攻撃するよう命令した書面を伝令に持たせ走らせました。
この時間は正に普軍左翼が崩壊寸前となった絶体絶命の時に当たり、フォン・デア・ゴルツ大佐やケルベル少佐らの砲兵が必死で敵のベルダン街道への突撃を防いでいた時でした。
この命令を待たずともシュワルツコッペン将軍は部隊をトロンヴィルへ向かわせていましたが、戦況は流動的で、仏軍は普軍砲兵の活躍などで前進が阻止され、また普第20師団が反撃攻勢に出たため、森の中を後退して行くのでした。この状況はシュワルツコッペン将軍にも見え、追ってトロンヴィル森が20師により回復された、との報告も届いたのです。
シュワルツコッペン将軍はこの状況を利用しない手はない、と決心します。つまり、現在第19師団(現実は第38旅団本隊)は後退する敵の真横にあり、味方の20師はその正面から北上し敵を追い上げているので、ここで19師が側面から攻撃を行えば20師の前進を大いに助けることとなるだろう、という訳です。
そこで将軍は、急速に後退しつつある敵の「前方」へ急ぎ、ちょうど後退する軍勢の真横側面から襲撃し、分断した敵の右翼を20師と共に包囲殲滅しよう、とモルトケばりの外線包囲戦術を取ったのでした。
しかし、これは大きな誤認から発した危険な行動だったのです。
シュワルツコッペン将軍は未だに敵が「後衛」(即ち小兵力)だと信じ切っており、つまりは東からはこれ以上敵が来ないという前提で行動していました。
現実は、その敵である仏第3軍団は軍団長ル・ブーフ大将の命により西から襲って来る「強力な独軍」に対抗するためにトロンヴィル森の攻撃隊を急速後退させ、後方の部隊を南から西側に正面を転換させていたのです。また、その北側ではラドミロー中将率いる仏第4軍団がル・ブーフ軍団の西側に出ようと急速に進んでいました。
即ち、弱小な敵の側面を攻撃するものと信じていたシュワルツコッペン中将の率いる旅団クラスの「師団」は、たとえ完全編成であっても苦戦は免れない、4倍にも達する敵の「正面」に突進しようとしていたのです。
「歩兵は進む」~普軍歩兵の前進
☆アノンヴィルに到着した第19師団序列
師団長
フェルディナント・エミール・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュワルツコッペン中将
師団参謀長 フォン・ゼーレ少佐
○第38旅団 リヒャルト・ゲオルグ・フォン・ヴェーデル少将
・第16「ヴェストファーレン第3」連隊 フォン・ブリクセン大佐
・第57「ヴェストファーレン第8」連隊第1,F大隊 フォン・クラナッハ大佐(連隊長)
○師団砲兵(半個) シャウマン中佐
・野戦砲兵第10連隊軽砲第2、重砲第2中隊
○第10軍団工兵
・第10軍団野戦工兵第2中隊 マイエル大尉
・同第3中隊 リンデュー大尉
○近衛竜騎兵旅団(残6個中隊) W・ブランデンブルク少将
・近衛竜騎兵第1連隊
・近衛竜騎兵第2連隊第1,4中隊
○近衛騎砲兵第1中隊




