諸公の戦い・開戦準備
☆ 諸公の戦い
さて、ドイツ統一の「第2ラウンド」(第1ラウンドは「第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」)となる「普墺戦争」を詳述する前に開戦直前におけるドイツ連邦諸邦の状況をおさらいしておきましょう。
おっと、その前に……
ここまでもそうでしたが、拙作は当時の地図がないとチンプンカンプンになる場合があります。ぜひ別窓で「プロイセン王国 地図」などと検索し、みなさんお気に召した地図を見ながら読んで頂けると幸いです。
また、19世紀の地図を見てもお分かりのように、当時のドイツは戦国時代の日本同様パッチワーク状に諸国が入り組んでいます。プロシア王国も東方の本国である東西プロイセン州とブランデンブルク州の他、各地に飛び地があり、西側フランスやベルギー国境に大きな領土(ヴェストファーレン州とライン州)ありと、地理や社会が苦手な人は見た途端に頭痛がすること請け合い。と、ここは申し訳なく。
閑話休題。
以下プロシア王国、オーストリア帝国(以降「普、墺」とします)とドイツ連邦主要国の開戦直前の状況を簡単に説明しておきます。
普墺の対立が遂に戦争にまで至る危険性が高まった1866年3月24日のこと。
普王国首相ビスマルクは墺帝国以外のドイツ連邦加盟国に対し「普王国が不幸にも墺帝国と干戈を交えるに至った場合、貴国は普に賛同し援助(=参戦)を与えるか否かを問う」との主旨の書簡を発します。
この書簡でビスマルクは「この際に連邦は今までの慣習を改め、連邦一の実力者となった普王国と利害を一致させる必要があるだろう」と上から目線で傲慢な提言を行い、「この対墺闘争に普が降参してしまうとドイツは不幸な時代を迎えることになる」と警告するのです。
この殆ど「脅迫」とも言える書簡を受け取った連邦諸国は、ほぼ全ての領邦が否定的な回答を返します。即ち「連邦加盟国同士が干戈を交えることはドイツ連邦規約第11条違反であり、そのような事態が発生した場合、我が国は普墺どちらにも荷担することは出来ない。双方の仲裁はドイツ連邦議会の決定に任せるべきである」と言うことです。
しかしこの「模範回答の続出」などビスマルクは百も承知で先の書簡を送っており、この回答が各国とも建前であって、いざ戦争となれば諸侯は普墺どちらを支持するのかを決定しなくてはならないのは明らかであり、つまりビスマルクは「普王国が墺帝国との戦争もやむなし」と決断し「その時が正に目前に迫っている」ということを諸侯にはっきり示し「さて貴邦は如何に?」と覚悟を問うたに過ぎないのでした。
既述通り普墺両国はこの3月末から戦争準備に本格着手します。
普軍は3月27日と29日の両日、諸要塞の守備兵を増加させました。とはいうものの、モルトケが参謀総長に就任しローンが国王の信頼を背景に軍のカーストのトップに就いて以来、普軍は動員速度に磨きを掛け、相手よりも素早く動員を完了させる自信に満ち溢れていたため、参謀本部は諸要塞守備隊の増員を僅か20,000名で止め、いよいよ戦時動員の号令が掛かるまでは予備役たちを各自本来の職業に留め置いたままにするのでした。
しかもモルトケやローンら軍首脳は軍の動きを隠すことなく、この増員を各新聞社が記事として公にすることすら許可したのでした。
確固とした対普戦争計画のないまま(大切な先手/攻勢か後手/防衛か、という前提すら曖昧なまま)押っ取り刀でボヘミア駐屯軍の増員に着手していた墺帝国政府は3月31日、外務大臣のメンスドルフ伯爵名で普王国政府に書簡を送り、「我が帝国がボヘミアに兵を送ったのは当地に発生したユダヤ人一揆を鎮圧するためであり他意はない。皇帝陛下は貴王国に対する戦争など夢にも思っていない」と敵意のないことを表明します。対する普王国政府も4月6日、この返事として「我が王国は貴帝国が軍備を増強したのでそれに従い国境警備に増員を図っただけで、貴帝国領を攻撃する意図はない」とするのです。
このような「表向きの火消し」は4月一杯、双方の書簡応酬で続きますが、4月下旬に至りヴェネト及びチロル地方にある対イタリアの墺軍集団(後の墺南軍)の増強が止まる様子を見せないことに普政府は反応してこれを非難するに至ると、いよいよ両国の本音が表立って来ました。
そして5月に入ると、遂に両国は本格動員に踏み切るのです。
普国王ヴィルヘルム1世は1966年5月4日(公になったのは同月6日)、ビスマルクとローンに対し正規軍25万人(最終的に27万人)の動員を命じ、同7日には旧ラントヴェーア(郷土軍部隊)の後備軍24万人(同25万人以上)の動員も命じました。
普軍は5月21日までのわずか二週間ほどで正規軍の動員をほぼ完了し、普王国陸軍省は開戦時に必要十分な武器弾薬を各駐屯地へ分配し終えます。その速度は各方面からの情報収集により全貌を知った墺軍(モルトケは前述通り動員を隠匿することなど露にも考えていませんでした)を恐怖に陥れました。普軍の実行力は当時の軍事常識からすれば正に「神業」と呼ぶべきものだったのです。
更に墺軍首脳を驚愕させたのは、この正面兵力27万だけでなく25万以上の後備兵も6月上旬までに出征準備を整えていたことでした。
「僅か14日間で49万以上の兵員が閲兵可能になるまで、そしてその兵士全員が各々の武器弾薬はもちろんのこと、軍装に軍靴、水筒、毛布に至るまで受け取っているという状況を現出させたことは、普王国と同国軍部が長年の間『この日』に至ることを想定しその準備に傾注尽力した結果と言うべきであろう」(墺帝国参謀本部編「普墺戦史・第1巻」/筆者意訳)
こうして「敵」までが誉め称えた普軍の動員(平時においても準備怠りない好戦的な普を非難した、とも取れますが)でしたが、後手になったとはいえ墺軍も出来る限りの手配を行い、5月13日において墺軍はそれまでの兵備増強施策から一気に戦時動員態勢を採り、同月18日、ボヘミア方面に展開することになったおよそ20万の「墺北軍」の指揮を、皇帝の覚え目出度い「フェルドゼーグマイスター」(砲兵将軍・大将格)、「ソルフェリーノの会戦でただ一人負けなかった男・サン・マルティーノの勇者」ルートヴィヒ・フォン・ベネデック将軍が担うこととなります。
この頃、既に普軍は第1、5、6の3個軍団をシュレジェン地方に、第2、3軍団をザクセン王国北部国境のラウジッツ方面に、第4軍団をエアフルト(ライプツィヒの西南西100キロ)方面に集合させており、更に第7軍団をヴェストファーレン地方に、第8軍団をライン沿岸に、そして近衛軍団をベルリン周辺に集合させつつありました。
普墺の対戦が秒読みとなった5月中旬、普墺以外の独連邦主要国も軍備増強を急ぎ出します。
それまでも自国防衛の名目で事実上正規軍を総動員状態に置いていたザクセン王国、ハノーファー王国、ヴュルテンベルク王国、ヘッセン選帝候国(ヘッセン=カッセル方伯領)は、更に後備兵の召集も開始して戦争に備え、墺帝国支持が鮮明なバイエルン王国、ヘッセンとバイ・ライン大公国(ヘッセン=ダルムシュタット)、ナッサウ公国も連邦軍に参加する部隊の完全充足を図ると同時に自国防衛の国内軍部隊の動員を開始するのです。
イタリア王国もまた墺ヴェネト領の主邑ヴェネチアやヴェローナ、そしてクワドロデッラ(四角要塞地帯。「第二次イタリア統一戦争/マジェンタ」参照)に集合する墺南軍に対抗して既述通り5月上旬には動員を完了し、愛国の闘士ジュゼッペ・ガリバルディ将軍は国王の許しを得て20個大隊分(1個大隊の定数は800名前後)の義勇兵を募集しますが、こちらも5月下旬までに想定の倍(役に立つか否かは別として30,000名前後)の義勇兵が集合したのでした。
この5月、墺帝国はヴェネト地方の住民(殆どが伊系ヴェネチア人)に対し2000万南ドイツグルテン(普王国の貨幣「ターレル」換算で約1140万、当時の銀換算で約190トン)の公債(今でいう戦時国債)を募集するという、イタリア国民が逆上する行動を行います。これで「完全なるイタリアの完成」を夢見る国王・政府ばかりでなく人民もまた民族主義に燃えて最早手が着けられない状態(熱し易いラテン系の国民性)に陥り、普墺の対決より先に北イタリアで戦火が上がるのではないかと思われる状態となります。
このような一触即発の状況下、既述のような独連邦議会での普墺衝突・シュレスヴィヒ=ホルシュタインでの緊張・ビスマルクの暗殺未遂などが相次いで発生し、独諸邦は運命の6月を迎えるのでした。
○ハノーファー王国
ゲオルグ5世(ハノーファー王)
位置;現在のドイツ北西、ニーダーザクセン州の一部。オランダの東・デンマークの南西
主要都市;ハノーファー、ゲッチンゲン、エムデン
当時の状況;
あのシャルンホルストを生んだ国です。神聖ローマ帝国選帝侯領の一つとしてドイツ北西部に確固たる地位を占め、1714年に英国の王家スチュアート朝が断絶したため血統的に最近親のハノーファー国王だったゲオルグ・ルートヴィヒがジョージ1世として英国王に招かれ、英国と「同君連合」(同じ王様を戴く国同士)となりました。これは1836年まで続きますが、1837年、英国王としてヴィクトリアが即位したため、相続法として「サリカ法」(女王および女系継承相続を禁じるフランク王国由来の法典)を奉じるハノーファー王国はヴィクトリアの戴冠を忌避し同君は解消されます。サリカ法に縛られていなかったのならヴィクトリアがこの国の女王・英国との同君となった訳で、そうであったのなら普墺戦争はどうなったのか興味が沸きますね。
当時の国王ゲオルグ5世と英女王ヴィクトリアは生まれが同じ1819年5月、わずか3日違い(女王が上)の従姉弟同士で、同君が解消されたとはいえゲオルグ5世は英王室の一員として認められており、伝統に従い「カンバーランド公爵」の英国爵位を持っていました。このようにドイツ連邦の一国とはいえ英国に近いこの国は普領に東西から挟み込まれた形で存在していましたが、英国からの支援を十分に期待出来る立場でした。
しかしゲオルグ5世がドイツ連邦の秩序に従い墺帝国側に付いて参戦すると、頼みとしたい英国は中立に徹してしまい、後ろ盾のないまま南独三ヶ国や周辺の小邦と共に強力な普軍と対決することになりました。
○ザクセン王国
ヨハン(ザクセン王)
位置;現在のドイツ・ザクセン州。ベルリンの南、オーストリア帝国ボヘミア(チェコ)領の北西側
主要都市;ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツ
当時の状況;
「アングロ・サクソン人」という言い方がありますが、英語圏の白人を示すこの言葉、元々はホルシュタイン地方に住んでいたザクセン人の一部がユトランド半島に居たアングル人やジュート人と共にイギリスへ侵入して定住し、いわゆるイギリス人の始祖となったための言葉です。
ザクセン王国の「先祖」ザクセン公国は、この英語読み「サクソン人」のうちドイツに残った人々が作った国でした。
ザクセン公国は10世紀由来のマイセン辺境伯領から発展し、一時はポーランドも同君連合と成した由緒ある国ですが、長い歴史の中で国主とその兄弟たちは隣接する領邦を巻き込んで分割や併合を繰り返し、宗教改革期に守旧のカトリック派と新規プロテスタント(ルター)派に分かれて対立したりしたためほぼ全域がザクセン王国と重なるザクセン州以外に現在も「XXザクセン」や「ザクセン=XX」という地方名がドイツ各地に残ることとなります。因みに歴代のザクセン公は敬虔なルター派信者で、ワルシャワ公を名乗った時だけカトリックに改宗したものの、公国自体はプロテスタントの重要な拠点であり続けました。
ナポレオン1世により神聖ローマ帝国が解体されるとザクセン公国は王国となりますが、ウィーン会議の結果北部地方を普王国に割譲させられてしまい遺恨となります(プロシア王国ザクセン州の誕生)。
1840年代初期では立憲民主主義に理解ある国王フリードリヒ・アウグスト2世の下、憲法が発布され自由主義的な内閣が発足して男子普通選挙も行われましたが、48年のドイツ革命によりドレスデンにも革命の火の手が上がり共和国を宣言する一派が現れる(5月蜂起)と国王は態度を変え、普墺の援助もあって自由主義勢力は鎮圧されました。
それまでの経緯からザクセン王国は普王国のライバル国家であり大ドイツ主義にも賛同していたため墺帝国との関係は深く、また国王ヨハンはバイエルン王国の王女を娶っていたこともありドイツ連邦の議決に従って墺帝国側に付きました。
しかし、いざ戦争ともなればザクセンは30万の普正規軍と対峙する最前線となり、ボヘミア領との緩衝地帯でもあるザクセン王国の参戦を確実とするため、墺帝国は6月8日、皇帝付武官のベック大佐をドレスデンに派遣してザクセン政府の「本気度」を確かめ、ザクセン政府は普王国が実際に国境を越えて侵入しなくとも戦争を決したと知れば「直ちに墺と共に宣戦布告する」と約束するのでした。
○ヘッセンとバイ・ライン大公国
ルートヴィヒ3世(ヘッセン大公)
位置;ドイツ中西部、ハノーファーの南、バイエルンの北。飛び地が目立つ国
主要都市;マインツ、ダルムシュタット、ギーセン
当時の状況;
元は神聖ローマ帝国の一領邦「ヘッセン=ダルムシュタット方伯領」。ナポレオン1世による神聖ローマ帝国解体で「大公国」に昇格しますが、この時誕生した親仏国家群「ライン同盟」に参加したことで1815年のウィーン会議により領土の大半を割譲せざるを得なくなり、その多くは普王国が獲得した(ヴェストファーレン州の一部)事もあって反普が表立っていました。この時、国名が「ヘッセンとバイ・ライン大公国」となりますが、一般的には以前の呼称「ヘッセン=ダルムシュタット」と呼ばれていました。
しかし「大公国」という格はあったものの所詮は小国で、普墺の対立では中立でいたかったのかもしれませんが、当時の大公ルートヴィヒ3世はザクセン国王と同じくバイエルン国王の王女を后としており、バイエルンやハノーファーという反普親墺の有力国家と並んで墺(ドイツ連邦)側に付くしか道はなかったと思います。
○バイエルン王国
ルートヴィヒ2世(バイエルン王)
位置;ドイツ南部、南と東でオーストリアと接する
主要都市;ミュンヘン、ニュルンベルク、アウグスブルク、ヴュルツブルク
当時の状況;
この王国は12世紀末からヴィッテルスバッハ家が統治する南部ドイツの最古参・最大の国家で、選帝侯領を経てナポレオン1世による神聖ローマ帝国の解体により王国に昇格されました。
中世来墺と反目することが多かった国ですがナポレオン1世がロシア遠征に失敗し帝国に陰りが見えると対仏大同盟に参加、普、墺、ロシアやイギリスと共にナポレオン1世を倒しました。
バイエルンはナポレオン1世の「頚城」から外れると親墺へと変化しますが、1818年に立憲君主国として再スタートするという自由主義にも(多少は)理解が見える国でもありました。
神話陶酔、音楽と建築に対し耽溺散財、その奇妙な言動から「狂王」と呼ばれ、有名なノイシュヴァンシュタイン城を建てたルートヴィヒ2世が父王マクシミリアン2世の崩御により国王となったのは第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争真っ只中の64年3月。女性を忌避し近習に美少年を侍らせていたルートヴィヒ王は即位直前の1月、女性で唯一親しかったと言われるオーストリア帝妃エリーザベトの勧めで彼女の妹ゾフィーと婚約を交わしますが、結婚は二度に渡って延期された挙句に破棄されてしまいます。王は生涯、形ばかりでも妃を得ることはありませんでした。
当時の国情は完全な反普親墺で、ドイツ連邦一連の普王国叱責決議でも常に賛成票を投じ墺側に付いていたバイエルンでしたが、王国内閣(立憲君主国のため普墺とは発言力が違います)は、「普シュレスヴィヒ駐屯軍が墺領ホルシュタインに侵入し始めた」との急報で開かれた6月8日深夜の閣議においてもまだ「我が王国はただ普墺のどちらか先に戦端を開いた側を敵とする」と決しています。ただ、ミュンヘンの政府系新聞は「バイエルンが今後墺と共に戦わずとも決して墺の敵にはならない」との論説を載せていました。しかしこれも一両日のことで、結局バイエルン政府は10日になって軍の出動を命じました。
ロマンチックで戦争嫌いな国王ルートヴィヒ2世はといえば、母上が普王女で意外なことにビスマルクを敬愛、とは言え親普でもなく中立というよりは無関心、呼び寄せた憧れの「オペラ王」リヒャルト・ワーグナーと語らったり城館や劇場を造ったりする方がよほど建設的で楽しいとばかり、退位までチラつかせて戦争に反対しますが、結局王族や内閣の説得で渋々対普宣戦を布告するのでした。
○ヴュルテンベルク王国
カール(ヴュルテンベルク王)
位置;ドイツ南部、倹約家(=ケチ?)の風土で有名なシュヴァーベン地方。北と東をバイエルン王国に囲まれ、南西に普王家の出身地で普王国の飛び地ホーエンツォレン州を取り囲む
主要都市;シュトゥットガルト、ウルム、ハイルブロン
当時の状況;
11世紀に登場するヴュルテンベルク伯領が公国となり、一時は墺公国の一部となっていましたが後に独立を回復、シュヴァーベンはプロテスタント優勢の地域でしたがカトリックを戴く神聖ローマ帝国に帰属しました。ナポレオン戦争では早々フランスに屈して神聖ローマ帝国解体のどさくさで領土を拡大、王国に昇格しました。ところがナポレオン1世に翳りが見えると変わり身の早い国王フリードリヒ1世は対仏同盟に鞍替え、ウィーン会議で王国はなんとか領土と国体を維持します。しかし王様は会議翌年の1816年に崩御してしまい、王太子ヴィルヘルム1世が跡を継ぎました。
新王は父の悲願だった憲法を発布し立憲王国とする一方、長い戦争で疲弊していた王国の立て直しを図り、自由主義勢力の伸長に苦労しながらも王国は近代国家として少しずつ発展して行きます。
48年のドイツ革命では他邦に比べ大きな騒動は発生しませんでしたが、騒乱を招かぬため一時自由主義に傾倒する勢力に国家運営を任せるしかなくなります。しかし旧守勢力が選挙権拡大を餌に国民を懐柔しつつ保守勢力の復帰を図って成功、革命は事前に防がれて旧体制に戻ることが出来ました。
上手に国家を運営したヴィルヘルム1世は64年、お隣バイエルン王国のマクシミリアン2世の崩御に続く6月に崩御、新王は長男カール1世となりました。
カール1世は父王が在位中、常に揺らぎない親墺政策を取ったことを受けて迷いなく墺帝国に追従。ドイツ連邦決議に従い軍を発するのです。
○バーデン大公国
位置;ドイツ南西、西側はライン川に沿い北西境はバイエルン領プファルツ(旧ライン宮中伯領)。東はヴュルテンベルク、北はヘッセン=ダルムシュタットとバイエルン本国。
主要都市;カールスルーエ、フライブルク、マンハイム
フリードリヒ1世(バーデン大公)
当時の状況;
この言葉を聞くとファンタジーファンが耳をそば立てる「辺境伯領」から発展した領邦です。それが12世紀に発するバーデン辺境伯領で、これは当時の領主が中央部のバーデン=バーデンに居城を構えたことに由来します。
バーデンは中世から近世に掛けて親戚筋の間で離散集合を繰り返し、宗教改革期にはルター派とカトリックに分かれて争いますが、18世紀末にカール=フリードリヒ伯が16世紀来離散した所領の統一・領土拡大に活躍してライン川で仏に接する南北に細長い辺境伯領となりました。
しかし対仏戦争で墺側に付いたバーデンは領土をフランス軍に荒らされ、その後中立を維持、ナポレオン1世時代の神聖ローマ帝国解体により領土内にあったヴュルテンベルクや墺の飛び地を併合し大公国となります。
ナポレオン退場によるウィーン会議でも領土を保持することに成功した大公国は自由主義的な改革を進めますが、これが行き過ぎたのかドイツにおける左派・自由主義の温床のひとつとなり、48年革命でドイツ最初の民衆蜂起・革命が発生します。49年には軍が反乱を起こし共和国が宣言され当時のレオポルト大公は国外脱出、普王国に援助を求め普王国のヴィルヘルム親王率いる普軍が凄惨な戦闘の末革命を鎮圧し、これがドイツ革命の終焉となります。
56年に兄の死で6代目大公となったフリードリヒ1世は同年、普国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪(バーデン革命を鎮圧した王太弟ヴィルヘルム親王の長女)ルイーゼ妃と結婚しました。これまでもバーデン大公国は親墺国が殆どの南ドイツにあって中立的で、普王国にも敵愾心を示していませんでしたが、「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」・普墺対立が激化する波乱の時代、カトリックの強い南ドイツでプロテスタントの王子として育ちホーエンツォレルン家直系の王女を后とした大公・「小ドイツ」支持を公言し自由主義にも同情的で立憲君主制支持者だったフリードリヒ1世は既述通り連邦の普王国制裁決議も反対し、最後まで中立の立場を示します。
しかしそれ以前、普墺の戦争が必然となった6月上旬。フリードリヒ1世はザクセン王国を訪問しヨハン国王と面談していました。この会談でいざとなればザクセン王国が墺側に立って普と戦う決意であることが分かり、大公も腹を括って「その時」のため国軍に出動準備を命じていました。
結局フリードリヒ1世は、親墺国に囲まれる大公国の地勢的な立場やドイツ連邦の決定を遵守するためにも渋々連邦に従い、義父が率いる普軍と対決することになったのです。
これらの国々は全て墺帝国側、即ちドイツ連邦側です。既述通り(前段「歩兵大将モルトケ」参照)普王国側にも小さな領邦が付いていましたし、これは墺側も同様でしたが、どれもモブ(失礼!)。よほど深堀しなくてはこの戦争で何をしたのか中々分からないその他大勢。オルレンブルクとかナッサウとかブラウンシュヴァイクとかメクレンブルクとかそのレベルまで知りたい方はご自身でお願いすることとして、ここでは割愛させて頂きます(汗)。
さて、次は軍の配置です。
ここまでお話ししました通り普墺戦争開戦当時、プロシアは正に四面楚歌の状態でしたが、北方のバルト海方面、今回普墺の衝突でシュレスヴィヒ=ホルシュタイン方面が「がら空き」となりデンマークにとってはチャンス到来と言えそうですが、流石に国内の混乱を解消し国力を回復しなくてはならず、ここは忍んで中立となり、スウェーデンもあえて火中の栗を拾うつもりもなく中立維持という事で北方には問題なし。東は大国ロシアが虎視眈々・隙あらばという状態ですが、ビスマルク外交の成果と墺帝国とはクリミア戦争の遺恨や東欧での主導権争いで決して良い関係ではなく、ロシアは親普寄りの中立を保ちます。
問題は南と西でした。
☆西方ドイツ連邦諸邦軍の戦争準備
最初にプロシア軍(と同盟諸邦軍。以降普軍とします)対西方ドイツ連邦諸邦軍との戦いを見て行きますので、先ずは連邦軍側の開戦準備を記述して行きます。
前述通り6月に入るとドイツ連邦所属の各領邦は、どんなにのんびりしている国でも普墺の対決は避けられないものと覚悟を決め、軍の動員・出師を急ぎました。
バイエルン王国は軍を4個師団の1個軍団に編成すると総司令官にフリードリヒ2世の大叔父でバイエルン陸軍総監・陸軍元帥のカール・テオドール・マクシミリアン・アウグスト親王(当時70歳)を仰ぎ、参謀長に男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン中将(当時は王室付武官長で実質軍のトップでした)を任命しました。4つの師団はシュヴァインフルト(フランクフルト=アム=マインの東110キロ)、バンベルク(シュヴァインフルトの東南東50キロ)、そしてアウクスブルク(ミュンヘンの北西56キロ)近郊に集合します。彼らがこの3ヶ所に集合したのはこの時点で軍をどの方面に向けたものか判断が付かなかったからで、ラベ(エルベ)川中流域から上流域なら東へ、ヴェストファーレンからライン方面なら西へと、まるで正反対に行軍することとなるので、交通・鉄道の要所である先の3地点に布陣したのでした。このバイエルン軍団は戦争中「連邦第7軍団」を名乗ります。
ルートヴィヒ・フォン・デア・タン
ヴュルテンベルク王国、ヘッセン=ダルムシュタット、バーデン大公国など他の西・南部諸邦は合同して1個軍団を構成することとなり、こちらは「連邦第8軍団」となりました。この連邦第8軍団は当初バーデン大公国北部のブルッフザール(カールスルーエの北東19キロ)に本営を構えることとなります。
この同盟諸邦軍の「軍団長」をどうするかでひと悶着あり、これにバーデン大公国のヴィルヘルム公太子とヴュルテンベルク王国のフリードリヒ王太子が立候補しますが、墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は当時墺陸軍中将位を保持し、戦場にも慣れていたヘッセン=ダルムシュタット大公ルートヴィヒ3世の弟君アレクサンダー大公子(バッテンベルク家・後のイギリス貴族マウントバッテン家始祖。この方については後述します)の就任を望みました。しかし「嫌々」連邦側に立ったバーデン大公国が「墺帝国の配下として出師することは出来ない。あくまで連邦軍として出師する」と抗議したため、アレクサンダー公は墺軍を辞任した後に改めて司令官に推挙され、これにてヴュルテンベルク、バーデンそれぞれ納得し司令官問題は開戦後の6月18日にようやく決着したのでした。
アレクサンダー公子(ヘッセン=ダルムシュタット)
これより先、6月1日ミュンヘンに会した西方諸侯の軍事代表は「普墺の衝突はいよいよ避けられないため」15日までに出征準備を完了することを約し、次のように出征軍の規模・集合地点を定めました。
※1866年6月1日・ミュンヘン会議で決した墺軍以外の連邦軍規模
・会議参加者
バイエルン王国王室付武官長兼参謀長・中将 ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン男爵
バーデン大公国大公付武官長・少将 ヴィルヘルム・フォン・ノイボルン
ヴュルテンベルク王国参謀次長・少将 エデュアルト・フォン・カレー
ヘッセン大公国参謀長・大佐 フリードリヒ・ベッカー
ナッサウ公国公室付武官長・少将 ヒロニムス・フォン・チィーミキー
ザクセン王国軍幼年学校長・中佐 アルバン・フォン・モンベ(西方諸侯とは別働するが連絡将校として参加)
*バイエルン王国 出征46,000名
・歩兵4個師団(師団は2個旅団・旅団は歩兵4個猟兵1個大隊)
・騎兵1個連隊(4個中隊)
・野戦砲兵2個中隊(中隊は砲8門)
・予備騎兵7個連隊(連隊はそれぞれ4個中隊に騎砲兵2個中隊を付属・騎砲兵中隊は砲6門)
・予備砲兵8個中隊(計・砲60門)
・予備弾薬縦列、工兵廠、給養部、衛生部ほか
・以上要塞や要地守備隊を除く
・この他近日中に歩兵6個大隊、1ヶ月以内に歩兵10個大隊を増員する(約14,000名)
〇集合地
シュヴァインフルトとバンベルクにそれぞれ1個師団、アウクスブルク南24キロのレヒフェルト周辺に2個旅団、ミュンヘンに1個旅団、インゴルシュタット(アウクスブルクの北東58キロ)に1個旅団。予備部隊は王国の北部バンベルク、ヴュルツブルク、ニュルンベルク各地の宿営に向けて集合中
*ヴュルテンベルク王国 出征20,000名
・歩兵1個師団(3個旅団・旅団は歩兵4個猟兵1個大隊)
・騎兵1個旅団(3個連隊・連隊は5個中隊)
・野戦砲兵6個中隊(中隊は砲8門)
・その他必要とする補助後方縦列
・この他6週間後に歩兵5個大隊(1個旅団)、騎兵4個中隊砲兵1個中隊を増員する
・ウルム要塞守備として歩兵4個大隊、騎兵1個中隊を保持
〇集合地
ルートヴィヒスブルク(シュトゥットガルトの北13.5キロ)とハイルブロン(ルートヴィヒスブルクの北27キロ)間に展開
*バーデン大公国 出征13,000名
・歩兵10個大隊・フュージリア兵2個大隊・猟兵1個大隊
・騎兵3個連隊(連隊は4個中隊)
・野戦砲兵4個中隊(中隊は砲6門・騎砲兵含む)
・その他必要とする補助後方縦列
・この他1ヶ月以内に歩兵14,700名、騎兵1,800名砲38門を増員するが、装備は軽微で要塞守備隊もこれに含む
〇集合地
カールスルーエ(シュトゥットガルトの北西62キロ)とブルッフザール間に展開
*ヘッセンとバイ・ライン大公国 出征10,400名
・歩兵7個大隊
・騎兵6個中隊
・野戦砲兵2個中隊(中隊は砲6門)
・この他に要塞守備隊として歩兵2個大隊、騎兵2個中隊、砲兵2個中隊(約2,300名)
〇集合地
オッフェンバッハ(フランクフルトの東6キロ)、ダルムシュタット(同南26キロ)、ヴォルムス(ダルムシュタットの南西34キロ)間に展開
*ナッサウ公国 出征5,600名
・歩兵4個大隊・猟兵1個大隊
・野戦砲兵2個中隊(中隊は砲8門)
以上で1個旅団とする
・その他必要とする補助後方縦列
・この他6週から8週間で歩兵1,096名、砲兵111名門を増員する
〇集合地
ヴィースバーデン(フランクフルトの西31.5キロ)に集合
*ザクセン王国 出征25,000名
・歩兵20個大隊
・騎兵16個中隊
・野戦砲兵10個中隊
・以上、馬匹6,600頭、砲58門
・この他に6週間以内に約5,000名を1個旅団として出征可能
〇集合地
ドレスデンに集合
これらドイツ連邦西方諸侯総軍の総司令官には連邦第7軍団長のカール・フォン・バイエルン親王が任命されますが、時既に6月28日となっていました。
この連邦第7軍団(以下バイエルン軍とします)の戦闘準備は開戦時(6月15日)までに大方終えています。
カール親王(バイエルン)
連邦第8軍団(以下諸侯軍とします)のうちヴュルテンベルク軍は6月17日までに先遣隊として歩兵1個旅団・騎兵2個連隊・砲兵2個中隊を連邦側に付いたフランクフルト(=アム=マイン)自由市に送ります。28日に残り2個旅団が出立し7月5日になってようやく全軍集合となりました。
バーデン軍は6月17日になって予備役と帰休将兵の招集を開始し、20日に野戦師団の編成に着手、25日に第1旅団が編成完了しダルムシュタットへ向けて出立しました。残余は7月上旬に順次出立すると9日、最後の部隊が諸侯軍に参加するのでした。
ヘッセン=ダルムシュタット師団とナッサウ旅団は準備早く開戦時には戦闘準備が完了し、先の集合地で野営し始めます。
ヘッセン=カッセル方伯軍は、連邦軍規約ではナッサウ軍と共に連邦第9軍団に加入するはずでしたが、一緒に加入するはずのチューリンゲン諸侯の多くが普側に付いたため連邦第9軍団は結成されず、6月22日になってハーナウ(フランクフルトの東17.5キロ)付近に集合、その兵力は歩兵4,600名(5個大隊)・騎兵10個中隊・砲24門(3個中隊)となり、諸侯軍に加入しました。しかし後述の理由で同月29日に驃騎兵2個中隊を諸侯軍に残し、残余の兵力は守備隊としてマインツ要塞(同西南西31.5キロ)へ移りました。
6月7日の普シュレスヴィヒ駐屯軍ホルシュタイン州侵入・占領を受けて9日連邦議会で可決した「連邦軍守備の西方要塞駐屯兵の任務解除」により、マインツとラシュタット(シュトゥットガルトの南西22.5キロ)両要塞に配されていた墺軍守備兵は墺軍最先任士官アレクサンダー・フォン・ハーン少将の指揮で要塞を離れ、集成1個旅団*となって諸侯軍に参加することとなります。
ハーン集成旅団は鉄道輸送によりバイエルン経由で本国オーバーエスターライヒ州へ送られ、急ぎここで要塞守備から野戦軍への装備兵装変更が行われました。この地で補充兵を加えてダルムシュタットへ戻りますが、既に7月になっています。
この旅団はナッサウ旅団と合流し1個師団に編成され、師団長には墺軍で第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争でも師団を率いていた伯爵エルンスト・フォン・ナイペルグ中将が任命されました。
※連邦第8軍団に参加した「唯一の」墺軍旅団(7月17日の現況)
◇墺軍ハーン旅団(歩兵/猟兵7個大隊・砲兵2個中隊・砲16門)
・野戦猟兵第35大隊
*歩兵第16連隊第1大隊
*同連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
*歩兵第21連隊第3大隊
*歩兵第49連隊第3大隊
*歩兵第74連隊第3大隊
*砲兵第1連隊4ポンド施条前装砲第1中隊
・砲兵第2連隊8ポンド施条前装砲第6中隊
・衛生兵小隊
計;歩猟兵7,035名・砲兵381名・衛生兵46名(以上は定員数で実際はもっと少なかったと思われます)
*は元要塞守備隊。・は本国よりの増援。要塞守備隊にいた歩兵第35連隊と歩兵第72連隊の第3大隊は他方面へ使用のため離れています。
さて、普軍に対する軍勢は押っ取り刀で揃いつつあったものの、ではどのような作戦で普軍と相見えるかと言えば何も決まっていませんでした。
普軍はほぼ単一の軍隊で指揮系統も国王を頂点に一本化、作戦も準備万端というこの時点では完璧と言える状態で戦争に突入したのに対し、諸侯の寄せ集めで思惑も様々、祖国防衛のため積極的に戦おうという者から、嫌々親しかった普王国の人々を敵にしなくてはならなくなった者までいるという諸侯軍。実際に指揮を執ることとなったバイエルン軍のフォン・デア・タン将軍は6月9日、墺の対普王国野戦軍である「北軍」との共同作戦を定めるため急ぎウィーンに向かいますが、ここでも数日待たされた後14日にようやく墺北軍本営が前進したオルミュッツ要塞都市(現チェコのオロモウツ。ブルノの北東65キロ)で、墺帝室付武官長伯爵フォン・クレネヴィル少将立会いの下、墺北軍参謀長男爵アルフレッド・フォン・へニックシュタイン中将と協議し、当面の作戦行動を決定するのでした。
ヘニックシュタイン
この協議によれば、原則として「普王国軍を討伐するため、墺帝国は連邦加盟諸国と一致して連邦諸侯軍と共同して戦う」とし、以下の主旨で今後の行動をまとめました。
「バイエルン軍はバイエルン親王カール元帥の指揮下で常に行動」
「ヴュルテンベルク軍・バーデン軍・ヘッセン=ダルムシュタット軍・ナッサウ軍もまたカール親王の指揮に従う」
「カール親王は墺北軍と諸侯軍との協議で定めた計画や墺帝国軍が伝達した作戦計画に従って行動する」
「以上の作戦は作戦の大目的に相反しない限り出来るだけ諸侯軍参加諸国の利益に反する事がないようにすること」
「北軍と諸侯軍との関係を緊密に保つため墺軍は将官か大佐1名をバイエルン軍本営に駐在させ、バイエルン軍もまた将官か大佐1名を墺北軍本営に派遣すること」
「バイエルン軍は6月15日に鉄道沿線または付近に前進し協議した作戦計画に従って臨機に行動すること」
「墺帝国は決して単独で普王国と講和を結ぶことはない。講和会議を行う場合は必ずバイエルン王国全権大使と共に参加し互いに熟考して決する」
また、ヘニックシュタイン参謀長とフォン・デア・タン参謀長との間で墺北軍と諸侯軍がボヘミア(独/ベーメン)地方で合同することについて、次のような作戦計画が決まりました。
「墺北軍は7月1日までにベーメン北東部・ラベ(独/エルベ)とイゼラ(独/イーザル)*河川間に展開しクルコノシェ(独/リーゼン)山脈に面して集合する。もし北軍と諸侯軍が別々に行動した場合、普軍はラベ河畔に展開して両軍を分断し各個撃破を狙う可能性がある。もし両軍がラベ、イゼラ両河川間で合同すれば、当初こそ普軍の攻勢により守勢となるも、次第に我軍が有利に事を運べることになる。これにより諸侯軍は至急墺北軍と合流を目指すための行動を起こすことが最優先事項となる」
「バイエルン軍は急ぎ鉄道を使いバイロイト(ニュルンベルクの北北東65キロ)やシュヴァンドルフ(同東南東75キロ)など鉄道利用が容易い地点に行軍し諸侯軍で北方に位置する諸隊を待って共に墺北軍との合流を目指すこと」
「バイエルン軍の移動のため、ボヘミア西部の鉄道の運行準備を万全にし、中央鉄道局は事前協議を経て軍がプラハに到着するまでの運行計画を立てて書面を提出せよ」
「行軍の際の宿舎・給養・倉庫建築・予備廠・病院設置などの準備は墺陸軍省において便宜を図り、連邦軍の規定に即して諸事を行うこと」
「もし両軍合同の運動が軍事上あるいは政治上の問題により実行不可能となった場合は改めて合同作戦を協議すること」
「墺参謀本部は墺軍に供与されたものと同じ縮尺のボヘミア地方地図および必要な地図を必要数用意してバイエルン軍本営に供与すること」
*イゼラ川 ここでは現・ポーランド=チェコ国境・プラハの北東約105キロ付近を水源にコジェノフ付近までポーランド=チェコ国境を成しその後西へ曲がりトゥルノフ、ムニホヴォ、ムラダーを通りプラハの東北東23キロ付近ラーズニェ・トウシェニでラベ川に注ぐ支流。ミュンヘンを流れるイーザル川ではありません。
この作戦計画は墺軍の大目的を示すものとして、バイエルン軍を信頼しての計画でしたが、当時ウィーンでは「バイエルン軍に北軍と共同する気はない」と信じる重臣もいて、北軍司令官ベネデック元帥もまたバイエルン軍の合同を疑っていたのです。
墺軍はバイエルン軍の行動を知るためにもいち早く伯爵ヨハン・カール・フォン・フィン中将をバイエルン軍本営に派遣し、本意を質させることとしてミュンヘンに送りました。フィン中将は19日にミュンヘンに到着し、カール親王やフォン・デア・タン将軍に行動を促しましたが、バイエルン軍首脳は「直にボヘミアに向かうか北方に進んで普軍と対決し暗に墺北軍を助けるか」どちらかの行動をするとしますが、既に普王国は15日、初動で攻勢対象となったハノーファー、両ヘッセン、ザクセンに対して宣戦を布告し侵攻を開始していたのでした。




