マルス=ラ=トゥールの戦い/ブレドウ旅団「死の騎行」
午後2時頃。普第3軍団長コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将は、午前中から4時間以上も続く普5、6師の奮戦により、倍する敵方を押しやり、そのベルダンへの逃走を抑止した、と感じていました。
「これ以上、この戦力では戦果を望むべくもない」と一定の成果に満足した将軍は「進撃は必要なし」として現在地を死守することが軍団緊急の課題、とするのです。
そこへ、ただでさえ危険な状態にあった軍団左翼(ベルダン街道の北)戦線の相手、仏カンロベル軍団が防御から攻勢に転じる気配濃厚となったのです。
最早この危機に対抗する歩兵、砲兵の予備はありません。この危機に際し使えるのは騎兵だけでした。
前述通り、騎5師団長フォン・ラインバーベン中将はC・アルヴェンスレーヴェン中将に麾下の3個旅団の指揮権を譲り、その2個(バルビー、レーデルン)旅団は軍団左翼(北)警戒とし、残り1個(ブレドウ)旅団は特別の予備として軍団長指揮下とされています。
しかし午後2時過ぎの時点でレーデルン旅団はフラヴィニー周辺などに、ブレドウ旅団の竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊は北部ブリュヴィルの南に、と戦場の各地に散っており、騎5師本隊はトロンヴィル森の西側からトロンヴィルの郊外へと移動集合中でした。
このトロンヴィル郊外から、まずバルビー旅団が真北トロンヴィル森の先にある部落、ブリュヴィル方面からの脅威に備え、竜騎兵第13連隊が警戒するトロンヴィル森の北へ出発します。
これでトロンヴィル郊外に残ったのはブレドウ旅団本隊の2個騎兵連隊のみでした。彼らはトロンヴィル北西高地のベルダン街道すぐ南側で集団となり横隊で並び、じっと命令を待っていたのです。
まずは午後2時、フォン・ラインバーベン師団長から「ブレドウ旅団は横隊のままヴィオンヴィル西郊外まで前進せよ」との命令が届きます。この命に従って前進中、今度は第3軍団本営から連絡士官が駆け付け、「偵察のため2個中隊を割いてヴィオンヴィル北方をトロンヴィル森まで前進させよ」との軍団長命令を届けました。ブレドウ少将は現在旅団本隊となっている胸甲騎兵第7「マグデブルク」連隊と槍騎兵第16「アルトマルク」連隊からそれぞれ第3と第1中隊を抽出し任務に充てました。後に襲撃に参加しなかったこの2個中隊は、それぞれの連隊「復活」の核となるのです。
彼らの移動中、第3軍団の危機的状況は如実に現れて来ます。
その危機の焦点はローマ街道からベルダン街道の間、ルゾンヴィル北西に広がる高地にある仏軍、特に増強続く砲兵で、この活発な砲撃により普6師は正に崩壊の危機に瀕していたのです。この砲列を沈黙させねば、普第3軍団の左翼は圧力を強め始めた敵戦列歩兵部隊(仏第6軍団)により蹂躙され、一気にトロンヴィルまで敵が押し寄せることとなりかねません。
C・アルヴェンスレーヴェン中将は自軍団参謀長のユリウス・フォン・フォークツ=レッツ大佐を前進中のブレドウ少将の下に走らせます。第10軍団長の弟で将来を嘱望されていた参謀大佐は、ブレドウ将軍の下に馳せ参じると軍団長命令を一気に伝えました。
「目下のやむを得ない状況により、騎兵部隊は自己犠牲の覚悟を以て、ルゾンヴィル北西高地の仏軍砲兵線に対し、猛烈な突進襲撃を行うこと。この目的成功は困難とはいえ、遅延することなく直ちにこの命令を実行せよ」
ブレドウ少将に駆け寄るフォークツ=レッツ大佐
2個連隊とも襲撃専門の重騎兵とはいえ、わずか6個中隊(本部を入れて800騎程度)の騎兵を以ておよそ2万の敵戦線に突入し、50門程度の砲列を沈黙させろ、というのです。
あのヴルトの戦場で、待ち構える歩兵に突進した仏のミシェル胸甲騎兵旅団と同じ「自殺行為」をブレドウ少将は命じられたのでした。
しかしブレドウ将軍に迷いはありませんでした。命令を受領すると、6個中隊を中隊毎の横隊縦列にして、ちょうど差し掛かっていたヴィオンヴィルの西郊外から左に旋回、ベルダン街道を素早く横切ると敵に発見されにくくするため街道北側の窪地を利用して進みます。
そしてトロンヴィル森の東、ヴィオンヴィルから1キロほど北の低地で右に転回し、今度は小隊毎(1個中隊は4個小隊。但し胸甲第7連隊の第4中隊は1個小隊欠です)の横隊となり、突撃隊形となりました。
その最前列、胸甲騎兵の最左翼に立ったブレドウ少将は、自分に言い聞かせるように部下へ語り掛けました。
「こいつは高く付くが、やるしかないな!("Koste es, was es wolle!")」
そして少将の号令一下、一気に高地へ駆け上がると東へ突撃して行くのです。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・アダルベルト・フォン・ブレドウ将軍は当時56歳。普軍士官の子として生まれ、一家の伝統に従いポツダムの士官学校へ入学します。18歳で卒業後、近衛驃騎兵連隊の軍曹(普軍の新任士官は例外を除き、数ヶ月~一年程度軍曹の位で働きます)から軍歴をスタートし、1849年に騎兵小隊長大尉、56年に少佐として竜騎兵第1連隊を率いると普墺戦争までに驃騎兵第3、竜騎兵第4など騎兵隊長一筋に軍歴を重ねました。
普墺戦争では大佐としてボニン将軍の第1軍団傘下の騎兵予備旅団を率い、トラテナウ、ケーニヒグレーツ戦に参戦、戦後、少将に昇進し第7騎兵旅団を率います。そしてラインバーベン将軍傘下の第12騎兵旅団長として普仏戦争を迎えたのでした。
ブレドウ
この時ブレドウ将軍が率いた2個連隊の指揮官は次の通りです。
トロンヴィル森の東で右旋回したことにより旅団左翼(北)となった胸甲騎兵第7「マグデブルク」連隊は代理指揮官の伯爵マクシミリアン・ベルンハルト・ゴットフリート・カール・フォン・シュメットウ少佐が率いていました。連隊本来の隊長、フォン・ラリッシュ中佐は開戦劈頭に馬の事故により重傷を負い未だ入院中でした。
また、次第に離れて右翼(南側)を行く槍騎兵第16「アルトマルク」連隊の隊長は、開戦時から変わらずベルンハルト・ルートヴィヒ・エドゥアルド・フォン・デア・ドレン少佐でした。
シュメットウ
ブレドウ旅団は味方第24連隊の後退しつつある散兵線を越えると、次第に迫る仏第6軍団の散兵線より至近から猛烈な射撃を浴びせられますが、間隔の開いた横隊で突進する両連隊は一切怯むことなく仏軍の散兵線を突き破ります。
そして目標である仏軍砲兵の砲列に飛び込むや、目の前で右往左往する馬匹や砲手を手当たり次第、胸甲騎兵は剣を閃かし斬り捨て、槍騎兵はその長槍を突き立て、その黒と白のペナントを紅く染めるのでした。
鬼の形相となった普騎兵は、更に進んで第二列目の砲列も蹂躙し、ここでも鬼気迫る普軍騎兵を仏軍は止めることが出来ません。ルゾンヴィル北西高地の頂点近くに布陣した仏第6軍団後列の砲兵は、味方砲兵が次々に斬り捨てられるのを目撃すると慌てて砲の前車を馬に繋ぎ、それに飛び乗ると必死に逃走を図ったのでした。
こうしてブレドウ旅団は仏軍砲兵陣地を恐怖に陥れ蹂躙すると、余勢を駆ってなおも敵を求め東へ突進しました。
仏軍砲兵の展開していた高地の先は、ローマ街道からルゾンヴィル部落に向けて斜面を成す渓谷が横たわっていましたが、勢いの付いた普軍騎兵には涸れた渓谷など障害にはなりませんでした。
これを軽く越えて並進する2個の騎兵連隊は、トロンヴィル森の東からここまで、実に敵中2キロ以上も駆け抜けて来ましたが、遂にこのルゾンヴィル北郊外で強力な敵に補足されてしまうのです。
このブレドウ旅団の突撃より少し前。
この会戦劈頭に砲撃を受け後退したドゥ・フォルト少将率いる予備騎兵師団は、午後早くにはルゾンヴィルの北で再び集合し、突撃の機会を待っていました。フォルト師団長やミュラ旅団長始め師団の将兵は皆、今朝の屈辱を晴らそうとじっと待っていたのです。
フォルト将軍は普ブレドウ騎兵旅団が自軍砲兵を蹂躙するのを見るや、直ちにミュラ准将に命じ、その竜騎兵旅団を普軍騎兵の突撃の正面に、またグラモン准将にはその胸甲騎兵旅団をその左翼(北)に向け突撃するよう命じたのでした。
余談ですが、これにより時折歴史が見せる「ささやかな皮肉」が生じます。グラモン旅団の2個連隊のうちの1個は「仏第7胸甲騎連隊」であり、彼らの突進した先にはシュメットウ少佐率いるマグデブルク胸甲騎兵、正式には「普第7胸甲騎連隊」が向かって来ていたのでした。
グラモン准将は更に仏胸甲第10連隊の2個中隊に命じ、普胸甲騎兵連隊の背後へ迂回させ、背後からも襲撃しようと企てたのです。
同時にルゾンヴィルの北郊外に集合していた第2軍団の騎兵、ヴァラブレーグ少将の騎兵師団も急ぎフォルト将軍騎兵の左翼へ進み出るのでした。
敵騎兵の大群が正面に現れたのを認めたブレドウ将軍は、急ぎラッパ手を傍らに呼び寄せると集合ラッパを吹奏させます。
旅団は既に敵陣深く、味方の前線からは1キロ半は離れたルゾンヴィルの北郊外にまで達していました。馬も人も長躯の疾走で息が上がり、騎手に逆らって動こうとしない馬もあります。この間も銃弾は途切れなく飛び交い、負傷者は増えていました。後続もなく途中で多くが倒れたブレドウ旅団は、この時点で既に員数が激減しており、包囲しようと迫る敵の騎兵は突撃の機会を窺っています。彼らが生き残る道は、再び仏軍の前線を破って西へ突破するしかありません。
ブレドウ将軍は胸甲騎兵と共に、仏第6軍団の前線を突破しようとベルダン街道目指して踵を返しました。後ろから同じ部隊番号を持つ仏グラモン将軍指揮下の胸甲騎兵連隊が突進し追撃を始めました。
その南でも、追いすがるヴァラブレーグ騎兵師団とミュラ竜騎兵旅団の攻撃を、十分の一程度の普槍騎兵が時折格闘戦を行いながら後退していました。
そして再び砲兵と歩兵の戦線を突破し、雨霰と浴びせられる銃砲火をかい潜ってベルダン街道を横断し、両連隊共にフラヴィニーに陣取る味方歩兵の前線後方へ到達しました。
追っていた仏の2個騎兵師団は、怒りと恐怖に見境がなくなった仏戦列歩兵や砲兵たちが、敵味方関係なく騎兵と見るや直ちに撃ち掛けたため、味方前線の先に出るに出られずに追撃を諦め、ただ戦線内に取り残された負傷者や、馬が疲弊し動かなくなったために逃げることが出来なかった普騎兵を捕虜とするのでした。
こうしてブレドウ旅団のおよそ1時間に及ぶ「死の騎行」は終わります。
幸いにも生き残ったブレドウ少将はフラヴィニーの西で2個連隊を検閲しますが、そこに立っていた騎兵たちは驚くほど少なく、無傷な者は更にわずかでした。
襲撃に参加した時に3個中隊だった両連隊は、点呼時点で各連隊に付、未だに戦えるものは僅か1個中隊を編成するに精一杯となっていたのです。
この「ブレドウの突撃」に旅団は6個中隊およそ800騎が参加しました。受けた損害(戦死・負傷・行方不明・捕虜)は以下の通りです。
○胸甲騎兵第7「マグデブルク」連隊
士官7名。下士官兵189名。馬匹209頭。
○槍騎兵第16「アルトマルク」連隊
士官9名。下士官兵174名。馬匹200頭。
槍騎兵連隊長フォン・デア・ドレン少佐は乗馬が敵弾に倒れ捕虜となり、胸甲騎兵連隊の中隊長マイヤー大尉は中隊の先頭にあって戦死を遂げました。また、負傷者の中には普宰相ビスマルクの長男、ヘルベルト・フォン・ビスマルクもいたのです(戦後、父の下で政治家に)。
フォン・デア・ドレン
仏軍の損害は明らかではありませんが、ブレドウ将軍の800騎に対し反撃した2個騎兵師団の陣容は明らかとなっています。
○フォルト(予備第3)騎兵師団
*ミュラ(第1)旅団(竜騎兵第1・第9連隊) 600騎
*グラモン(第2)旅団(胸甲騎兵第7・第10連隊) 800騎
○ヴァラブレーグ騎兵師団(第2軍団騎兵)
*猟騎兵第4連隊 400騎(4個中隊制/第1旅団)
*猟騎兵第5連隊 500騎(5個中隊制/第1旅団)
*バシュリエ(第2)旅団(竜騎兵第7・第12連隊)800騎
このようにブレドウ将軍は、およそ4倍の敵騎兵に追撃されたのでした。
ブレドウ旅団が敵陣に突撃したのを知ったフォン・レーデルン少将は、師団長の許しを得て帰って来る旅団の収容任務を準備し、驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」連隊を直卒すると、帰還するブレドウ旅団を追って来るはずの敵騎兵に備えるためフラヴィニーとヴィオンヴィルの間に布陣しました。しかし、ブレドウ旅団の疲れ切った騎兵たちを介護しながら待つものの、遂に仏軍騎兵は(この時は)現れなかったのです。
ブレドウ将軍の2個騎兵連隊による決死の襲撃は、C・アルヴェンスレーヴェン将軍の意図通りの結果を生み出します。
この突撃により仏軍砲兵の活動は一時的ですが中止され、再び砲撃を開始するまで相当の時間を要することになりました。また、襲撃とほぼ時を同じくして開始された仏第6軍団の攻勢は、文字通り出鼻を挫かれた形となり、以降再開されることはなく、仏第6軍団の行動は、ただルゾンヴィル北西の高地と砲兵陣地を維持するだけとなるのです。これはバゼーヌ大将が命令したもので、それはまるで「窮鼠猫を噛む」に近い騎兵の逆襲を受け、気になる自軍右翼(南)ばかりでなく左翼(西)側からの新たな脅威の可能性に竦んでしまったかのようでした。
この仏軍一時の停滞を利用し、普6師は息を吹き返します。
第20「ブランデンブルク第3」連隊の第1とF大隊はブレドウ旅団の襲撃中、仏軍の射撃が皆騎兵に向いたことでベルダン街道を横切ることが可能となり、再びルゾンヴィル北西の高地の西側の戦線に復帰し、昼前後の戦線より更に斜面を登り前進して、仏軍の砲兵陣地前面からローマ街道に掛けて布陣する仏軍の散兵線と対峙するのです。
その左翼(西)側では第64「ブランデンブルク第8」連隊の一部が、右翼(東)側では第91「オルデンブルク」連隊の第6,7中隊とヒュージリア第35「ブランデンブルク」連隊の混成となった諸中隊がしっかりと戦線を支えたのです。
『ブレドウ・ショック』が去った仏軍側では再び普6師へ圧力を掛け始めましたが、前述通りそれは最早攻勢ではなく積極的な防御姿勢で、戦線突破を目論むものではありませんでした。従って仏軍の行動は緩慢とも言え、ローマ街道沿いの林やトロンヴィル森での行動は消極的で、6師の主力が後退した後でも、その前衛の諸隊(第20、64、91連隊の一部など)は前進陣地を固守し敵を撥ね除けることが出来たのです。
この戦闘が緩慢となったことで、特に損耗の激しかった第64連隊はヴィオンヴィルの西側へ後退することが可能となりました。C・アルヴェンスレーヴェン中将はこの連隊に補給と短い休息を与えると「北方戦線」の予備として手元に留め置くのでした。
午後3時。
ブレドウ旅団の残兵が収容され、第64連隊も戦線から一時退却した頃。ベルダン街道を挟んで南東から北西ローマ街道までの戦線では、両軍ともに歩兵が疲弊したため、この後しばらくは小規模な砲兵だけの戦いとなりました。
しかしそれも束の間、やがて両軍とも応援後続の部隊が戦場に到着し、再び激しい戦いが行われることとなるのです。




