マルス=ラ=トゥールの戦い/バゼーヌの危機と普騎6師の失敗
仏「ライン軍」司令官バゼーヌ大将はこの16日朝9時過ぎ、ヴィオンヴィル付近でミュラ騎兵旅団が砲撃を受けたとの報告を聞くや、グラヴロットの本営から急ぎ前線へ騎行し、戦場で第2軍団長フロッサール中将、そして第6軍団長カンロベル大将ら指揮官と次々に会見してその戦闘部署を追認し、両軍団への援軍を約束、準備に入りました。
これまでのバゼーヌ将軍とは少し違う「早い」動きですが、これは直後にナポレオン3世皇帝がこの地を去ったことと関係がありそうです。
ようやく「うるさい主人」が離れ、自らが信じた戦略を実施出来ると思ったのか、バゼーヌ将軍は矢継ぎ早に命令を発するのでした。
しかしバゼーヌは、皇帝が命じた「急ぎベルダンまで全軍後退」とも、独軍の信じる「バゼーヌの軍はシャロン方面でマクマオンの軍と合流するため、急いでこのロレーヌの森林と田園の続く地帯を突破するだろう」との観測とも違う、「独自の考え」で行動していたのです。
バゼーヌは「独軍は既にベルダンへの道を塞いで待ち構え、仏軍をメッスから切り離し、このロレーヌの高地で包囲殲滅を狙っている」と考え、こうなったからには「メッス要塞をバックボーンにして、まずはポンタ=ムッソン方面から攻め上げて来るであろう独軍本隊と戦い、これに勝利することが第一」と固く信じているように見えるのでした。
この16日の仏軍当初の動きは、この「バゼーヌ戦略」、即ち「メッスから引き離されず」に西側の敵による攻勢を防ぎ切り、グラヴロットからルゾンヴィルのベルダン街道の線を固守、南東から突き上げメッスへの退路を絶とうとするはずの独軍の行動を見逃さぬよう備えることに力点が置かれたのです。
このため、仏第6軍団のル=ヴァッソール・ソルヴァル少将の師団を予備として後置し、ルゾンヴィル南側に広がる森林地帯を警戒させて西側の戦いには参加させず、グラヴロットからは近衛ズアーブ歩兵連隊、近衛騎兵第1旅団、近衛砲兵の数個中隊という「虎の子の精鋭」を前進させ、ベルダン街道とジュレの林(グラヴロットの北西にあった林)を走る渓谷が交差する拠点に陣を構えさせるのです。
バゼーヌは南側のポンタ=ムッソン方面からの独軍「主力」の前進攻撃を恐れ、更にグラヴロット南に広がるオニオンの森に面し、ズアーブ歩兵を前進させた近衛第2(ヨセフ・アレクサンドル・ピカール少将)師団の残り3個連隊を充て、本営である郵便局の傍らに陣地を作らせました。
これでも不安なバゼーヌは、グラヴロットの北で「北ルート」を眼下に四方を見渡せるマルメゾンの高地に、近衛第1(エデュアルド・ジャン・エティエンヌ・デリュー少将)師団を置いたのです。
確かに独軍側は普5,6に騎5,6の歩騎4個師団、計4万程度の戦力でこの会戦を開始し、第2軍団の2個師団と1個旅団、第6軍団の1個師団に1個連隊、そして騎兵が2個師団というおよそ5万の戦力でこの攻撃を受け止め、この日午前中は数的にも地形的にも有利な状況にありましたが、バゼーヌ将軍はヴィオンヴィルが陥落するまでは歩兵の増援を送らず、つまり仏軍はこの時に使用可能だった3個師団を後方に一時温存してしまうのです。
もしバゼーヌがこのタイミングで精鋭の予備、近衛軍団の全力を投入したのなら、戦慣れしたバタイユ師団を破り、ヴィオンヴィルとフラヴィニーを陥れたばかりで一息吐きたいところの普5,6師は、一気に粉砕されてしまった可能性が高いでしょう。仏軍は自ら数的有利を消し去ってしまったのでした。
仏近衛の予備砲兵はルゾンヴィルの南西に展開するため、一時ルゾンヴィル東郊外のベルダン街道の両側に集合しました。その右翼(北)には、午前早くに後退したフォルト騎兵師団が待機し、フォルト師団の左翼後方にはヴァラブレーグ騎兵師団が控えるのでした。
正午を過ぎると、バゼーヌの思惑は一気に崩れ始めます。
西と南からの独軍の「助攻」は案外強力で、仏の3個師団では防ぎ切れぬ状況となって来たのです。
この普軍の攻勢下、カンロベル将軍はルゾンヴィル付近のベルダン街道から「ローマ街道址」まで北へ延伸し出した普軍の行動(普第24連隊など)を見るや、予備として北のサン=マルセルに留めていたティクシエ少将師団の南下を命じ、まずはその内の1個旅団をローマ街道沿いに展開するよう急がせます。
バゼーヌも西側の普軍による活発な動きに次第に不安となったのか、第3及び第4軍団に対し、遅れている部隊の行軍を急がせ、先に進む部隊は第6軍団の右翼側(西から北西)に展開せよ、と命じたのです。
仏軍にとって残念ながら、これもバゼーヌのメッスから「離されまい」とする信念の表れでした。
この状況では、南側の戦場など第2と6軍団に任せておき、第3・4軍団、そして虎の子近衛軍団はさっさと「北ルート」を西進すれば、この後に「南ルート」でマルス=ラ=トゥールへ戻って来る普第10軍団の一部(第19師団。第20師団はティオークールから直接戦場へ)とすれ違う形で西へ進めたかも知れず、少なくとも普軍2個軍団を集合させず、普軍が不利となる両面作戦へ持ち込むことが可能となったかも知れません。
バゼーヌはこの命令を発した後、第2軍団が戦うルゾンヴィルの南郊外へ騎行し、フロッサールが必死で南の森と西の高地へ進もうとするのを観戦したのでした。
このように、普軍の攻勢に対し突破ではなく明らかに守勢を採った仏軍は、数的有利な戦列歩兵を前進させ普軍を一旦は窮地に陥れたものの、各級指揮官が「この敵を破って先へ進撃する」のではなく、この日早朝の前線である「ゴルズ高地西端からマルス=ラ=トゥールにかけての線を回復すること」を目的としたため、その攻撃突破の勢いは元より一時的・限定的であり、普軍が頑強に抵抗するとやがて諦めてしまい、引き下がってしまう結果となったのです。
この「目前の敵を破って先へ進むという意志」の弱さは、敵・普軍の「敵の進撃を許すまじ」という「意志の強さ」と好対象、後から送り込まれた仏軍の増援部隊も統一的・効果的な使われ方をされず、単に押され出された部隊の後方に進んで個別に小部隊単位毎に参戦する、という「逐次投入」に近い戦力配分となってしまうのでした。
普軍がヴィオンヴィルを占領したことにより、普軍砲兵は目前の敵に煩わされることがなくなり、ルゾンヴィル付近まで砲撃の「足」を延ばすことが可能となります。
また後方より前進して逐次参加した普第3軍団の予備砲兵力は、次第にその力を発揮し出したことで、バゼーヌは控えていた予備戦力をも前線に投入する羽目となったのでした。
正午頃の仏軍の様子を以下まとめてみます。
○フェルディナン・オーギュスト・ラパス准将旅団(本来は第5軍団。第2軍団隷属)
仏軍最左翼(南東)で、午前中本隊はジュレの森からサン=タルヌー東側の渓谷にかけて展開し、前衛がサン=タルヌーの林で激闘を繰り広げていました。しかし午後に入るとサン=タルヌー林から追い出されてしまい、旅団は集合してルゾンヴィル南東方の970(m)高地からルゾンヴゥル郊外にかけて再展開しました。
○シャルル・ジャン・ジョリヴェ准将旅団(シャルル・ニコラ・バージ少将師団所属)
午前中はヴィオンヴィル林で戦いましたが、普第48連隊らの猛攻により次第に後退し、親師団長バージ将軍の命により参入した増援のシャルル・レテラー・ヴァラゼ准将旅団を右翼(東)に迎えて再度前進、主に普シュヴェリーン少将の混成部隊と戦い始めます。
○アンリ・ジュール・バタイユ少将師団
仏第2軍団右翼として午前中はゴルズ高地北から北西で戦い、プジェ准将旅団をフラヴィニーからヴィオンヴィルにかけて展開させ、ファヴァー=バストゥル准将旅団は後方第二線となっていました。しかし、プジェ旅団はヴィオンヴィルとフラヴィニーで善戦するも後退を余儀なくされ、ルゾンヴゥルの西郊外まで後退しつつありました。この後バストゥル旅団も前線に繰り出します。
○コリン准将旅団(ドゥ・ヴィリエ少将師団所属)
第6軍団の最右翼(南)としてヴィオンヴィルに進み、プジェ旅団の1個連隊と共に部落を死守しますが押され出し、この正午前に後退し始めます。
○ベッケ・ドゥ・ソネ准将旅団(ドゥ・ヴィリエ少将師団所属)と第9連隊(ビッソン少将師団唯一の戦力)
ヴィオンヴィル北東、ベルダン街道の北からローマ街道までの第一線となり、普6師主に第24連隊と戦っています。
そしてこの日最初の仏軍の悲劇が訪れました。
正午過ぎ、後退し出したプジェ旅団を救うため、バタイユ少将はファヴァー=バストゥル旅団を直卒し、前進し始めますが、たちまち普軍砲兵(主としてヴィオンヴィル墓地の騎砲兵)から猛烈な砲撃を行軍の側面に受けてしまいます。
これによりフヴァー=バストゥル旅団は浮き足立ち、また先頭で行軍指揮を執っていたバタイユ少将も負傷して倒れてしまいました。勇敢で有能な師団長が後送されると旅団は自然に後退し始め、プジェ旅団と共にルゾンヴィル郊外へ下がってしまいます。
この直後のことと思われますが、バタイユ師団の南東側で戦っていた自身の旅団を陣頭指揮していたヴァラゼ准将も砲撃により重傷を負い、後送されてしまうのです。
旅団長負傷によりこの旅団も秩序を失い、次第に後退を始めてしまうのでした。
レテラー・ヴァラゼ
この第2軍団戦線崩壊の危機に際し、バゼーヌとフロッサール両将軍は申し合わせたかのように騎兵を戦線へ投入するのです。
まずバゼーヌはルゾンヴィル郊外に待機中の近衛騎兵第1旅団所属、近衛胸甲騎兵連隊に対し、ヴィオンヴィルから後退する味方を追撃する普軍歩兵を襲撃せよ、と命じます。
ほぼ同時にフロッサールもルゾンヴィルにいた槍騎兵第3連隊(本来第5軍団所属で、「スピシュランの戦い」後の混乱時にラパセ旅団に属しており、第2軍団に臨時に加わっていたものです)に対し、同様の命令を発しました。
当初槍騎兵は2個中隊でこの襲撃を開始し、胸甲騎兵はこの動きを見るとその右翼(南東)後方で、2個中隊毎の梯団2つを並進させ後方に第5中隊を第3梯団となして続行させます。
ところが、先頭を行く槍騎兵は「明確な攻撃目標を与えられなかったため」攻撃を行えず、やがて旋回し戦場から去ってしまいました。
胸甲騎兵の方はさすが仏軍騎兵の頂点に立つ近衛エリート中のエリートであり、ドゥ・プルーユ准将に率いられ駈歩で槍騎兵を追い越し先へ進みました。
しかし、このゴルズ高地上の戦場は既に後退した仏兵が遺棄した行李や馬車荷車、資材で覆われており、このために隊列は乱れて混乱し、胸甲騎兵の「武器」である「団結した梯団」を組むのも難しくなって来ました。ですが、このエリートたちは些かも揺るぎなく命令を実行しようと進んだのです。
仏近衛胸甲騎兵の突撃
この仏軍胸甲騎兵第一回目の襲撃は、普軍の先頭を行く第52連隊第2大隊へ向けられました。この時第2大隊を率いていた臨時大隊長ヒルデブランド大尉は仏軍胸甲騎兵の突進を発見すると第6,7中隊を横隊に並ばせ、兵士全員騎兵の突撃に対し銃を構え、大尉は敵騎兵との距離が180mを切った所で一斉射撃を命じたのです。
効果は覿面でした。仏軍騎兵は多くが傷付き隊型は乱れ、この普軍横列を突き抜けてフラヴィニーの西に出ました。そこにいるはずの普軍第二列は左右に離れて展開しており、仏軍騎兵は普軍第12連隊ほか6師の諸中隊が作り出した、正に十字砲火の中心点へ躍り出てしまうのでした。
結果は悲惨です。仏軍胸甲騎兵の死傷者と馬匹の遺体は広くヴィオンヴィルの東側に散在し、普軍もまた第52連隊第2大隊を率いたヒルデブランド大尉を失ったのです。
仏近衛胸甲連隊はこの襲撃で士官47名中22名、下士官騎兵651名中208名、そして貴重な最上級の戦闘馬243頭を失います。残された騎兵たちは疾走して後退し、連隊は全滅を免れたのでした。
仏軍エリート騎兵の登場に付近の普騎兵も黙っていませんでした。
この時(午後12時40分頃)、騎5師レーデルン旅団の驃騎兵第11、同第17連隊は燃え盛るフラヴィニー部落の郊外にいましたが、第10軍団参謀長のフォン・カプリヴィ中佐も騎兵と共にこの場に居合わせました。この普軍のエリート参謀は早朝、第10軍団に配属されていた騎5師のため軍団の騎砲兵2個中隊を送り届ける役を請け負い、任を果たすとそのまま帰隊せずに「雲行きの怪しい」マルス=ラ=トゥールの前線に留まって、騎5師と6師の戦いを見守っていたのです。
カプリヴィ中佐は煌びやかな敵の胸甲騎兵がこちらへ突撃するのを見るや、傍らで指揮を執っていた驃騎兵第17連隊長フォン・ラウフ中佐を促し、敵を迎え撃つ態勢を急遽取らせたのでした。
そして普軍の十字砲火を浴びて敵騎兵が後退し始めると、ラウフ中佐は自ら現場にいた驃騎兵第17連隊(1個中隊欠)と近衛竜騎兵第2連隊の第2中隊(数個小隊欠)を率いて追撃を始め、これを見た驃騎兵第11連隊長男爵フリードリヒ・カール・エルンスト・フォン・エバー=エバーシュタイン中佐もまた連隊を率いて敵のエリート胸甲騎兵へ突撃したのでした。
普騎兵が追撃を始めた時、ルゾンヴィル方面からフラヴィニーへ通じる街道沿いに仏軍砲兵1個中隊が現れます。これは近衛砲兵の1個中隊(12ポンド砲6門)で、バゼーヌ大将自らフラヴィニーの陥落を見て、戦列歩兵の後退援護のため前進させたものでした。
この砲兵を見つけたラウフ中佐は驃騎兵の一部を右に旋回させ、側面からこの敵砲兵を襲わせるのです。同時にこれを見つけた驃騎兵第11連隊の中隊長フォン・ヴァアースト大尉も正面から中隊を率いてこの襲撃に参加しました。
仏軍エリートの近衛砲兵はこの時砲列を敷き様、第1発目を放ったばかりでしたが、突然の敵驃騎兵襲撃に浮き足立ち、一部砲兵や砲牽引の馬匹は逃げ出し、なんとバゼーヌ大将の護衛騎兵まで逃げ出してしまったのです。
バゼーヌは孤立しあわや戦死か捕虜かという危機に陥りました。が、ヴァラゼ旅団の予備として、近くのルゾンヴィル~フラヴィニー街道とベルダン街道との分岐点で待機していた仏猟兵第3大隊の猟兵たちが駆け付け、軍司令官を救い出すのでした。
迫り来る普騎兵に対しては、この時バゼーヌの護衛兵を出していて面目を失った猟騎兵第4連隊の1個中隊と、数奇な運命で第5軍団から第2軍団へと流れた驃騎兵第5連隊の1個中隊が駆け付けると一度は逃げ出した砲兵を守るのです。既に仏の胸甲騎兵も味方の前線内に逃走し、これを見た普軍騎兵も襲撃を中止し、引き返して行くのでした。
普驃騎兵第11連隊は「墓地」の高地麓に、同第17連隊はフラヴィニーの南西にある窪地に後退、集合します。襲撃の際、彼らは仏近衛砲兵が見捨てた砲車数両を鹵獲しましたが、牽引する馬匹が逃げてしまっていたため、残念ながら敵騎兵迫る中捨て去るしかなかったのです。
バゼーヌ大将の危機
少々遡る午前11時30分頃。
普第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は仏第2軍団が後退し始めるのを確認すると、騎6師本営に伝令士官を出し、ゴルズ高地西側採石場付近の「隠れ家」より出撃させ退却する敵戦列歩兵を追撃させるよう命じました。
しかし、この命令はどうも騎6師団長公爵ヴィルヘルム・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン少将の「不意」を突いたようで、命令が伝わった後もこの師団の動きは遅く、高地へ登り襲撃態勢が整うまでには相当時間が掛かりました。
その間C・アルヴェンスレーヴェン将軍はイライラと待ち続け、そんなこととは知らないバゼーヌ将軍は猶予を与えられたのです。
バゼーヌ将軍は直後に自ら味わったように普軍の西からの進撃が相当強力なことを感じ、「対南からの敵進撃防御用」に取ってあった部隊の西側転用を始めました。
後退する第2軍団をルゾンヴゥル周辺に収容するよう手配すると、グラヴロットの郵便局(既述通り軍本営がありました)にいた近衛第2師団をルゾンヴィルまで進ませ、マルメゾンの高地にいた近衛第1師団をグラヴロットに前進させたのです。
近衛第2師団はバタイユ師団が後退した穴を埋めるためルゾンヴィルの南郊外に展開、その内の戦列歩兵第3連隊はラパセ旅団援護のため前進を続けました。ジョリヴェ旅団はラパセ旅団の隣でがんばっていましたが、その右翼側から普軍に執拗な攻撃を続けられ、この午後早く遂に後退を始めています。
午後1時、普騎6師はようやく高地上に登ります。その陣容は右翼(東)前方にグスタフ・ワルデマー・フォン・ラウフ少将の旅団が進み、この旅団右翼はフォン・ツィーテン大佐の驃騎兵第3「ブランデンブルク」連隊、左翼はカール・ヨハン・フォン・シュミット大佐の驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊です。このシュミット大佐の左後方にディーペンブロイック=グリューター少将の旅団前衛、グスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐が指揮する槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊が続き、グリューター旅団の本隊はこの槍騎兵の後方に続きます。この旅団右翼は伯爵ヘルマン・アルベルト・ツー・リュナー中佐の胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊(1個中隊欠)で、左翼は伯爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴァルター・フォン・デア・グレーベン大佐の槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊(2個中隊欠)でした。
騎6師はこのように右翼前方から左翼後方にかけて斜めの陣形で高地に上がりますが、機会はとっくに去っており、仏軍の後退する歩兵の姿など高地のどこにもありません。
逆に北東側のルゾンヴィル方面には、新たな敵戦列歩兵が横隊で展開するのが見えたのです。
騎6師はギャロップで進み、普5師の砲兵列線を避けて通過し、敵戦列へ突撃するため戦闘展開しようと試みます。しかし広がり過ぎればゴルズ高地の中程と東側にある2つの味方砲兵列線を遮ってしまい、また、この騎兵の集団を見つけた竜騎兵第9連隊や同第12連隊の諸中隊も隊列に加わったため、かなり密集した状態となります。しかもこの集団がヴィオンヴィルの南で高地を進む時、敵将バゼーヌをもう少しで捕虜とするところだったレーデルン旅団の驃騎兵たちが墓地の高地へ戻って来たところで、普騎兵たちはお互いに窮屈な思いですれ違うのでした。
このようにかなり密集した状態となった騎6師の内で攻撃展開可能だったのは一部に留まってしまい、大部分の部隊は行軍縦列のままフラヴィニー~ルゾンヴィル、ビュシエール~ルゾンヴィル両街道の狭い空間を進むこととなります。
この密集した騎兵集団は仏軍砲兵からすれば格好の目標でした。
ルゾンヴィル南方に砲列を敷きゴルズ高地に砲撃を続けていた仏軍砲兵は、騎6師に対し猛烈な砲撃を開始します。
また、仏軍騎兵の前衛となった小部隊は急旋回し回避しましたが、ゴルズ高地から撤退中の戦列歩兵はしばらくの間、少ない高地の遮蔽物や街道の側溝などに隠れ、自分たちを追って迫り来る普騎兵に銃撃を繰り返したのでした。
驃騎兵第3連隊の突撃
この弾雨の中、陣頭指揮中の旅団長ラウフ少将は負傷して後送されてしまい、直ちに驃騎兵第16連隊長のフォン・シュミット大佐が驃騎兵旅団の指揮を代わります。
大佐はこのままの状態で攻撃を敢行しても損害多く利が薄いとして、行軍を中止し小隊毎に旋回し常歩で馬を落ち着かせながら退却、後退しながら隊列を整え、整然と高地上からフラヴィニー西の低地へと待避したのです。
ラウフ旅団の損害は大きく、特に敵に近かった右翼を進んだ驃騎兵第3連隊は大損害を被り、連隊の名誉称号になっている偉大な先祖(フリードリヒ大王が絶大な信頼を寄せた名騎兵隊長)を持つ連隊長のフォン・ツィーテン大佐は戦死を遂げたのです。
ツィーテン大佐
前衛が退却した騎6師の残りグリューター旅団も進撃は叶いませんでした。
シュミット大佐の驃騎兵後方から進んだ槍騎兵第15連隊は、バゼーヌ将軍を救おうと進み出た仏軍騎兵隊と衝突し、その左翼では師団唯一の胸甲騎兵である胸甲騎兵第6連隊がベルダン街道まで突進しようと進み出ますが、両方の連隊共に遮蔽の陰から連続射撃を浴びせる仏軍戦列歩兵のシャスポー銃に妨害されてしまいました。
ここに至って最早前進は叶いません。普騎兵の諸中隊は中隊長の号令一下整然と踵を返し、まるで閲兵時のように正確に泰然として後退行軍に移ったのでした。
また、グレーベン大佐は隙あらば突進しようと構える敵仏軍騎兵に対し、半減していた連隊(2個中隊のみ)で防護態勢を取り、槍を敵方に向けてグリューター旅団がフラヴィニー西方へ撤退するまで威嚇を続け防ぎ切るのでした。
この騎6師午後一番目の攻撃はこうして失敗に終わります。しかし、この「死の騎行」によりゴルズ高地やヴィオンヴィル付近で砲列を敷いていた普軍砲兵隊への銃砲撃が途絶え、結果騎兵の犠牲により砲兵隊が一斉に東へと前進出来たことは彼らの流した血が無駄ではなかった、ということになるのでしょう。
カール・ヨハン・フォン・シュミット




