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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
206/534

マルス=ラ=トゥールの戦い/フラヴィニーの死闘

 普第3軍団と2個騎兵師団は当初、南(騎6師、5師)と西(騎5師、6師)とに分かれ、統制なく師団ごと別個に攻勢を掛けたため、騎5師、騎6師、5師、6師の順に戦闘に順次突入し、騎兵は厚い敵の壁に跳ね返されて退避し、歩兵は多大な犠牲を出しつつ一歩、また一歩と前進しました。

 第3軍団はこの歩兵の粘りと、いつでも当てに出来る強い砲兵の力で仏軍を押し戻し、ゴルズからローマ街道に至るまで、およそ10キロの長さの戦線を作り出すことに成功するのです。


 しかしこの戦線は非常に「薄い」もので、軍団の総力は予備もほとんどない状態で展開し、どこかが突破されればたちまち消えてしまう脆さがあったのです。

 攻撃を歩兵に譲った騎5師団長のラインバーベン将軍は、この戦線の危うさを見ると自ら第3軍団長のC・アルヴェンスレーヴェン中将に「騎5師を使ってくれ」と申し出たのです。

 既述通り騎5師は第10軍団に属しており、フォークツ=レッツ大将の命令に従っています。ラインバーベンは自分の立場を無視して、現実の戦場で麾下部隊を混乱なく活かすため、独断で部隊の指揮権を譲ったのでした。


 C・アルヴェンスレーヴェン将軍は直ちにこれを受け入れて、手始めにバルビーとブレドウ旅団を6師の後方、ヴィオンヴィルとマルス=ラ=トゥールの間にある901高地西斜面に集合させるよう命じます。

 また、元より隷下にある騎6師に対し、5師の前線左翼後方に集合するよう命じるのです。

 この騎兵の移動は出来るだけ隠密に行うよう特に命じられて、各部隊は少ない遮蔽に隠れながら、交戦機会が訪れたなら直ちに馳せ参じられるよう準備を急ぐのでした。


 一方、ローマ街道近くの高地に展開していた仏軍砲兵は、ドゥ・ヴィリエ師団の砲兵第14連隊第5,6,7の3個中隊(4ポンド野砲x18)とティクシエ師団の砲兵第8連隊第5,7,8の3個中隊(4ポンド野砲x18)、合計36門の砲列で、これが本来なら120門の大砲を持つこの軍団が、メッスへ前進させることが出来た全ての砲でした。

 しかし、この砲兵たちはヴィオンヴィルが普軍の手に落ちたと知るとたちまち猛烈な砲撃をヴィオンヴィルとその周辺に向けて行います。これは非常に効果があり普軍兵士たちは、ヴィオンヴィルにしがみついたまま砲撃の餌食になるのではないか、と恐れました。


 砲撃に狙われないためには留まらず前進あるのみ、です。


 ここで6師団長のブッデンブロック将軍は、最後の歩兵予備である第20「ブランデンブルク第3」連隊の第1大隊(3個中隊。第3中隊は既に戦闘中)を前線に呼び寄せるのです。大隊長のスツーケン少佐はこの3個中隊を率いてヴィオンヴィルと南の墓地の間を抜け、第20連隊とフュージリア第35「ブランデンブルク」連隊の諸中隊に合流し、共にドライゼを乱射しながら前進し、敵砲兵の展開する高地へじわじわと近付いて行くのでした。


 この普第11旅団の攻撃と同時に第12旅団の第64「ブランデンブルク第8」連隊も占領したばかりのヴィオンヴィル部落から前進を始めました。

 第1大隊はベルダン街道の両側を、F大隊の大部分はその右翼(南)側を街道に沿って進み、第2大隊は部落の南東角からフラヴィニー北の林に向けて突進します。

 この普軍の前進は、ほぼ3個連隊横一線に近い中隊毎の横隊縦列行軍で、これが仏軍のほぼ倍する戦列歩兵(2個師団相当)が広く長く展開する散兵線に突進したのでした。

 会戦前半のクライマックスとも言えるこの下り、ドイツ帝国の参謀本部が著した公式戦記が実に「名調子」で記述していますので、以下筆者の「想像」を加えて記しましょう。


「この高地上に散開する敵正面に対し行われた攻撃は、たちまち頑強かつ凄惨な戦闘に発展し、普仏両軍一進一退、ついにその乱戦のため双方の統一指揮は消失し、ただ下級指揮官の臨機と各兵卒の勇気とによって戦闘が継続されたのである。

 この間隔を開いた縦隊、横隊は、土地の形状・敵の射線・指揮官の判断によって各所で縦横に入り乱れ、このため各隊は混合し、また離散した各兵卒は仲間を見つけては合同して集団を成し、力の及ぶ限り戦い続けるのであった。

 この凄惨・乱雑極まる戦場の実相を詳細に記載することなど、どのような筆力を以ってしても及ぶところではない。

 かくして普軍は長時間の激戦の果て、ヴィオンヴィルより東へ約750m突進することが出来、遂に難攻不落であったフラヴィニー北の小林の傍らにあった敵の陣地と、その近くの高台を占拠するや仏軍は遂に退却を始め、この時、敵の大砲1門は追撃し肉薄する普軍兵士の手中に帰するのである」  (独・普仏戦争公式戦史より)


 仏軍が遂に後退し始めたのを見た第3軍団参謀長で、あの第10軍団長の弟ユリウス・フォン・フォークツ=レッツ大佐は、騎砲兵の砲列を護衛していた近衛竜騎兵第2連隊の中隊を率いる侯爵ヴィトゲンシュタイン大尉と、驃騎兵第17連隊の中隊を率いるフォン・ハンテルマン中尉に対し「直ちに敵を追撃して貰えないか」と要請するのです。

 両隊長は直ちにこれを受けてそれぞれに中隊を率いて敵(コリン旅団とプジェ旅団)を追いますが、この仏軍は普軍を苦戦に陥れただけあって鍛え上げられており、200騎程度の襲撃では隊列を乱すことなく整然と退却して行くのでした。逆にこの攻撃でヴィトゲンシュタイン侯爵は中隊の三分の二近い70騎を失う羽目となってしまうのです。


 しかしこの仏軍の後退により、それまで数を頼りに仏軍が固守していたフラヴィニーの部落もいよいよ陥落の時を迎えます。

 午前11時30分、ゴルズ高地では普5師の猛反撃が開始され、このフラヴィニー部落の南まで普軍が迫り来ます。先述通りこの部隊は普第10旅団の第52「ブランデンブルク第6」連隊第2大隊と、擲弾兵第12「ブランデンブルク第2」連隊F大隊で、仏軍は西側の普6師部隊だけでなくこの南からの新たな脅威にも対抗するしかなかったのです。


 仏軍の猛烈な銃撃の中、南部の普5師砲兵からも援護射撃を得た5師部隊は、まずF大隊の第10中隊が第11中隊の1個小隊を引き連れて、部落南郊外の散兵壕を越え、更に園庭の塀を乗り越えて部落に侵入しました。しかしここで仏兵たちはシャスポー小銃の一斉射撃で対抗し、侵入した普軍を追い払うことに成功するのです。


 しかし、西側から攻める普軍はヴィオンヴィルの墓地に砲列を敷き、わずか1,000m先の部落に対し猛烈な砲撃を加え始めました。これにより部落には火の手が上がり、その火災は中々鎮火することがありませんでした。

 これを機会と捉えた普第10旅団の7個中隊は一気に部落南へ押し寄せ、撃退された第10中隊も再び前進するのです。この攻撃で部隊は二手に分かれ、右翼(東)部隊は第12連隊第12中隊と第52連隊第6,7中隊の3個中隊で、部落の東へ回り込むため左へ転回し、残りの左翼部隊(第12連隊第9,10,11中隊と第52連隊第5,8中隊)はそのまま部落南へ侵攻するのです。

 この攻撃を以て仏軍は遂に退却を始めました。これを知った第10旅団の右翼隊は部落の東側を通過して更にベルダン街道まで出るため進撃を継続し、部落に侵入した左翼隊もそのまま部落を通過すると、逃げ去った仏軍を追って北上を続けたのでした。


 この第10旅団の2個大隊による攻撃中、部落の南西側からは先述の6師部隊が接近して来ます。

 遡る午前11時、先述通りフュージリア第35「ブランデンブルク」連隊第3大隊(第11中隊欠)はメルヒオール大隊長に率いられフラヴィニーの南西300mの生垣まで前進し、ここから攻撃を開始します。この部隊と並行し同連隊の第3と第6中隊もヴィオンヴィルの墓地から進撃しますが、これらの部隊は激しい銃撃を受け、犠牲を出しつつもじわじわと前進を続けたのです。

 この時、砲撃が部落に火災を発生させ、同時に南と東から普5師の攻撃が始まると、包囲を恐れた仏軍が後退を始め、南西から迫る第35連隊の諸中隊も一気に突撃を始め、西側から部落に突入したのでした。


 これによりフラヴィニーも陥落します。逃げ遅れた多くの仏兵は捕虜となり、第35連隊の第3大隊はそのままフラヴィニーに居残り、他の部隊から離れて残った小部隊共々、会戦中この部落を守ることとなるのです。


 このフラヴィニーの占領で、普6師は東方の強大な仏軍に対し強固な拠点を得ることとなります。この地は午後に掛けて第3軍団による戦線の中心となりました。


 フラヴィニーが陥落した頃。


 普軍戦線の最右翼となるサン=タルヌー林ではフォン・レストック中佐率いる擲弾兵第8「親衛・ブランデンブルク第1」連隊第2とF大隊が激戦の後、林の北端まで仏軍を追いやっていました。しかしここからルゾンヴィルへ北上するには、その前に立ちはだかる仏軍が林の北にある高地に居座っており、簡単に前進することが叶いませんでした。

挿絵(By みてみん)

レストック

 この南側のヴィオンヴィル林にいる第48「ブランデンブルク第5」連隊第1,2大隊、猟兵第3「ブランデンブルク」大隊、第78「オストフリートラント」連隊第5,8中隊の諸隊は前述通り林の西突角まで占領し、そのままルゾンヴィル方面に広がる林の中を戦いながらゆっくりと進んでいました。


 このルゾンヴィル林の西側高地には、普砲兵5個(第3連隊軽砲1,2、重砲1,2、第10連隊軽砲1)中隊が30門の大砲を北から北東に向け、仏第2軍団に対し猛砲撃を続けています。

 この援護を受けるのは、その北で戦う普5師第10旅団のフォン・シュヴェリーン少将がまとめた寄せ集めの諸隊でした。

 整理しますと、第78連隊第6,7中隊、同連隊F大隊、擲弾兵第12連隊第2大隊、第52連隊第1大隊、同連隊F大隊、第48連隊F大隊、第64連隊第6中隊の各歩兵部隊です。部隊数では5個大隊と3/4という旅団クラスですが、ここまでの戦闘で員数が離散・戦傷死で激減している部隊も多く、実数はかなり劣っていました。

 対する仏軍バージ師団はその砲兵3個中隊(12ポンドx12とミトライユーズ6門)に仏第2軍団直轄砲兵(およそ6個中隊・36門の12ポンド砲)を加え、サン=タルヌー林北の高地に強力な砲兵列線を敷いて対抗砲撃を繰り返していました。


 この他、5師の残り2個大隊(第52連隊第2、第12連隊F大隊)は、前述通りフラヴィニーを越えてベルダン街道に向け突き進んでいます。

 ゴルズ高地西側、フラヴィニー川の谷にある採石場上の台地には、野戦砲兵第3連隊の軽砲第6、重砲第3、そして騎砲第1,2,3の5個中隊(30門)が砲列を敷き、ちょうど南の5師と北の6師を連絡する位置を占めており、主に5師による北東とフラヴィニーへの攻撃を援護します。

 この他、ここまでに戦場へ前進した残りの砲兵11個中隊の内訳は以下の通りです。


○ヴィオンヴィル南の墓地高台(5個中隊30門)

・野戦砲兵第3連隊軽砲第3,4中隊(4ポンド砲x12)

・同連隊重砲第4中隊(6ポンド砲x6)

・野戦砲兵第10連隊騎砲第2,3中隊(4ポンド騎砲x12)

○ヴィオンヴィル北西側・ベルダン街道に跨がる高地(6個中隊36門)

・野戦砲兵第3連隊軽砲第5中隊(4ポンド砲x6)

・同連隊重砲第5,6中隊(6ポンド砲x12)

・野戦砲兵第4連隊騎砲第1中隊(騎5師配属/4ポンド騎砲x6)

・野戦砲兵第10連隊重砲第1中隊(6ポンド砲x6)

・同連隊騎砲第1中隊(騎5師配属/4ポンド騎砲x6)


 これらの砲兵中隊は北東~東側の仏軍陣地へ絶え間なく砲撃を続け、普6師の攻撃を大いに助けていました。


 この6師の攻撃は右翼(南)側で成功を収めつつありました。

 ヴィオンヴィルからフォラヴィニーを5師の2個大隊の協力により制圧した6師主力の右翼隊(第35と第64の2個連隊と第20連隊第1とF大隊)は、そのまま午後1時過ぎにはフラヴィニーの東をルゾンヴィルに向け進み始めていました。このベルダン街道南側とゴルズ高地北の仏軍(主にバタイユ師団とヴィリエ師団)は午前中からの激闘に疲れ果て、ルゾンヴィルへと退却し始めていたのです。


 これとは対照的にベルダン街道の北側、ローマ街道までの6師左翼の戦線では、普6師第24「ブランデンブルク第4」連隊と第20連隊第2大隊が薄く長い戦線をどうにか維持しようと死闘を繰り広げていました。


 このようにC・アルヴェンスレーヴェン中将の普第3軍団は正に孤軍奮闘し、戦力的に倍する仏軍戦列歩兵の猛攻を防ぎつつ一部で逆襲に転じていました。

 この第3軍団に2個の騎兵師団、騎5師と騎6師が隷下となっていましたが、この昼過ぎまでの戦況では、騎兵に活躍する機会はありませんでした。


 また、第3軍団の西側で西へ遠ざかる行軍をしていたフォークツ=レッツ大将の第10軍団からは、フォン・リッカー大佐の支隊が5師の隷下ゴルズ北方で戦いますが、その片割れとなる第37旅団の半旅団(歩兵は2個中隊欠の第91連隊に第78連隊第1大隊)も旅団長ペーター・フォン・レーマン大佐が率いて急ぎ戦場のピュキュー方面に現れ、先行していた重砲第1中隊と1個中隊半の竜騎兵に引き続きC・アルヴェンスレーヴェン将軍の隷下となったのです(午前11時45分)。

 このレーマン支隊の到着は左翼隊が苦戦中のことだったので第3軍団本営は大いに喜び、C・アルヴェンスレーヴェン将軍は一時トロンヴィル郊外に部隊を留めると、第91「オルデンブルク」連隊第2大隊のみ前進を続けさせ、この大隊は第24連隊の後方に進むと左翼の貴重な予備隊となるのでした。


 とは言え、仏の2個軍団(それ以上の可能性が大です)と対抗するためには予備が僅か半個の旅団では薄過ぎました。この午後早くの時点で、普軍の2個歩兵師団の後方に残されていたのは2個の騎兵師団だけだったのです。


 この騎兵に目を転じると、まず両歩兵師団所属の騎兵連隊を見てみると、この日正午の時点で、5師の騎兵である竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊はゴルズ高地西の第3軍団騎砲兵の砲列右手後方(南東)に3個中隊があり、残りの1個、第3中隊は遅れて戦場に到着したため、サン=タルヌー林の南端に独り進んでいました。

 6師の騎兵、竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊は3個中隊を同じく騎砲兵砲列の左手後方(北西)に位置し、砲兵護衛となっていました。こちらも1個(第1)中隊をヴィオンヴィル墓地に進ませてその地の砲兵護衛を勤めていました。


 このヴィオンヴィル墓地の高台には近衛竜騎兵第2連隊と驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊から1個中隊ずつがおり、前述の大損害を受けた追撃戦から戻り待機しています。

 フォン・リッカー大佐の支隊に属していた竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊の2個中隊は竜騎兵第12連隊に、残りフォン・レーマン大佐に属した2個中隊は竜騎兵第2連隊にそれぞれ合流しました。


 騎6師はこの時17個中隊の戦力をゴルズ高地採石場の西側に集合させています。所属中隊でここに集合していないのは、槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊の2個中隊(モーゼル川東岸で第一軍とメッス監視任務の引継中)と胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊第4中隊(師団砲兵援護でゴルズ高地の砲兵陣地在)のみとなります。

 騎5師のレーデルン旅団は午前中6師の両翼後方にあり、この正午過ぎに驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」と同第17連隊は5師と6師を連絡する重要な任を受け、ベルダン街道からフラヴィニーへ前進中でした。同旅団の残り、驃騎兵第10「マグデブルク」連隊は同時刻、「スレの一軒家」付近よりトロンヴィル森に向け北上し森の南西側に待機となりました。

 騎5師残りの2個旅団、バルビーとブレドウ旅団はトロンヴィル北西郊外で待機しており、この内竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊のみトロンヴィル森の北端まで進んで北方ブリュヴィルやサン=マルセル方面を警戒監視するのでした。

 

 こうして会戦は第2段階へと進むのです。

挿絵(By みてみん)

小林の戦闘(1870)

マルス=ラ=トゥール戦場地図(北)


挿絵(By みてみん)

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