マルス=ラ=トゥールの戦い/普騎兵阻止さる
8月16日の黎明時。
普第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は、前日夕刻にカール王子が発した軍命令に従い、麾下軍団をサン=ティレール(=アン=ヴォエヴル。ティオークール北西23キロ)方面へ進ませると同時に、前日ラインバーベン将軍麾下の騎兵部隊が自軍団右翼に当たるルゾンヴィル付近で遭遇した仏軍騎兵と、その後方(東)に見えたと言う広大な野営陣地も警戒し偵察しなくてはならないだろうと考えます。
フォークツ=レッツは騎兵第5師団長、フォン・ラインバーベン中将に対し、戦闘も覚悟した強行偵察を行うよう命令し、早速軍団砲兵から騎砲兵2個中隊を師団に派遣するのでした。
この騎砲兵2個中隊は、一時的にフォークツ=レッツ大将麾下となったばかりの近衛竜騎兵第2連隊から第2中隊を派遣して貰い、これを護衛としてまだ暗い黎明時、前線へと急ぎます。これを第10軍団参謀長のゲオルグ・レオ・フォン・カプリヴィ中佐が直卒し、ティオークールを経て午前7時前後に前線南西後方のクソンヴィルへ到着したのでした。
カプリヴィ中佐(後の第二代ドイツ帝国宰相)
強行偵察と言うからには騎兵・砲兵だけでなく歩兵の援護も欲しいところです。
フォークツ=レッツ将軍は、ゴルズ南東4キロ余りのモーゼル河畔、ノヴェアン(=シュル=モセル)まで前進していた第19師団の前衛、フォン・リッカー大佐の支隊(歩兵2個大隊に騎兵2個中隊、砲兵1個中隊)をシャンブレ(=ビュシエール)まで前進させ、ここにティオークールからリッカー大佐の親部隊、第37旅団(レーマン大佐指揮)の残部(第91「オルデンブルク公国」連隊など)を進ませて元の一個旅団に戻し、これを騎兵師団の援護とするのです。
こうしてフォークツ=レッツ将軍は後方の「憂い」を払拭すると、まずは軍命令を遂行するため、自ら第19師団の本隊と近衛竜騎兵旅団を率いてティオークールを発し、サン=ティレールへ向けて前進を始め、代わりにポンタ=ムッソンの護りに就いていた第20師団をティオークールへ前進させるのでした。
この16日、騎兵第5師団の前衛はレーデルン少将の驃騎兵旅団でした。
少将は午前6時にクソンヴィル周辺の野営を引き払うと、ピュキュー高地南の窪地西側に出て前進準備を成します。更に前日砲撃に活躍した師団騎砲兵2個と、カプリヴィ参謀長自らが連れて到着したばかりの第10軍団騎砲兵2個中隊を合同させ、将軍はこの4ポンド騎砲24門を、第10軍団の騎砲兵大隊長ケルベル少佐に指揮させるのでした。
午前8時30分。
レーデルン旅団はトロンヴィルの南方を過ぎ、ヴィオンヴィルの方向へ行軍を開始します。
このレーデルン旅団の左翼(西)後方にはブレドウ騎兵旅団が続きました。
ブレドウ少将はアノンヴィル=シュゼモンを発するとベルダン街道沿いに東進してマルス=ラ=トゥールへ前進し、この部落を経てレーデルン旅団の後方近くに達したのでした。
またラインバーベン将軍麾下残りのバルビー騎兵旅団は、当初は予備としてクソンヴィルを発するとトロンヴィル周辺に至り待機となりました。
この時、レーデルン旅団の前衛は驃騎兵第10「マグデブルク」連隊(1個中隊欠)で、シルマー大尉の騎砲兵中隊を加えて前進し、その後方に距離を置いて右翼に驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」連隊、左翼に驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊が続きました。
このブラウンシュヴァイク驃騎兵連隊からは1個中隊が、街道西のメーズレ(サン=ティレールの北2キロ余り)方面まで敵がいないか偵察に派遣され(この時点では、普側は仏軍主力がマルス=ラ=トゥールより西に進んでいるものと考えていました)、この穴は軍団砲兵を護衛した後、そのまま居残った近衛竜騎兵中隊が埋めたのです。
前衛の驃騎兵第10連隊から発した斥候は、ヴィオンヴィルの西に仏軍騎兵の野営を発見し、この朝遅い時間に炊事の煙が多数見え、敵は未だ休憩の状態、と報告するのです。この斥候驃騎兵は更にトロンヴィルの東まで進みましたが仏軍の斥候や哨兵に出会うことはありませんでした。
ところで、この16日に戦場となったマルス=ラ=トゥール周辺の地勢を少し説明しておきます。
特に激戦地となったルゾンヴィル西の土地は仏行軍の「南ルート・ベルダン街道」で南北に分かれ、このベルダン街道はグラヴロットとイロン川の間に広がる大高原を抜ける主街道でした。
この高原の東から南東側には大きな森林地帯があり、この森東側はモーゼル川に向かって傾斜地となっており、森はその最高地点を覆う形で南北に連続していたのです。
また、断続する雑木林がベルダン街道の北側に平行して走る「ローマ街道」(仏が「ガリア」地方だったローマ帝国時代の街道址。現在のムルト=エ=モセルとモセル両県の県境で直線となっている場所)に沿って存在し、これはこの北側の街道・仏軍の「北ルート」の遮蔽として有効でした。
ベルダン街道(仏軍の南ルート)以南は見通しの開けた「ゴルズ北西高地」で、その形は大きな楕円形となっていました。この高地上には所々に大地の「畝」が低地や窪地を造るのみで遮蔽が少なく、その低地部分にルゾンヴィル、ヴィオンヴィル、フラヴィニー(ヴィオンヴィル東南東1キロ)、マルス=ラ=トゥールなどの集落がありました。
この低地付近には多少深い谷となった箇所があり、この中で大きく長いものは、ルゾンヴィルの東から集落を抜けて南側に走る谷と、フラヴィニー付近から始まって南西に高原を横断しボア・ドゥ・ゴーモン(ゴーモン林)に達した後ゴルズに向かう渓谷(フラヴィニー川からゴルジア川)で、この後者の谷が16日の戦場南限となっていました。
また、遮蔽となる谷は他にもあり、中でもトロンヴィルの高地とその北ブリュヴィル(マルス=ラ=トゥール北東4キロ余り)及びサン=マルセル付近の高地間にある谷は、トロンヴィル付近では緩斜面となってヴィオンヴィル付近でベルダン街道を横切るとその北「ローマ街道」に至り、トロンヴィルの森(トロンヴィル集落の北、ベルダン街道を越えた場所から北に広がる森)北縁に沿って深い渓谷へと変化して、マルス=ラ=トゥールの北でイロン川と平行して走る谷に合流するのです。
普騎兵第5師団の動きに戻りましょう。
シルマー大尉率いる野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊騎砲兵第2中隊は、トロンヴィル部落北東200mほどの標高901(フィート。約275m)高地に登ると、ここに砲列を敷きました。ここからは仏軍のミュラ竜騎兵旅団の野営を見下ろすことが出来、ちょうど馬匹に水を与えるため水源に向かって動き始めた数個騎兵中隊に対し、直ちに砲撃を開始するのでした。
この砲撃中にケルベル少佐率いる残りの騎砲兵2個中隊も到着し、並んで砲列を敷き、レーデルン旅団の騎兵3個連隊は砲兵援護のため、中央トロンヴィル部落に驃騎兵第11、右翼に同第10、左翼に同第17連隊が並んで待機するのでした。
この普軍の榴弾砲撃によりミュラ旅団は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなりますが、それでも1個中隊の騎兵はヴィオンヴィルの北で西進を試み、1個中隊の騎砲兵は同部落の北西角で砲列を敷こうとするのです。
しかし、その他の騎兵たちは狼狽して東への逃走を開始し、やがて取り残されそうになった砲兵や騎兵中隊も撤退するしかなくなるのでした。
これを見たケルベル少佐は騎砲兵を北東方向へ前進させてベルダン街道に出ると、ヴィオンヴィルから400mほど西にあるベルダン街道とトロンヴィルに至る道路との交差点付近にある丘陵に再び砲列を敷き、ルゾンヴィル付近に野営する仏軍に対し砲撃を再開するのでした。
更に南方より普騎兵第6師団の騎砲兵中隊も戦場に到着、直ちにヴィオンヴィル西方の普軍騎砲兵陣地に加わり砲撃を開始するのです。
この時、ルゾンヴィルの仏軍野営地はミュラ旅団の竜騎兵が退却したため大混乱に陥っており、そこに榴弾が雨霰と降り注ぐものですから緊急配備に就こうとした将兵も混乱の渦に巻き込まれてしまうのでした。
しかしその混乱の中でも、厳しい軍律と集団行動を磨かれた仏騎兵のエリート、グラモン准将の胸甲騎兵旅団は秩序を乱さず号令一下一斉に乗馬すると、ヴィオンヴィルに向かって北側を通過し包囲しようと目論んでいる普ブレドウ騎兵旅団の動きを牽制しながら、ベルダン街道と平行して走る「ローマ街道」沿いの森林に向かって北上します。この胸甲騎兵旅団は北へ迂回後再び南下してルゾンヴィル北東の高原に至り、ミュラ竜騎兵旅団と合同するのでした。
仏軍胸甲騎兵
この日の長い戦いの火蓋を切った砲声を聞いた仏第2軍団の将兵は、命令されずとも皆銃を取り、追って前進を叫ぶ士官を先頭に野営を払ってヴィオンヴィル方面へと進みました。このほぼ2個師団に及ぶ仏軍戦列歩兵の前進はヴィオンヴィル西の普軍砲列から良く見え、この大軍を前に普軍騎兵は前進を止めます。
レーデルン旅団の2個驃騎兵連隊(第11と17)は、第10連隊を予備に残すと果敢にフォルト騎兵師団が後退したルゾンヴィル北東の高原に迫りますが、歩兵の増援を得た仏軍騎兵は猛射撃でこれに応じ、普軍騎兵たちはたまらずトロンヴィルの森南縁へ逃げ込んだのでした。
北から迫っていたブレドウ旅団もこの猛射撃を喰らい、後退して同じくトロンヴィルの森に入るとその東端付近の窪地で隊を整えました。またバルビー旅団は、同僚旅団が北から包囲されぬよう、トロンヴィルの森西側へ進み出ると北方を向いて警戒したのです。
この間、ヴィオンヴィル西の普軍騎砲兵たちは引き上げずにがんばり、北東方面から銃砲火を浴びながらも前進し来る仏軍戦列歩兵の大集団へ砲撃を繰り返しました。これを援護する近衛竜騎兵第2中隊と驃騎兵第17連隊第1中隊も陣地に踏み留まりました。そして時刻は午前9時30分となったのです。
普騎兵第6師団は命令によりメッス要塞監視のため、16日早朝もモーゼル東岸に留まっていました。
普第3軍団は前述通り15日午後から夜間にかけて全軍ノヴェアンとシャンペからモーゼル川を渡河しましたが、軍団長のコンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将は、一時配下に置いている騎兵第6師団もモーゼル西岸へ召致しようと考えます。
騎兵第6師団長の公爵ヴィルヘルム・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン少将は午前2時、C・アルヴェンスレーヴェン軍団長からモーゼル渡河の命を受け、午前5時30分、師団はコルニーに残されていた橋梁から対岸へ渡るため野営を引き払い出立しますが、この橋は狭く重量制限も低かったため、騎兵は下馬して1騎ずつ徒歩で渡らねばならず、ようやく渡り終えた頃には辺りはすっかり明るくなって(午前7時)いました。
こうして西岸に渡った騎兵第6師団は午前7時30分、コルニー橋の西端からゴルズに向け出発します。
その先頭はグスタフ・ワルデマー・フォン・ラウフ少将旅団の驃騎兵第3「ブランデンブルク」連隊で、間をおいて驃騎兵16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊、騎砲兵中隊、後尾にディーペンブロイック=グリューター騎兵旅団(胸甲第6、槍騎兵第3連隊)が続きました。ただし槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊の半分に当たる2個中隊は、メッス要塞監視任務を第一軍に引き継ぐまでモーゼル東岸に留まっていました。
師団がゴルズに至ると、この部落を護っていた普歩兵第5師団の哨兵が現況をメクレンブルク公に報告します。それによると、敵はルゾンヴィルの北東高地上に集合し、この高地とゴルズまでの間にある大森林には敵の歩兵部隊がいる、とのことでした。
騎兵第6師団の参謀長フォン・シェーンフェルス少佐は前衛の驃騎兵中隊と共にルゾンヴィルの南側まで急行、現場を確かめると急ぎ戻って師団長に前哨兵の報告は間違っていないと報告するのでした。
そこでメクレンブルク公はゴルズの護りが手薄にならぬよう、歩兵第5師団の前衛がサン=カトリーヌ(ゴルズ東郊外の小部落)付近に集合するのを待ってから、ラウフ旅団を右翼(東)、グリューター旅団を左翼(西)として前進を開始、ラウフ旅団はボア・ドゥ・プレトル(ゴルズ北北西1.5キロの林。「ボア・ドゥ」は「の森/林」の意。以下、「森」または「林」とします)を右に見て森の縁に沿ってフラヴィニーへ向かい、グリューター旅団はビュシエールを経てマルス=ラ=トゥールを目標に向かって西進を始めます。
師団配属の騎砲兵中隊は最初ゴルズの北に陣を敷きましたが、間もなく午前9時、C・アルヴェンスレーヴェン将軍の命令がゴルズの師団本営に届き、「騎兵師団は全てゴルズ北西方の高地に進出せよ」とのことで、砲兵中隊はグリューター旅団を追って前進するのでした。
この騎砲兵中隊は北進して騎兵第5師団の砲兵と一緒になり、グリューター旅団はこの後、ゴーモン林(ゴルズ西北西2.5キロ、ゴルズ~ビュシエール街道北)を経て高地上に出ることとなります。
普軍槍騎兵(1870年のウーラン)
ゴルズ北西高地に進み出たラウフ旅団に対し、仏軍はヴィオンヴィル林(ボア・コミュナルド・ヴィオンヴィル。プレトル林の北に横長に広がる林)から猛烈な射撃を浴びせ、このため開墾地を進んでいたラウフ旅団の騎兵たちは翼側からの銃撃のため戦死・負傷者続出となります。
その上、ルゾンヴィル周辺に野営していた仏軍騎兵には、増援として東方から続々と仏軍戦列歩兵の集団が駆け付け、ラウフ将軍は部下を叱咤激励し前進を強行しますが敵の射撃は恐るべき正確さと集中を見せ、結果、ラウフ少将は全滅を免れるためには後退するしか手がなくなって、旅団は再び高地の南斜面を下り、ゴルズからヴィオンヴィルへ通じる街道の両脇まで後退するのでした。
一方のグリューター旅団はゴルズ北西高地上に躍り出るや、そこにいて後退を始めていた仏軍前哨騎兵を蹴散らし、騎砲兵中隊を前面に押し出すと自部隊右翼(東)に砲列を敷かせ、サン=タルヌー林(ルゾンヴィル南1.5キロ付近に広がっていた林)に沿った場所に設営していた仏軍歩兵の野営を目標に砲撃を開始するのでした。時刻は午前9時15分で、ちょうどヴィオンヴィル西の騎兵第5師団砲兵がルゾンヴィルに対し砲撃を開始したのと偶然にもほぼ同時となったのです。
こうして普第5と第6騎兵師団は偶然にもほぼ同時にルゾンヴィル付近にいた仏軍騎兵部隊と、その東から駆け付けた仏歩兵部隊に対し戦闘を開始し、戦線はゴルズの北からヴィオンヴィルに掛けてゴルズ北西高地の縁に沿って円弧形を描いたのです。
これに対し仏軍は、普軍騎兵の前進をストップさせるべく、ルゾンヴィルを中心に放射線状に攻撃部隊を放つのでした。ミュラ騎兵旅団がルゾンヴィルの東へ後退すると、入れ替わるように仏軍歩兵の大集団が素早く前進して来たのです。
この仏軍の行動を部隊毎に見てみましょう。
仏第2軍団長シャルル・オウガスタ・フロッサール中将は、普騎兵の集団が奇襲的に攻撃を開始するや、矢継ぎ早に次の命令を下します。
○アンリ・ジュール・バタイユ少将師団はビュシエールに向け前進。フラヴィニー及びヴィオンヴィルを占拠せよ。
○シャルル・ニコラ・バージ少将師団はゴルズ高地に向け進撃せよ。
○ラパセ准将旅団(第5軍団所属ですが、スピシュラン戦以降、軍団から離れてしまいました)はバージ師団の左翼(東)で鉤型に連絡し、サン=タルヌー林を越えて前進せよ。
(残るラヴォークペ伯爵少将の師団はメッス要塞の守備に残されています)
また、ルゾンヴィルの街道北側に野営していた第6軍団の司令官カンロベル大将は、麾下部隊を以下のように差配します。
○ビッソン少将師団(動員後集合出来ず、この時点では戦列歩兵第9連隊のみ)とラフォン・ドゥ・ヴィリエ少将師団は、フラヴィニー及びヴィオンヴィルへ前進(第2軍団バタイユ師団と連絡しその後方に付く)。
○ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将師団は予備としてルゾンヴィル東方に進出しサン=タルヌー林に隣接して展開。
○ティクシエ少将師団はサン=マルセルで待機。
この仏軍歩兵部隊の前進により、ヴィオンヴィル西の普騎砲兵砲列も歩兵に続いて前進した仏軍砲兵から対抗砲撃を受け始めました。更にヴィオンヴィル部落に達した仏バタイユ師団歩兵の散兵から、シャスポー銃の射撃を頻繁に受けるようになると、この砲列を指揮したケルベル少佐は、これ以上同所に留まるのは危険と判断し、トロンヴィル東方の低地まで下って待避するよう命じます。
しかし、左翼(街道の北)に展開しベルダン街道のポプラ並木を多少遮蔽物として利用出来たボーデ大尉率いる野戦砲兵第4「マグデブルク」連隊騎砲兵第1中隊は、撤退を拒否して砲戦を続行、押し寄せる仏の大軍に対しわずか6門の小さな4ポンド騎砲で立ち向かうのでした。
しかし、これではとても仏軍の進撃を止めることは出来ず、やがてこの最後の砲兵中隊も仏軍戦列歩兵の急接近によって後退し、続いてブレドウ旅団もトロンヴィルの森東側の窪地から手遅れにならぬ内に撤退を開始、森の西端まで後退するのでした。
ほぼ同時刻、バルビー旅団の右翼にいたレーデルン旅団の驃騎兵第10連隊は、フラヴィニー部落まで前進して来た仏ビッソン師団歩兵の銃火を避けて一軒家の「スレの家」(トロンヴィル部落の南1キロ)まで退却します。グリューター旅団は仏バージ師団の攻撃を諸に受け、ゴーモン林の北端まで攻め立てられ、危ういところで脱出に成功したボーデ大尉の騎砲中隊も、この林北端でグリューター旅団に合流するのでした。
この騎兵第5師団が強大な仏軍2個軍団の歩兵攻撃により後退を余儀なくされた午前10時、弓形になった騎兵による戦線の両端に、待望の普軍増援が登場するのです。
これが普第3軍団の2個師団、歩兵の第5と第6師団でした(以降紛らわしいので騎兵第5と騎兵第6師団は「騎5師」と「騎6師」、歩兵の第5と第6師団は、ただ「5師」と「6師」に略します)。これらの師団はゴルズ及びトロンヴィルを経て「ゴルズ北西高地」両端に出現したもので、そのタイミングは測ったかのように騎5師の後退と一致していたのでした。
この日の早朝、普第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は、仏バゼーヌ軍の位置をこのマルス=ラ=トゥールを通る「ベルダン街道」沿いではなく、「北ルート」や更に北のブリエ(マルス=ラ=トゥールの北北東15キロ)街道沿いにいるものと信じており、このヴィオンヴィルからゴルズ北の高地に押し寄せる部隊は敵の「後衛」であろう、とカール王子ら独第二軍の本営と全く同じ見解でいました。
しかしこの後に発生する凄惨な攻防戦を通じ、C・アルヴェンスレーヴェン将軍も自らの「勘違い」に気付くことになるのです。「敵本軍、正に我正面にあり」と。
16日朝ビュシエール付近でのC・アルヴェンスレーヴェン将軍




