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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
202/534

8月14日~16日朝まで仏バゼーヌ軍の状況

 8月14日午後の「ボルニー=コロンベイの戦い」で独第一軍の前衛に足止めされた仏「バゼーヌ軍」の、14日夜から16日朝に至る動きを以下、簡単に追ってみましょう。


 8月13日夜にバゼーヌ大将から発せられた「ベルダンへの後退命令」は、14日午後のボルニー=コロンベイにおける戦闘で大幅に予定が狂ってしまいました。

 この戦闘後、仏軍は14日の深夜から15日の早朝にかけて仕切り直しの退却行軍を開始します。


 バゼーヌ大将は3本あるメッスからベルダンへ至る主街道のうち、一番北に当たるブリエ(マルス=ラ=トゥールの北北東15キロ)を通過する街道を捨て、グラヴロットから南北二手に分かれ、ムーズ川で再び一緒になる二つの「ベルダン街道」、すなわちドンクール(=レ=コンフラン。マルス=ラ=トゥール北東6キロ)からコンフラン(=アン=ジャルニジー。同北北西7キロ)を通過する街道(以降この章では「北ルート」とします)と、マルス=ラ=トゥールを通る本街道(同じく「南ルート」か「ベルダン街道」と記します)を使うこととしました。

 これは一番北、ブリエを抜ける街道が起伏の激しい地形を縫っていることと、「北方より普軍が2万人侵入した」との流言により、この街道は避難民の列で埋め尽くされており、行軍は困難と見たからでした。バゼーヌや皇帝自身、この噂を信じていた節すらあります。


 行軍予定の遅れによって、既に独第二軍がモーゼル西岸に深く侵入したのでは?と怖れるバゼーヌ将軍は、予備騎兵第1と同第3師団に対し、「南北」二つのルートそれぞれに先行させ、進路の警戒、言わば「露払い」をさせるのでした。

挿絵(By みてみん)


 「南ルート」を行くフォルト少将(予備騎兵第3)師団の後方からは、左翼(南)行軍列として仏第2、近衛軍団が進み、その前衛は15日、グラヴロットからルゾンヴィル(グラヴロット南西3.5キロ)にかけて行軍しました。

 また、「北ルート」のバライユ少将(予備騎兵第1)師団の後方からは、右翼(北)行軍列として仏第3、4、6軍団が続行するはずでした。しかし。


 コロンベイで戦い疲れた仏第3軍団は、15日の行軍到達目標をサン=マルセル(マルス=ラ=トゥール北東5キロ)とドンクールに指定されていましたが、とても及ぶものではなく、前衛に立ったモントードン師団のみが15日午後、ヴェルネヴィル(グラヴロット北3.5キロ)とサン=マルセルの中間付近に進んだのみ、カスタニー少将と交代したネラル少将率いる師団と、エマール少将の師団はようやく15日の深夜半、モントードン師団の後方に到着するのです。残るメトマン少将師団は、未だモーゼル河畔・要塞北部のシャンビエール島で渡河の順番を待っていたのでした。


 コロンベイ戦ではヌイイ方面で反撃に出た仏第4軍団は本来、右翼行軍の先頭とされていましたが、こちらも後退が思うに任せず、前衛のロロンセ伯爵少将師団のみモン=サン=カンタン山麓のレシー(ムーラン=レ=メッス北西2キロ)へと抜け出し、シッセ少将とグルニエ少将の両師団は、モーゼル河畔のヴォワピー(モーゼル西岸のメッス市街北)とドゥヴァン=レ=ポン(同)付近で待機する羽目になりました。これは、モーゼル河畔の高地へ至る道路という道路が輜重縦列によって埋め尽くされ、街道・側道問わず身動きが取れない惨い渋滞に陥っていたから、とされています。


 この輜重縦列の集中行軍による大渋滞の原因については先述しましたが、もう少し詳しく原因を追求すれば、それはバゼーヌ大将の後退計画の「杜撰さ」と、バゼーヌの采配を快く思わなかった各軍団長や参謀長による、ある種の「怠慢」とに集約されるでしょう。


 仏の5個(近衛、第2、3、4、6)軍団と付属諸隊の一斉後退となれば、それは15万名の戦闘員の後退となります。輜重や付属する馬匹飼育関係、医療衛生関係なども含めれば人員だけでも倍の30万以上となるのです。その行軍列ともなれば、複数列の行軍縦隊を組んだ戦闘部隊だけでも、総延長は150km余り、というとんでもない長さとなります。これは後方(輜重・補給)担当参謀ならば新米でも計算出来るものですので、普通なら行軍縦列を分割して長さを抑え、更に出発時間を変え、行軍する街道を分けて到達目標と時間を記した「行軍行程表」を作成し、このタイムスケジュールを厳密に守ることで渋滞を避けるものです。

 今回の仏軍後退では、その日の到達目標はあるものの、厳密な計算に基付いた行程表なるものが存在した形跡はありません(存在していたとしたら、この体たらくとは一体……)。


 バゼーヌはメッス要塞周辺から各軍団をほとんど同時に出発させ、30万のモーゼル渡河をほぼメッス西郊外の橋梁数本に委ね、グラヴロットで南北二本の街道に分かれるまでおよそ6~10キロの行軍路を、ほぼ一本の主街道(現国道D603号線。ムーランからロゼリユ経由)を進むように区処をしたのでした。


 しかし、これはバゼーヌに全て責任を被せるのも気の毒なことで、通常なら指揮官命令の主旨を下級指揮官が実行しやすく、また混乱なく順調に遂行させる責任は参謀部にあるのです。

 仏軍にとって不幸なことに、バゼーヌ軍の参謀長はつい先日(11日)まではル・ブーフ参謀総長の右腕だったジャラス少将でした。

 既に見て来ましたように、ジャラス将軍を皇帝(とル・ブーフ将軍)から押し付けられたと感じたバゼーヌ将軍は新任参謀長を毛嫌いし、後退作戦計画に参画どころか会いもせず、ジャラスはジャラスでそんな独善的なバゼーヌを嫌い、その命令を「改良しよう」などとは決して考えず、軍の混乱を傍観していたのでした。


 この「練られていない」命令を実行する各軍団長もひどいものでした。


 第2軍団長のフロッサール将軍は「スピシュラン」で増援を受けられなかった「恨み」を忘れるはずもなく、コロンベイ戦で瀕死の重傷を負ったドカン将軍に代わり、急遽第3軍団長になったばかりの元参謀総長ル・ブーフ将軍は、バゼーヌに対する部下としての忠誠心など微塵もなく小馬鹿にし、第4軍団長のラドミロー将軍はバゼーヌとほぼ同期の将軍で、ラドミロー自身はナポレオン3世皇帝の「覚えめでたい」将軍であり、彼も同輩の指揮下など真っ平ごめん、という態度でした。

 こんな相互間のお寒い信頼関係では、命令が上手に実行されなかったことなど簡単に想像出来るのです。


 実際、第4軍団のラドミロー将軍は、コロンベイ戦翌日、15日朝にモーゼル川を渡河した際にバゼーヌより「メッス~グラヴロット~ドンクール~ベルダン」との経路を指示されます。しかしラドミローはこの主街道に輜重縦列が溢れているのを見るや、コロンベイ戦に引き続き「独断」でバゼーヌの「捨てた」あのブリエ街道へと軍団を進ませようとしたのです。

 それでも、ラドミローが計画通りドンクールへと急ぎ行軍したのなら歴史が動き、ラドミローの「独断」は普軍並に誉め称えられたのかも知れません(普第二軍より西側へ脱出出来たので)。しかしラドミロー将軍の第4軍団はこの日(15日)モーゼルを渡河しただけで満足し、わずか数キロ動いただけで何故かラドミローは前述通り2個師団をヴォワピー付近、先行した1個師団をレシー付近で留め、野営させてしまったのでした。


 この理由については表向き「輜重が渋滞し道を塞いでいたから待機した」とされていますが、翌16日に軍団挙げてグラヴロット方向ではなく一時ブリエ街道に沿ってサン=プリヴァー(=ラ=モンターニュ。グラヴロット北8キロ)方向へ進み、アマンヴィエ(同北北東6キロ)付近を通過し迂回して午後1時頃ドンクールへ到達していることからも、渋滞が原因ではない気がするのです。

それはやはり、コロンベイの戦いで疲れた軍団に対し、少しでも休ませようという温情だったのでは、若しくは疲労が激しく動けなかったのでは、と勘繰ってしまいます。

 何れにせよ、このラドミロー将軍の奇妙な独断は、せっかく普軍前衛の先方に出るチャンスの扉を開きかけたのですが、自らそれを閉じてしまった(先へ進まなかった)のでした。


 この当時、メッス要塞から少しモーゼルを上流(南)側に行けば、普軍の手が及ばない5本の橋梁、北からロンジュヴィルの橋、モンティニーの鉄道橋、ムーランの橋、アル=シュル=モセルの鉄道橋と道路橋が存在していました。また、モーゼル川西岸にはベルダン街道に至るまで4本の街道(現在の国道D50、D7、D103~D643、D603)が存在しました。

 従って、各軍団が上手に調整し譲り合えば、渋滞も少なくこのモーゼル河畔付近をもっと早くに通過出来たはずでした。


 また、バゼーヌ大将は貴重な輜重を敵の手に渡す危険に晒せなかったのかも知れませんが、ここは物資資材を食糧・馬匹飼料、そして弾薬のみ数日分に限定し、重機材などの残りをメッス要塞に運び込むか行軍を後回しにし、実戦部隊は身軽に先を急げば、果たして普軍カール王子が恐れた「独第二軍を振り切ってのムーズ川渡河」も可能だったのでは、と考えてしまうのです。


 さて、筆者の妄想はここまでとして、コロンベイで参戦しなかった3個軍団の方は?と言えば、カンロベル将軍の第6軍団は戦闘参加のため逆戻りした第4軍団と入れ替わる形となり、北ルートを先行して西へ進み、この15日は前衛師団がサン=マルセルに到着し、本隊はその後方、ルゾンヴィルの北側で野営します。同じく、目の前で友軍が戦っていても超然として動かなかった近衛軍団はグラヴロットで野営、そしてフロッサール第2軍団は南ルートの先頭となりルゾンヴィルの東まで進みました。


 このフロッサール将軍の行動は後々、「仏軍敗退の責任はどこにあったのか?」との問いに対する答えとして多くの戦史家、戦術家に取り上げられていますので以下に取り上げます。


 仏第2軍団は14日午前10時、バゼーヌ軍でも早くにモーゼル渡河を始め、同僚第3と第4軍団がコロンベイ=ヌイイで血を流している間、ムーラン(=レ=メッス)の橋梁を渡ってモーゼル川を無事に越えました。

 しかし、フロッサールはラドミローと同様に、日没まで時間が残っているのにムーランの西、モーゼル川から僅か2キロのロゼリユで野営してしまうのです。

 翌日15日もその「脚」は遅く、グラヴロットを昼前に通過した後、その「露払い」を行っているフォルト騎兵師団がマルス=ラ=トゥールの東で敵騎兵に遭遇すると、その3キロ東側のルゾンヴィルで停止するのです。

 この15日の騎兵戦が生じた時、フロッサール将軍はグラヴロットにいましたが、西側から砲声が聞こえるや軍団騎兵のヴァラブレーグ騎兵師団を直卒してルゾンヴィルまで騎行し、フォルト騎兵師団がマルス=ラ=トゥール東郊外からヴィオンヴィル(マルス=ラ=トゥール東)の東まで後退するのに遭遇したのでした。

 フォルト少将の「予備」騎兵第3師団はバゼーヌ軍本営直轄であり、南ルートの先陣を受けたため一時的にフロッサール将軍の「配下」とされていました。

 しかし後日、仏軍の敗戦責任を問う諮問会議が行われた際フロッサールは、フォルトの騎兵は「バゼーヌ将軍指揮下にあった」と述べ、フォルト将軍は「この時はフロッサール将軍の命を受けており、後退はフロッサール将軍の意を汲んだもの」とそれぞれ釈明するのです。

 この酷い責任転嫁の末、フロッサール将軍は「我が軍勢の前衛に騎兵が存在せず、敵の状況も分からないため」これ以上の前進は危険、としてルゾンヴィル東方に軍団を留めるのでした。


 こうしてフロッサールの第2軍団は、モーゼル河畔で輜重の大渋滞に巻き込まれることなく仏軍の先陣に立ったにも関わらず、2日間で僅か15キロ程度しか前進しなかったのです。

 そしてこの軍団の「露払い」となっていたフォルト騎兵師団と第2軍団の前衛であるヴァラブレーグ騎兵師団とが、ルゾンヴィルからヴィオンヴィルへと進み出た時、北上して来た普ラインバーベン将軍の第5騎兵師団と衝突したのでした。

 フロッサールとフォルトの前に立ちはだかった敵が、僅か騎兵1個師団だったことを思えば、バゼーヌ将軍としてはこの両名に、夕刻とはいえ一気果敢に普軍騎兵を撃ち破って前進して欲しかっただろうに、と同情してしまうのです。

 

 この15日夜、バゼーヌ大将は16日の行軍を定め次の命令を下します。

「各軍団は午前4時に食事を取り、同4時30分を以て後退行の準備を開始、馬匹の用意と同時に野営を撤去せよ。第2と第6軍団はその前途におよそ3万の敵軍が控えている様子なので注意せよ。両軍団はこの敵を撃滅する覚悟で進むこと」

 バゼーヌ将軍は既に普軍に接触されたお陰で、敵普軍の主力がごくごく近くにいることに気が付いていました。そしてこの敵を撃破しないことには先はない、と見て、戦う覚悟を決めたのでした。


 ところでバゼーヌ大将は15日、その本営をグラヴロットの郵便局に置きましたが、ここには一時ナポレオン3世皇帝も身を寄せます。

 これはこの日早朝にモーゼル河畔のムーランで普軍砲撃の洗礼を浴びた皇帝が「逃げ込んだ」からで、翌16日午前、皇帝はグラヴロットを発ち、一足先にシャロンへと向かいました。

 皇帝はその去り際、あまり信頼しているとは言えないバゼーヌ大将に対し、「冒険せず慎重に行動し、蛮勇を戒めて僥倖に頼ることがないよう、そしてこの戦争を見守っている各国を失望させぬように」と訓令し、「性急に物事を図らず誤らず、敗戦を更に重ねぬよう」念を押し、折しも普第3軍団と仏第2軍団が衝突して砲声が西から轟く中、騎兵に守られ出発したのでした。


 16日、仏軍は予定通り午前4時に食事を採った後、行軍準備を始めますが、ここで第3軍団長から「出立を正午まで延期されたい」との申し入れがありました。


 左翼縦列の第2と近衛軍団、そして右翼縦列先頭の第6軍団は準備が整っていつでも行軍可能でしたが、右翼縦列の第3、4軍団は半数近くが輜重の大渋滞に巻き込まれた、との理由で遅れており、未だモーゼル河畔周辺にいました。そこで右翼縦列の最上級古参士官である第3軍団長が、「遅れている部隊が追い付くまで待って欲しい」との意見具申を行ったのでした。

 この第3軍団長こそ、昨日までは皇帝の参謀総長(辞表を保留されている状態でしたが)であったル・ブーフ大将でした。ル・ブーフはドカン将軍重傷の知らせを受けると自ら後任として「降格」したのでした(詳細は後に記します)。


 バゼーヌ将軍としては「部下」になったとは言え、前・参謀総長の意見具申を簡単に捻り潰す訳にはいきません。バゼーヌはこれを了承すると、左翼の突出を防ぐためか、右翼「北ルート」隊が集合を終わるまで左翼「南ルート」諸隊を留め置く方針であることを左翼の2個軍団に知らせます。

 その上で「運命の分かれ目」となった次の命令を発するのです。


「左翼縦列(第2と近衛軍団)は一時行軍出発を中止する。再び野営天幕を張ってもよろしい。午後になれば出発することが出来るであろう」


 これにより第2軍団と近衛軍団に属する諸隊と、この「南ルート」の先陣を行くフォルト予備騎兵第3師団と第2軍団のヴァラブレーグ騎兵師団は16日朝から現在地で休止待機となり、一旦取り込んで収納したテントを張り直し、野営の状態に戻ったのです。


 この時、ミュラ竜騎兵旅団は最前線のヴィオンヴィル付近、ミュラ旅団の後方、ヴィオンヴィルとルゾンヴィルの間には伯爵アントワーヌ・グラモン准将の胸甲騎兵旅団(フォルト師団の片割れ)とヴァラブレーグ騎兵師団があり、ルゾンヴィル部落の直ぐ西側、ベルダン街道の南側にフロッサール中将の第2軍団が、街道北側にはカンロベル大将の第6軍団主力が、それぞれ野営するのでした。この第6軍団の前衛、ティクシエ師団はサン=マルセルで「北ルート」を行く予定のル・ブーフ第3軍団の前衛左翼と連絡を付けていました。近衛軍団はバゼーヌ大将と共にグラヴロットに集合していました。


 この左翼(南ルート)側が「足踏み」をしている間に、右翼(北ルート)でモーゼル河畔に取り残されていた3個師団は必死で遅れを取り戻すべく行軍を始めました。

 各軍団の幕僚、参謀たちは黎明時から奔走してモーゼル西岸河畔付近で停滞する輜重縦列の尻を叩いて前進を促し、交通整理に躍起となって道路、街道を実戦部隊に空けるよう頑張るのでした。

 この未だ混乱と渋滞の最中の午前9時、マルス=ラ=トゥール付近で砲声が轟き渡りました。これは正に普軍騎兵の攻撃開始、凄惨なメッス要塞西側の攻防戦開始を伝えるものとなったのです。

挿絵(By みてみん)

普仏戦争での仏軍戦列歩兵


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