表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
201/534

8月16日・独第一、第二軍の状況

 8月15日午後6時30分。普大本営のモルトケ大将は、翌日の行軍に付き第一並びに第二軍司令官宛、次の命令を発しました。


「第一軍はメッス周辺に残留する敵兵力が判明するまで、第1軍団をクールセル=シュル=ニエ付近に留めよ。第1軍団は間もなくザールルイより前進するルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将の予備第3師団が到着次第、この任務を交代することとする。

 第7と第8軍団は16日、セイユ、モーゼル両河川間でアリー(ポンタ=ムッソン北10キロ。モーゼル東岸)~ポムリュー(ポンタ=ムッソン北東13キロ。モーゼル東岸)の線に到達せよ。両軍団はモーゼル川に架橋し渡河に備えること。ただし、既に第二軍の第3軍団が架橋していた場合は、それを利用し渡河するので架橋の必要はない。

 第二軍は、麾下諸団隊が15日に行った運動を報告せよ。

 今後の計画は大概次のように行うので承知置くこと。

 第1、第7及び第18師団の一部は昨日(14日)夕刻勝利を獲たものの、敵を追撃する状況になく、この勝利を有効活用するには、ただ第二軍がメッスからフレンヌ(=アン=ヴォエヴル。ティオークール=ルニエヴィル北西24キロ)及びエテン(フレンヌ北13キロ。ドンクール~ベルダン街道)を通過してベルダンに通じる二本の街道に向かい、効果ある攻勢を取ることだけにある。これにより、第二軍司令官に託するのは、全力を挙げ独断を以てこの任を遂行することである。

 第三軍(皇太子麾下)の先頭は本日、ナンシー~ドンバル(=シュル=マールト。ナンシー南東12キロ)~バイヨン(リュネヴィル南西17キロ。モーゼル河畔)の線に到達した。その騎兵はトゥール方面及びその南方を偵察中とのことである。

 国王陛下の大本営は、明日(16日)午後5時よりポンタ=ムッソンにあり。  モルトケ」


 ここに登場するクンマー中将の「予備」第3師団とは、開戦時バルト海沿岸の防衛用に動員し、仏によるバルト海侵攻の可能性が薄れた8月当初にマインツへ移動したエルンスト・ヴィルヘルム・モーリッツ・オットー・シュラー・フォン・ゼンデン少将の「後備」第3師団を中核に、マインツ要塞の守備兵連隊2個(第19と第81)と予備騎兵第3旅団(4個連隊)、そして予備砲兵5個中隊に要塞工兵などを加えた大規模後備師団でした。


 この命令は、第二軍の任務を明らかにすることで第一軍に「第二軍を支援・援助する行動」をも明らかにし、「二度と」第一軍が大本営の目的に相反する独断・優柔不断な行動をしないよう釘を差した、とも受け取れる命令ですが、果たしてシュタインメッツ第一軍司令官はどう感じ取ったのでしょうか?


 何れにせよシュタインメッツ大将はこの命令を受けるや、軍命令を15日の午後11時に麾下部隊へ発しています。

 それによれば、

「第8軍団はアリーとロリ(=マルディニー。アリー東南東2キロ)へ向かい、第7軍団はポムリュー付近へ、騎兵第1師団はプイイを経由してフェ(アリー北北東4キロ)へ、第1軍団はクールセル=シュル=ニエを拠点にメッス要塞を警戒し、騎兵第3師団は第1軍団と諸団隊とを連絡するためメクルーヴ~クールセル=シュル=ニエ間に展開せよ」

 と命じています。

 また第一軍本営は、第二軍の第二線軍団の西行のためと、メッス要塞近辺の地理による制限により、行軍に使用可能な街道が限られるため、各部隊は有効に道路を使うことと、輜重は野戦部隊の邪魔にならぬようメッスから遠く離れて行軍することを訓令したのです。

 軍の左翼となる第8軍団は翌朝(16日)午前6時の出発とされ、他の行軍予定もこれに準じて定めることとされました。


 この日(15日)、シュタインメッツ将軍は後置する第1軍団司令官のフォン・マントイフェル大将と、新たに陣営に加わった予備第3師団のフォン・クンマー中将に対し親書を送りました。

 この中でマントイフェル将軍に対しシュタインメッツ将軍は、第1軍団がクールセル=シュル=ニエにてメッス要塞に対し警戒することとされているものの、ほどなくクールセル=シュル=ニエにやって来るクンマー中将と交代するので、モーゼル川を越えて第一軍に続行せよ、と訓令し、15日にザールルイに進出するクンマー将軍と連絡を取り合い、情報交換と交代を円滑に進めることを希望しています。

 また、この2日間連絡のないティオンヴィル攻撃に向かったグナイゼナウ支隊を、クンマー師団や参謀本部の兵站総監部と共に探し、発見したならば便宜を与えて最短経路で本隊であるゲッペン将軍の第8軍団へ向かうよう指示を与えること、第1軍団は今後第一軍との距離が離れ、命令受領と報告のために伝令士官を派遣するのも不可能となって来るので、他の方法(電信)で連絡を欠かさないこと、などを訓令しています。

 クンマー将軍には、一刻も早いマントイフェル軍団との交代を望み、マントイフェル将軍と詳細と情報交換をして欲しいこと、クールセル=シュル=ニエ部落と停車場は今後メッス要塞に対する「包囲」のための一大補給・物資集積基地となるので警備を厳重にすること、などと訓令しています。


 16日朝。第8軍団は予定通り午前6時にアリーへ向けて行軍を開始、第16師団(グナイゼナウ支隊を除く。第32旅団、驃騎兵第9「ライン第2」連隊3個中隊、師団砲兵3個中隊)はシニー(クールセル=シュル=ニエ西南西5キロ)からフルーリー(シニー西南西4キロ)、コワン=レ=キュヴリー(フルーリー西南西2.5キロ)を経てアリーへ向かい、第15師団はリエオン付近(現・ナンシー=メッス=ロレーヌ空港北端付近)からマリウル(アリー東北東3キロ)に向かいました。

 正午頃、第16師団の行軍列はアリーに至りますが、ここで北西方向から砲声が聞こえ始め、師団の先頭を行く驃騎兵第9連隊はモーゼル対岸のゴルズ北方で激しい戦いが行われていることを察知するのです。この時、正に普第3軍団がゴルズとルゾンヴィル間において倍する敵と戦い弾薬も尽きるかという頃合いでした。

 その第5師団からは伝令がモーゼル東岸に渡って到着し、第3軍団の危機を知らせて応援を第16師団に求めたのです。

 アリーに駆け付けた師団長バルネコウ中将は、これをロリ(=マルディニー)に至った第8軍団本営のゲーベン大将に報せるや、直ちに返信があり、「要求に従い独断を以て戦闘に参加すべし」とのことでした。この第16師団のマルス=ラートゥール参戦については後述としましょう。


 第15師団の出発は、深夜発の軍命令が師団本営に到着するのが遅れたため、午前8時と遅い時間になってしまいます。リエオンを発ち午前9時シャリゼ(オルニー南西1キロ)に至ると、ここでヴェルニーを経由してシルニーに向かって前進中の第二軍所属第9軍団行軍列と衝突してしまいました。あわや大混乱となる前に大本営から第9軍団に派遣された参謀が到着しモルトケの命令書を示すと、そこには「第9軍団は第3軍団のアリー付近に仮設した橋梁を使用して成るべく本日中に渡河すること。このために、もし第一軍の部隊と遭遇した場合は第9軍団の行軍が優先する」と書かれていたのです。

 これにより、第15師団は一時シャリゼ付近で停止して、午後1時、第7軍団の前衛がこの地に到着したところでようやく行軍を再開しました。

 この師団は16日夜遅くに目的地のポムリューを経てマリウル付近に至り野営し、前衛をヴゾン(マリウル北西隣500m)、一部をフェ、コアン=レ=キュヴリーに派出しました。その輜重が到着した頃には日付が変わっていたのです。


 第7軍団は午前8時、3つの縦隊列に分かれて出立し、フォン・デア・ゴルツ少将の旧・前衛支隊はメッス側右翼縦列となってジュリーからシニーを経由しヴェルニー付近へ、第13師団の残りは中央縦列で、メクルーヴを経てポムリューへ至り野営しました。軍団の残りは最左翼の縦列となり更に南へ行軍し、ゴワンからセイユ川を渡河して第14師団はシルニーの北(ポムリューのセイユ対岸付近)で野営、前衛をその北のコワン=シュル=セイユへ派出しました。

 この軍団の砲兵隊はセイユ東岸のルヴィニーで野営しました。軍団長フォン・ツァストロウ大将は夕暮れ日没前に、フォン・マンシュタイン大将の第9軍団本営が出立したばかりのシルニーへ入れ替わる形で入り、この日はここに宿営したのでした。


 騎兵第1師団は午前7時、クールセル=シュル=ニエ西郊外の野営地を発し、メクルーヴを過ぎてフルーリーの西でセイユ川を渡ってフェの南方で野営しました。

 この内、槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊は北方のオニー(フェ北北東3.5キロ)からモーゼル河畔のジュイ=オー=アルシュ(フェ北北西3.5キロ)間に前哨を出してメッス要塞方面を警戒しました。更に師団長ハルトマン中将は斥候を要塞方面に派遣し、この斥候は要塞のサン=プリヴァー堡塁(モンティニー=レ=メッス南1.5キロ。当時は単なる土塁です)から射撃されました。しかしその射撃は不揃いで照準も悪く、堡塁にいるのはどうやら護国軍のようでした。ハルトマン将軍の騎兵たちは16日、ここ以外で敵を見ることはありませんでした。


 こうして8月16日に普第1軍団と騎兵第1師団、グナイゼナウ支隊を除く独第一軍はセイユとモーゼル川の間に集合し、モーゼル渡河の準備を急ぎます。フォン・シュタインメッツ大将とその本営は夕刻コワン=シュル=セイユに到着し、この地で宿営するのでした。


 前述通り第1軍団は15日にクールセル=ショシー周辺に集合しますが、16日午前、軍命令に従ってクールセル=シュル=ニエへ南下し、この内歩兵の第1師団は前衛をアル=ラクネイーに出すとラクネイーに留まり、竜騎兵第1「リッタウエン」連隊は軍団の行軍中右翼(西)警戒としてモントワ(=フランヴィル)付近に位置します。

 また、強力な斥候隊をベルクロア交差点付近やボルニー部落周辺に偵察を兼ねて送り出し、2日前の戦場で遺体を収容したり部落で手当を受けていた負傷兵を収容したりしている衛生・担架兵や、前哨の散兵塹壕や拠点、鹿柴(ろくさい。バリケード)を築いている工兵たちを援護しました。

 歩兵の第2師団と軍団砲兵はクールセル=シュル=ニエ周辺で野営に入り、前衛をフロンティニー(クールセル=シュル=ニエ西)に出してストラスブール街道(現国道D955号線)の両側に騎兵の前哨を出して、メッス要塞からの敵の南下を警戒しました。また、グリジーへ騎兵を派遣し、ラクネイーの第1師団と連絡を確保しています。


 騎兵第3師団は、16日の午前中はメッスの北から北西側の前哨線を維持して警戒を続けますが、正午にはヴリを出立して南下、本隊はサント=バルブからコリニー、クールセル=シュル=ニエ、右翼警戒隊はフランヴィルからオジーを抜けてメクルーヴを目指しました。

 師団は午後6時から8時に掛けてメクルーヴに到着し、周辺で野営したのです。この日騎兵第3師団は一切敵に遭遇しませんでした。


 シュタインメッツ将軍がその行方を気にしていたブルノ・フォン・グナイゼナウ少将の支隊は16日夕、クールセル=シュル=ニエに現れ、少将はほっとした軍司令官から命令され、翌17日、アリーに向けて行軍し、モーゼル川を渡河する第一軍部隊に続いて渡河の準備をすることとなるのでした。


 一方、カール王子の独第二軍本営は15日夕刻、前日に大本営から通達された敵の情勢と、第3軍団の騎兵から報告された情報(ただしピュキュー付近での衝突詳報はまだ入っていません)を吟味し、仏軍の情勢について「今、正にムーズ川に向かい急速退却中に違いない」と結論します。


 逃げる敵主力を直ちに追撃するのが第二軍の任務、と心得たカール王子は、「軍主力を以てモーゼルを渡河しムーズ川方面に進む」との主旨を既に大本営に通告(15日午前11時発信)していましたが、大本営からは特に反対する声はなく、これによりカール王子は、後に軍事関係者の間で問題となる16日の行軍命令を発しました(15日午後7時ポンタ=ムッソンより発信)。

 これによる部署と行軍は以下の通りです。


○第3軍団と騎兵第6師団

 ポンタ=ムッソンのモーゼル下流(北)域で渡河し、第3軍団はゴルズを経てヴィオンヴィルとマルス=ラ=トゥールに向かい、騎兵第6師団はパニー(=シュル=モセル。ポンタ=ムッソン北8キロ)からティオークール(=ルニエヴィル)を経て迂回路を取りベルダン街道に向かうこと。

○第10軍団と騎兵第5師団

 未だモーゼル河畔にある麾下部隊を召集し、その後ティオークールからサン=ティレール=アン=ヴォエヴル(ティオークール北西23キロ)及びマヌル(ベルダン街道とポンタ=ムッソン~ティオークール街道の分岐点)まで前進を継続せよ。

○第9軍団

 シルニー(ポムリュー南西1キロ)まで前進し、17日に第3軍団に続いてモーゼル川を渡河しゴルズ方向に前進出来るよう準備せよ。

○第12軍団

 ポンタ=ムッソンへ前進し、前衛をルニエヴィル=アン=アイユ(ポンタ=ムッソン西北西8キロ。現フォレ・ドゥマニヤール・ドゥ・フロン・ドゥ・アイユ)へ、第12「ザクセン王国」騎兵師団をビュクセユ(ビュキシエール=ス=レ=コート南郊外)まで派遣しムーズ川方面を警戒、偵察せよ。

○近衛軍団(騎兵師団除く)

 ベルネクール(ポンタ=ムッソン西南西15キロ)へ前進し、前衛をランブクール(ベルネクール西6キロ)に進めること。

○第4軍団

 セーズレー(デュールアール南南西5キロ)へ進み、前衛はトゥール要塞方面警戒としてジャイヨン(トゥール北東10キロ)へ派出せよ。

○第2軍団

 前衛はビュシー(メクルーヴ南、ストラスブール街道の西)まで行軍、本隊はこれに続け。

○各軍団所属の騎兵

 騎兵は軍本営直接の命令に応じられるようにして、西方ムーズ川に向かう諸街道及びデュー(=シュル=ムーズ。ベルダンの南10キロ)からコメルシー(ナンシー西北西41キロ)に至るムーズ川渡河点を偵察・監視するよう心掛けよ。

挿絵(By みてみん)

ノヴェアン付近でモーゼルを渡河する普第3軍団の第5師団。

カール王子の命令以前に渡河を終えていました。


 この命令は第二軍本営が独自の判断で出したものです。つまりカール王子とその参謀長フォン・スティール将軍は、メッスから西へモーゼル川を渡河して後退した「バゼーヌ軍」は「既に前衛がムーズ川付近まで後退しているだろう」と考え、自軍の捜索と「追撃」目標をムーズ川に置いたのです。

 逆に、モーゼル川の河畔では「もう敵と出会う可能性は低いだろう」と考え、独軍の迅速な組織・行軍力を頼りに後方を省みず、一気果敢に西へと突き進もうとするのでした。


 この命令が発せられた15日の日没時では、未だ騎兵第5師団がこの15日に遭遇した仏軍騎兵部隊との戦闘の詳細な報告はカール王子の下に届いていません。

 しかし、仮にラインバーベン将軍の戦闘報告や、将軍麾下の師団騎兵斥候報告をカール王子やスティール参謀長が読んでいたとしても、第二軍の16日における行動方針が変わったとも思われません。

 何故なら、普騎兵第5師団は15日、確かに仏軍の騎兵と衝突しましたが、その敵騎兵の後方(東側や北側)へ進んだ斥候は僅かであり、その報告も「兵員2万ほどの野営を望見した」(ルゾンヴィルへ挺身したフォン・コッツェ大尉中隊)とか「ジャルニー付近で敵騎兵1個師団と遭遇した」(ブレドウ旅団の槍騎兵中隊)と言うような「どうとでも解釈可能な」報告だったからです。

 カール王子始め第二軍本営の参謀たちは、これら仏軍の「前衛」と接触したとの情報に接しても「それは後衛であろう」と判断してしまうのでした。


 このように、すっかり仏軍の「逃げ足」をプラス方向に見誤った第二軍本営ですが、命令発令後の15日午後10時30分にポンタ=ムッソンへ到着した大本営の訓令(冒頭に記しました午後6時半発令の命令)を受けても、意見を変えたり命令を変更したりする必要性を感じることはありませんでした。


 普大本営は冒頭の通りこの命令の中で、「仏軍行軍列を先回りして攻撃するため」ベルダン街道に向かい進撃(つまりは西進ではなく北上)し、街道を抑えることで仏軍を(追撃ではなく)「迎撃すること」としていましたが、カール王子と幕僚は、街道への「北上」について「既に敵主力はその先(西または北西)へ向かっているはずであり、2個(第3、10)軍団と2個騎兵(第5、6)師団がその任(敵の追撃か後衛との戦闘)に当たるのだから十分であろう」と考え、残り3個(第4、近衛、第12)軍団の西進に期待し、敵「後衛」に当たる部隊のこれ以上の追加などは考えなかったのです。


 8月16日の朝。独第二軍の諸部隊は以上の命令により一斉に動き始めます。昼前には第3軍団より「敵と接触し現在戦闘中」との報告が届きますが、それでもカール王子は命令を変更することはありませんでした。

挿絵(By みてみん)

1870年の独軍歩兵。

左から、バイエルン王国歩兵、プロシア軍(北ドイツ連邦)歩兵、プロシア近衛兵(フュージリア連隊)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ