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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
200/534

独第一、二軍8月15日の行軍(後)

 8月15日。独第二軍所属の騎兵部隊はメッス要塞近辺からモーゼル川西岸地区の広い範囲で偵察活動に従事します。


 騎兵第6師団は主にメッス要塞に対する監視警戒任務を続け、セイユ川河畔で要塞都市の南郊外から外郭周辺を重点的に捜索しました。また、右翼(東)で第9軍団配下の第25「ヘッセン大公国」騎兵旅団と連絡を付け、「包囲網」に穴の無いよう努めています。


 この日騎兵第6師団所属の胸甲騎兵第6「ブランデンブルク/ロシア皇帝ニコライ1世」連隊所属のフォン・ヘスベルク少佐は連隊の3個中隊に師団砲兵の野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊騎砲兵第2中隊から1個小隊(2門)を付け、セイユ川東岸をサブロン(メッス市内。現・線路を挟んでモンティニー=レ=メッス東側の地区)の北側市街地まで捜索しますが仏軍を発見出来ませんでした。しかしその途上には仏軍の野営跡が広がっており、所々には構築中に放棄された堡塁や散兵塹壕なども発見され、周囲には仏軍の脱走兵が隠れており、発見された兵士たちは拘束され捕虜にされました。

 また、独軍が仏領に侵攻以来これまでもそうであったように、部落に居残った住民の中には反抗するものも多くいて、数ヶ所で銃撃も受けたのです(私服で戦う者は当時も今もゲリラやスパイと見なされ、厳しく処断され処刑されても文句は言えません)。


 槍騎兵第3「ブランデンブルク第1/ロシア皇帝」連隊長、伯爵フォン・デア・グリューベン大佐は自身連隊の2個中隊とヘスベルク少佐から借りた胸甲騎兵第6連隊の1個中隊、そして師団騎砲兵1個小隊(2門)を率いてセイユ川西岸を北上し、フレスカティ(メッス南西郊外。モンティニー=レ=メッス南西2.5キロ)の領主城館に至り、ここから斥候をモンティニー(=レ=メッス)まで出しますが、モンティニーのメッス城外市街地には仏軍の姿はなく、その周辺に野営跡と放棄された工事中の防御施設多数を発見するのでした。

 また、モンティニーの鉄道停車場には多くの糧食が梱包されたまま積み上げられて放棄されており、ここメッス南西郊外からも仏軍が完全に撤退したことが確認されたのです。グリューベン大佐の騎兵たちは貴重な食料の梱包を破って取り出すと、可能な限り馬に乗せて運び去ったのでした。


 これらセイユ川を北上した諸隊は、この日黎明から続く濃霧のため困難な偵察活動となっており、メッス要塞とその分派堡塁に敵がいるのかどうかまでは確認が取れませんでした。

 しかし、グリューベン隊がブラダン(モンティニー南1キロ)に来ると、モーゼル対岸(西岸)のムーラン(=レ=メッス)と東岸ロンジュヴィル(=レ=メッス)の間には仏軍野営があるとの斥候報告があり、大佐は急ぎモーゼル川岸まで騎行し濃霧の向こうを仰ぎ見れば確かに敵の一大野営が望見されるのです。仏軍は未だ就寝中のようで、大佐は直ちに騎砲兵2門を呼び、高台に砲を設置させて榴弾を数発野営に撃ち込ませました。途端に仏軍野営地は大騒ぎとなって、慌てて砲兵中隊がグリューベン隊に向け砲撃を開始、また東側の要塞クール分派堡塁も目が覚めたのか砲撃を繰り返し始めますが、砲弾は届くこと無くあらぬ方へ飛去り、グリューベン大佐は満足して帰路に就いたのでした。

 実はこの時の普騎砲兵の一弾は野営中の士官用天幕の一つを直撃し、士官数名を殺傷しましたが、なんとナポレオン3世とル・ブーフ大将とその参謀幕僚もその野営で就寝中、慌てて目覚めた皇帝は、幕僚たちと脱兎のごとく出立し西へと去ったのでした。

 

 この日普騎兵第6師団本隊は、第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将の命により、正午に野営を発し、先行する第3軍団に続いてモーゼルを渡河しようとしますが、その直前となって渡河中止、待機を命じられ、セイユ河畔ポムリュー(オルニー南西6キロ)からコワン(=シュル=セイユ。セイユ西岸ポムリュー北北西2キロ)に野営するのでした。

 グリューベン大佐の残した槍騎兵第3連隊の残り2個中隊はセイユ川の下流、メッス郊外とモーゼル川の中間に前哨警戒線を敷き、ここから発した斥候たちは日没までムーラン(=レ=メッス)からモンティニーまでの監視を続けますが、一切敵に出会わず妨害もありませんでした。また、一斥候はモーゼル川の岸辺から西岸を西及び南西方向へ去って行く仏軍部隊の行軍を観察し報告するのでした。


 そのモーゼル西岸ではこの15日、普第10軍団とその配下、騎兵第5師団が西へ退却する仏軍の先鋒と接触するのです。


 普第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ大将は、カール王子からの命令が届く以前の黎明時、既に独断でその命令とそっくり同じ主旨で軍団命令を発しています。

 これによりポンタ=ムッソンの西から北郊外に展開する第19師団は午前4時から戦闘警戒に入りました。これは未だ貧弱な急造の防護工事しか行えない、この貴重な橋頭堡を守るための施策です。第20師団の方はその後方、市街地からモーゼル東岸にかけて守備に就きました。

 しかし、夜が明けても仏軍が現れなかったため、フォークツ=レッツ将軍は第19師団の前衛、ヴェーデル少将の第38旅団を西から北西に展開する騎兵第5師団の後援として出立させ、ティオークール(=ルニエヴィル)に向かわせます。

 また、モーゼル河畔のヴァンディエール(ポンタ=ムッソン北6キロ)付近にいた第78「オストフリースラント」連隊長、男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ロタール・フォン・リッカー大佐が率いる前衛支隊(第78連隊の2個大隊に竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊の2個中隊、そして野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊から軽砲1個中隊)を北上させて、同僚第3軍団がこの日夕に渡河するノヴェアン(=シュル=モセル。ヴァンディエールの北)に進出させ、同隊所属のフォン・スチュドニッツ少佐は竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊の2個中隊を率い、ノヴェアンから一気にヴォー(モンティニー=レ=メッスのモーゼル対岸)まで前進し、日が暮れるまでこの敵地でムーラン(=レ=メッス)周辺のモーゼル河畔から、仏軍の大軍がベルダン街道に進んで退却するのを監視させようとしたのでした。


 第37旅団を主幹とする第19師団の本隊と軍団砲兵の騎砲兵中隊2個は、師団前衛の第38旅団に続いてティオークールに進み、第20師団と軍団砲兵本隊はポンタ=ムッソンで一日待機となりました。この時間を利用して架橋縦列と工兵はアトン(ポンタ=ムッソン南東3キロ)にてモーゼル川に第2の仮設橋を渡したのでした。


 騎兵第5師団は早朝カール王子より、後退する仏軍前衛の先廻りをするためにティオークール~ベルダン街道(現国道D904号線)を北西に進み、フレンヌ=アン=ヴォエヴル(ティオークール北西23キロ)付近でベルダン街道に至ったのなら仏軍の一大行軍列が現れていないことを確認し、その後はベルダン街道をメッス方面(東)へと戻って仏軍の前衛を捜索し、同時に北方より現れるであろう第一軍騎兵(騎兵第3師団)と連絡を付けるよう命令されます。

 この命令を受け、騎兵第5師団長フォン・ラインバーベン中将はレーデルン少将旅団に対し、現野営地のブネ(=アン=ヴォエヴル。ティオークール北西3キロ)に1個連隊を残留し、残り本隊はブネからラショセ(ブネの北8キロ)へ直行し、ここを拠点に偵察支隊をいくつかベルダン街道に派遣、もし敵の行軍列を発見したら妨害するよう命じます。

 また、ラインバーベン将軍はティオークールで宿営するバルビー旅団に、胸甲騎兵第4連隊をドマルタン(=ラ=ショセ。ティオークール北6キロ)へ進出させ、レーデルン旅団の右翼を援護するよう命令、前日14日にポンタ=ムッソンへ到着したブレドウ少将旅団には、ティオークールまで前進するよう命じるのでした。

 これで、ティオークールにはブレドウ騎兵旅団に近衛竜騎兵旅団が入り、バルビー旅団の残部も北上することが決まるのです。


 ヘルマン・フォン・レーデルン少将はブネに残す連隊を驃騎兵第10「マグデブルク」連隊(3個中隊。1個中隊をナンシーへ派遣中)とし、旅団残りの驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊と驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」連隊の半分・第2、3中隊(もう半分の第1、4中隊はフォン・フェルスト大尉が率いてシャンブレ=ビュシエール/ティオークールの北10キロにいます)6個中隊、そして野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊騎砲兵第2中隊を率いて午前4時、濃霧に閉ざされて視界が150mとない状態でブネを出立しました。

 それでも予定通りラショセに到着したレーデルン少将は、驃騎兵第17連隊の1個中隊を北方のベルダン街道沿いラテュール=アン=ヴォエヴル(ラショセ北5キロ強)へ、驃騎兵第11連隊の1個中隊をスポンヴィル(ラショセ北北西4キロ)から北東へマルス=ラ=トゥール(ラショセ北西7.5キロ)方面へ送り出し、ベルダン街道沿道を偵察させました。

 結果、両方の中隊からは午前8時30分「街道に敵を見ることなし」との一次報告がありましたが、時を同じくしてこの前哨部隊は北東方面から銃撃を受けるのです。

 レーデルン旅団残りの4個中隊は直ちにマルス=ラ=トゥール方向へ前進しますが、そこに前哨から更なる伝令が来て「仏軍の強力な騎兵集団がこちらに前進中」と報告したのでした。

 

 この仏軍騎兵集団とは仏予備騎兵第3師団(2個旅団/4個連隊)でドゥ・フォルト少将が指揮していました。フォルト将軍はこの日早朝騎砲兵2個中隊と共にマルス=ラ=トゥール部落西方まで捜索しつつ前進せよとの命を受けて進んで来たのでした。


 レーデルン将軍配下の驃騎兵第11連隊の残り半分・第1、4中隊を率いて(シャンブレ=)ビュシエールで野営したフォン・フェルスト大尉は、この15日早朝再びメッスに向かって偵察を行おうと北東へ騎行しますが、ルゾンヴィル(ビュシエール北東8キロ)の東でこの仏フォルト騎兵師団に遭遇、敵の不意を突いて仏軍竜騎兵9名を捕虜にして敵の混乱の中うまく脱出します。普レーデルン将軍の前衛2個騎兵中隊が銃撃を受けたのはこの「余波」でした。

 怒ったフォルト将軍はミュラ准将の竜騎兵旅団(2個連隊)を追撃に向かわせます。

 

 大胆不敵なフェルスト大尉は、追撃を受けながらもヴィオンヴィル(マルス=ラ=トゥールの東4キロ)とトロンヴィル(マルス=ラ=トゥールの南東2.5キロ)で馬匹の食餌を徴発しつつ南西に退却し、シャンブレ=ビュシエールでドマルタンから北上して来た胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊(同じ師団バルビー旅団所属です)の1個中隊と出会い、合同して追跡して来た有力な敵の騎兵を監視するのです。ちょうどラショセ方面からレーデルン旅団の2個中隊が偵察にやって来たお蔭で、敵騎兵本隊はマルス=ラ=トゥール南方から南東にかけて留まり、布陣した様子でした。


 この少し前、レーデルン少将率いる4個騎兵中隊がクソンヴィル(ラショセ北東3キロ)に達すると、霧の晴れた北東のピュキュー(クソンヴィルから3.5キロ)付近の高地上に仏軍騎兵およそ2個連隊(ミュラ旅団)が行軍するのが見えました。直ちに騎砲兵がクソンヴィル北東郊外に砲列を敷き砲撃を開始しますが、目標とされた仏軍騎兵旅団は見る間に北方へと退却してしまうのです。

 仏ミュラ准将は砲撃を受けると敵の規模が不明なため、一旦マルス=ラ=トゥールに留まった師団本隊へと撤退したのでした。


 このミュラという名前にピンと来た方はナポレオン通と思われますが、お察し通りこのミュラ准将はフルネームが、ジョアシャン(ヨアヒム)・ジョセフ・ナポレオン・ミュラ(第4代ミュラ王子)、あのナポレオン1世の名騎兵指揮官でナポリ王のジョアシャン・ミュラ=ジョルディの孫です(この当時36歳)。因みにこのミュラ元帥の従妹はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家に嫁ぎ、その孫が今回普仏戦争の原因となったレオポルト候です。


挿絵(By みてみん)

ジョアシャン・ミュラ4世


 レーデルン少将は急ぎピュキュー高地まで騎行して、この視界の開けた高地から北を見やれば、マルス=ラ=トゥール南方郊外の低地に仏軍騎兵千数百騎が見え、幾分かは停止し、1個連隊程度が更に後退する様子を見せていました。また、マルス=ラ=トゥールの南600mには砲兵2個中隊が配置に付くのが見え、少将を追って進んだ騎砲兵第2中隊長シルマー大尉はピュキュー高地に再び砲列を敷き、行軍中の敵騎兵の隊列に向け砲撃を開始しました。するとこの騎兵連隊はマルス=ラ=トゥール部落の北へと逃走し、部落南の仏軍砲兵が応射を始め、シルマー大尉がこれに応じると一時間に渡り砲戦が続いたのです。

 しかし、数の上で劣る普軍砲兵に負傷者が出、砲戦を続けても敵の砲火が変わらないことがはっきりすると、レーデルン将軍は1キロほど南西の窪地に部隊を後退させましたが、仏軍砲兵はこれに対しわずか数発の榴弾を発しただけで、その後一部はメッス要塞方向へ退却するのでした。


 この後、レーデルン将軍がピュキューまで進出し砲戦が終了した頃(午前11時前後)に胸甲騎兵第4連隊残りの3個中隊もドマルタンからピュキュー付近まで北上、また、ブネからはレーデルン将軍が留め置いた驃騎兵第10連隊の3個中隊も砲声を聞き付けてこの地に到着しています。レーデルン将軍は戻って来たフェルスト大尉の2個中隊と驃騎兵第10連隊の3個中隊を迎えて合計11個中隊・ほぼ旅団全力を掌握するのでした。

 また、胸甲騎兵第4連隊が右翼ピュキューの南にあり、これが敵のいる東側の援護となったため再度旅団を北上させてベルダン街道を西へ退却中のはずの仏軍を妨害することを決し、北上を開始しました。前衛となった驃騎兵第10連隊の先兵がマルス=ラ=トゥールの南西高地に達すると、部落より仏軍騎兵2個中隊が進み出て猛烈な銃撃を加えて来ました。レーデルン将軍は、概ねマルス=ラ=トゥールの東側に布陣する敵騎兵集団に対し騎砲兵による砲撃を行おうとシルマー大尉に再び砲列を敷かせますが、ちょうどこの時師団長ラインバーベン中将が到着し、これ以上の前進は敵が優勢につき効果なし、として無駄な攻撃を中止させるのでした。


 このレーデルン旅団の一連の攻撃中、バルビー旅団残りの2個(槍騎兵第13、竜騎兵第19)連隊も砲撃を聞き付けてピュキューへ集合し、またブレドウ旅団(3個騎兵連隊)も前進してクソンヴィル付近にやって来ました。

 これでこの15日午後2時時点でマルス=ラ=トゥールの南方には、独軍騎兵34個中隊と騎砲兵2個中隊(騎兵第5師団・2個中隊欠)が展開したのです。

 この日、レーデルン旅団はクソンヴィル周辺、バルビー旅団はピュキュー周辺でそれぞれ野営、ブレドウ旅団はマルス=ラ=トゥールの西でベルダン街道まで進み、アノンヴィル=シュゼモン(マルス=ラ=トゥール西3.5キロ。イロン川河畔)付近で街道を塞ぐ形で布陣・野営しました。


 対する仏軍はマルス=ラ=トゥールの東側郊外にフォルト騎兵師団が、その後方(東)からフロッサール中将の第2軍団配下のドゥ・ヴァラブレーグ少将(スピシュラン戦後に昇進、マルミエ将軍と交代)騎兵師団(2個旅団/4個連隊)が砲声を聞き付けて前進して来ましたが、フォルト騎兵師団から1個連隊が砲撃を受けて更に東のヴィオンヴィルまで後退したため、ヴィオンヴィル東郊外で停止、展開しました。最終的にフォルト騎兵師団もヴァラブレーグ騎兵師団と並列してヴィオンヴィルの東郊外に後退し布陣、野営するのでした。


 この午後、ブレドウ旅団からは槍騎兵第16連隊から1個中隊が北へ派遣され、命令された第一軍騎兵部隊との連絡任務に向かいますが、先述通り第一軍騎兵はこの日モーゼル西岸には進出出来ずにいて、出会うことはありませんでした。

 この騎兵中隊はジャルニー(マルス=ラ=トゥール北6キロ)付近でグラヴロット~コンフラン~ベルダン街道(現国道D603号線)に達した時、仏軍歩兵1個大隊に支援された伯爵フランソワ・シャルル・ドゥ・バライユ少将の仏予備騎兵第1師団に遭遇してしまいます。バライユ少将はこのベルダンへの北方ルートの先陣として前日14日メッスを発ったのでした。幸いにも普軍槍騎兵は早くに敵の大部隊を発見し、ここでは事無く撤退しますが、マルス=ラ=トゥール付近でバライユ将軍麾下のアフリカ猟騎兵の待ち伏せに合い、数名の負傷者を出してしまいました。


 仏軍はこの日、幾度も普第5騎兵師団の前哨線に斥候を出し、幾度も襲撃を加えました。ラインバーベン将軍は哨戒として数個騎兵中隊を巡回させ、この仏軍「騒擾」部隊を撃退するのでした。

 バルビー旅団の野営したピュキューは仏軍前哨線からかなり近い距離(およそ1キロ)だったので絶えずシャスポー騎兵銃の遠距離射撃を受け、逆にドライゼの騎銃では敵まで届かないため、バルビー少将は部隊を敵小銃の射程外まで南へ下げたのです。


 レーデルン旅団の驃騎兵第10連隊所属、フォン・コッツェ大尉は午後遅く夕暮れ時に自身の中隊を率いてヴィオンヴィルに接近、敵に気付かれずにルゾンヴィル(ヴィオンヴィル東3キロ)まで進みましたが、高地上に仏軍の大集団を発見し、その野営地では炊事の最中で数えきれないほど炊事の煙が立ち上っていたのです。大尉は帰隊すると「その数二万」と報告するのでした。


 この日独第二軍左翼(既に軍の一部は北向きとなりましたが、ここでは今まで通り左翼を南側とします)では、普近衛軍団がデュールアールでモーゼル川を渡河、前衛はロジエール(=アン=アイユ。デュールアール南西7キロ)付近まで達します。

 近衛騎兵師団の内、近衛竜騎兵旅団は前述通りティオークールに至り、近衛胸甲騎兵旅団はベルネクール(デュールアール西16キロ)に進むと、騎兵第5師団のブレドウ旅団から派出された竜騎兵1個中隊とフリレ(ベルネクール北3.5キロ)で連絡しました。

 近衛槍騎兵旅団はメニル=ラ=トゥール(デュールアール南西17キロ)へ進み、南9キロのトゥール要塞都市や西側ムーズ川方面を偵察・警戒するのでした。

 この内、トゥールではフォン・ローゼン大尉が近衛槍騎兵第3連隊第2中隊を率いて要塞に近付き司令官に降伏を勧告しますが、前日14日に近衛竜騎兵第2連隊のエルンスト・フォン・トロータ大尉が同じく勧告した時と同様に激しく拒絶され、午後損害なくメニル=ラ=トゥールに到着し本隊に帰還しています。

 

 第二軍の最左翼となっている第4軍団は命令通りキュスティーヌに達し、前衛はモーゼル川を渡河してマルバシュを占領し橋頭堡を確保しています。


挿絵(By みてみん)

普槍騎兵(左)と仏驃騎兵(右)

注・この15日のものではなく、8月9日ブレ=モゼルにて偵察・巡視隊同士の衝突で、双方の指揮官は戦死し、ブレの墓地に葬られました。


グナイゼナウ少将のティオンヴィル要塞攻撃


 8月12日に行われたフォン・フォークツ=レッツ少尉率いる普胸甲騎兵第8「ライン」連隊の一小隊によるティオンヴィル要塞都市偵察は、既述(「独第一・第二軍8月11日から12日」参照)通り捕虜1名を奪還、要塞の守備は薄いことが判明し、シュタインメッツ第一軍司令官は翌13日夕、第16師団の第31旅団指揮官で「普軍の再生者」グナイゼナウ将軍の長男、伯爵ブルノ・ナイトハルト・フォン・グナイゼナウ少将に対し、「支隊を率いて15日未明にデーデェンホーフェン(ティオンヴィルの独名)を攻撃し占領せよ」と命じます。

 「ザールブリュッケンの戦い」で「負け」とされてしまったグナイゼナウ将軍は、まずは前日にティオンヴィルで敵から解放された予備役兵から情報を得ます。彼は開戦後間もなく仏軍の斥候に捕まり、数週間ティオンヴィル要塞にいて、仏軍から要塞の補強・防御工事に使われていたので要塞の内部に詳しかったのです。

 その証言を基に、グナイゼナウ将軍は要塞攻撃部隊をティオンヴィルのモーゼル川上流(北)750m付近にある浅瀬からモーゼル西岸に渡河させ、要塞の弱点である西側川沿いの部分から攻撃し、また要塞はこの頃毎朝4時の鐘と同時に開門している、との情報を得て、これと同時に奇襲を掛け、一気に要塞内へ突入することとしたのです。


 グナイゼナウ支隊(第31旅団/2個連隊、驃騎兵第9「ライン第2」連隊の1個中隊、野戦砲兵第8「ライン」連隊の軽砲1個中隊、工兵隊)は8月14日午後5時、ゴマランジュ(ブレ=モゼル北6キロ)を発し、驃騎兵中隊を前哨にして進みます。この行軍列に対し将軍は迅速かつ厳粛な静音による前進を命じ、また秘密を守ってこの日夕暮れ時に初めて任務を各指揮官・士官に伝えたのでした。

 この際に少将が明かした計画は以下の通りです。


○攻撃部隊

 工兵を先頭に教導として要塞に詳しい例の予備役兵を充て、渡河点からモーゼルを渡ってここで部隊を分割、1部隊は停車場に向かいメッスに向かう鉄道と電信線を切断、歩兵2個大隊の本隊は二つに分かれて一隊は要塞の南門「メッス門」へ、もう一隊はモーゼルの引き船道(当時は川の艀を両岸から馬を使って引いていました)沿いに要塞へ侵入、そのままモーゼル川東岸へ向かう。

○補助部隊

 歩兵2個大隊は渡河点付近に留まり、陣地を設営して攻撃部隊を援助、残りの歩兵2個大隊はモーゼル川東岸を前進して要塞の東側に脅威を与え、注意を東側に引き付ける。騎兵中隊と砲兵中隊は予備となってユッツ(ティオンヴィル東郊外2キロ)で待機。


 攻撃部隊は夕暮れ時ティオンヴィルに向けて行軍し、夜半、月明かりの中をストゥカンジュ(ティオンヴィル南東6キロ)西側の森を通過すると、行軍の先頭にいた第69「ライン第7」連隊第5中隊は仏軍の騎兵哨戒数騎に遭遇、誰何されてしまいます。この仏軍騎兵は直ぐに逃げ去ってしまい、グナイゼナウ将軍は旅団を急がせて午前1時前に要塞東側に接するユッツの森(現在はありません)に達し、旅団はここに隠れて一時休止し森の縁に歩哨を立てて警戒しましたが、既に要塞側は支隊の接近に気付いており、この森にも度々仏軍騎兵がやって来ては普軍歩哨に銃撃を加え、グナイゼナウ将軍も最早奇襲は望むべくもない、と諦めるのです。

 しかし、奇襲は諦めても空しく帰還するのは将軍も部下も望まず、午前3時、計画通り要塞への攻撃に着手して前進、午前4時、攻撃隊の先頭は渡河点に到着しますが、モーゼル川はここ数日の雨で増水しており、浅瀬はなくなり流れは急でとても徒歩で渡河することは出来ませんでした。

 この時点では既に要塞内部から喧噪の声が響き、要塞の戦闘配置が行われていることは普軍側にも分かりました。午前4時過ぎに城門は開くことなく、逆に要塞東側の分派堡塁から銃撃と砲撃が始まってユッツの森に待機する補助部隊に降り注ぎました。


 グナイゼナウ将軍は、これ以上この戦力で本格的要塞を攻撃しても陥落は望むべくもない、として攻撃を中止させ、また後退も遅れれば敵中孤立するとして、午前5時には退却を始めるのでした。

 普軍の後退に対し、要塞は榴弾砲撃を加えますが、損害は軽微(負傷4名)でした。

 この14日には早朝から攻撃支援としてザールルイ要塞から要塞守備隊の第70「ライン第8」連隊第1大隊他も出撃していましたが、行軍途中で攻撃失敗が伝わり、空しく要塞に引き上げています。

 グナイゼナウ支隊はストゥカンジュ付近で点呼を行うと、その後休みなく行軍を続けて8月15日正午前にケダンジュ=シュル=カネ(ティオンヴィル南東14キロ)に達するのでした。


挿絵(By みてみん)

ティオンヴィル1753年



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