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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
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モルトケ登場

 ここに一幅の絵画があります。アントン・アレクサンダー・フォン・ヴェルナー(1843-1915)という画家が描いた「ヴィルヘルム1世の崩御」という絵です。

 ヴェルナーという画家はいわゆる宮廷御用画家で、19世紀後半、プロシアの歴史上に残る場面を切り取る形で王族や軍人を描いています。現在、プロシアの歴史的事件を調べると必ずと言って良いほど彼の絵画が登場し、「ドイツ帝国の成立」や「ヴェルサイユの司令部」などを彼の写実的絵画で生き生きと見る事が出来ます。


挿絵(By みてみん)

アントン・フォン・ヴェルナー


 中でも私はドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世の臨終を描いたこの絵画が大好きです。


 画面右のベッド上に半身を起しうつ向く皇帝。その横から皇帝の顔を覗き込む孫(後の第三代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)。反対側には宮廷御用医師がいて懐中時計を見ている。「ご臨終です」と言っているのでしょう。


 ベッドの足元にうなだれて立つのは皇帝の孫娘ゾフィー・マリー・ヴィクトリア(スウェーデン王グスタフ5世妃)とその父バーデン大公のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ公(フリードリヒ1世)。このフリードリヒ公の肩に顔を伏せている黒服の女性が見えます。顔は見えませんが間違いなくバーデン大公妃でヴィルヘルム1世皇帝の長女ルイーゼ・マリー・エリーザベト妃でしょう。

 そしてその後ろ、やや離れて二人の人物が立っています。


 一人はビスマルク。厳めしい顔に悲しみが滲みます。そしてビスマルクに肩を抱かれてうなだれる端正な顔立ちの軍人。目を閉じ神に皇帝の心安らかなることを祈っている様に見える彼こそ時の参謀総長、大モルトケです。


挿絵(By みてみん)

 ヴィルヘルム1世の崩御


 ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)はプロシア軍、そしてドイツ帝国陸軍を世界有数の軍隊に育て上げた人物と言っても差し支えないでしょう。

 そして、この大モルトケが参謀本部の地位を不動のものとしたのです。彼がデンマーク軍からプロシア軍に転籍し、この皇帝臨終に立ち会うまでの年月は、そのままプロシア王国苦難の年月でした。


挿絵(By みてみん)

 大モルトケ


 大モルトケ(以下終章までの間「モルトケ」とします)は1800年10月26日、ドイツ北部・メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の古い貴族の家系に父フリードリヒ・フィリップ・ヴィクトールと母アンリエット・ゾフィーの三男(8人兄弟)として生まれます。しかし彼が生まれた時には既に貴族と言っても名ばかりに没落し家庭は困窮の中にありました。


 父フリードリヒはモルトケの祖父と同じくプロシア軍人(歩兵第25連隊の大尉)でしたが、散財と無策のため貧困に陥り、軍を辞めてベルリンの北方ヴィットシュトック/ドッセ地方にある荘園地主として堅実な生活を送ることを条件にハンブルクの商人ヨハン・ベルンハルト・パッシェンの娘アンリエットと結婚しました(1797年。持参金目当てもあったことでしょう)。


挿絵(By みてみん)

フリードリヒ・フォン・モルトケ(父)


 しかし凡庸だった父フリードリヒは土地の経営に失敗し、早々この土地を売り払うと一家はパルヒム(ベルリンの北西144キロ)にあった兄の屋敷に居候します。モルトケはここで生まれました(1800年)。

 そして父フリードリヒは心機一転、ドイツ北部・ユトランド半島の根元に当たるホルシュタイン公国の東端・バルト海に面したシスマール(ハンブルクの北東96キロ)付近に土地を購入し農場経営を始めますが、当時そこはデンマーク王国の領地で、一家はデンマーク国籍を取得することになりました。

 結局、ここでも農場経営を失敗し切羽詰まった父フリードリヒは安定を狙って1806年、デンマーク軍に志願し士官として入隊しますが、ナポレオン戦争には参戦せずに済みました。しかし農場が落ち着くまでとリューベックの実家にいた母アンリエットとモルトケたち兄弟は、ドイツ・ポーランド戦役で侵攻して来た仏軍により街を荒らされ(1806年11月)、屋敷は戦火を被って焼け落ち、命辛々逃げまどった末に一時は難民状態で困窮の日々を過ごしました。


 父はデンマーク軍でそれなりに昇進して1833年にはキール地区の司令官になり1839年、退役時昇級で中将となり退任しますが、ぱっとせず目立たない平凡な人物だったと伝わります。

 逆に母アンリエットは才能豊かで見目麗しく数ヶ国語を操る才女だったそうで、モルトケはこの母親の影響を色濃く受ける事になりました。


挿絵(By みてみん)

アンリエット・ゾフィー・フォン・モルトケ(母)


 しかし、幼少期は考古学者に憧れたモルトケ(22歳下ですがトロイヤを発見したシュリーマンもメクレンブルク=シュヴェリーン出身です)ですが、苦しい家計にそのような悠長な勉強をさせる余裕はなく、モルトケは11歳の時、次兄と共に父の顔で奨学金が出るコペンハーゲンのデンマーク陸軍幼年学校に入学しました。しかし体が弱く繊細で優しい性格だったため、この時期は辛い思いをしたようです。後の活躍を思えば不思議な事に軍事関係の授業は苦手で「軍人向きではない」との評判だったと言います。

 軍隊生活は少々合わなそうだったモルトケですが、奨学生だったために軍へ入隊するしか道はなく、デンマーク宮廷の近侍勤務を1年行った後、士官学校卒業順位4位でデンマーク軍少尉としてホルシュタインのオルデンブルクにあった歩兵連隊付として長い軍歴をスタートさせました。


 しかし当時のデンマークは衰退の一歩を辿っていて、ナポレオン側に立って戦っていたため敗戦により現在のノルウェー地方が独立し現在に近い小国に没落しており、逆に元々の母国プロシアはイギリスと並びナポレオンに勝って大国の仲間入り、モルトケも出世の可能性がないデンマークを見限ってプロシア軍の士官採用試験を受け見事合格、22歳で晴れてプロシア軍に転籍しました。モルトケは歩兵第8「親衛(Leib)/ブランデンブルク第1」連隊の少尉としてフランクフルト=アン=デア=オーデルで勤務を始めます。父親が元プロシア軍大尉、プロシアとデンマークの二重国籍者でデンマーク語と同国軍を知っていたために入隊を許可されたとも伝わります。

 当時は国籍を越えて軍に入ると言うことはそんなに難しい事ではなかったんですね。モルトケもそうですが、プロシアは本当にラッキーだったと思います。

 ただし、ここで面白いエピソードもあり、後の国王ヴィルヘルム1世(当時の国王は父のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世)は1824年に中将・第3軍団長となったためモルトケの所属した歩兵第8連隊も隷下となり、この連隊を閲兵したヴィルヘルム親王は金髪で背は高いものの痩身で弱々しく見えたモルトケ少尉を見て「このデンマーク人はまずい拾い物だったな」とつぶやいたそうです。


挿絵(By みてみん)

モルトケ少尉(22歳)


 国王の次男ヴィルヘルム親王には認められなかったモルトケですが、連隊では頭脳明晰と認められ、翌年陸軍大学に推薦され入学しました。時の校長は「戦争論」で有名なあのカール・フォン・クラウゼヴィッツ少将です。ところがモルトケは高名な校長にもそっけなく、専ら文学や語学、地理学など一般教養に熱中していたと言います。そうは言っても陸軍大学ですから軍事学も叩きこまれ、そこはさすがと言うか、高成績で陸大を卒業し原隊復帰しました(26歳)。


 しかしこの頃のモルトケは未だ貧しく士官の体面維持に必要な乗馬も買えない有様で、翻訳のアルバイトや地理学を中心とした論文を発売して凌いでいたようです。この時代のエピソードとしては「二人の友人」という小説を執筆、出版したり、乗馬を購入するためイギリスの歴史家エドワード・ギボンのローマ帝国衰亡史(全6巻71章)を英語から独語へ翻訳すると言う契約を出版社と結びますが、独語で12巻予定だったものを9巻まで訳したところ出版社が計画中止、結局75英ポンドの契約金がキャンセル料25ポンドしか得られなかったといいます。


 しかし捨てる神あれば拾う神ありで、この地理関係の論文が軍中枢に認められ、モルトケは28歳で参謀本部直属の陸軍地図測量部に迎えられます。当然ながらここは秀才の集まる参謀本部です。ようやくモルトケは出世の階段に辿り着きました。

 地図と言えば、現在では誰もが世界中どこでもスマホで簡単に見ることが出来る世の中。しかしモルトケ少尉が参謀本部勤務に胸躍らせたこの時代は、地図が軍隊の中でも重要なアイテムとなった時代で、詳細正確な地図を作ろうと各国が競い合い、軍事機密となった軍用地図は次々に改訂されていた頃です。測量船や測量部隊は軍隊にとって重要なパーツでした。


 その後モルトケは32歳で戦史課へ異動、プロシア最大の英雄、フリードリヒ大王の戦史を編纂する任務を与えられます。

 地図と戦史。ここでモルトケは戦場の地形や戦闘の歴史とじっくり向き合う時間を得る事が出来たのです。また、33歳で中尉に昇進したモルトケは35歳に掛けて南ドイツ(バイエルンにヴュルテンベルク)や北イタリア、デンマーク、ザクセン、オーストリア、トルコなどへ頻繁に出張し各国の情勢や地誌などの論文を次々に発表しました。


 35年3月に大尉昇進。この11月にオスマン=トルコ帝国首都コンスタンティノープルに旅行したモルトケはひょんなことからトルコ帝国の陸軍大臣モハメット・コスレフに見初められ、彼の軍事顧問としてトルコに残ることとなります。

 当時のトルコは近代化に出遅れ軍事後進国になりかかっていて、焦る皇帝(スルタン)マフムト2世は近代化を図るべく、イギリスやフランスから軍事顧問を迎え入れていました。しかし改革はなかなかうまく行かず、プロシア軍に目を転じた皇帝はプロシア式で軍を近代化することに決定し、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に軍事教官を送ってもらえないかと懇願します。これを了承した国王は軍に一人参謀士官を送るよう命じました。すると既に1名、トルコの陸軍大臣の顧問として滞在していることが分かり、これ幸いとモルトケ大尉がトルコ軍の教育と編制改革を指導するよう命令されるのでした(1836年1月)。

 ここでトルコ軍の強化に成功すればモルトケもプロシアも大きな功績となります。期待に燃えたモルトケは熱心にトルコ軍の教育に着手しました。


 ところが結果は大失敗でした。


 旧態然としたトルコ軍はいっかな変わろうとせず、トルコ軍に「レンタル移籍」したモルトケはスルタンの視察に随伴してバルカン半島南部のトルコ領を観察したりしますが、まるで大名行列のような視察旅行に辟易していたと言います。

 一方、トルコはこの時期、属州であるエジプトの太守ムハンマド・アリーとの間で紛争が続いており、シリア地方まで勢力圏としたムハンマド・アリーは1839年、エジプト太守の世襲を求めてオスマン朝と戦争状態となります。それ以前の1838年3月からモルトケ大尉はトルコ南部の「トロス軍」司令ハーフィツ・パシャ付の本営士官として派遣されクルド人の反乱防止のためチグリスとユーフラテス両河川流域に駐在していました。


 39年4月、皇帝マフムト2世はエジプト太守軍をシリアから追い出そうとトロス軍に南下してシリア領に入るよう命じ、ハーフィツ・パシャはシリア北部の中心地アレッポの占領を目指します。モルトケは当初参謀としてハーフィツ・パシャに付こうとしますが、司令官は傍にムッラー(聖職者で占星術師)を置いて意見を聞いていたため、モルトケは諦めて砲兵隊を指揮することにしました。

 6月24日、トロス軍はシリア国境のニジプ(ベイルートの北北東400キロ)南西郊外に陣を張ります。シリアでは既にムハンマド・アリーの息子でシリアを治めていたイブラーヒム・パシャ率いるエジプト軍が行動を開始してトルコ本国に向け北上中で、ハーフィツ・パシャはムッラーの進言をいれてこのニジプで迎え撃とうとするのでした。

 しかしエジプト軍は三つに分裂しトロス軍の包囲を狙う分進を行っており、もしトロス軍が退けばそのまま小アジアに侵攻しコンスタンティノープルを狙うはずと読んだモルトケは、「一旦陣地を引き払い、東方ユーフラテス河畔のビレジクまで下がり増援到着を待つ」よう進言しました。これは士気が芳しくない(支配民族のトルコ側クルド人が多数を占めていました)トロス軍もユーフラテス川を背後にすれば文字通り背水の陣となり逃亡することなく戦えるはず、とも考えていたからでした。

 しかし一度はモルトケの言葉に渋々従おうとしたハーフィツ・パシャでしたが、助言と称して司令官に影響力を行使するムッラーたちに「逆賊相手に退却するなどもってのほか」と反対され、ハーフィツ・パシャは軍を動かすことなく不毛な土地に布陣させ続けます。モルトケは「明日の夕方には司令官は敗軍の将となるでしょう」と捨て台詞に近い予言をするしかありませんでした。


挿絵(By みてみん)

ハーフィツ・パシャに行動を促すモルトケ大尉


 後に第二次エジプト・トルコ戦争の「ニジプの戦い」と称される戦いはモルトケの予想通りトロス軍が三方からエジプト軍の包囲攻撃を受け、モルトケ率いる砲兵隊は獅子奮迅の働きでエジプト軍に猛砲撃を加え犠牲者を続出させましたが、エジプト軍は犠牲を厭わず前進し、やがてエジプト軍も砲兵を射程内まで前進させるとこちらも激しい砲撃を開始、これを被ったトルコ軍陣地では死傷者続出で、只でさえ厭戦気分だったクルド兵を中心に勝手に離脱し、どさくさ紛れにトルコ人士官を殺害して退却する部隊まで現れる始末。やがて包囲攻撃を仕掛けたエジプト軍がトロス軍の陣地に殺到すると既に土塁の裏は空の場所が多く、残ったトルコ兵も戦わずして殺されるか捕虜となりました。ハーフィツ・パシャは包囲攻撃直前に部下を見捨てて脱出してしまい、モルトケ率いる砲兵隊も最後まで下がらず戦いますが多くが捕虜となり、モルトケ自身は襲い来るエジプト軍騎兵から間一髪、身体一つで脱出に成功し、山岳地帯を越えて黒海沿岸まで逃げ延びました。


 8月初旬にコンスタンティノープルへ辿り着いたモルトケは陸軍大臣モハメット・コスレフにこれまでの経緯を報告し、7月に崩御したムフマト2世の墓所を見舞った後に帰国の途に着きます。帰国したモルトケはトルコにおける勤務とナジプの戦いにおける奮戦によりプール・ル・メリット章を受勲しました。


 しかし参謀本部に帰った40歳のモルトケが見たものは、教条主義にガチガチとなった同僚の姿。

 当時の参謀本部はクラウゼヴィッツやジョミニ(ナポレオンやロシア軍の幕僚でもあった軍事学者)の理論ばかりを信奉して議論ばかりしていると言った状態。

 トルコで痛い目に合ったモルトケはこんな頭でっかちでは戦争に勝てない、と目をそむけるのでした。彼はトルコで見て来た情勢を本に著し、トルコから家族宛に送った手紙を書簡集として発行したりしました。


 この年(1840年)4月には第4軍団(ベルリン西方マグデブルク在)の参謀として赴任します。この軍団長は王族のカール親王(フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟)で、モルトケは王宮にも顔を知られることとなりました。

 そんな折、彼に意外な依頼がきます。ハンブルクの鉄道会社で理事に就任してくれ、というものでした。


 当時は国内はもとより、国境を越えた国際鉄道の建設も盛んになった時期で、プロシアもデンマークへの路線延長を目指していました。そこで過去デンマーク国籍を持っていたモルトケに白羽の矢が立ったのでした。

 鉄道など全く知らなかったモルトケですが、この任を引き受け44歳まで勤めます。そこで彼が見たものは、まだまだ発達の余地が大きい世界でしたが、鉄道が軍にとって重要なものとなるとの認識はこの仕事で充分に得られ、また、彼自身最新の発明や技術に目を向けるきっかけにもなりました。


 この頃、少佐に昇進したことを機に彼は結婚します。彼が42歳、新妻はなんと16歳!義理の姪になるマリー(・ブルト。父は独で成功する英国商人)でした。


 文才もあるモルトケは豆に手紙を書く人で、マリーの義理の母(ブルト氏の後妻)であるモルトケの実妹アウグステに送って来る手紙を読んだ彼女が感動してモルトケに恋をしてしまったそうです。モルトケも愛くるしく闊達なマリーに惹かれるところ大でした。


 後に「偉大なる沈黙者」ともあだ名された彼らしく、結婚生活は静かで仲むつましく慎ましいものでしたが、悲しいことに夫婦は最後まで子供に恵まれませんでした。


挿絵(By みてみん)

モルトケ夫人マリー(結婚時16歳の肖像)


挿絵(By みてみん)

モルトケ(中佐時代)


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