独第一、二軍8月15日の行軍(前)
8月14日午後6時。未だ「コロンベイの戦い」の詳報が入っていない在エルニーの普大本営は、翌15日の行軍を以下の通りに定め、各軍本営に流しました。
○第二軍第3、9、12軍団
現状維持。各自集合し適時に食事・野営をし、モーゼル渡河の準備をすること。特に第3軍団は15日中にポンタ=ムッソンの下流(北)で架橋を完了せよ。
○第二軍第10、近衛軍団
モーゼル西岸に渡った部隊は騎兵偵察を援護するため、ゴルズ(メッス南西14キロ)~ティオークール(=ルニエヴィル)間に進め。
○第一軍第1、7軍団
現状維持。予告通り左(南)へ移動する準備を行うこと。
○第一軍第8軍団
バゾンクール(クールセル=シュル=ニエ南東4キロ)へ行軍(ティオンビルに向かったグナイゼナウ支隊を除く)。
○第二軍の騎兵部隊
敵状を確認すべく偵察に励み、モーゼル川西岸に渡った全騎兵はメッス~ベルダン間の本街道に向かって前進せよ。
この命令が第一、二軍に発信された後、「コロンベイの戦い」の第一報が大本営に達します。参謀本部は直ちに作戦の修正に取り掛かり、翌15日早朝、第一軍本営に対し以下の電信を発しました。
「陛下は命じられた。第一軍は昨日(14日)の会戦にて占領した地域を本日(15日)メッス要塞の大砲射程内に入らない限り維持すべし。第8軍団は第1並びに第7軍団を援助すべく直ぐ後方に進め。昨日会戦に関与した第二軍所属の第9軍団も戦場近くに進むであろう。 モルトケ」
フォン・シュタインメッツ大将はこの命令を受けると15日午前7時、在ヴァリーズの本営から軍命令を発し、第1、7軍団を再びヌイイ~コロンベイ方面に前進させ、第8軍団本隊をザールルイ、ザールブリュッケン両街道の間へ進出させるよう、また、騎兵第1、3師団に対しては、第1、7軍団のそれぞれ外側に位置し、最翼端をメッス要塞方向へ延伸させるよう命令しました。
普国王ヴィルヘルム1世はこの命令を発した後、早朝自らエルニーを発して幕僚を従え前線に騎行し、コロンベイの戦場を視察します。
これより先、参謀本部次長のテオフィル・フォン・ポドビールスキー中将も状況掌握のため戦場に至り視察した結果、「既に仏軍本隊はメッス東方から去った」と判断、「第一軍は速やかにモーゼル西岸へ移動しなくてはならない」とし、直ちに独断で第8軍団のフォン・ゲッペン大将に対し「行軍進路をオルニー(クールセル=シュル=ニエ南西6キロ)へ変える」よう「指示」を出しました。
テオフィル・ユージン・アントン・フォン・ポドビールスキー将軍はこの当時55歳。モルトケの右腕として鳴らした智謀です。
ポーランド貴族の家系に生まれたテオフィルは、オストプロイセンの槍騎兵第1連隊に入隊後2年で少尉に任官します。この時19歳でした。たちまち才能を示す彼は選抜されて陸軍大学で学び、55年、41歳で少佐となるとチューリンゲンの驃騎兵第12連隊長となり、59年中佐、61年大佐と出世します。騎兵第16旅団長を経て63年に少将となると64年の第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争でフリードリヒ・フォン・ウランゲル元帥の参謀として従軍、65年に陸軍省勤務、66年に参謀本部勤務となりモルトケの次長となります。このまま普墺戦争に突入、彼はモルトケの右腕として後方兵站・軍需部門をそつなく統括し、プール・ル・メリットを受勲します。戦後陸軍省に戻ると北ドイツ連邦創設において普軍再編に活躍し中将に昇進、ライヒスタグ(連邦議会)議員としても「お飾り」でない貢献をなしました。普仏の雲行きが怪しくなると請われて参謀本部に戻り、普仏戦の戦略をモルトケらと共に練ると準備万端、普仏戦争に従軍したのでした。
ポドビールスキー中将
この後、前線に到着した国王はポドビールスキーから状況説明を受けると、次長の判断を「正鵠を得ている」と誉め、承認するのでした。直後、国王からお墨付きを得たポドビールスキー次長は第一軍に対し、「第1、7軍団の前進を中止せよ」と命じました。これはモーゼル渡河の準備を開始させるための停止です。
午前10時過ぎ、フランヴィル東の高地で国王はシュタインメッツ第一軍司令官を引見します。シュタインメッツ大将は幕僚を引き連れて軍の前進を監督していたところでした。国王は「お気に入り」のシュタインメッツを慰労し親しく歓談しましたが、その時、メッス要塞の向こう、西側数ヶ所から長々と粉塵が舞い上がっているのが見え、居合わせた普軍首脳にも、仏軍が本格的にモーゼルを渡河して西岸に渡ったことが理解されたのでした。
独第一軍のこの15日の行軍は以下の通りです。
○騎兵第3師団
サント=バルブからグラ付近に前進した後、サン=ジュリアン分派堡塁まで斥候を出し、歩兵第2師団所属の竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊と共に戦場を捜索して負傷者を救助した後、午前9時にヴリー(サント=バルブ北東3.5キロ)に進出、野営準備をして前衛の槍騎兵第7「ライン」連隊をアヴァンシー(サント=バルブ北1キロ)~ヴィジー(同4キロ)に出し、前哨をモーゼル河畔のマルロワ(メ北北西4キロ)から南東へセルヴィニー(=レ=サント=バルブ)まで延伸させました。
○第1軍団
会戦前の野営(クールセル=ショシー周辺)に帰った後、両師団騎兵連隊(竜騎兵第1と第10)を戦場に戻し、竜騎兵第1「リッタウエン/アルブレヒト親王」連隊の斥候はベルクロア交差点の西側、デ・ボルドの堡塁付近まで進みますが敵を見ませんでした。午前7時過ぎに総前進せよとの軍命令が届き、第1旅団を前衛にまずはメゾン・イソレ(フランヴィル南東1.5キロ。現国道D603号線とD67号線との交差点)へ進みますが、他の旅団が野営を撤収する前に国王の「前進中止」命令が届きます。これにより第1旅団もポン=ア=ショシーへ召還されました。
第2師団は一時レ・ゼタンからグラテニーに留まっていましたが、これも午後クールセル=ショシーへ戻されています。前哨はノワスヴィルの東に騎兵1個中隊が、第1師団の前哨はヴォードヴィラー~メーズリーにありました。
○第7軍団
先述通り野武士然(後の日本陸軍野津大将を彷彿とさせますが、欧州なので老騎士でしょうか)とした軍団長ツァストロウ大将の命により、血塗られた戦場で一晩明かすこととなったこの軍団ですが、これを聞き及んだお隣の軍団長フォン・マントイフェル大将は「もしもの時」は駆け付けて援護するとツァストロウ将軍に約束するのです。
黎明時、軍団はラ=プランシェット~アル=ラクネイーの前線から一斉に後退し、ほぼ会戦前にいたパンジュ~ラクネイー(第13師団)及びドマンジュヴィル~クールセル=シュル=ニエ(第14師団)付近まで戻ります。騎兵部隊のみメッス要塞東側に前哨線を敷き、この驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊の斥候たちは、デ・ボルド付近から仏兵が消えたことを報告し、また驃騎兵第15「ハノーファー」連隊の斥候はクール分派堡塁付近から7人の仏兵を捕虜にして意気揚々と帰ってくるのでした。
この軍団はシュタインメッツ将軍の再前進命令を実行する前に国王の前進中止命令が届き、この15日はこれ以上動くことはありませんでした。
○第8軍団
15日早朝、命令通りザールルイ街道とザールブリュッケン街道との間に進出するため前進を始めますが、先頭がレ・ゼタン~ポン=ア=ショシーに達した頃、ポドビールスキー参謀本部次長から「オルニーに向かうよう」命令が届き、軍団は左へ転進しコリニーからクールセル=シュル=ニエを通過してオルニー方向へ進みますが、ここでストラスブール街道(現国道D955号線)をペルトル目指して北上して来た第9軍団の行軍縦列に阻まれてしまい、先を譲った軍団は予定より大幅に遅れて午後遅くオルニー周辺に到着しました。
軍団長のフォン・ゲーベン大将は本営をシャリゼ(オルニー南西1キロ)に置き、本隊の第15師団はリエオン~ビュシー付近(現在のメッス=ナンシー=ロレーヌ空港周辺)に分散宿営し、第16師団の半分、第32旅団(グナイゼナウ将軍の第31旅団はティオンビルへ向かっています)はストラスブール街道を挟んだシニーからフロンティニーにかけて野営するのでした。
○騎兵第1師団
午前9時30分に第7軍団左翼に付けとの命令を受け、本隊はポントワ付近からアル=ラクネイーを過ぎてマルシニーまで進みました。この地で第7軍団の前哨と連絡しますが、第一軍のこの日の前進行軍は中止されたと聞き、まずはこの地から斥候をメッス要塞へ放ちました。
また、師団長のハルトマン中将は第9軍団や騎兵第6師団から通報を受け、仏軍の退却は本物で、モーゼルを渡河し西岸に渡っていることを知り、また、普第3軍団がこれを追ってモーゼルを渡河中であること、騎兵第6師団は第3軍団に続くことを知るのでした。
しかしハルトマン師団長はこれ以上の命令を受けていなかったので(第一軍本営の幕僚たちがこの師団を発見出来ず、命令を渡せなかったためです)、結局この日は第7軍団の前哨線より後方、クールセル=シュル=ニエの西で野営するのでした。
シュタインメッツ大将はこの15日、本営を第7軍団砲兵隊が宿営するバゾンクールへ移動しました。
概ねこの日の第一軍前線はメッスの北、モーゼル河畔のマルロワからセルヴィニー(=レ=サント=バルブ)~ノワスヴィル~モントワ~アル=ラクネイー~マルシリーを経てジュリー付近までとなるのでした。
一方、独第二軍本営は先述通り14日にポンタ=ムッソンに入城し、この時点では未だ「コロンベイの戦い」の発生を知らなかったため、15日の行軍を以下のように定めて麾下に命じました。
○第3軍団
セイユ川河畔まで前進し、シュミノ(ポンタ=ムッソン北東7キロ)に至ること。
○第12軍団
同じくセイユ川河畔まで前進、ノムニー(ポンタ=ムッソン東南東10キロ)に至ること。
○第9軍団
強行軍が4日間続いたため、現在地(ビュシー周辺)に留まり休養に当てること。
○第10軍団
ポンタ=ムッソンから有力な支隊をメッス方向(北)へモーゼル川に沿って前進させ、その西岸高地をも占領せよ。
○近衛軍団
デュールアール(ポンタ=ムッソン南6キロ)周辺に集合せよ。
○第4軍団
キュスティーヌ(ナンシーの北10キロ)付近でモーゼル川河畔に到達し、前衛を渡河させ対岸のマルバッシュを占領し橋頭堡を築くこと。
しかし15日朝、以下の大本営電信が入電するのです。
「第1及び第7軍団は昨夕極めて本格的な戦闘を行い、強大な敵をメッス要塞内に撃退した。この際、貴軍の第18師団の一部も参戦している。従って第9軍団は本15日、全隊を戦場付近(ペルトル)に進めること。(その西側の)第3軍団については追って命令をなす。第二軍は急ぎメッス~ベルダン本街道に至り敵を追撃することが肝要である。 モルトケ」
第二軍司令官カール王子は直ちに軍命令を一部変更します。
15日午前7時、第10軍団長コンスタンティン・フォン・フォークツ=レッツ大将は、第二軍司令官カール王子から「麾下の騎兵第5師団をメッス~ベルダン本街道(現国道D903号線。以下ベルダン街道とします)に進め、街道をメッスに向けて進ませよ。そして敵が未だメッス要塞下にあるか、それとも退却途上かを確認せよ」と命じられました。
普軍エリートの一人、コンスタンティン・ベルンハルト・フォン・フォークツ=レッツ将軍はこの時61歳。政府の林業顧問官の長男で、次男のカール・フェルディナンド・ヴィリアムが第18旅団長少将、三男のユリウスが大佐で第3軍団参謀長と兄弟揃って重責にありました。大将自身は陸軍大学卒業後ほどなく参謀本部入りし、エリートコースの地図課に所属した後、第5軍団を皮切りに第1、第4軍団と参謀を務め、第5軍団参謀長になると同時に中佐(53年)その2年後大佐となります。第19連隊長、第9旅団長少将と順調に昇進し、陸軍省勤務からルクセンブルク要塞司令を経て63年中将昇進し第7師団長となりました。66年、普墺戦争ではカール王子率いる第一軍の参謀長を務め、見事連戦連勝で名を上げました。戦後新たに普王国に加わったハノーファーの旧国軍を2個師団に改編する仕事を任され、ハノーファー州知事兼第10軍団長として大将に昇進し、この70年を迎えたのでした。
フォークツ=レッツ大将
フォークツ=レッツ将軍は騎兵第5師団配下のバルビー少将とレーデルン少将に対し、それぞれの騎兵旅団を騎砲兵中隊と共に迅速にベルダン街道まで前進させ、メッス西郊外を目指して進み、モーゼル西岸に侵入しているはずの友軍第一軍騎兵部隊(実際この15日には未だ渡河していません)と連絡を取るよう命じるのでした。
フォークツ=レッツ将軍の歩兵部隊は、当初の命令通りモーゼル川を下流(北)に向かい、メッス方面と北西方面へ進んで騎兵部隊の側面を援護することとします。
また、カール王子はロジェヴィルで南西方面を警戒していた近衛竜騎兵旅団に対し、急ぎ北上してティオクール(=ルニエヴィル)にてフォークツ=レッツ将軍の指揮下に入るよう命じるのでした。
普第3軍団はこの日当初、シュミノへの行軍前に現在地で停止し、食事と補給をすることを命じられましたが、この命令の後、カール王子の下に第3軍団長コンスタンティン・アルヴェンスレーヴェン中将の報告が届きます。
C・アルヴェンスレーヴェン将軍は「本日中にモーゼルを渡河したい」と請願し、その理由として「昨日の戦闘の結果、敵は二度とモーゼル東岸で攻撃を企てるとは考えられず、然らば迅速にモーゼル西岸へ至ることが急務であろう」としています。
しかし、カール親王もこの意見には同意したものの、今朝届いたモルトケの電信には第3軍団を「大本営直属」として使いたい考えが示されていた(「第3軍団については追って命令をなす」の一節)ため、うかつに前進を命じることが出来ませんでした。そのための食事と補給停止(待機)命令だったのです。
仕方がなくカール王子は再び「その場で食事をして待っていろ」と命じたのでした。
これを受けた第3軍団はその時、第5師団前衛がポムリュー(シュミノ北北東6キロ)でセイユ川に達し、第6師団前衛は既にシュミノを通過してモーゼル川からわずか3キロ東のブジエール=ス=フロワモンに至っていました。
「このままでは敵に逃げられる」との焦燥に駆られていたC・アルヴェンスレーヴェン将軍も、実際敵を見ないことにはお得意の「独断専行」も行えず、諦めて軍団に一時停止を命じ、皆、その場で炊事に取りかかったのです。
午後11時。大本営はフランヴィル(モルトワの東1キロ)付近の高地に進出すると待望の命令をカール王子に発信します。
「仏軍は全てメッス要塞に撃退され、考えるに今、正にベルダン方面に向かって後退中であろう。我が右翼側の第3、第9、第12の各軍団は今より第二軍本営が自由に使用してよろしい。なお、第12軍団は既にノムニーに向かって前進中である。 モルトケ」
これを受け取ったカール王子は、直ちに第3軍団をモーゼル川へ前進させる命令を発しました。
第3軍団は午後5時に行軍を再開しますが、未だ補給と炊事の最中だった部隊も多く、押っ取り刀の慌ただしい行軍となりました。
第5師団は仏軍が破壊し損ねたノヴェアン(=シュル=モセル。ポンタ=ムッソン北14キロ)付近の橋梁を通過して楽にモーゼル川を渡河して西岸に達し、既に日付が16日となった夜半12時過ぎ、ようやく野営に入りました。この時、歩兵1個大隊と騎兵1個中隊からなる支隊を2つ作り、一つはドルノ(川沿い北へ2.5キロ)へ、一つはゴルズ(ノヴェアン北西5キロ)へと派遣しています。
第6師団はその南のシャンペ(=シュル=モセル。ポンタ=ムッソン北6キロ)付近で渡河しましたが、ここでは橋を仮設せねばならず、雨が続いて増水した大河モーゼルに対し、師団に付属した軍団工兵の野戦軽架橋縦列では徒歩仮設橋1本を架けるのが精一杯でした。この地では歩兵部隊を中心に渡河し、師団騎兵の竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊の大部分と師団砲兵、そして全部の馬車と荷車は6キロほど上流(南)のポンタ=ムッソンへ迂回し渡河せねばなりませんでした。
お陰で師団は午前1時になってようやくパニー(シュル=モセル。ポンタ=ムッソン北9キロ)とアルナヴィル付近(その北3キロ。第5師団野営地の直ぐ南側)に進出し、野営することが出来たのです。
前日前衛が第一軍と共に戦った第9軍団はこの日の朝、大本営から直接に命令を受け、師団全てがペルトルまで前進し午後に入るまで警戒を続けましたが何事もなく、午後遅くにヴェルニー(ペルトル南南西7キロ)まで南下して宿営するのでした。
第12軍団は第9軍団を支援するため、午前中はストラスブール街道のソルニュ(ヴェルニー南東7キロ)とデルム間にいましたが、仏軍のモーゼル東岸からの退却が明白となったため、本隊は予定通りセイユ川河畔のノムニーへ前進し、第24師団はソルニュの南3キロのサイイ=アシャテルと、ストラスブール街道を挟んで2キロ東南東のモンシュー(デルム北)に野営しました。
第二軍の最後尾、第2軍団はこの日アン=シュル=ニエまで到達しています。




